2025年11月21日金曜日

第257号

 次回更新 12/5


第50回現代俳句講座「昭和百年 俳句はどこへ向かうのか」予告 》読む

LEGEND外伝 攝津幸彦こぼれ話/佐藤りえ 》読む

■新現代評論研究

新現代評論研究(第15回)各論:後藤よしみ・佐藤りえ・村山恭子 》読む

現代評論研究:第18回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 》読む

現代評論研究:第18回各論―テーマ:「月」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第5回:「実作者の言葉」…「書」/米田恵子 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年夏興帖
第一(10/10)杉山久子・辻村麻乃
第二(10/24)仙田洋子・豊里友行・山本敏倖・水岩瞳
第三(10/31)仲寒蟬・ふけとしこ・浅沼 璞
第四(11/21)岸本尚毅・小野裕三・瀬戸優理子

令和七年秋興帖
第一(10/31)杉山久子・辻村麻乃・仙田洋子
第二(11/21)豊里友行・山本敏倖・仲寒蟬

令和七年歳旦帖・春興帖
第一(4/25)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖
第二(5/9)ふけとしこ・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(5/23)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/27)曾根毅・浅沼 璞・なつはづき
第五(7/5)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第六(7/11)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第七(7/25)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第八(8/22)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結
第九(9/12)水岩瞳・佐藤りえ
第十(10/10)鷲津誠次・仲寒蟬・浜脇不如帰

■ 第49回皐月句会(2024/5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第21号 発行※NEW!

■連載

英国Haiku便り[in Japan](57) 小野裕三 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり39 山口優夢『残像』 》読む

【新連載】口語俳句の可能性について・5 金光 舞  》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(63) ふけとしこ 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』 栗林浩 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

11月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …




■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。  

LEGEND外伝 攝津幸彦こぼれ話  佐藤りえ

俳句四季」2025年10月号から12月号まで執筆した「LEGEND 〜私の源流」攝津幸彦評伝の、資料にまつわる話、本編では触れられなかった話など、少し纏めてみようと思う。


・日時計書き下し句集シリーズ
幸彦の第一句集「姉にアネモネ」について、「豈」26号に藤原龍一郎氏が「俳句研究で広告を見て申し込んだ」旨の記述をしていた。当該の号は昭和48年の9月号と思われる。「俳句研究」誌に何度か広告が載っているが、これが最初の掲載だった。第一回五十句競作発表号(11月号)のふたつき前のことだ。

「俳句研究」昭和48年9月号51ページ

「書き下し句集シリーズ第1弾刊行!」とあるから、あるいは第2弾、3弾と続けようという展望があったのか、なかったのか。坪内捻典氏のブログに何度か記事があり、句集現物の画像が載っている。このシリーズについては話題として触れている誰もが実際に「どこまで刊行されたかわからない」という。幻の全巻揃いがあったらおもしろい。


・アサヒグラフ、太陽
「恰幅のいいスーツの体躯に口髭、ウェリントンタイプの細いメタルフレームの眼鏡」第3回の書き出し、そのイメージの源となった「アサヒグラフ」「太陽」のグラビア(?)がこちら。

アサヒグラフ増刊「俳句入門」1988年7月

アサヒグラフ増刊は「入門」と銘打っているものの、俳人の手厚い紹介が主なコンテンツとなっている一冊。引き伸ばし機の前に座る波郷、楸邨の手紙、などカラーグラビアも豊富。幸彦が掲載されているのは「現代俳句のニューウエーブ」のコーナーで、江里昭彦氏が短い総論的な文章を寄せている。他のニューウエーブ(表記ママ)のメンツは江里昭彦、夏石番矢、林桂、藤原月彦、今井聖、金田咲子、田中裕明、長谷川櫂、正木ゆう子、久保純夫、大木あまり、増田まさみ、鳴戸奈菜、松本恭子、浪野聡子、山田径子。編集に齋藤愼爾氏が関わっているせいか、微に入り細に入り、凝った特集という印象。アサヒグラフは何度も俳句の特集を組んでいるが、この号は俳人を概観するという意味で突出している。

太陽「特集・百人一句」1994年12月号

「江戸・近代・現代 100人の名句100」という特集で復本一郎・川名大・仁平勝の三氏が選んだ100人が並ぶ。奈良原一高、神蔵美子など写真家とのコラボレーションにもページを割いている。幸彦の掲載ページは百人一句のほか「現代俳句の地平」コーナーで、上段が写真、下段がエッセイというもの。「静かな談林といったところを狙っている」はこの記事内での発言。ベスト100句に選ばれたのは「幾千代も散るは美し明日は三越」。 
 幸彦の正面を向いた写真がメディアに掲載されたことはあるのだろうか。「太陽」の写真の撮影場所は新宿っぽい。


・恒信風インタビュー
亡くなる9ヶ月前に収録されたロングインタビュー。掲載誌「恒信風」3号には同人選による「攝津幸彦の一五〇句」コーナーもあった。のちの全文集「俳句幻景」に収録されているが、攝津幸彦が自らの口で俳句観、言語感覚を語った、ほとんど唯一の記録となってしまった。じつに貴重な記録だ。



・追悼文集「幸彦」
没後1年に開催された「攝津幸彦を偲ぶ会」席上で配布された、会社の同僚である松永博氏が旗振り役となって完成した200ページを超える追悼文集。各人の思い出話のほか、行きつけのお店MAP、趣味やなじみの街のエピソードなども配されていて、ここまで手厚い本を没後たった1年で作り上げた、制作に携わった方たちの情熱には頭が下がる。
趣味、というより仕事の接待も含め、晩年の幸彦はゴルフに興じていた。酒が飲めないかわりの営業手段だった向きがある。打ちっぱなしで練習していた話なども載っている。体調はかなり厳しかったであろうけれど、見えない努力を続けた企業人・幸彦の横顔である。切ない。
俳句へと進むきっかけを作った伊丹啓子氏の回想では、学生時代の幸彦はノイローゼ気味で、痩せて長身で「キリンのようだった」と語り、後年の様子からは想像がつかない横顔が垣間見える。本人はずっと自身のことを「情緒不安定」「情緒欠如に近い不安定な心」などと書いている。若き日の肖像はそういうものだったのか。
映画研究会の後輩、長瀬充夫氏(文集の発行元スタジオ・エッジの人でもある)の文章には、映研での幸彦の様子が綴られている。攝津東洋のペンネームで機関誌にシナリオや評論を執筆、それが横紙破りなスタイルだった、というのは、学生の頃すでに幸彦的な幸彦だったことを示唆するものがある。


【新連載】口語俳句の可能性について・5  金光舞

  前稿では、堀切克洋の〈文語=世界/口語=私〉という思考のスペクトルを参照しながら、口語表現が俳句にもたらす〈声〉の現前性について検討した。

 越智友亮の〈さんしゅゆのはな待ち人を待つどきどき〉〈掃除機に床は叱られ夏のくれ〉〈紅茶冷ゆ帰省の君は元気そう〉の三句を取り上げ、これらの作品がいずれも景物の描写より主体の心情を前景化し、「もの」から「こころ」へと焦点を転換している点を指摘した。とりわけ「どきどき」「叱られ」「君は元気そう」といった口語的・会話的な言い回しは、説明ではなく体感や気分の直接的な漏出として機能し、読者にひとりの人間の声がそのまま届くような親密な読解空間を生成している。こうした〈声〉の立ち上がりによって、俳句は静物や季語の美を写し取る器にとどまらず、人間同士の関係性や生活の息づかいを語る場へと変貌する。前稿では、この三句の分析を通して、口語俳句の核心が対象の描写を超え、読者とのあいだに新しい関係的な場を創出する文学的可能性にあることを明らかにした。


 さて、前回の連載にあたる第四回までは夏合宿の際にわたしが筑紫磐井先生に見せたものを内容ごとに切り取り、編集したものだった。今回からは色んな場所で口語俳句についてを聞きまわり、ひとりではなく、多くの人の意見を吸収した論を展開し、より口語俳句の可能性について多角的に見てゆきたいと考える。

 今年の九月初旬、わたしは教授に誘われて近現代文学東北インカレゼミ合宿に参加させていただいた。芋煮会をしたり西瓜割りをしたり手花火をしたりしてとても楽しかったのだが、しっかりと口語俳句についても十数名から意見を貰って帰ってきた。意見を交換した中で二人の教授が映画理論の「モンタージュ」について言及したのが印象的だった。ジャンルが少し異なる分野であるように受け取ったためである。

モンタージュ考とは[1]岩本憲児『連続と切断――モンタージュの思想』で「組み立て」として理解されるものであると示される。フィルム断片をつなぎ合わせる撮影後の技術手続きといったただの編集ではなく、撮影前の構成の概念も取り入れる語として組み立てが挙げられている。つまりモンタージュ考で最も意識されることは、カメラを対象に向け、撮影される世界を再構成しようとするカメラマン又は監督の意識問題なのである。


〈クレソンがすこしだけとびだしている〉

〈ぼくいつまでもバカだね きしきしとやどかり〉

〈ハンカチのはりねずみずっと一緒に泣いてよ〉


 今回は俳人の友人である斎建大に「口語俳句の瞬間的な爆発力に振り切った良さがある」と紹介され、気づけばnoteの記事を購入していた[2]田村奏天『ハンカチのはりねずみ』の句を例に口語俳句におけるモンタージュ考について考察したい。


〈クレソンがすこしだけとびだしている〉

この句は、たった一つの静物描写に見えながら、その内部には複数の時間や感覚が折り重なっている。わずかに「とびだしている」という状態の描写は、現在の視覚の瞬間でありながら、そこに至る動きや、その食卓の周囲にある生活の時間を暗示する。明示されていない時間が読者の内部で再構成される点で、この句はすでに一つの瞬間を超えており、静物ショットが別の記憶・行為・生活といったショットを呼び起こすという意味でミニマルなモンタージュとして働いている。同様に、


〈ぼくいつまでもバカだね きしきしとやどかり〉

では、口語的な独白と、「きしきし」という擬音を伴ったヤドカリのイメージという異質な二つの断片が並置されている。心理の現在と別次元の生き物の動きは、本来同一の風景に属さない可能性が高い。しかしこの断絶こそが、読者の内部で新しい意味や関係を生成する。独白の情緒の輪郭が、ヤドカリの小さな動きと摩擦音によって反射されるように立ち上がり二つの断片はモンタージュによる新たな文脈を生み出している。さらに、表題句である


〈ハンカチのはりねずみずっと一緒に泣いてよ〉

では、静物(ハンカチのはりねずみ)と情緒的な呼びかけ(泣いてよ)という、非連続的なレベルの要素が接続されることで、現実には存在しない“話しかけられる現在”が構築されている。これは口語俳句がしばしば作り出す、「生きている現在」ではなく「語り手の役割が演じる現在」であり、まさに編集された時間である。


 これら三句はいずれも俳句が単なる瞬間の切り取りではなく、異質な断片をミニマルに剪接し、その「間」から意味を生み出すモンタージュ装置であることを示している。口語俳句の自立性は、固定した伝統形式の美にではなく、この断片の結合がもたらす創造的な意味生成の運動そのものにこそ宿っているのである。

 口語俳句の仮想敵かつ基盤としてある文語俳句は形式として閉じた「間」を空白の美と呼びモンタージュ的に組み立ててゆく。俳句は語と語、イメージとイメージのあいだにある余白や間によって直接語られない世界を喚起する。その意味で、俳句をモンタージュ装置として読める。

これを[3]俳人・柳元佑太が俳句文芸誌『俳句』で「キメラ」と称していることについて、[4]同誌で俳人・浅川芳直が言及し、論を展開しているのを見た。しかし、この余白を、組み立てを「キメラ」と呼ぶよりも「モンタージュ」とわたしは呼びたい。キメラというと融合・混成の構造であり、要素が一つの身体になることを指す。対してモンタージュとは断片の配置であり、要素が別物のまま結合し、間に意味が生まれるものである。踏まえると、やはりモンタージュと言ったほうがしっくり来るように思われる。

 俳句の自立性とは、伝統形式としての閉じた美ではなく、断片と断片の結合によって新しい意味を持ちあげる想像の運動そのものに見出される。俳句が芸術として自立することは、固定された歴史や形式の内部に留まることではなくモンタージュ的な現在を言葉の最小単位で生成し続けることに他ならない。


[1] 岩本憲児・連続と切断――モンタージュの思想『無声映画の完成』1986年1月10日出版 出版:岩波書店 260頁-269頁

[2] 田村奏天・第四回全国俳誌協会新人賞準賞受賞作『ハンカチのはりねずみ』

https://note.com/play_the_sky/n/n6f0d29e4bdd5 (2025年11月15日取得)

[3] 柳元佑太・写生という奇怪なキメラ『俳句』2022年9月号 出版:KADOKAWA 124頁-144頁

[4] 浅川芳直・悲観的写生説とリアリズム『俳句』2022年9月号 出版:KADOKAWA 138頁-141頁


【新連載】新現代評論研究(第15回)各論:後藤よしみ、佐藤りえ、村山恭子

 ★―3「高柳重信における皇国史観と象徴主義の精神史」―戦前の影響と戦後の変容をめぐって―後藤よしみ

第二章 少年期の感受性と皇国史観との邂逅

 高柳重信の思想形成は、まず自然との深い交感から始まる。群馬の地に育った少年期の重信は、富士と筑波を仰ぎ見る日々の中で、山々に宿る霊魂と心を通わせるような感覚を育んでいた。彼は後年、こう記している。「富士と筑波とを眺めてくらす日々は、…そこには、おのずからの連想力による交感が、自然に準備されていったのである」¹。このようなアニミズム的感受性は、後の自然詠の基底となる精神的土壌であった。

 その一方で、重信の思想形成に決定的な影響を与えたのが、中学時代の歴史教師・久保田収との出会いである。久保田は東京帝国大学国史学科卒で、平泉澄の高弟として知られた人物であり、重信は彼を「心の恩師」と呼んでいる²。久保田の授業は、従来の歴史教育とは一線を画し、感情移入を伴う〈フィーリング〉の歴史教育であった。楠木正成や新田義貞、北畠顕家らの忠義の物語を語る際、重信は「私も同じ誓いの下に死んでゆくのであった」と述懐している³。

 このような教育は、重信に皇国史観的な歴史観を植え付けると同時に、英雄的死への共感を育んだ。久保田は西洋史も担当しており、フランス革命におけるルイ16世の処刑を「まことに残念」と嘆き、スペイン内戦ではフランコを支持していた⁴。こうした授業は、平泉澄の講義と同様、歴史上の人物への「心境推測」を通じて物語を紡ぐものであり、重信の感受性に深く刻まれた。

 重信は、戦時下に肺結核を患い、病床で歴史書を読み漁ることになる。その中には、平泉澄の著作や、吉田松陰・藤田東湖・『神皇正統記』など、皇国史観に基づく書物が含まれていた⁵。妹が敗戦後に発見したこれらの蔵書は、重信の精神的支柱であり、彼の思想形成における重要な要素であった。

 このように、少年期から青年期にかけての重信は、自然との交感による霊的感受性と、皇国史観に基づく英雄的死への共感という、二つの精神的軸を育んでいた。これらは、後の思想的変容においても、深層に残り続けることになる。

脚注

¹ 高柳重信「俳句の廃墟」『高柳重信全集Ⅲ』立風書房、1985年。

² 高柳重信「わが心の恩師を語る」『高柳重信散文集成 第十六冊』夢幻航海社、2002年。

³ 同上。

田中正俊『戦中戦後』名著刊行会、2001年。

高柳美知子「思い出すことなど」高柳蕗子HP(潮汐性母斑通信)より。



★ー5清水径子の句/佐藤りえ

 手足うごく寂しさ春の蚊を打てば

 ひき続き『鶸』「白扇」より、昭和45年の作。蚊にとっての適温、活発に活動できる温度は20℃~30℃だという。成虫が活動的になるというだけでなく、この温度帯では卵から成虫になるまでの期間も短縮される。飛びまわり、血を吸い、繁殖する、蚊にとっては繁忙期、人間にとっては少々困る頃合いといえる。

 「手足」をうごかしているのは打たれた蚊で、床に落ちたのちの蠢くさまに、無常の寂しさを見ている。あるいは蚊を打つ動作をした自身の手足に寂しさを見出しているのだろうか。足で打つのはヘンであるから、やはりここはまだ動いている蚊の状態に一抹の寂しさを感じる景としたい。まだ動きが緩慢な春の蚊は思いがけなくあっさりと人の手に打たれ、ぽとりと落ちることがある。

 「悲嘆の声が強すぎる」と指摘されてきたことを径子自身が句集のあとがきで述べているが、直接的な感情表現はそこまで多用されていない。『鶸』集中で「さびし」「淋し」「寂し」の措辞が使用されている残りの6句を挙げる。


 暑さなき一日があり淋しがる 「昼月」

 盤石を踏み舟虫のさびしさは 「火の色」

 くちびるの淋しや秋の山清水 「北の畳」

 落葉焚き煙らすさびしがりやの火 「白扇」

 雲なきはむしろ淋しや寒の入 「寒凪」

 極楽はさびしからずや蓴生ふ  〃


 428句中7句、多すぎるというほどの数ではない。何より「さびしさ」の扱いかたにちょっとした特徴がある。


 「暑さなき一日があり淋しがる」、夏らしからぬ涼しい日を「暑さがない」日として、その物足りなさを「淋し」としている。

「盤石を踏み舟虫のさびしさは」、ごく小さなフナムシが自身の何万倍もあろう巨岩、その盤石の上を歩く、その計り知れなさがフナムシにとって「さびしさ」である、という。

 「くちびるの淋しや秋の山清水」、山歩きのさなか、清水を含んだ口のつめたさ、その体感を、爽やかさやここちよさではない「淋し」としている。

 「落葉焚き煙らすさびしがりやの火」、乾ききらぬ落葉を焚いたものか、いぶる煙を「火がさびしがって」あげたもの、としている。

 「雲なきはむしろ淋しや寒の入」、一月初めの日和の空、寒さのなかのほっとする晴天に雲がないことが「むしろ淋しい」。

 「極楽はさびしからずや蓴生ふ」新芽が顔を出す蓮沼を前に、すでに見知った顔が揃う極楽浄土は、それでもさびしくはないでしょうかと、問わず語りに独りごちている。


 いずれも自身が日常の中でふと寂しさを感じる――というよりは、ある種の違和感、落差、物足りなさといったものを「さびし」と評している。諧謔味をとらえたとき、径子の「さびし」は発動している。 

ここに見る嘆きの詩脈は儚さの嘆きではなく、心を燃やすゆえの嘆き、そこに生ずる浪漫ぶり、私はそんなふうにこの女流の嘆きをうけとる。だから、嘆きがむしろいさぎよいくらいだ。(『鶸』序/秋元不死男)

 師・不死男が評する「心燃やす」「浪漫ぶり」といった傾向は、フナムシや火のさびしさを思うものを言うものでもあろうし、のちの耕衣への敬慕につながる、アニミズムというより、なんとかこの世と溶け合っていこうとする、心の動きのようにも見える。


★―7:藤木清子を読む6/村山 恭子


6 昭和11年 ①

ひとこひし炭火の美しく照るをみれば     旗艦13号・1月

人こひし炭火は美(は)しくはしくてれ       京大俳句1月

 〈炭火〉があかあかと美しく燃えています。「炎」は燃えるような激しい感情の「焔」を呼び起こし、〈炭火〉の赤と黒の対比は、己の心と肉体です。ここには、わたくししかいません。〈照る〉の表記や〈はしくれて〉のリフレインが〈炭火〉の美しさを増して、人恋しさが積み重なります。

 季語=炭火(冬)


虫鳴けり逢へぬさびしさ胸を嚙む       旗艦13号・1月

 秋になり虫が鳴いています。その鳴き声が〈逢へぬさびしさ〉を一層つのらせます。下五の〈胸を嚙む〉の表現が、虫が嚙んでいるような余韻をもたせ、魅力になっています。

 季語=虫鳴く(秋)


冬夜断想                 京大俳句1月

冬を生く妻てふ名にぞあらがひて

 〈妻〉という名に〈あらがひて〉、〈冬〉を生きています。〈冬〉は枯れた淋しさやものの終わりが本意で、〈妻〉として生きる身の哀れさと、あらがいたいが出来ない現状をあらわしています。

 季語=冬(冬)


人を埋むノラとならめと思(も)ひしころ      同

小夜火鉢ノラとならんと思(も)ひしこと      天の川1月

 イプセン作『人形の家』の〈ノラ〉。「妻」である前に「人間」として生きることを望んだ〈ノラ〉のようになりたく思った時、私を「人間」として扱わない〈人〉を埋めたくなりました。

 二句目は〈小夜火鉢〉という物に思いを語らせ、一句目より心情を抑えています。

 季語=無季

季語=火鉢(冬)


 さびしさに湯気這ひのぼる吾が肋(あばら)      京大俳句1月

 心が満たされない虚しさや物悲しさを感じている私のあばら骨を〈湯気〉が這いのぼってきます。胸ではなく〈肋〉の肉体表記により情感を一層湧き起こさせます。

 季語=無季


土間寒し縄を作りて冬を生く         同

土間寒し頰冠りして冬を生く         同

 寒い〈土間〉で縄をなったり、寒さを防ぐために頬冠をして、〈冬〉を生きています。〈寒し〉は体感で感じる寒さとともに感覚的、心理的な寒さも示しています。

 季語=寒し(冬)・冬(冬)


英国Haiku便り[in Japan] (57)  小野裕三

「海を越えた俳句」の時代を超えて

 『海を越えた俳句』(佐藤和夫著、丸善ライブラリー)という本を読んだ。一九九一年刊行のもので、明治の頃から始まりその時期に至るまでの、haikuの海外での広がりを丁寧に追う、とても参考になる一冊だった。強く共感しつつ読みながら、一方でそれから三十年ほどの間に起きた変化も大きいと感じた。

 ひとつには、「海を越えた俳句」という書名自体が象徴的なのだが、そこには「ようやく俳句も世界で認められるようになった」というニュアンスがある。しかし今の僕が目にするのは、もはや完全に世界各地で定着し、かつそれぞれに独自の進化を遂げつつあるhaikuの姿である。ステージが一段も二段も進んでいる、というのが率直な実感だ。

 そしてそのこととも関連するのだが、三十年前にはなかったインターネット普及の影響も大きい。佐藤氏は、当時の「サンデー毎日」「英文毎日」などのhaiku欄を担当していたというが、おそらくそれらのメディアが読まれるのはほぼ日本国内で、だから投句する人も日本在住の外国人が多かったのではと推察する。それと比較して、僕が現在担当する日本英語交流連盟ウェブサイトのhaiku欄は、インターネットメディアであるだけに、文字通り世界各地在住の外国人から投句が来る。また、Facebookなどを見ても、インターネットが世界のhaikuを生き生きと繋いで進化させていることを実感するし、その意味でもhaikuは「海を越えた俳句」の時代からはさらに進んだステージにいると感じる。

 この本の中では、haikuを発見・評価し海外で広めてきた多くの外国人が列挙される。ただし、たった一人だけ、俳句とhaikuを繋ごうとした日本の俳人の名が記される。その名が、高浜虚子であることは、興味深い事実だと思う。

 haikuならぬhaikaiが隆盛していた戦前のフランスを虚子は訪れ、フランスの詩人たちと俳句談義を交わした。虚子は、フランス語の十七音は日本語よりも内容が長くなることに気づき、十七音にこだわるな、そして社会風刺ではなく季や景色を詠め、とアドバイスしたらしい。さらには、フランスから帰国後も、雑誌『ホトトギス』『俳諧』に外国の俳句欄を設け、また自分の俳句も各国語に訳させた、という。その意味では、最初期の「海を越えた俳句」に取り組んだ文字通りの先駆者は実は、日本では何かと守旧派と目されがちなあの虚子であったし、そのhaiku観も的確であったと感じる。

 それから百年近い時を経て、世界に定着したhaikuはインターネットで繋がった。虚子が生きていたらどう感じるだろうと思うし、僭越ながらその虚子の志をいささかでも僕の活動が受け継げているのだとしたら嬉しくもある。

※写真はKate Paulさん提供

(『海原』2024年9月号より転載)


【連載】現代評論研究:第18回各論―テーマ:「月」その他―  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

(投稿日:2012年01月06日)

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 汽船が灯り月夜の切符二枚重ねて切られる

 「ケイノスケ句抄」(注①)所収の昭和42年の作品である。意味深長な切符二枚はまるで映画のワンシーンの如く、月夜の下にその対象へカメラがズームアップされ、そこからドラマが始まる。そして切符が重ねて切られる事によって二人の関係とそれを切る船員の視線をも意識させられる構図となっている。七・七・七・四の二十五音の自由律俳句特有の長律句であるが、それによって情景が鮮明に浮かび上がり、ゆっくりとした時間の流れさへも感取される。定型句ではこの情景をこのように一つの構成としては纏めきれないのではないか、と思われる。また、この句は次に掲げる連作中の初句であり、それらを含めて時の流れを味わうのもよろしいかと。

 船首に月があるのはそれとして旅立つ   昭和42年作 注①

 船首月にむけておって或る日の乗客       々   注①

 岬の月の時刻を通過する汽船          々   注①

 汽船が一隻月を消し沖へ出て行く        々   注①

 まるで月はその目的であるが如くに汽船がそれに向かって出て行くが、やがては月も汽船も二人の乗客の姿も画面から消え去って行く存在なのである。またそのドラマ性は圭之介の短詩にも共通して表われている。

「パレットナイフ 10」 Ⅲ    注②

消えゆく月と潮流にひそむ変異態

事象は浮き沈みのなかを夜から未明まで

――詩稿未完

 消えゆく月と潮流に浮沈する事象とが暗示するもの、それが未完故にドラマの印象が一層際立ってくるようにも思われる。

 俳句特有の花鳥風月ではないが、やはり「月」の句は圭之介の句稿の中で最多であった。そして「月」に対峙する存在として「沼」や「死」を取り扱った作品も多くみられた。

 「月」と「沼」

 孤独の沼の真ン中の月になる     昭和24年作  注①

 月がこんばんわと沼になる         々    注①

 非具象の月が黒い沼に溶解する    昭和39年作  注①

 微笑が沼のまんなかの月になる    昭和40年作  注①

 沼に月は置いてきて もう落ちた時分  昭和49年作 注①


 「月」と「死」

 死がくる家の月夜の中の木      昭和29年作  注①

 ついに最後 蒲団の裾に月さしている 昭和31年作  注①

 死への過程月影が屋根を重ねる    昭和40年作  注①

 死のすでに月を暗うしている家    昭和42年作  注①


 沼は月と照応する存在として、また同化する存在として位置しており、死は月に包含される存在として表現されている。空間と時間を象徴するかのような月という存在。この様な月に対する感覚は果してどの世代まで受け継がれてゆくのであろうか。


注①「ケイノスケ句抄」  層雲社  昭和61年刊

注②「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会 平成17年刊


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 つひに子を生まざりし月仰ぐかな

 第一句集『榧の実』に収められたきくの56歳の作品である。

 わたし自身に子がないこともあり、掲句の「つひに」のひと言には身を切るような痛みを覚える。

 人間としての充実した時間はこの先まだ続くが、子が生める時代は無情にも限られている。自分で選んだ人生と胸を張ることができても、あるときふと子を残せなかったことへの後悔と罪悪感が胸に湧かない女がこの世にいるだろうか。

 月を仰ぐとは、同じシルエットでありながら大樹や青空を見あげる健やかさとは対極にある。その姿は切なさであり、ひそやかな懺悔を感じさせる。集中に並ぶ

 隠すべき涙を月にみせしかな

も掲句に続く嘆きの涙であろう。

 月は愁訴を吸い込むために夜空に穿った穴のごとく口を開け、女はあふれる涙を夜の闇で包む。そして、月に放った詮ない思いをまた胸の奥にたたみ、日常という時間に戻っていくのだ。

 きくの作品には時折輝くような少女が描かれる。それらは過ぎ去った日への羨望というより、まばゆい若さへの讃歌と、美しいものを愛でるような手放しの喜びが感じられる。

 パンツ穿き口笛上手キャンプの娘 「春蘭」昭和13年9月号所載

 少女等の円陣花野より華麗   『冬濤』所収

 ペダル踏んで朝六月の少女たち 『花野』所収

 子どもを持つことの叶わなかったきくのにとって、出会った少女すべてが可愛い自分の娘のように映っていたのではないだろうか。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 落鮎をなほ寸断の月明り

 昭和48年作。第4句集『狩眼』(*1)所収。

 花・鳥・風の句を今まで見てきたが、今回は月。月といえば、秋の月である。「月」の句は、後半生(昭和46年から昭和55年)の三句集で13句を数える(*2)。三句集合計938句中13句は桜の13句と同数である。句集別だと『狩眼』3句、『雁道』8句、『無畔』2句となる。年次別に言うと、昭和48年、49年、50年が各1句、昭和51年、54年が各2句、52年と53年が各3句となる。

 そのなかで、月の光に何かが照らされているという構図の句を取り上げてみたい。

 落鮎をなほ寸断の月明り 昭和48年作 『狩眼』

 産卵を終えて川を下る鮎の姿は、衰弱して哀れである。死にゆく落鮎の魚体を月の光が瞬時、照らしたさまを〈寸断〉ととらえたところに、玄の眼の確かさを感じる。月光の刃でずたずたに断ち切られた鮎は、若鮎ではなく、〈落鮎〉である。だからこそ〈なほ〉の措辞が生まれたのだろう。感傷に陥ることなく、死の峻厳さを〈月明り〉に託したことによって、詩情が生まれているように思う。

 あるいは、〈落鮎〉に還暦を翌年に控えた玄自身を重ね合わせて読むならば、〈月明り〉の象徴するものは、時に輝かせ、時に死に至らしめることもある「世評」と解することも可能だが、穿ちすぎだろう。

 月光に射しとほさるる薄の身     昭和53年作  『雁道』

 やうやくに月を浴(ゆあみ)の冬の鯉    昭和54年作 『無畔』

 〈薄の身〉を比喩ととるか、実景と見るかで解釈が分かれそうだ。月光に照らされて輝くすすきの姿を〈射しとほさるる〉と受身で捉えたことで、すすきを取り巻く寂寞とした月夜の景が見えてくる。あるいは、痩せさらばえた病身をすすきに見立てたものか。

 〈やうやくに〉は、池の底に潜んでいた〈冬の鯉〉がゆっくりと月下に姿を現した景を詠んだもの。〈月を浴(ゆあみ)〉の中七によって、鯉が自ら月光を浴びに来たと解している点がユニークである。

 なお、自死を考えていた頃の連作「死の如し」における「月」の句にも月光とそれに照らされる何か、という構図が散見される。

 野分先づ月の光を吹きはじむ   昭和22年作  『玄』

 月下また死す恰好になりにけり  昭和22年作  『玄』

 月光のはじめて中る茎の石    昭和22年作  『玄』

〈野分〉と〈月の光〉はともに物の存在を通して感知されるものである。非在が非在を対象とした句の存在をこの句によって初めて知った。

〈月下また〉の句は死ぬ時の自身の姿を想像して畳の上でうごめいている作者の姿が滑稽だ。生の延長線上でいくらもがいてみても死を経験することは人に与えられてはいない。

〈茎の石〉は茎漬けの桶の上に置く重石。月光を浴びることで、普段気にも止められなかった存在が、象徴的な何かに変貌してゆく心理を捉えている。この句の場合では漬物石である〈茎の石〉が「死」を象徴する存在として描かれている。


*1 第4句集『狩眼』 昭和50年牧羊社刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2 参考までに後半生の「月」の13句を記しておく。

落鮎をなほ寸断の月明り      昭和48年  『狩眼』

月の出の虫売つねに憂かりけり   昭和49年  『狩眼』

畦焼きの月はあやふくかかりける  昭和50年  『狩眼』

月の出を待つ神妙のありにけり   昭和51年  『雁道』

見おろしに月が光とならむ時    昭和51年  『雁道』

月遠くものみな遠く息一つ     昭和52年  『雁道』

月今宵ありのままなり明日のため  昭和52年  『雁道』

月今宵木槿は木槿出づるなく    昭和52年  『雁道』

在りながら山ゆく月の若牛蒡    昭和53年  『雁道』

月明の箸を逃げたる甘煮藷     昭和53年  『雁道』

月光に射しとほさるる薄の身    昭和53年  『雁道』

やうやくに月を浴(ゆあみ)の冬の鯉   昭和54年  『無畔』

身の置きどころとて真葛原月もなく    昭和54年   『無畔』


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 良夜疑わず鯉こんじきの頭を揃へ

 『過客』(1996年)所収。「唐招提寺観月会」との前書きを持つ句。

 葦男の歿後、彼を欽慕する関西俳人たちが創刊した「一粒」no.1(1997年3月)には、1983年1月から1993年4月に至る10年余の詳細な年譜が掲載されている。この年譜を読み込んでゆくとたしかに1989年(平成元年)9月の条に唐招提寺観月会の文字が見える。だが、ここで注目すべきはその直後に続く(俳句研究二年十月号九句)という記述である。「俳句研究」平成2年10月号にこのときの作品9句を掲載の意。つまり葦男は、平成元年9月の奈良旅行を題材にした作品をちょうど1年のあいだ寝かせておいてから「俳句研究」誌上に発表していたことになる。

 実際、生前の葦男を知る複数の人々の証言によれば、晩年の葦男は常に1年分の作品をストックしており、商業誌の需めに応ずる際などには前年同時期に詠んだ作品を寄稿することが多かったという。締切日オーバーや欠稿等で編集者に累が及ぶのを嫌うプロ意識のなせるわざか、それとも「句日記」と題して「ホトトギス」に1年前の作品を連載し続けた高浜虚子の顰みに倣ったものか。真意は不明であるが、「11月某日までに新年詠30句」などと注文して平然としている月刊誌の無体な要求に対する、葦男一流のささやかな抵抗だったのかもしれない。

 そんな気がしたのも、冒頭の句に出会ったからである。作者は金色の鱗をまとった見事な鯉が頭を並べて悠々と泳いでいるさまを見て、まことめでたい気分に満たされている。そして中秋の名月の照りわたる素晴らしい夜の到来を確信している。しかし、決して今年の良夜を目撃したわけではない。「良夜疑わず」という表現は、今年の十五夜の月を未だに観ることなく「良夜想望俳句」を発表するのだという葦男の微妙に屈折した心理の正直な反映なのである。ある種の俳人たちは、平素、季感や実感を後生大事に云々し、眼前嘱目の景物との実存的邂逅をひどく重視する。いわば「制作時点主義」の信奉者なのである。そのくせひとたび活字媒体からの要請があれば、たちまち「掲載時点主義」に宗旨替えをして恬然としている。この句の切っ先はそのような俳壇特有の「隠蔽された大矛盾」にも果敢に突きつけられている。

 晩年、葦男は有季定型に回帰したとも評される。しかし、季語に対する身構えを解き、季に寄り添い季に遊ぶかに見える一方、「良夜疑わず」の句に隠された鋭利な仕込杖の如き批評性はなお健在であった。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 さよなら貴男 月夜のすべり台地底まで   諧弘子

 いまここに逢瀬の真っただ中にいるふたりがいる。ふたりが互いに抱きあっている情熱もさることながら、「逢瀬」の真っただ中にいることががもたらす昂ぶりのありようというのは、当事者たるふたり以外にはなかなかにわかりづらいものであろうか。さてここに熱く昂ぶりあった時間が過ぎ去り、別れの時が訪れた二人がいる。この別れが単に「じゃあまた明日、また今度ね」というものであれば、ふたりとも今日の抱擁のぬくもりとともに次なる「逢瀬」への期待を持ち帰ることができる。だがこの一句に登場する女性(としておこう、あなたを「貴男」としてあるだけに)には、いかなる理由かはわからないが、もう次なる「逢瀬」の時は訪れなくなってしまった。「さよなら」も単なる挨拶にとどまらない、真の決別を告げる言葉となってしまった。月の光が満ち溢れたこの空間で、かつて数えきれないほどにささやかれた愛の言葉と彼の全身がもたらしてくれた愛撫は、彼が去っていってしまったこの空間において次第に彼女の体と心に深く突き刺さった棘となってゆく。彼を失った痛みはいよいよ彼女を苦しめ苛む。かつての「逢瀬」のひとときに彼が自分にもたらしてくれた高揚感が、彼女の痛みをさらに増幅させる。彼の姿がいなくなったこの瞬間に、「月夜のすべり台」をただまっすぐに滑り落ちてゆくばかりの彼女の心は、きっとこう思わずにいられないのだろう「奈落の底って、こんな感じかしら」。

 掲出句は1965年(昭和40)度の第8回「青玄新人賞」を受賞した30句の中の一句。導入の「さよなら」からの「地底まで」の一連の流れはそれこそ「すべり台」を一気に下りてゆくかのような勢いが感じられ、作品のドラマティックさをより際立たせ、ひとりの女性の悲嘆は一句を通じてひとりの女性の物語へと広がるのだが、受賞30句をまとめてみると、別れのドラマが展開されているのは実のところこの一句のみ。一連30句を彩るのは、次のような愛の希望にあふれたドラマを生きる女性の姿であったりする。

 気絶の真似して 梅林でたゞ 夫が好き

 春風刈りに 夫も大きいてのひら 下げ

 子はこうやって抱くのかと 干し物とり込む夫

 わたしが待つから夫が帰る 愚かでない

 愛妻俳句ならぬ「愛夫俳句」とでも呼びたくなるこれらの作品を見た目で掲出句を見直してみると、別の意味で作品の落差に驚かされるところもあるのだが、どちらに一句においてのドラマティックさの打ち出し方の強さにおいては共通している部分は多い。「気絶の真似」「春風刈り」は夫とともに過ごす時間がもたらしてくれる昂ぶりをさらに増してくれる大切な手立てともなっているし、「子はこうやって抱くのか」の句では自分の子をいつかこの人が抱いてくれるのだ、との確信が彼女をより昂ぶらせ、夫との関係に対する自信が全身に漲らせるのだ。

 掲出句に登場する愛を失った悲嘆の真っただ中にいる女性と、「愛夫俳句」に登場する夫からの愛を信じ、自らも惜しむことなく愛を注ぎ込む女性、どちらもいまこの時においては自らの悲嘆をまっすぐに嘆き、自らへ注がれる愛への参加をまっすぐに唄う。そのドラマティックなまでに堂々とした態度は、辟易してしまった読者をして、「そんな人本当にいるのか」との疑問をもたげさせてしまうこともあるかもしれない(それははじめて読んだ時のわたしのことであるわけで)。しかしもしかしたら、あまりに物語的で典型的であり続けていることこそが、これらの作品群の魅力の源泉でもあるのだから何とも厄介ではないか、と感嘆したくもなるのである。たしかにここに出てくる女性たちとは、私たちはどこかですでに出会っている、もしくはこれから出会うのかもしれないのだから。


●―9上田五千石の句/しなだしん

 月の村川のごとくに道ながれ     五千石

 第三句集『琥珀』所収(*1)。昭和六十一年作。

 このところ、意識的に第三句集『琥珀』の作品を挙げてきた。『琥珀』の秀句を紹介したいとの思いからだ。

 五千石の句は第一句集『田園』が斗出して評価が高く、それ以後の『森林』『風景』『琥珀』『天路』は軽視されすぎる傾向があると思っている。たしかに、『森林』『風景』あたりは発展途上の感もあり、『田園』ほどのインパクトがないのも事実。だが第三句集『琥珀』は、「眼前直覚」以降の五千石の充実期であり、練られた表現、詩情豊かで技が光る作品が多く、五千石俳句の最高峰は『田園』よりもこの『琥珀』ではないか、と個人的には思っている。

     ◆

 掲出句。

 ふつう「ごとく」を使う場合、全く別次元のものを引き合いに出すのが、比喩の醍醐味であり、飛躍を生む秘訣だと思う。「貫く棒のごとく」のごとく。

 だが、この句では「道」を「川」に例えている。どちらもごく自然に、身近に存在するもので、言うなればかなり近いものと言える。大いなる水の流れ、つまり川、その近くに人が集まり、生活が形成され、道ができる。川沿いには必ずといっていいほど道がある。この意味でも「道」と「川」は関係性が強い。比喩としての飛躍に乏しいように思うのだが、一句として仕立てられたとき、違和感なくすっと入ってくるから不思議である。これが先に述べた、さり気ないが、地に足のついた技とも言えようか。

     ◆

 この句に前書はないため、どこの景色なのか、本当に存在する村なのか、それは分からない。だが、この道は車のヘッドライトが行き来するような道路ではなく、山間のひっそりとした村、鄙びた屋並みを通る村の道が想像できる。世界遺産にも登録された白川郷などを思ったりもする。

     ◆

 「月の村」と上五に置くことで、まず大づかみの把握を読者に促し、「川のごとくに道ながれ」で、景色としての村の在りよう、道の存在を提示する。高台から村を見おろしているような浮遊感を感じるのは、「月の村」という上五の効果であり、「川のごとくに」「道ながれ」によって月の光りに浮かぶ幻想的な村の道を静かに喚起する。

 「川」や「道」「村」という何気ない現実的な言葉を使いながら、この句の景色がどこか現実離れしているように感じるのもまた、「月の村」という言葉の不思議さから。


*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 月下美人展くや熟年めく恥らい

 「野の会」昭和56年6月号より。全句集には収録されておらず、『自選自解楠本憲吉集』に収録。

 日本的な季語である「月」はあまりにも日本的情緒のまとわりついているせいか、憲吉には名句が少ないようである。憲吉の句に「月」の句をまれに見ても日本的情緒を排除している句が多い。

 月爪のごとしこの恋泥のごとし

 残忍にひらく月下の恋いくつ

 羸痩わが胸に影して月の山毛欅

 一方で、「月」のつく「月下美人」というサボテン科の花には、憲吉の想像力を羽ばたかせるものがあるのか、題材としてしばしば詠んでいるようである。作品そのものも無理なく憲吉調を発揮している。

 妖と開き煌と香りぬ月下美人

 月下美人かっと目ひらき明日フランス

 掲出句に戻り、「熟年めく恥らい」という把握はいかにも憲吉らしいものがある。熟年になれば恥じらいがないのではないかという常識的な解釈は憲吉の取るところではない。若い女性の鈍感さを、憲吉ほどになるとよく分かっている。厚かましいように見える熟年女性に、ある瞬間、恥じらいの表情が素通りして行くことがある。それを妙と思っているのである。こうしたところに憲吉の独自性がある。

 最近のお笑いでいえば、一時、綾小路きみまろが中高年の女性をいじっていたのが、このごろはピースの綾部、オードリーの春日、ロバートの秋山などが熟女好きを芸にしている。楠本憲吉は20年早かったのだ、芸人としては。


(修正)前回の、「戦後俳句を読む」(17)で、

 翼重たくジャンボジェット機も花冷ゆる

をあげて、ジャンボジェット機を取り上げた初期の句(45年7月でJAL就航)と述べたが、この句は昭和50年の句であった。しかしこれに先立つ昭和46年の句に、

 秋暑しジャンボジェットが人吐きおり

があったことを見落としていた。訂正し修正する。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 月夜から生れし影を愛しけり

 優雅で謎めいている。

 月夜から生れた影、それは物語のはじまりのようだ。

 敏雄に恋、愛の句を見つけるのは難しい。上掲句は、人に恋するのではなく、影を愛する句であることが憎い。掲句は『まぼろしの鱶』に収録される。制作は昭和20年代、敏雄25~35歳の頃である。

 月影ではなく、月夜から生れた「影」である。それをどう捉えるのかを読者に委ねるしかない俳句形式の短さはまさに宿命的である。ナルシストと思える敏雄がもう一人の自己を愛すること。月夜に蘇った断ちきれぬ想いを投影する影と読めようか。

 人は深い傷を負った頃の自己の影に突然遭遇することがある。月夜の艶めかしい光の中で忘却の彼方へ置き去りにされた影が生まれたかのようだ。蘇った影さえも愛すべきこととして捉える余裕。穏やかで平坦な時間。「生まれし影」に雅が、そして「愛しけり」に切ない余韻が残る。

 映画『過去のない男』(2002年/監督・脚本・制作:アキ・カウリスマキ)の中で暴漢に襲われ記憶を失った主人公が飲んだくれの男に「過去なんてなくても心配ない。人生は後ろへ進まない。」と言われる。様々な境遇、様々な想いを抱えつつ登場人物達は日常を淡々と生きる。リセットしたいとおもいつつ人は簡単に過去から解放されない。

 生まれてしまったものは生きてくしかない。過去から現れたもう一人のわれの影と読みたい。人間の悲哀、愛らしさが感じられる。青年期の敏雄の高い精神性が伺える句である。


●―13成田千空の句/深谷義紀

 たたみ一畳亡骸を乗せ月のぼる

 第1句集「地霊」所収の作品である。

 千空に月の句はさほど多くない。生涯の句集6冊に収められた句は20句に満たないであろう。派生季語に目を広げても、僅かに以前(於第2回)採り上げた、

 墨磨れば墨の声して十三夜   『白光』

など数句があるのみである。

 しかも、半数近い8句が第1句集の「地霊」に集中している。

 その時期の作品は、掲出句や、

 直截月の光の病ここに

のように、どちらかと言えば重く暗い雰囲気のものが目に付く。また描かれた月は冷たい存在、或いは畏敬すべき対象になっているのである。

 それが時代を経るにしたがって、

 三日月を天上に鳴く恋蛙      『天門』

 水の香のまんまる月夜母子像に   『忘年』

 などのように明るい作風の句に変わっていき、月は親しみやすい存在に転化する。

 その変化がどこから来たものか確たることは不分明であるが、この変化は、千空の作品世界において、鋭敏な感性が句作の原動力となった青壮年期から、句業を重ね、さまざまな人生経験を経た、ある種の懐の深さを見せる句風への転換を示す典型例だと思えるのである。


●―14中村苑子の句【『水妖詞館』―あの世とこの世の近代女性精神詩】49、50、51、52  / 吉村毬子

2014年10月17日金曜日


49 海へ残すくるぶし赤き影法師


「渚」         北原白秋『海豹と雲』所収 

﨟たさよ、しろき月/炎(ほのほ)しろく、/雲の翼(はね)はろばろに/行き流れぬ。/釣舟の漕ぎいづる/入り江ちかく、/さざなみの彩(あや)織(おり)に/魚(び)籠(く)ひたせば。/光るなし、かげるなし、/夕満ち汐、/うらもなし、うつつなしし、/膝、くるぶし。/夕暮れよ黄金虫/うなり過ぎて、/さんごじゅの花の香のみ/蒸しにほひぬ。


 「海」と「くるぶし」に因んで、苑子の好きな北原白秋の詩を書き出してみた。

 掲句は、白秋の詩の如き夕陽の照らす「海へ」、「影法師」だけを残して去って行ってしまったのだ。痛々しく丸い「くるぶし」を赤く染めて。

 「くるぶし」=踝の〈果〉は、丸いくだものの実が木になっている樣を描いた象形文字のことであり、「くるぶし」が丸い形の骨であるため、〈足〉+〈果〉で〈踝〉となった。私は、足の果てだと思っていたのだが…。「くるぶし」は足首の外側に出ているので、夕陽をより受けて「赤き」とする物理的な読みにもなるが、「くるぶし」という足首に付随する部位は、足袋や靴下類で隠す部分であるせいか、足首とともに艶を持つ響きがある。

針供養女の齢くるぶしに         石川桂郞 

くるぶしの露けき頃となっており    川崎展宏 

うつくしき踝をもつ秋の霊       宮入聖 

くるぶし痛しむかし山には羽ありき   阿部完市 

旅人のふと日野の穢のくるぶしか    安井浩司 

くるぶしのすとんと暮れし神集い    攝津幸彦 

くるぶしに日暮れを寄せて麦を踏む   黛執 

実朝忌くるぶしに来る地の冷      鍵和田秞子 

くるぶしの砂におぼるる浜豌豆     片山由美子 

くるぶしの際ぬけてゆく春の水     桂信子

 「くるぶし・踝」の句を拾ってみた。男女の俳人ともに女の「くるぶし・踝」とおぼしき句が多い。

 石川桂郞の「針供養」や川崎展宏の「露」は、慎ましやかな女を思わせ、宮入聖の「うつくしき」と「秋の霊」に、若々しく清潔なエロスを見る。阿部完市は、自分のくるぶしの痛さから民話性を呼び、安井浩司の「穢のくるぶし」が女のものであるのなら、その意味に慄然とする。攝津幸彦の「暮れし」が必ずしも日暮れの時刻を表現していないとしても、「くるぶし・踝」は、黛執や苑子の句のように日暮れ時を連想させるものもある。日暮れ時は、人にもの思わせる時間であるのかも知れない。

 女性俳人の句は、それぞれ水辺が舞台の作品である。水辺で足袋や靴下を脱ぎ、足を水に浸したり、砂浜を歩いている様が「実朝忌」や「浜豌豆」、「春の水」の季語と相俟って、「くるぶし」が自身の心であるように水や砂との交感の機微が繊細に表現されている。

 桂信子の句は、句集『初夏』(昭和52年刊行)所収の作品である。昭和48年秋~49年と記述があるので、信子が58、9歳のものである。「際ぬけてゆく」の表現に信子の諦念が透ける。「くるぶし」というたわわに実った足の骨の際をすりぬけてゆく水は、ものみな生き生きとし始める「春の水」である。春光に輝く水が春の愁いを纏った信子をかわしていくようである。直情から洩れるその詩に、ある種の艶めかしさは確かにあるが、明るい「春の水」なだけに、憂いを覚える。句集は編年体のため、各章にタイトルをあしらった句集のようなイメージで括れないが、48年秋~49年の1年半だけの句の中には、寂寥感の滲み出る句や、ときには、緊迫感を伴うような句もある。

毒茸を掘って真昼の日にさらす   信子『初夏』昭和52年

相模野の春暮になじむとりけもの       〃  〃

濁り声に身をとりまいて大根焚        〃  〃

春の土荒れて筋引く竹箒           〃  〃

総毛だつ紙の手ざわり春の暮        〃  〃

惜春の竹の幹うつ石つぶて         〃  〃

 ここに掲げた句が、390句にも及ぶ句集全体を貫いている訳では決してないので、誤解のないように読んで頂きたいのだが、〈くるぶしの際ぬけてゆく春の水〉の私の鑑賞に至った理由として掲げたまでである。

 「人生は女の日記じゃない。」と言ったのは、サガンの小説『ブラームスはお好き』に登場する青年シモンであるが、(年の差を気にして身を引こうとしたポール(39歳)に言ったシモン(25歳)の言葉である。)編年体の句集とは、微妙な心の動きが日記のように見えてしまうことを識った。『水妖詞館』のような、各章にタイトルを付けてまとめた句集は、映画を編集するように、作句時期の前後を考えず各章ごとにイメージを展開すれば良いので、時間経過に伴う心理状況は解らない。

 桂信子は、大阪出身で(大正3年生まれ・平成16年沒90歳)、20歳から90歳までの70年間を俳句とともに生きた、まさに人生が俳句の人であった。昭和13年から「旗艦」に投句。日野草城に師事し、同人になる。その後、「まるめろ」「太陽系」「青玄」を経て、45年に「草苑」を主宰。

 平成19年、私が所属誌『LOTUS』9号に書いた随筆「エロテイシズムのかたち―『女身』桂信子―」の一部分を抜粋する。

いつの世も朧のなかに水の音   桂信子 

 嘗て『女性俳句』という超結社の俳誌が存在した(1954~1999年)。此の句は、終刊号に全会員が一人一句発表した際の作品である。 

少年美し雪夜の火事に昂ぶりて  中村苑子 

秋刀魚焼く煙の中の割烹着    鈴木真砂女 

 苑子や真砂女は独自の俳句性を表現した作品を載せているが、信子の作品には『女性俳句』創刊に関わってから、終刊に至るまでの思いの込められた句のように感じられる。亡くなる10年前の作品ではあるが、永きに亘る俳句人生の中でのひとつの終幕への感慨がこの作品を通して伝わってくる。移り変わる朧なる世にひとつの生命を育む水の音を聴いて自分は生きてきたのだと―。強く静かに鳴り響く水の音は果たして信子自身であるのかも知れない。(中略)1995年の『女性俳句』65号〈湧泉集〉の「強霜」に私は強く引き付けられた。 

寒暁や生きてゐし声身を出づる 

人小さく凍てて地の揺れ思ふまま 

とこしえに地球はありや寒星座 

地震あとの春待つ顔をあげにけり 

人間を笑うて山の覚めにけり 

 此の5句を含む阪神・淡路大震災に基づくと思われる15句を発表している。桂信子を語る時、有名無名を問わず人は、誠実で潔癖であると言う。この句群を目にした時は、まさしく誠実と潔癖を感知した。先に掲げた『女性俳句』終刊号の1句を読んだ時も同じ思いであった。いつの時代も常に真摯に物事を女身ひとつで受けとめ、熟知し、自然や人間を悲しみ、慈しむ、従来の感性が句作を重ね、より研ぎ澄まされ生き抜いた俳人であると私は確信する。(後略)

 信子は、私が折りに触れ書き記している「女性俳句」の8人の発起人の一人であり、長きに亘り女性俳人のために貢献した中心人物であった。(大会でお会いした印象はいつも穏やかな笑顔であった。)平成23年の東日本大震災の時、信子は彼の世の人になっていたけれども、今も天上で鎮魂句を詠み続けているような気がしてならない。

 苑子は、信子と同世代であり、親しくしていたが、高柳重信は苑子よりもずっと以前に信子と交流していた。『桂信子句集』(昭和58年立風書房発行)の栞「桂信子句集ノート」の重信の文章「若き日に」の最後の部分を引く。(この『桂信子句集』は6月15日発行であり、同年7月8日に重信は亡くなった。)

(前略)その頃(昭和十六年)の桂には 

夫逝きぬちちはは遠く知り給はず 

という句があるが、これを読むたびに私は涙ぐましい思いでいっぱいになる。また、桂信子のことを考えるたびに、なぜか私は、この作品を真先に思い浮かべるのである。

 それから、四十数年が過ぎてしまった現在、たぶん桂や伊丹や私にも、それぞれ大きく変貌を遂げているところと、少しも変化していないところがあるに違いない。だが、いまなお、過ぎし日の健気さを殆んど失わずにいるのは、おそらく桂信子であろう。その健気さこそ新興俳句の心意気と思う私にとって、いま桂信子の健在は心の支えの一つでもある。

 同じ栞の飯田龍太の「桂信子さんのこと」の冒頭を引く。

 結論を先に言ってしまえば、桂信子さんは、俳句に対する識見、あるいはそれを裏から支える実作に対する情念のありように於いて、現代女流俳人の第一人者であると、私は確信している。 

 いや、私の見識などと、改めて見栄を切ることもないだろう。いま、俳壇おお方の良識は、そこに帰着するように思われる。(後略)

 藤木清子や橋本多佳子らとも交流し、彼女らの残したものを胸に抱きつつ、日野草城、山口誓子を継承しつつ、独自の女性としての俳句を、その人生を懸けて詠い続けてきた信子の姿勢は、誰もが認めるところである。結婚2年後の昭和16年(26歳)、夫を亡くしてから永きに亘る句業の間に、幾多の句友を見送って来た。書き綴る晩年の句には、微妙な心情が語られている。

忘年や身ほとりのものすべて塵  信子『樹影』平成 2年(76歳) 

死ぬことの怖くて吹きぬ春の笛  〃 『花影』平成 7年(81歳) 

元日や如何なる時も松は松   〃 『草影』平成15年(90歳)

 1、2句目の心情の後、新年を迎えた信子の3句目のゆるぎない決意は、一貫して歩んだ自身の俳句人生を物語るにふさわしい、厳しくも格調高い一句である。そのゆるがぬ俳句への思いを貫く為に捨てたものもあったであろう。昭和22年(32歳)の次の句を見ても一生を一人で過ごした女人の姿として哀切の感に堪えない。

雛の灯に近く独りの影法師    信子『月光抄』昭和24年

 女一人の「影法師」は、女身の実体そのものよりも昏く悲し気である。今回の苑子句の「影法師」も一人の女の不幸を物語っているかのようである。顕になった「くるぶし」のように、女人の「影法師」の真実の暗さは夕陽にありありと照らし出されるのである。前回の〈47.はるばると島を発ちゆく花盥〉で私がこだわった佐渡情話のお弁の「くるぶし」と「影法師」も思い浮かんでくる。水辺に残された女達の「くるぶし」と「影法師」を今宵も細波が揺らすであろう。 

ひとり臥(ね)てちちろと闇をおなじうす  信子『女身』 

桃の宿ひとり遊びの影踊る        苑子『吟遊』  


50 澪標(みをつくし)身を尽くしたる泣きぼくろ

 掲句について苑子自身が自註している文章がある。(『現代女流俳句全集第四巻』昭和56年講談社所収)

 いささか甘くて気恥ずかしいこの句が、どうしてか男の人に好まれている。 

 ある日、横須賀の港で浮標(ブイ)を見ていた。頭を赤く塗ったコンクリートの巨大なものだったが、浮標(ブイ)という文字の関連から澪標(みをつくし)という音が必然的に「身を尽し」と心に入ってきた。 

 目の前の浮標(ブイ)から解かれて港を出てゆく船もあれば、入港して浮標(ブイ)に繋がれる船もある。その船で働いているおおかたの船乗りたちは家に妻を残してきているであろうし、実際に見送りに来て何か荷物を渡している女の人の姿も見えた。そんな風景を眺めているうちに、ひとりの男に全身全霊を捧げて尽す、おとなしく優しい女の姿が浮かびあがり、いったん船出したら、いつ帰るかも判らない男を待ち続けて、何ごとにも耐えて淋しく暮らしている女を表現するのに「泣きぼくろ」という名詞が泛んだ。こうした女は、いまは幻の存在でしかないであろうし、それ故に男の人たちは、ひたすら渇仰するのであろう。

 「澪標」は「身を尽くし」にかけて和歌で多く詠われている。万葉集には「遠(とおつ)江(おうみ)引(いな)左(さ)細江の澪標吾を頼めてあさましものを」などもある。冒頭で「いささか気恥ずかしいこの句」と本人が語っている通りであるが、最後の一行の「こうした女は、いまは幻の存在でしかないであろうし、それ故に男の人たちは、ひたすら渇仰するのであろう。」に妙に納得してしまうのである。

泣きぼくろ彼女もちけりけふの月   山口青邨 

石竹の美少女なりし泣きぼくろ   倉橋羊村

 「泣きぼくろ」は、今や男が〝ひたすら渇仰する〟女に似合う。青邨や羊村の若き時代はそうした女が存在していたのだろう。(羊村句の「石竹」は撫子のことである。)

 けれども、「泣きぼくろ」がなくとも「身を尽くしたる」女は現存しているのではなかろうか。10年程前までは、そんな女流俳人が確かに存在していたのだ。鈴木真砂女(明治39年生まれ・平成15年没96歳)は、その波瀾万丈なる人生が、小説や芝居にもなっているが、真砂女のその人生の折り折りの女の俳句を苑子の掲句に重ねてしまうのである。

 真砂女は、千葉鴨川の有名旅館の三姉妹の末娘に生まれ、結婚後夫が失踪し、家に戻るが、亡くなった姉の替りに家の為に義兄と結婚する。30歳の時、7歳年下の海軍将校と恋に落ち、50歳で家を飛び出し、銀座にて小料理屋「卯波」を営みながら俳句を書き続けた。俳句は亡くなった姉の影響で作り始め、大場白水郎主宰の「縷紅」に投句。戦後「春燈」で久保田万太郎、安住敦に師事。昭和29年創刊の「女性俳句」の発起人の一人でもある。

 平成4年(私は平成2年から俳句を始めている。)銀座「卯波」の暖簾を初めてくぐった。会社の先輩が句会を体験したいからと、編集者の友人に勧められ、予約をしてしまったのである。私は断わり切れず、先輩達と句会らしきものを始めた。(2、30代の女性ばかり5、6人で、俳句を習っているのは私と石原八束の教室へ通っていた同僚の2人だけであった。)そこへ真砂女が現われ、「どちらの結社の方達?」と尋ね、私は冷や汗をかきながら「中村苑子先生のところで勉強しています。」と答えると、「まあ、苑子さんならよく知っているわよ。」と笑顔で仕事に戻って行った。暫くすると、真砂女は、赤ペンを持ってきて一人一人の句に添削をしてくれたのである。私の拙句、

父の忌や春暁いまだ暗くあり   広美(毬子)

の下五を「明けやらず」と修した。苑子も同じように修したと記憶している。(その「卯波」での稿を大切にしていたのだが、その他、窓秋の扇子や苑子と食事した折りに書いて頂いた2枚のコースター等々、俳句関連のものが家に泥棒が入り、盗まれてしまい、本当に残念でならない。)後日、私がその「卯波句会」の事を話した先輩に皆に言ってはいけないと言われたが、苑子にだけは謝りながら、恐る恐る話すと、「先に言ってくれれば、真砂女に話しておいたのに。」と残念がっていただけで、事なきを得た。苑子と真砂女は、「春燈」で8年間共に学んだ句友であった。それから、2、3年後、苑子や先輩達と「卯波」へ食事に行った際、(夏だったからか、真砂女は御手製の紺地に白の水玉のワンピースを着ていて、少女のようであった。)一番端の席を指して、苑子が言った。「ここが例の人の定席だったのよ。」と。

羅や人悲します恋をして       真砂女『生簀籠』昭和30年

罪障の深き寒紅濃かりけり       〃   〃 

女体冷ゆ仕入れし魚のそれよりも   〃 『夕螢』昭和51年 

水さびし空もさびしと通し鴨       〃  『都鳥』平成6年 

死なうかと囁かれしは螢の夜      〃   〃 

人を泣かせ己も泣いて曼珠沙華    〃 『紫木蓮』平成10年

 これらの作品を読む時、不倫という一言で片付けてしまえない時間の重さを感じる。泣きながら仕事をしながら俳句を書くことで自身を慰めてきたのだろう。けれどもその悲哀を綴るほど悲しみが募っていったのではないだろうか。

 ―さる人の死を悼む―

かくれ喪にあやめは花を落としけり      『居待月』昭和61年

忌七たび七たび踏みぬ櫻蘂            〃

 掲句は、昭和61年の句集『居待月』である。「かくれ喪」に泣き、咲き散らした花の「蘂」を踏みながら、毎年一人で愛しい人の忌日に手を合わせたのであろう。句集『紫木蓮』は、平成10年(92歳)刊行であるが、〈人を泣かせ―〉の他に〈酒強く無口な人の墓洗う〉の句もあり、30歳で恋に落ちてから、96歳で亡くなるまで、60年以上(その人が亡くなってからも)愛し続けていたのではないかと思うといじらしいばかりである。

夏草や一途というは美しく           『夏帯』昭和43年

 この句に書かれている「一途」を貫き通した訳である。冒頭で苑子の語っている文章に登場する船乗りの妻のような真砂女は、海軍将校であった亡き人のいる彼の世に旅発ったのだ。

 源氏物語の「澪標」の巻は、源氏28歳から29歳の1年余りである。海辺で生まれ育った真砂女は、通行する船に通りやすい深い水脈を知らせる「澪標」の如く、その生涯を懸けて一人の男に「身を尽くしたる」女であった。苑子もまた(25年間ではあったが)、後半生「身を尽くしたる」覚悟であったが故に、今回のこの句を詠んだのではないかと私には思えてくるのである。

 その昔の「春燈」姉妹は、故郷を出てから戻ることなく、東京の地で愛する男と俳句に身を尽くし切った人生であった。

ふるさとの蔵にわが雛泣きをらむ     真砂女『紫木蓮』 

振り向けばふるさと白く夕霰        苑子 『花隠れ』


51 人妻に春の喇叭が遠く鳴る

 20年近く前に苑子から掲句について質問を受けたことがある。

 「今の若い人はこの句をどういう風にとらえるのかしら?」私は、「人妻の経験のない私ですが、人妻となりそれなりの倖せな生活を送っているこの句の女性が、春のある日、呆けた喇叭の音を聴いていると、遠く置き忘れたもう戻ることのない青春の甘く熱い日々を思い出す、ノスタルジー的な詩を感じます。」と答えたが、彼女は微笑んで聴いているだけであった。

 高橋睦郎の「中村苑子二十句恣解」(『鑑賞女性俳句の世界第3巻』平成2年角川学芸出版所収)に、この句についての文章がある。

 人妻とはどれほどの年齢をさすか。年齢よりも結婚以来の歳月。花嫁や若妻よりは時が経過しているが、まだ人の妻になったという匂いが残っている。人を夫と言い換えれば、心身ともに夫と馴染んで来た頃あいをいうといっていいのではないか。その人妻に春の喇叭が鳴る。喇叭は豆腐屋の喇叭でも、吹奏楽の喇叭でもいいが、ここはやはり軍隊の進軍喇叭と考えたい。 

 春眠暁を覚えず、夫はまだ床の中にある。妻はすでに起きて、飯を炊き汁の実を刻んでいる。その幸福を嫉むかのように喇叭が鳴り、夫を戦争に拉致しようとする。妻はその音を夫に聞かせたくないが、けっきょく夫は聞くだろう。聞いて軍隊の拉致に委せるだろう。男は平安な時間が破られることをどこかで望んでいる。それもまた男の性の真実であるだろう。遠い喇叭はたちまち近くなる。

 戦争を知らない世代の私にとって、「軍隊の進軍喇叭」とは、思いもよらなかったが、苑子が佐渡出身の新聞記者と結婚したのは、昭和7年(20歳)のことであるから、その見解が案外当たっているのかも知れない。苑子の夫は、昭和19年に報道班員として派遣されていたフィリピンで戦死している。苑子は「私の内部で以来、戦争は終りを告げない。」と語っている。

 苑子の夫は帰らぬ人となってしまったが、苑子のように愛する人が戦地から帰るのを待っていた女流俳人がいた。

 細見綾子である。

帰り来し命美し秋日の中    綾子『冬薔薇』昭和27年

 昭和22年に、夫となる12歳年下の俳人沢木欣一が戦地より無事帰還した折りの句である。

冬薔薇(そうび)日の金色(こんじき)を分ちくるゝ    『冬薔薇』(昭和21年作)

  十一月沢木欣一と結婚

見得るだけの鶏頭の紅うべなへり            〃 (昭和22年作)

 細見綾子(明治40年生まれ・平成9年没90歳)は、兵庫県出身で東京の大学卒業後結婚するが、2年後夫は結核にかかり病没し、ふるさとへ帰るが肋膜炎を発病し、その頃(昭和4年・23歳)から松尾青々主宰の「倦(けん)鳥(ちょう)」に投句し始める。32歳頃まで療養しながら俳句を作り続け、ようやく健康を回復した。昭和21年、沢木欣一が創刊した「風」に同人参加。翌年欣一と結婚。 

ひし餅のひし形は誰の思ひなる     綾子『桃は八重』昭和17年 

ふだん着でふだんの心桃の花           〃       〃

 1句目の(療養中であると思えるが)その素直な観点の不思議さは詩人の目なのだろう。2句目は、綾子が健康を回復した頃の作品である。初期の有名な作品であり、細見綾子を語る時、この作品にその人柄が表われていると言われている。綾子は20代を療養生活で過ごしたが、ふるさと丹波の自然と、静養地、大阪での俳句交友が健やかな身体と生来の素直な詩精神を育くんだのであろう。70年近い俳句人生の中で多くの句集を残し、随筆も数多く執筆している。昭和29年創刊の「女性俳句」の発起人の一人としても名を連ねている。

縦横無尽の中の一点秋日吾等     『冬薔薇』昭和27年 

白木槿櫻児も空を見ることあり       〃

 前回〈48.はるばると島を発ちゆく花盥〉で俳人同志の夫婦について加藤知世子と横山房子について述べたが、綾子もまた50年間を俳人の夫と共に過ごしている。が、2人のように夫と表記された句が(私が調べたところ)見受けられないようだ。だからといって、12歳もの年の差を超えた大恋愛は、欣一の小説「踏切」や綾子の随筆「晩秋」(『私の歳時記』昭和34年風発行所)等で周知のことである。掲句の「吾等」は、欣一と綾子であり、40代で授かった子供との毎日は未知なる幸福であっただろう。

 しかし、私には綾子は、妻として蔭、日向で欣一を支えた女流俳人というよりも、自然に寄り添い溶け込みながら自然を崇拝する俳人で、自然も夫も同等に愛したという印象が強い。

鶏頭を三尺離れもの思ふ     『冬薔薇』

 高柳重信がこの句について述べている。

 なるほど、対象と自分との間が三尺という距離は、物思うのに、まさに不可欠の距離というべきで、それを感得した彼女は天性の詩人だ。

 綾子自身の自註もある。

 鶏頭と自分との距離が三尺だと思ったとき、何もかもが急にはっきりするように感じた。その時、何を思っていたのか、言われても言い証しは出来ないが、鶏頭へ三尺の距離で私は色んな事を考えた。三尺は如何ともし難い距離だと思えたのである。

 そして、自然を視つめる眼差から、その生死や輪廻を更に深い思惟へ至り、涅槃や仏像の句々を生み出す。

仏見て失はぬ間に桃喰めり     『技藝天』昭和49年 

女身仏に春剝落のつづきをり      〃 

貝殻に溜れる雨も涅槃かな      『存問』昭和61年

 自然に洗われた心身が仏像を拝顔することで、より洗い清められ、柔かな境地へと辿り着く。1句目は、苑子が好きな句であった。苑子も仏像が好きで各地を旅してはその地の仏像を拝顔して廻ったと聴いている。私は苑子からこの句を教わった。

 私は冒頭で記したように、20年前、今回の句を苑子の若き(新聞記者の夫と生活していた)頃の人妻の句ととらえていた。句の解釈は変わらないけれども、今では、重信の妻(籍は入れていないが)としての句であっても、どちらにしても「人妻」の懐旧の念を詠っているのだと思っている。綾子に「人妻に」と上五を与えたら何と詠むであろうか。10歳以上もの年の差を超えて愛を貫いた綾子と苑子は、夫にとって、ある時は母であり、ある時は仏像のように微笑み、風通しの良い距離を保ちながら、自身は、俳句という曼陀羅を描いていったのである。

曼陀羅の地獄極楽しぐれたり    綾子『存問』 

落花舞ふ渓の無明や水明り     苑子『花隠れ』


52 夕べ著莪見下ろされゐて露こぼす

ひとづまにきざはしはある著莪(しやが)の花     大西泰世

 前句の「ひとづま」に因んで引いてみた「著莪の花」の句は、昭和24年生まれの川柳作歌大西泰世の作である。「著莪の花」は、6月の梅雨時、陰地に群生する花である故か、その花の地味な様子のせいか、昔から明朗風には詠まれていないようだ。

花著莪に涙かくさず泣きにけり     長谷川かな女 

ほどほどの昏さがよけれ著莪の花   今井つる女 

華やかに女あはれや著莪の花     阿部みどり女

 かな女、つる女の句は、著莪の持つ白く涼しくも静かな陰鬱を湛える風情が描かれているが、みどり女の句は、泰世の句のイメージと共通するところがある。苑子の句の「見下ろされゐて」の著莪(もしくは本人)の位置に対して、泰世の句は、「きざはし」という、上から見下ろし、下から見下ろされ、同等の位置に立つこともできるものを句に置いている。苑子句の主体が(著莪に喩えられた)女だとすると、泰世句の「きざはし」の位置が苑子句と同じ位置であるともないとも断定できない表記が、「ひとづま」という女に多種多様の意味を展開させ、「著莪の花」の持つ表裏を表現している。みどり女の「華やかに女あはれや」も、泰世の曖昧さを含ませた詩的浮遊感とは異なる形ではあるが、「著莪の花」の持つ陽と陰を五七五にはっきりと提示しているのである。

 阿部みどり女は、北海道生まれ(明治19年生まれ・昭和55年没93歳)で、明治43年に結婚するが、結核のため鎌倉で療養し、俳句を始める。大正元年虚子に師事。「ホトトギス」で5年に婦人俳句会が始まり、かな女、淡路女らと活躍。昭和7年「駒草」創刊主宰。19年、仙台に移住し、30年余りを過ごす。

葉柳に舟おさへ乗る女達      みどり女    『笹鳴き』昭和22年 

物言はぬ獨りが易し胡瓜もみ      〃     『微風』昭和30年 

枝豆がしんから青い獺祭忌            『光陰』昭和34年 

絶対は死のほかはなし蟬陀仏      〃    『雪嶺』昭和46年 

ゝゝと芽を出す畑賢治の忌         〃    『石蕗』昭和57年

 みどり女についての逸話を知る由もないが、これらの作品を引きながら何と俳句に向いている人かと思った。迷いのない言葉が清々しく、そして時には諧謔を合わせ持ち、名を伏せたら男性の若手現代俳人と見紛うような作品もある。1句目の「女達」の華やかな揺れる動きを見る目は、男性の眼差のような客観性がある。先に掲げた「著莪の花」の句もそういった目線から見ることもできよう。

ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ     桂信子 

そら豆はまことに青き味したり         細見綾子

 みどり女の3句目は、「獺祭忌」が主体だとしても、台所に立って同じ豆類を茹でる信子や綾子の句とは全く違う趣きのある芯の太い堂々とした句である。2句目の台所句、「胡瓜もみ」にもまた彼女の気質が表われているようである。そして、4句目はみどり女85歳刊行の所収句だが、益々削ぎ落とされた言い切りが自己の晩年の俳句へと結晶されていく姿であろう。作句時期も、どの句集所収かも解らないのだが〈海底のごとく八月の空があり〉という句も現代俳句に適う新鮮さを持っている。

 みどり女の女性性が表現された句を探してみた。

打ちあけしあとの淋しさ水馬     『笹鳴き』昭和22年 

秋の蝶山に私を置き去りぬ     『微風』 昭和30年 

うすものに透くものもなき袂かな    〃 

胸すぐるとき双蝶の匂ひけり     『雪嶺』昭和46年

 1、2句目はストレートな表現が初々しさをも感じるが、(これも若手現代女流俳人風の作品である。)3句目の叙述に女を見るが、「うすもの」の語は、男女俳人ともに透けていることを艶とした女体の有様を表現する作品が多い中、「透くものもなき袂」と言ったところにより儚い女性性が滲み出ている。4句目の「すぐるとき」もそこはかとない熱情への名残りを漂わせている。

 苑子の今回の句に共通するものを見出すとすれば、3句目の「うすものに」の句であろうか。著莪は花が咲いても種子ができない代わりに、地下の根茎が伸びて群生する。そのためか、花言葉は〝友人が多い〟だが、なぜか〝反抗〟という花言葉も持つ。梅雨時の山地や軒下に咲き、アヤメにも似ているが、姿や咲く場所が地味な著莪の花は、晴天で見るよりも、そぼ降る雨の中、白い花片が透き通り雨露をこぼす姿は、儚く美しい。紫陽花のように人目を引く華やかさに、薄い花片を震わせて微かに〝反抗〟しているようでもある。私は初学時代、晴れた日の著莪の花を詠んだ拙句に、苑子から「著莪はそういう花ではありません。」とはっきりと言われたことがあるのを(晴天の著莪に問題があるのではなく、私の句が著莪を言い得ていなかったのである。)この句を読む度に思い出す。苑子にとって「著莪」は、見下ろされながら美しさが透ける花(女)であり、みどり女は、女の「華やか」さには「あはれ」があると「著莪の花」に喩えて詠う。

泰山木乳張るごとくふくらめる      『石蕗』昭和57年

 93歳で亡くなったみどり女の遺句集所収のこの句には、重厚で健やかな華やかさを纏う女の姿がありありと浮かんでくる。女の「あはれ」も「華やか」さも知り抜いたみどり女は、地に侍る著莪の花のような女達へ大空を仰ぐ「泰山木」を大らかに詠いあげ、女の讃歌を叫んでいるかの如き風情である。

 苑子の今回の4句は、女性の嫋やかさを詠う句々であった。


23. 羽が降る嘆きつつ樹に登るとき

から始まった第2章「回帰」の終句は嘆くことをやめ、見下ろされながらも、泣いているかのように見えながらも、透き通る花片を静かに滴らして反抗しているのであろうか。

命より俳諧重し蝶を待つ          みどり女『月下美人』 

俳句とは業余のすさび木の葉髪     苑子 『四季物語』

 次回から、第3章「父母の景」を繙いて、苑子俳句の源を探っていきたいと思う。


【連載】現代評論研究:第18回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑤(仲寒蝉編集) 

 :20111209

出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)

 

5.家族・家庭と遷子について述べよ。

筑紫は〈全く関心がない〉と言う。

は興味がないと言う。

中西は俳句から見る遷子は〈良き家庭人だった〉と言う。

 

百舌鳴くや妻子に秘する一事なし  (『山国』)

 に明治生まれの潔癖さを読み取り〈この句が遷子の全句の中にあって、家族への愛情表現の最たるもの〉であり〈句の調子としても、気骨ある遷子の高い精神を描いた他の作品と同列に並べられることができるもの〉と評価する。

 次に示すように『雪嶺』の息子を描いた句に親の本音を、娘の結婚の句には〈手放しで喜ぶ良き父の姿〉があり世の父親と変わらないと言う。

 かすむ野に子の落第をはや忘る

帰省子に北窓よりの風青し

秋の苑子を嫁がせし父歩む

 

 横道に逸れるが、その中で2句目の「青し」に注目する。『草枕』の「梅雨めくや人に真青き旅路あり」の〈「真青き」には将来への不安とともに、まっさらな手付かずの美しい未来を思わせるものがある〉と述べ、上の句の〈「風青し」にも青年の前途を祝福するものが含まれている〉と指摘する。それを踏まえて〈遷子の「青」に寄せる清澄な思いは生涯変わらなかったのではないか〉と言う。

 ただ華やぎを添えるものではあっても家族を描いた句は『雪嶺』では傍流。家族を描いたものでは『山河』の死の前後の父を描いたものが良かったと言う。

深谷は〈私的な要素であるため「戦後俳句史」を語るうえでは適さない部分かも知れない〉と断わりつつ〈敢えて言えば戦後の家庭像がありのままに描かれており、遷子の実直な人柄があらわれている〉と述べる。

は『雪嶺』には息子の反抗や受験、娘の結婚を詠んだ句があるが〈内容としては市井の優しい父親の域を出ていない〉と言う。また『山河』にある〈老いた父母を詠んだ句は淡々としており患者を見る目とほとんど変わるところがない〉が、〈母の句の幾つかは彼にとって母は永遠に若く気風のいい存在だったことを示している〉と述べる。

 

5のまとめ

 5人中2人が興味なしと回答している。回答のあった3人に共通していたのは、遷子はよき家庭人、よき父親であったということ。ただ家族を題材にした俳句については中西が『山国』の「百舌鳴くや妻子に秘する一事なし」を評価した他は遷子の句業の脇役的存在との認識であった。個々では中西が『山河』の死の前後の父を描いた句を、仲が母を描いた句を評価している。

 

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり39 句集『残像』(山口優夢、2011年刊、角川学芸出版)を再読する。 豊里友行

  山口優夢(やまぐち ゆうむ)さんとは、2009年に大変な話題となった新人発掘のアンソロジー『新撰21』(邑書林)のひとりで私も御一緒させていただいた。

 優夢さんは、2003年の第6回俳句甲子園個人最優秀賞受賞や2010年の第56回角川俳句賞受賞など既に確固たる俳人の地位と名声を得ている若手俳人のひとりだ。

帯文を記して置く。 

先に『抒情なき世代』という評論集を出している山口優夢だが、自身はその世代に包括されると思っていないかのような書き振りで対峙している。しかし、山口の句さえ既に私共が考えてきた“抒情”とある処では完全に訣別し、変貌し、食み出し始めている。こんな処に詩因があったかと思うこと屢々。旧態然とした抒情では括れない、私など逆立ちしても書き得なかった世界を難無く書き留めているのだ。(中原道夫)


小鳥来る三億年の地層かな

 第6回俳句甲子園個人最優秀賞受賞(2003年)の俳句は、優れた秀作であることは周知のことだろう。

 「小鳥来る」の秋の季語を三億年という膨大な歳月の地層を組み合わせることで季節がめぐりめぐって三億年の地層を堆積していく時間の間も「小鳥来る」という自然の営みが絶え間なく紡がれていることを意識化してくれている。

 本当に若くして俳句に愛されている俳人のひとりだ。

 それは、俳句の形式に落とし込むコツとでもいいましょうか。兎にも角にも巧い。


淡雪や博物館に美しい骨

 淡雪が音もなく降りし切るのに気付く。そっと眼をやった外界には、雪が降り始めていたのだろうか。博物館の中にいることで意識の外にあった淡雪が硝子越しに足早に降っているのだ。それも一瞥の一瞬のことでまた博物館のガラスケースに収められた美しい骨に魅入られる。俳句という身近な制約の中でここまで的確な言葉の組み合わせ、取り合わせがなされていることこそ俳句に愛されているということなのだろう。

 「鳴り出して電話になりぬ春の闇」「戦争の次は花見のニュースなり」「大広間へと手花火を取りに行く」といった日常の事象や所作にいたるまで俳句化されて秀句が量産されている。はっと俳句の面白味に驚かされていくのが、心地よい。


銀杏や二十歳は笑はれてばかり

 また若くして俳句に愛されていることで青春詠にも顕著に飾る事無く自己を投影していることも見所だ。銀杏(ぎんなん)は、秋の食べ物としても知られていますよね。ほろ苦い風味と晩秋の季節を織り交ぜながらも二十歳の自己を笑われてばかりとほろ苦さもお道化て見せる。快闊な好青年ぶりがうかがえる。「未来おそろしおでんの玉子つかみがたし」「秋雨を見てゐるコインランドリー」「夏風邪のからだすみずみまで夕焼」「ぶらんこをくしやくしやにして遊ぶなり」「梅日和近所の映るワイドショー」「卒業や二人で運ぶ洗濯機」「野遊びのつづきのやうに結婚す」など爽やかな青春詠から大人びていく人間的な成長過程の歩みを俳句に愛されながら突き進んでいる。


月の出の商店街の桜餅

心臓はひかりを知らず雪解川

問診は祭のことに及びけり

投函のたびにポストへ光入る

 物に語らせることの巧みさも。真実を踏まえて俳句化することの出来る力量も。お医者さんとの問診のやり取りが、祭りに及ぶところの面白味も。日常の所作のなかにあるポストの投函に光を見出すことも。俳句ひとつひとつに俳句に愛さているんだなと感じられるほど面白い俳句が沢山ある。若くして俳人として華々しく確固たる俳句の形式を確立されていて、その俳句が賞賛を得ている。その俳句に愛されていることに飽くことなく我が道をいくことが、これからも俳句に愛される俳人の道のりなのかもしれない。


 他にも共鳴句をいただきます。素晴らしい俳句の数々をありがとうございます。


あぢさゐはすべて残像ではないか

火に触れしものは火になる敗戦日

芝居小屋からうつくしき火事になる

雨は芙蓉をやさしき指のごと伝ふ

眼球のごとく濡れたる花氷

鍵束のごとく冷えたるすすきかな

冬帽子星に遠近ありにけり

しらうをも市場も濡れてゐたりけり

2025年10月24日金曜日

第256号

      次回更新 11/21


第50回現代俳句講座「昭和百年 俳句はどこへ向かうのか」予告 》読む

■新現代評論研究

新現代評論研究(第14回)各論:後藤よしみ 》読む

現代評論研究:第17回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 》読む

現代評論研究:第17回各論―テーマ:「風」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第5回:「実作者の言葉」…「書」/米田恵子 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年夏興帖
第一(10/10)杉山久子・辻村麻乃
第二(10/24)仙田洋子・豊里友行・山本敏倖・水岩瞳

令和七年歳旦帖・春興帖
第一(4/25)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖
第二(5/9)ふけとしこ・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(5/23)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/27)曾根毅・浅沼 璞・なつはづき
第五(7/5)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第六(7/11)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第七(7/25)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第八(8/22)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結
第九(9/12)水岩瞳・佐藤りえ
第十(10/10)鷲津誠次・仲寒蟬・浜脇不如帰

令和六年冬興帖
第一(4/5)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖・ふけとしこ
第二(4/11)鷲津誠次・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(4/25)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/13)曾根毅・浅沼璞・なつはづき・下坂速穂
第五(6/21)岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第六(6/27)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第七(7/5)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結
第八(9/12)水岩瞳・佐藤りえ

補遺(10/24)浜脇不如帰

■ 第49回皐月句会(2024/5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第21号 発行※NEW!

■連載

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(63) ふけとしこ 》読む

【新連載】口語俳句の可能性について・4 金光 舞  》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり38 恩田侑布子『夢洗ひ』 》読む

英国Haiku便り[in Japan](56) 小野裕三 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』 栗林浩 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

10月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …




■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。  

【予告】第50回現代俳句講座 |「昭和百年 俳句はどこへ向かうのか」

「現代俳句」誌において企画した、『私が推す「現代俳句」五⼈五句/協会役員アンケート』の結果を踏まえ、⾒えてきた現代俳句の姿。

その総括とそれを踏まえての俳句の「現在位置」、そして「未来」を考えていきます。

俳句はどうなっていくのか、AIとの共存は出来るのか?

ディスカッションを通じて皆様もご⼀緒に想像してみませんか


【パネラー】

筑紫磐井×神野紗希×柳生正名


2025年11月24日(月・祭日)

13時30分~16時45分(受付は13時より)


◇会場

ゆいの森あらかわ「ゆいの森ホール」

東京都荒川区荒川二丁目50番1号

電話 03-3891-4349

都電荒川線「荒川二丁目」徒歩1分

東京都メトロ千代田線「町屋駅」、京成線「町屋駅」徒歩8分

交通アクセス - ゆいの森あらかわ


◇定員

100名(うち荒川区民定員20名。申込順。定員になり次第締め切ります)


主催:一般社団法人現代俳句協会

共催:荒川区



【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり38  『夢洗ひ』恩田侑布子句集(2016年刊、角川書店)を再読する 豊里友行

 ころがりし桃の中から東歌

 東歌(あずまうた)は、東国地方の歌の意で、『万葉集』巻14と『古今集』巻20の「東歌」という標題のもとに収められた和歌の総称。

 転がり踊るような桃の様から東歌を萌芽させていく。

 恩田侑布子俳句の本句集『夢洗ひ』全体に拡張高く醸し出されている。


長城に白シャツを上げ授乳せり

 中国では万里の長城が規模的にも歴史的にも圧倒的に巨大で、単に長城と言えば万里の長城のことを指す。この中華人民共和国に存在する城壁の遺跡。その一部はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。

 この長城の光景のひとつとして白シャツを上げ授乳する母と子がいたのだろう。

 このような旅(吟行)において優れた俳句を成せるのも特筆すべき恩田侑布子俳句の力量で海外詠の俳句に描かれた長城の日常は、すこしずつ移ろい変わりゆく伝統的な風景と変遷においてひょっとしたらもう見ることのできないこの時代の牧歌的に包み込む旧き良き時代として顧みられるかもしれない。


ひたす手に揺るる近江の春夕焼

 「破魔矢抱くわが光陰の芯なれと」「夕焼のほかは背負はず猿田彦」「たをやかに湯舟に待てり菖蒲の刃」「酢牡蠣吸ふ天(てん)の沼(ぬ)矛(ぼこ)のひとしづく」「空渡れよと破魔弓を授かりぬ」など本句集に内包する神々のなす術とさえ感じられるほど拡張高さを持たせた俳句の技量も恩田侑布子俳句の見せ方が、楽曲のように通底しながら川のように流れているからだ。

 近江国(おうみのくに)は、かつての令制国のひとつ。現在の滋賀県全域にあたる。近江といえば、淡水湖。特に,琵琶湖のことを差している。この琵琶湖が丸ごと夕焼けてしまう。そこに手を浸すと水面をゆがめながらゆらゆら指先が魚の泳ぐように揺れている。

 俳句1句が、1枚の芸術的な絵画のように萌芽し、創造されている。


こないとこでなにいうてんねん冬の沼

コピー機の照らす一隅秋(あき)黴(つい)雨(り)

緩和ケア病棟下の青蜥蜴

わが視野の外から外へ冬かもめ


 女性のパンチの効いた関西弁でんな。冬の沼まで、かの男性は、ロマンティクに吼えろ的なドラマを思い描いていたのかもしれません。そこがボケとツッコミになってしまうのも沼るあなただからかもしれない。

 コピー機が稲光の閃光のように隅まで照らし切る。そこにもひとつの物語を創出する。

 癌病棟の緩和ケアの会話は、此処では一切、聴こえてこない。その病棟の外壁に青蜥蜴がサバイバルに生きている。モノに語らせた秀句。

 私の視界の外から外へ冬の鷗(かもめ)は、飛び交う。俳人の五感と想像力は、鷗の声の切れから風を切って飛び交う羽音からさまざまな物語を喚起されるのだろう。恩田侑布子俳句の術は、その想像力から描き出され、丁寧ないにしえのひと葉ひと葉を風に舞わせるように思い描き、現代社会の物語までも多様に創出している。


その他、共鳴句もいただきます。

一人とは冬晴に抱き取られたる

葛湯吹くいづこ向きても神のをり

告げざる愛地にこぼしつつ泉汲む

脚入るるときやはらかし茄子の馬

親と子のえにしを雪に晒しけり

容れてもらふ冬木の洞(ほら)の大いなる

吊し柿こんな終りもあるかしら

冬耕の股座(またぐら)に日のありにけり

缶蹴りの鬼の片足夕ざくら

あめつちは一枚貝よ大昼寝

藤房のつめたさ何も願はざる

驟雨いま葉音となれり吾(あ)も茂る

風狂をわれと競へや山蚕蛾

子かまきり早や草色に身をあづけ

深泥池(みぞろがいけ)に精霊ばつた貌小(ち)さし

どろ沼の肌理こまやかに冬来る

蟷螂の卵塊を抱き枯れゐたり

【連載】現代評論研究:第17回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 仲寒蟬編

(投稿日:2011年12月23日)

出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)


4.戦後の生活と遷子について。

 筑紫は当初遷子のことを医師という恵まれた職業環境にあると思っていたが、医師である仲の話や(遷子によく似た)昭和30年代に開業した医師を父に持ったメンバーへのインタビューを総合して、当時の医師の生活は大変ったのではないかと述べる。

 遷子は野沢の旅館を買い取って開業したが、この頃の開業には〈親か連れ合いの一族の支援がない限り独力では不可能であった〉と考え、遷子にとっては父が人助けのために手に入れていた土地家作が役に立ち、〈兄弟共同で開業するというのは合理的な判断だった〉と言う。

 したがって『山国』『雪嶺』では〈魂の抜けたようにしか見えない父〉豊三だが、兄弟(富雄(遷子)、愛次郎)の進学、さらに開業の支援と一族に医師のいない中で家長としての重い責任を果たしたと評価する。

 遷子の親への依存や苦しい生活を表わす作品として次のようなものを挙げる。

 年逝くや四十にして親がかり   22年

 田舎医となりて糊口し冬に入る  23年

 正月も開業医われ金かぞふ    同

 自転車を北風に駆りつつ金ほしや 同

 暮遅き活計に今日も疲れつつ   同

 その上で〈これこそ、ホトトギスの花鳥諷詠とは全く異なる、アララギ的な短歌リアリズムの世界であった。「鶴」的な境涯俳句ではなく、生活リアリズムに出発する(それは今全く評価されていない戦場リアリズムに根を持つものであるが)ことにより、独自の遷子の開業医俳句が生まれた〉と述べる。遷子にとって最大の誤算だったのは、研究者の道を取らなかったことではなくて、病気のため病院を辞めて開業せざるを得なくなり、大学に戻れなくなったこと、と言う。

 さらに当時の開業医の生活を次のように描写する。

 〈(遷子と同様旅館を買い取ったため)入院施設のある小規模な医院は、施設の狭さから医院と家庭は隣接して、公私のない生活の部分もあった。旅館構造を改築したものなので、病院の諸施設と家庭が混ぜんとしていたはずであり、建物の中には家族の個室と病室、看護婦の居室も混じっていたのではないか(昭和30年代は通いの看護婦ではなくて、中学出の女性を看護学校に通わせ資格をとらせて、住み込みであったと思われる)。医師の妻は入院患者の食事を作り、また看護婦たちとガーゼや汚れたシーツを洗濯などもした。そのほかに、毎月の保険請求事務も医師とともに妻が手伝った。当時は手書きで、そろばんを使っていた。『雪嶺』の中に保険事務が溜まったという句があることからも、面倒な仕事が多かった。他のメンバーから開業医の妻の中には過労で肋膜を患った例も報告された。看護婦も、中学を卒業してからすぐ住み込みで働き、看護学校へ通わせてやり、一人前になって患者と結婚するというようなアットホームな例もあった。〉

 〈病院医師と開業医の違いは、患者と患者の家庭が一体となって関係してくる所にある。遷子の俳句の中で、病院勤めの時には見られなかった医師俳句が、戦後開業医の生活で顕著に表れるのもそうした理由である。また、往診をすれば、いやおうもなくその家の様子が見えることもあっただろう。〉


 は無回答。

 中西は終戦後5,6年の期間として次のように言う。

 戦中に肋膜炎を発病し、東大医学部からの派遣で函館の病院の内科医長の職に就くが故郷佐久での開業に踏み切ったことにより大学へは戻れなくなる。

百日紅学問日々に遠ざかる

故郷に住みて無名や梅雨の月

などの句には〈大学研究室を断念したことの悔いが燻っている〉と述べ〈戦争がなければ、肋膜炎にはならず、或いは大学に残れたかもしれないのである〉と指摘する。

 弟愛次郎を誘って開業した後も

四十にして町医老いけり七五三

裏返しせし外套も着馴れけり

という句が示すように〈開業はしたけれど、患者も貧困にあえぎ、治療費も稼げなかった時期なのではないだろうか〉と想像する。

 深谷は〈謂わば無一物で佐久に帰郷したわけであり、決して豊かとは言えないだろうが、それなりの生活(もちろん地域医療の最前線に立つ者として多忙ではあった筈だが)を過ごしていたのではないだろうか〉と述べ、さらに〈農村の貧しさがその作品に色濃く投影されているが、時期を下るにつれ高度経済成長の影響もみて取れる〉と言う。

 は〈句集を年代順に読んでいくと佐久という貧しい田舎の村が町となり市となって行く様子が分る〉と言う。『山国』『雪嶺』には社会性俳句の原動力ともなった貧しさを詠んだ句が散見され、当時の佐久地方で盛んだった養蚕に関する句、自転車で往診する句、スケート(恐らく田んぼに張った氷の上での下駄スケート)やストーブなど寒い地域の生活に関わる句など多くはないが当時の生活を窺わせる句に触れる。


4のまとめ

 筑紫は当時医院を開業すること自体が現在考えるよりずっと大変だったことを強調、遷子の父豊三の家長としての役割や開業間もなくの暮らしの困窮に触れた後、開業医としての生活が地域住民である患者の暮らしへの深い関わりを産み、往診などの医師俳句につながったことを述べる。

 中西はやはり開業間もなくの生活の大変さに触れ、大学での研究を諦めざるを得なかった悔いが尾を引いていたと考える。

 深谷と仲はそういった遷子一家を含む地域全体の貧困が高度経済成長とともになくなっていくことにも触れる。

【新連載】新現代評論研究(第14回)各論:後藤よしみ

★ー3「高柳重信における皇国史観と象徴主義の精神史」―戦前の影響と戦後の変容をめぐって―後藤よしみ


第一章 はじめに

 ある俳句大会後の懇親会でのことである。隣席に座ったある俳句結社の主宰者が、開口一番、「私は高柳重信の句会に出ていたのです」と語り出した。彼が二十歳過ぎの頃の話であり、今から六十年近く前の記憶である。その顔は懐かしさと誇らしさに紅潮していた。高柳重信という存在が、当時の若者たちを強く惹きつけたことを物語る一瞬であった。

 高柳重信は、戦後俳句の革新者として知られるが、その思想形成の根底には、戦前期の皇国史観やフランス象徴主義など、複雑な精神的影響が交錯している。本稿では、俳人としての作品分析に焦点を当てるのではなく、「人間 高柳重信」の精神史に光を当てる。とりわけ、戦前期に受けた皇国史観の影響と、敗戦を契機とした思想的転回、さらには象徴主義との融合による詩的昇華の過程を検討する。

 重信の人生において、思想的・精神的な影響を与えた要素は多岐にわたるが、戦前期に限定すれば、以下の五つが挙げられる。すなわち、①始祖「大宮某」と明治気質の祖父母、②関東大震災と富士山、③宿痾の肺結核、④十五年戦争、⑤フランス象徴主義と皇国史観である。これらのうち、本稿では⑤フランス象徴主義と皇国史観に焦点を絞り、重信がいかにして時代思想の影響を受け、またそれをいかにして乗り越え、自己の思想と表現を形成していったかを追っていく。

 思想や精神は、時代の空気に左右される一方で、個人が自ら掴み取ることもできる。重信は、戦前の皇国史観に深く感化されながらも、戦後においてそれを封印し、新たな詩的世界を構築した。その過程は、単なる思想的変化ではなく、病と死、孤独と闘争を伴う精神の変容であった。本稿は、その遍歴を辿る試みである。


【新連載】口語俳句の可能性について・4  金光 舞

 前稿では、髙田祥聖の指摘する「言い回しによるキャラクター性、関係性の演出」に注目し、口語俳句が単なる口語表現の導入に留まらず、語り手の人間像や声を立ち上げる表現形式であることを検討した。

 〈由緒書きをさーっと読んで梅の花〉では、「さーっと」という副詞が軽やかで人間味あるキャラクターを鮮やかに浮かび上がらせ、几帳面さよりも感性を重んじる語り手の姿勢を書き出していた。

 〈肩こって気疲れかしら林檎に葉〉では、「かしら」という終助詞が独白的で柔らかな声の質感を生み、語り手の親しみやすい人柄と読者との距離の近さを演出していた。

 〈マフラーに顔をうずめる好きと言おう〉では、「好きと言おう」という意思形の口語が、感情の揺れを生々しく伝え、俳句に直接的な人間の声と臨場感をもたらしていた。

 これら三句に共通するのは、口語的な言い回しが「景の描写」を超えて「声の表現」へと俳句を拡張している点である。すなわち、口語俳句は語り手のキャラクターや心の動きを十七音の中に立ち上げ、読者との間に新たな関係を生み出す文学として機能している。

 このことから、口語俳句の意義は単なる現代語化ではなく、俳句における人間の声の再発見であることが明らかになった。

〈声〉を伴う文体として

 堀切克洋『俳句界』(2025年9月号)は、文語と口語の思考の違いを〈世界〉と〈私〉のスペクトルとして論じている。堀切によれば、①話し言葉は実感を語り、必然的に〈もの=世界〉よりも〈こころ=私〉へ傾く。そして話し言葉は〈声〉を伴い、読者にとって「ひとりの人間が直接語りかけている」ように響くという。


 さんしゅゆのはな待ち人を待つどきどき②

 掃除機に床は叱られ夏のくれ③

 紅茶冷ゆ帰省の君は元気そう④


 〈さんしゅゆのはな待ち人を待つどきどき〉先ず季語に注目したい。「さんしゅゆのはな」とは静かな季語である。早春に黄色い小さな花をつける山茱萸は、古くから春を告げる植物として知られてきた。俳句において「花」といえば、桜を筆頭に、美や季節感を象徴する普遍的な存在である。しかし、この句は従来の花=客観的な美の象徴という構図を崩している。確かに山茱萸の花はそこに咲いているのだが、その描写はあくまで簡素で抑制されている。代わりに鮮やかに響いてくるのは「待ち人を待つどきどき」という主体の感情であり、ここにこそこの句の核心がある。

 「どきどき」という擬態語は、俳句の中ではきわめて異質である。従来の俳句が胸高鳴る感情を自然や景物に託して婉曲に表してきたのに対し、この句では感情そのものがむき出しに言葉として置かれている。胸の鼓動を直接に音で表すこの擬態語は、説明ではなく体感の言語化であり、読む者に即座に身体的な共感を呼び起こす。「待ち人を待つ」高揚と不安、その張り詰めた気配が、花の静けさを背景にして強く前景化されるのである。

 ここで重要なのは、この句が「もの」よりも「こころ」に重きを置いている点だ。俳句はしばしば自然や物の姿を描くことに力点を置いてきた。しかしこの句では、花はあくまで背景であり、中心は語り手の心臓の鼓動である。つまり、山茱萸の花がどんな風に咲いているかよりも、花の前で作者がどんな気持ちで待っているかが主題になっている。これは俳句が心をそのまま響かせる文学であることを強く示している。

 そして、「どきどき」という言葉が生み出す魅力のひとつとして挙げられるのは、語り手のキャラクター性である。この句を読むと、私たちは風景を見ているのではなく、まるで隣にいる人物の声を聞いているように感じる。「待ち人を待つどきどき」とは、単なる説明ではなく、胸に手を当てていま私、緊張しているのだとつぶやく声である。その声は飾り気がなく、等身大で、愛らしい。俳句が伝統的に好んできた「余情に託す」表現とは異なり、この句では語り手自身が真正面に登場し、直接語りかけてくるのである。読者はそれに巻き込まれ、他人事としてではなく、自分の胸まで一緒に高鳴ってしまう。

 また、下五に「どきどき」を据えることで、句は音響的にもリズムを跳ねさせる。柔らかな春の花を眺めながら、胸の内では鼓動が速まっている。その内外の対比が、句に生々しい臨場感を与えている。このリズムの高鳴りは、待ち人が現れる直前の高揚をそのまま閉じ込めたかのようであり、読者は一瞬でその人の心臓のリズムを一緒に感じる体験へと誘われる。

 〈さんしゅゆのはな待ち人を待つどきどき〉は、花という伝統的な題材を扱いながらも、その中心をあえて対象の美ではなく主体の心に置いたという点で革新的である。そして、その心は決して抽象的に描かれず、「どきどき」という肉声のような言葉で表されることで、ひとりの人間の存在が鮮やかに立ち上がる。俳句の中で〈声〉がここまで具体的に浮かび上がるのは稀であり、そこに本句の魅力がある。

 つまり、この句は花の句であると同時に人の句である。さんしゅゆの花は美しい。しかしそれ以上に、花の前で心臓を高鳴らせ、待ち人を思い続ける一人の人物が、私たちの前に生き生きと立っている。俳句の本質をものからこころへと引き寄せ、さらにそのこころを肉声として響かせる──ここに、声が立ち上がるのだ。


 〈掃除機に床は叱られ夏のくれ〉この句を目にした瞬間、私たちの前に立ち現れるのは、ありふれた日常の一場面にすぎない。掃除機、床、そして夏の暮れ。特別に美しい風景でもなく、古典的な題材でもない。むしろ取るに足らない日常の断片である。ところが、この句はその取るに足らないはずの場面を、たったひとつの言葉によって驚くほど鮮やかに変貌させる。その言葉こそ「叱られ」である。

 「叱られ」という言い回しは、対象の「床」を擬人化しているように見える。しかしここにあるのは単なる擬人化ではない。これは、掃除機の音と振動に包まれながら感じた作者自身の心理の投影であり、自分の内側の気分が「床は叱られ」と形を変えて外界に響き出した瞬間なのである。つまり、この句の中心は掃除機でも床でもなく、それを眺めつつ「叱られ」と口にしてしまった語り手の心の在り方である。

 ここで注目すべきは、その言葉がいかに直接的に声として響いてくるかだ。「叱られ」と呟くときの声音を想像してみればよい。ちょっと肩をすくめるような、自嘲とユーモアが入り混じった柔らかい声。その声が句の中に確かに刻印されている。伝統俳句が床に掃除機をかけたという事実をただ写生するのだとしたら、この句は掃除機に叱られてしまったよ、と読者に直接語りかける言葉である。ここにこそ堀切克洋が論じる話し言葉の現前性が端的に現れている。俳句の中で、景色や対象を越えてひとりの人間の声が前景化しているのだ。

 さらに魅力的なのは、この〈声〉がもたらす親密さである。「床は叱られ」という表現は、厳密に言えば理屈に合わない。床は叱られるものではない。しかし、だからこそ読者はこれは事実の説明ではなく、作者の気分がそのまま漏れた言葉なのだと気づく。そしてその気分は、どこか愉快で、どこか疲れた日常の手触りを含んでいる。まるで友人が掃除をしながらなんか床に叱られている気分だわと笑い混じりに言うのを隣で聞いているような感覚が生まれる。俳句という詩形の中に、このような親密で会話的な場面が立ち上がるのは、まさに〈声〉の力による。

 また、下五の「夏のくれ」が、この声に独特の余韻を与えている点も見逃せない。夏の夕暮れ、どこか物寂しくもあり、けれども一日の疲れを包み込むような柔らかな時間。その空気の中で「床は叱られ」と呟く声は、単なるユーモアにとどまらず、一種の生活の哀愁や滑稽さをも漂わせる。ここで描かれているのは外界の情景ではなく、生活を生きる人間の心の声そのものである。

 結局のところ、この句は「客観写生」という伝統的な俳句の理念からは大きく逸脱している。だがその逸脱こそが価値なのだ。ここでは、ものの美しさや風景の客観性ではなく、「私の気分」が中心に据えられている。掃除機の轟音の中で、日常の疲れをどこか可笑しみを帯びた形で吐き出す語り手。その人物像が、句を通して生き生きと立ち上がる。そして読者はものを見るのではなく、作者の声を聞くのだ。


 〈紅茶冷ゆ帰省の君は元気そう〉この句の第一印象は、ごく小さな日常の場面にすぎない。テーブルの上に置かれた紅茶が冷えてゆく。何の変哲もない光景である。しかし、その静物描写から後半へと視線が移ると、事態は一気に変わる。「帰省の君は元気そう」。この言葉が発せられることで、句の焦点は風景から人間へ、ものからこころへと劇的にシフトするのだ。

 この「君は元気そう」というフレーズは、伝統的な俳句の感覚からすれば、あまりにも口語的で直截的である。これまで俳句が培ってきた言語感覚は、余情や暗示を重んじ、直接的な感情表現を控えてきた。恋や人間関係を扱うときでさえ、それは花鳥風月の影を通して婉曲に伝えられることが多かった。だが、この句においてはその婉曲の幕が取り払われ、語り手はまるで目の前の相手に語りかけるように、率直に「君は元気そう」と声に出してしまうのである。この〈声〉の現れこそが、句の肝である。

 ここで立ち上がるのは、「帰省の君」と作者のあいだに流れる親密な関係性である。冷めゆく紅茶は時間の経過を象徴しつつ、同時に「君」と過ごすひとときの現実感を裏打ちしている。そしてその場で語られるのは、ただの事実確認のようでありながら、どこか照れを含んだ言葉である「君は元気そう」。これは単なる客観的な観察ではない。むしろ君が元気でいてくれて安心したという心の吐露であり、久しぶりに会えた喜びを遠回しに伝える愛情表現でもある。つまりこの句は、風物の美ではなく、人と人とが再会する瞬間の感情を、言葉の肌触りそのままに提示しているのだ。

 そして、この〈声〉の力は読者にも直接及ぶ。私たちは句を読むとき、あたかも語り手の隣に座り、その会話を傍らで耳にしているような感覚を覚える。紅茶の湯気がもう消えかけているテーブルを前にして、「君は元気そう」と語る声がこちらにまで届く。そのとき読者は、ただ景色を鑑賞するのではなく、人間関係の場に居合わせる傍聴者となる。俳句が一人の人間の声を生々しく響かせることによって、詩形の閉じた世界から読者を巻き込む「場」が創出されるのである。

 また、この句の巧みさは、静物と人間描写の対照にもある。「紅茶冷ゆ」という静かな観察で始まるからこそ、そのあとに続く「君は元気そう」という口語的で親密なフレーズが際立つ。紅茶の冷えゆく時間の中に、語り手と君との関係性がくっきりと見えてくる。この対照は、まるでクラシックな俳句的要素と、現代的な口語俳句の要素が同居し、せめぎ合う場である。その緊張こそが句を鮮やかに輝かせている。

 要するに、この作品はものを描く俳句の伝統を踏まえつつ、最終的にはこころへと舵を切る。その舵の切り方は驚くほど自然で、しかも読者にとって強い親密感を生み出す。ここには帰省した君という特定の相手がいて、その相手に元気そうだねと語りかける一人の人間がいる。その人間の声が確かに聞こえてくる。それがこの句最大の魅力である。俳句という形式の中で、人の声がこんなにも生々しく立ち上がり、読者に直接届く。その感動を私たちは「関係性の詩」と呼んでもよいだろう。

 これらの句が示すのは、口語俳句において「世界」が最終的に「こころ」の表出へと収斂していくということだ。そこに浮かぶのは詠まれた対象そのものではなく、それを語る人間の気分や声である。そしてその声は、俳句を単なる描写の器から「人間の生の断片を語る場所」へと変えている。


①『俳句界2025年9月号特集 文語・口語の思考』(2025) 寄稿:堀切克洋 40-43頁を参照

②『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 76頁より引用

③『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 90頁より引用

④『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 95頁より引用

【連載】現代評論研究:第17回各論―テーマ:「風」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 

(投稿日:2011年12月23日)

★―1近木圭之介の句/藤田踏青

 己の影 風にめくれもしない

 平成17年の圭之介93歳の作品である。凍てついた地面に貼りついた己の影をじっと見つめる作者の姿がそこにある。その影は最晩年のもう動かしようのない己の人生そのものを示唆しているのであろう。影とは原像に対する二次的存在である故に、変化の源である風さへその影を動かす力はないと言えば身も蓋もない話となる。やはり影とはその人の可能性や生きられなかった面を象徴しており、その否定的な意味合い故に人間の自我に陰翳を与える立体的な存在なのではないか。ユングの述べた「影を自分自身の否定的側面、欠如側面と意識し、影を自我に統合することが自己実現の道である」の境地に達するにはもう体力も時間もあまり残されていなかったのであろう。

 己れは己れへ消えるため 風むきえらぶ   平成19年作

 おのれの風よ。今の笑いも昔のものよ    平成19年作

 今という風 己れにあり生きる       平成19年作

 風と一体化して風と共に消え去って行く己れという存在を冷静に視つめつつ、圭之介は平成21年に97歳で没した。

 人だか風だか渦を巻き一さいが過ぎ去る   昭和31年作  注①

 冬木というものが躯のなか風ふく      昭和38年作  注①

 私の眼が入って行くのは風のおく      昭和59年作  注①

 小さな驕り身に溜る風にふかれる      昭和60年作  注①

 風という存在を自我の内部に見い出すという事は、その流動的な不安定性を示すとともに、受動的な対応に身を委ねていることでもある。また各作品に於いては、視覚や触覚が意識としての風によって攪乱され溶解されてゆく経過の中で、無時間性というものに至っている。風とは人生そのものかもしれない。

 月夜の石に中也の風の詩刻まれたまま   昭和58年作  注①

 山口遊歩の折、中原中也の詩碑「これが私の故里だ。さやかにも風も吹いている・・・」(注②)の風に立つ、との前書きのある句である。この中也の風も人生への問いかけであり、それを圭之介自身に投影しているかの如くである。ちなみにこの詩碑は小林秀雄の筆により山口県湯田温泉の高田公園に建っており、同公園内には山頭火の句碑「ほろほろ酔うて木の葉ふる」も建っている。山頭火が一時、湯田温泉に住んでいた折には中也は既に亡くなっていたが、中也の弟・中原呉郎とは詩人の会などで昵懇となり、次第に呉郎は山頭火に心酔してゆく。また呉郎の母フク等を含め中原家の人々に山頭火は暖かく受け入れられていたようで、中原家に泊まり込んだり、家族と共に記念写真を撮ったりもしている。そんな山頭火であったが、再び漂泊の思いを風が運んで来たのであろう。山頭火晩年の姿を圭之介は下記の様に冷徹に捉えていた。

 風 狂気匂う背   (山頭火晩年)  平成3年作


注①「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊

注②

<帰郷>跋   中原中也

これが私の故里だ

さやかにも風も吹いている

  心置きなく泣かれよと

  年増婦の低い声もする

あゝ おまへはなにをして来たのだと・・・・・・

吹き来る風が私に云ふ


★―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 渦潮の風の岬の薄羽織 『冬濤以後』所収

 渦潮は年中見られるものと思っていたが、春の彼岸の頃は一年のなかでももっとも干満の差が大きく、見事な大渦ができるため、「観潮」「渦潮」は春の季語となっている。荒々しい自然を前にした、薄羽織は風をはらみ、まるで岬の上で羽ばたいているような風情である。

 きくのの第三句集『冬濤以後』には連作が多くみられるが、その冒頭に登場するのが掲句を含んだ渦潮作品である。昭和42年、鳴門と前書された26句からなる作品には

 渦潮に呑まれし蝶か以後現れず

 渦潮に生きる鵜なれば気も荒し

と細やかな視線に裏打ちされたやさしく、あるいは力強い句が並び、また

 観潮船揺れてよろけて気はたしか

といった、歯切れ良いユニークな句も紛れている。


 きくのは前年に大切な人を亡くしている。その後、住居を移し、心機一転を考えながらも、身も心もあやうい時期を経ての鳴門吟行であった。

 まざまざと覗く渦潮地獄なり

 すさまじい轟音とたて奈落のような渦潮を目の当たりにして、恐怖を感じながらも、その偉大なる自然現象から目を離せないきくのがいる。

 そしてそれは、船上で足元を掬われるように揺れたことによって、一転して自らの関心がしっかりと過去から解放され、確かにひとりの人間としての自分が、現実の世界に生きていることに気づかされたのだ。

 よろけた足を踏み出す先は、新しい恋への一歩なのかもしれない。


★―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 花山椒みな吹かれみなかたちあり

 昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 掲句は風そのものを詠んだ句ではない。山椒の黄色い花が風に吹かれると、一瞬だが花々は形を失って黄色の塊だけに見える。だが、風が止むとまた花のひとつ一つの形が見えてくる。〈みな吹かれ〉でいっせいにそよいでいる山椒の花の群れた姿を描き、〈みなかたちあり〉と抑えたことで、〈花山椒〉の細かな花ひとつ一つに個性らしきものすら感じ取っている玄の視線を読み取ることができる。

 深読みをするならば、人は「流行」や「風潮」に吹かれるとき、山椒の花のように一斉になびくものである。しかし、風が収まれば、また普段の顔を取り戻して、ひとり一人の個性を示していく。自然界の現象を写しているように見えながら、そうした人間心理の暗喩としても読めてくる。強度のある句。こうした強度のある句の源流を探るとき、思い出される句がある。

 阿羅漢のつくる野分や切通   昭和17年作『飛雪』

 昭和18年、齋藤玄は石川桂郎にすすめられて「鶴」に入会、石田波郷に師事した。初投句で「鶴」2月号の巻頭を飾ったのが、この〈阿羅漢の〉の句。その後、石田波郷が9月に応召するまでに玄は、8回投句し、うち4回が巻頭になったという。(*2)

この句はうまい句ではない。叙法などどちらかといえば下手糞だ。……が叙法が下手でも粗野でも何でもこの句はがつちりとおさまつて了つて、もはや一言の抜差もならぬ蕭条たる風景が現出している。

と、波郷は〈阿羅漢の〉の句を絶賛した。ことに「句の末に至つて益々緊つてくる<や>のひゞきは誠に強大である。俳句の斯かる<ひゞき>といふものを現代の俳人は余りにも忘れすぎている。」と俳句の《ひゞき》を高く評価する。

 句の成立過程をたどるとすればこうだ。山を切り開いて通した路を野分が吹き抜けていく。前方には阿羅漢の石像が立ち並んでいた。そうか、この強い風は阿羅漢たちがつくり、吹かせているものに違いない。そうした作者の発見と断定が、〈阿羅漢のつくる野分〉という表現を生み出したのだろう。作者の断定を中七〈や〉で切り、下五を景物〈切通〉で抑える。韻文精神徹底を説いた『風切』時代の波郷の主張を補完するような作品として、この句は「鶴」の巻頭を飾り、波郷門下に何がしかの影響を与えた。しかし、今となってみると波郷の言うとおり「うまい句」ではない。無機物を作中主体に据えて、その動作や意思によって眼前の景物が現出したという擬人化の手法は、今では新しいものではなく、むしろ古典的ですらある。戦後俳句が終わった後に俳句を始めた現代の我々にとってみれば、ある傾向を想起させる俳句でしかない。

 そこには、掲句のような風景を通して人間の普遍に到達するような強度は持ち合わせてはいない。だが、技法や型から自由になり、凝視と独白によって普遍に達する道を探った玄の晩年の句群は、〈阿羅漢の〉の句に代表される古格との格闘から生み出されたことを確認しておきたい。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2  細川加賀 「玄の一句」 『俳句』昭和55年8月号所収 角川書店刊



★―5堀葦男の句/堺谷真人

 蟹生まる諸樹(もろき)うなずく瀬のほとり

 『山姿水情』(1981年)所収の句。3年後、『朝空』に再録されたときに「うなずく」が「うなづく」に改められている。

 山深い渓谷。明るい瀬々には潺湲たる水の音がひびく。そんな浅瀬のほとり、湿った土の上に小さな沢蟹がひょっこりと姿を現した。その甲羅は柔らかく、か弱い。さやさやと吹く風の中、新緑をまとった木々は互いにうんうんと頷きあうようにゆれている。まるでこの幼い生命をうべない、見守る先輩たちのように。

 湿潤な日本の気候風土には多様な生物相が息づいている。国土の約7割が緑に覆われた先進国など世界のどこにもない。ゆたかな樹木と土壌によって高い保水力を備えた日本の山々はそれ自体がとてつもない貯水量を誇るダムといってよいのだ。

 葦男の見た沢蟹はそのような環境を象徴する生き物であった。風にゆれる諸樹とは「多くの木々」であると同時にまた「さまざまな種類の木々」でもあるに違いない。

 縄より窶(やつ)れて竜巻あそぶ砂礫の涯  『火づくり』

 かつてメキシコの荒ぶる竜巻に挑んだ葦男が、今は日本の新緑の木々をやさしく頷かせるそよ風に目を細めている。これら二つの作品を並べて読むとき、彼我の風土の気の遠くなるような懸隔に改めて気づかされるのである。


★―8青玄系作家の一句/岡村知昭

 おろんおろんと風来た 手紙焼き捨てた    坂口芙美子

 作者は1964年(昭和39)に掲出句を含めた30句によって青玄新人賞を受賞。多彩なオノマトペを駆使した作品の数々は、「青玄」が進めた「俳句現代派」運動が生み出した作家の中にあっても異彩を放っており、「音楽性を採り入れた話し言葉とオノマトペ使用によって、未開拓の世界へ果敢に切り込んでいった」(森武司『青春俳句の60人』より)彼女の作風は、口語・現代語使用のあり方を見ていく上において欠かすことのできない存在である。オノマトペ使用の作品についてはまた機会を改めて紹介したい。

 たとえば、今をときめくアイドルグループが「風が強く吹いている」と唄うとき、聞き手の脳裏では「ビュービュー」とか「ごうごう」といった強風にふさわしい音のオノマトペが、これから訪れるであろう困難の数々とそれに立ち向かう決意とが思い浮かんでいることだろう。「そよ風」という言葉が出てきたとき、脳裏には柔らかさと温かさとを兼ね備えた風が肌に当たるときの心地よさ、また風とともにもたらされる柔らかな陽射しといった穏やかな空間がたちまちに浮かび上がってくることだろう。では1960年代の女性の手による掲出句においてはどのような風が、空間が浮かび上がってくるのだろうか。

 この一句においてのオノマトペとして選ばれた「おろんおろん」、まず並大抵の風のありようではなさそうなのはたちまちに想像がつくのだが、さらにただごとではない雰囲気を醸し出しているのが「風来た」との措辞である。確かに風はいきなりどこかから自分のもとへ訪れてくるものではあるのだが、風が自分のもとへ「来た」と見立てる、ありがちとも思える擬人法であるにもかかわらず、掲出句においては女性が感じる不安や恐れに対する隠喩的な役割を帯びた物象として立ち現われている。肌触りもまず気持ちいいものではなさそうである。そう「おろんおろん」は風の音の響きでもなければ風の温かさ冷たさを表したのではない、自らが迎えている危機のありようを示す存在なのだ。

 そんな「おろんおろん」と来る風を受け止めるひとりの女性(とひとまず見ておく)の足元では、かつて自分あてに届いた手紙がすっかり焼け焦げて、まもなく灰となるのである。「手紙を焼く」という行為からは誰かとの関係を断ち切ろうとする意思は十分にうかがえるし、女性ともなれば恋人との別れの一場面と想像するのは正直安易すぎるきらいもある。だが一方においてこの女性は、自分が誰かの「手紙焼き捨てた」事実に対してどこか現実感を感じていないところも見受けられる。「来た」「焼き捨てた」との末尾のT音の連打は、風の訪れと誰かとの関係を断ち切る決意の訪れとの取り合わせを確かなものとして形づくり、そのどちらに対しても心からのおののきを感じずにはいられない、ひとりの女性の姿をまぎれもなく写しだしているのである。

 貝殻に風棲む わたしのてのひらで

 風が聞いてる ねぎ刻む音 一つの音

 掲出句と同じく新人賞受賞の30句から風が登場する2句を引いてみた。貝殻に潜む風を感じたり、家事に励む姿を風が覗いているかのように感じたりというのはどこかモチーフとしてはありがちかもしれないが、風棲む貝殻は手のひらにあるとの見立ては、今このとき風は自らの手の中にある、風は自らのものとしてあるとの喜びにつながっているし、風に「ねぎ刻む音」を聞かれている彼女はその代わりに風の音を「一つの音」として聞きながら風と対峙しているかのようである。自らに吹く風を表すのに「おろんおろん」とのオノマトペを手に入れたこの作者は、もしかしたら自分で意識していないうちに風という存在に対して、どこか原始的な生命のうごめきを感じてしまっていたのかもしれない、風は「強く吹いている」ものではなく、「風は強く生きている」ものなのだと。


★―9上田五千石の句/しなだしん

 凍鶴の景をくづさず足替ふる   五千石

第三句集『琥珀』所収(*1)。昭和五十七年作。

凍鶴の凛とした情景を捉えた句。

     ◆

 凍鶴のいる景色はそれだけで美しい。原野、もしくは雪原。棒のごとくに動かない鶴。

 その鶴に対峙してじっと見つめていると、微動だにしないように見えていた鶴が、脚を組み替えた。それはあたかも周りの景色に馴染んでいて、その動作自体が幻だったかのように思える。

 掲句はその情景を比喩に頼ることなく、詠み当てている。「凍鶴の景」は、凍鶴が、という意味合いでも読めるが、凍鶴の居る全体の景色を読み手に把握させることにも成功している。

     ◆

 今回は「風」というテーマだが、実はこの句には「風」ということばは出現していない。

 風は目に見えないもの。頬などに風を感じるように、身体で風の存在を認識したり、落葉が吹かれるなどの風が引き起こす現象によって人はそれと理解する。

 人は古来からこの風を、神のように敬い、時に悪魔の使者のように恐れもして暮らし、季節ごとに風に名を付け語り継いできた。無風という状態でも実は風は確実に在る。この風、大気の流れが無ければ、人間は生きられないのだから。

     ◆

 掲句には「風」は吹いていない、と読むのもひとつだが、花鳥諷詠の心持ちでこの句に対するとき、鶴が脚を組み替えたのは、目に見えないが、鶴に吹いた一陣の風のせいだったのではないかとも思えてくる。


*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊


★―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 蘭は絃、火焔樹は管、風は奏者

 曇り日の風の諜者に薔薇の私語

 「風」の句と言うとこのような観念的な句にこそ憲吉の特色があるように思われる。松風や春風のような俳人好む風とはいっぷう違う「風」だ。しかし残念ながら、この2句とも前回の「鳥」で取り上げてしまったので、舞台裏が見えすぎてしまう。そこで、風に縁のある(鳥にも縁があるが)飛行機を取り上げて見る。

 翼重たくジャンボジェット機も花冷ゆる

 「いやな渡世」雲上を航く梅雨の航

 第1句は昭和50年。『方壺集』より。流行に敏感な憲吉らしく、ジャンボジェット機を取り上げた極めて初期の句ではないかと思う(昭和45年7月に日航で就航している)が、これは素材だけが新しく、内容的に憲吉らしさがそれほど出ているとは思えない。

 これに比べて第2句はいかにも憲吉らしい。昭和51年の作。「いやな渡世」は勝新太郎主演の『座頭市』(昭和37年第1作、40年代にブームになる)で語られるセリフだが、相変わらずそのパロディ。憲吉自身の俳人ともタレントともつかぬ行き方は確かに「いやな渡世」というべきかもしれない。俳人の中の『座頭市』とは、カッコつけたがり屋の憲吉のポーズのようである。

     *

 さてこの「戦後俳句を読む」を始めるにあたり、旧知の俳誌「都市」主宰の中西夕紀氏に参加を勧め、桂信子を論ずると言うことで了解をもらったのだが、都合により「詩客」への執筆は辞退された。主宰誌の編集が忙しすぎたからだ。ただその時の約束は、しばらくして「都市」で桂信子論の連載を始めたから、約束の半分は果たされたとみてよいだろう。「戦後俳句を読む」はどこで行ってもらってもよいのだ。

 その中西氏から、私の取り上げている楠本憲吉の批判が来る。憲吉と桂信子は日野草城門のきょうだい弟子であり、そこで私の勧めで楠本憲吉全句集を買って読んでみたのだが驚いたらしい。憲吉の句は男には面白いかもしれないが、まったく女性を馬鹿にしており、女の敵である、というのである。例えばこんな句。

 呼べど応えぬひとまた殖やし夏去りぬ

 夏靴素直に僕を導く逢うために

 風花やいづれ擁かるる女の身

 しかしその後、新潟から出ている「喜怒哀楽」と言う雑誌で中西氏は3回にわたって「クスケン」の俳句鑑賞を連載、編集部によると「毎回大反響」とか。この3句も丁寧に鑑賞に取り上げていた。最終回では、「男の恋歌を長年詠ませた正体を、ダンディズムと言う人もいる。クスケン亡き後、女より、男にもてているのではなかろうか。」と結んでいる。どうやらクスケン俳句は人を元気にするらしい(それも私などより上の世代)。私の僻目でいえば、また楠本憲吉ファンが増えたのではないかと思うのである。


★―12三橋敏雄の句/北川美美

 新聞紙すつくと立ちて飛ぶ場末

 この句が作られたのは昭和33(1958)年(『まぼろしの鱶』収録)なので今から53年前になる。『名句の条件』(アサヒグラフ増刊・昭和63年7月20日号)での楠本憲吉との対談の中で敏雄自身、「名句の決定は最低100年かかる」と定言している。敏雄の設定する殿堂入りまであと約50年。中間地点として考証してみたい。

 まず「場末」とういう舞台設定。一昨年のあるシンポジウムで司会進行役がこの句の「場末」を「バマツ」と声にしていて驚いた。シャープ電子辞書の中の『やっぱり読めそうで読めない漢字』には、「場末」が入っていた。現在、使用頻度が少ない言葉である可能性があり、「バマツ」とは、どういう場所を想像していたのだろう。「場末」といえば、「スナック」。「酒場」の形容で用いられる例をみる。「場末」は、街外れ、末枯れの意味と同時に「落ちぶれた」「恨みがましい」感もあり、悲しいエレジーが伝わる。俳諧味は充分である。この句の「場末」には世紀末のような緊張感や危機感がありハードボイルド、暗黒なイメージを抱く。どこからか、歌謡曲(@美空ひばり・ちあきなおみ)、シャンソン(@エディット・ピアフ)、ジャズ(@マイルス・デイビス)が聴こえてきそうだ。やはり「バスエ」と読みたい。絶望感漂う場所でありながら、どこか摑み切れない言葉であることも確かだ。

 続いて主役である「新聞紙」。捨ててあるものと仮定できる。金成日の死去を掲げる新聞各紙、「われわれは99%」のデモを報じるNew York Times、盗聴疑惑で廃刊に追い込まれたThe News of the World 等々、銘柄にこだわる必要はないだろう。一方的かつ不特定多数の受け手へ向けての情報を印字したエコロジカルな紙は、世界のどの末枯れた街角にも存在する。身近なマスメディアを生き物のように俳句の中で立ち上がらせたことに驚きが生まれた。まさしく詩の「身体性」である。

 社会を垣間見ることのできる紙がすっくと立ち上り飛んでいく。「場末」にも関わらず、「すくと立つ」が妙に健康的である。末枯れた路地からクラーク・ジョセフ・ケント(@スーパーマン)が立ち上がって飛んでいく、あるいは、紙に代わるインターネット、電子書籍の普及予言にも思える。そして実際に「新聞紙」が生き物のように「すく」と立てば、それは恐ろしい光景である。新聞紙を「捨てられるもの」と考えれば、男達を震撼させた映画・『危険な情事』の中の不倫相手である女が復讐に行くサイコサスペンスすらも連想する。

 戦争が廊下の奥に立つてゐた 白泉

 敏雄は「戦争」でない主体(「新聞紙」)を無季(「場末」)の中で「立たせた」ということか。白泉の有名句に多少の糸口を発見したような気休めを覚える。

 新聞紙は風を受けなければ、立ち上がることもなければ飛んでいかない。それにふさわしい時期、すなわち年末、冬のイメージがある。場末の街に見るのは、枯葉、ゴミなどが冷却するアスファルトに吸い付きながら這うように吹かれる風景である。新聞紙が風を受けて本当に立ち上がるのだろうか。しかし立つと思えるのである。リアルだと読み手に思わせる。意表をついた取り合せが説得力をもつのは、「新聞紙」に置き換えた社会という現場に対する批判精神があるからだろう。

 2011年の日本の場末にすっくと立つのは戦争でも新聞でもなくブルーシートである。53年経過する句の着地点はどこなのか。読者を混沌と惑わせることが敏雄の狙いなのだろうか。


★―13成田千空の句/深谷義紀

 田仕舞ひの後杳として北吹けり

 千空作品の中で最も多い風の季語は「北風」である。秋風(およびその派生季語)はまだしも、春や夏の風の作例は極めて少ない。津軽の五所川原に生きた千空だから、当然の結果と言えるかもしれない。

 さらに、北風を季語とする作品のうち相当数(8句を数える)は第1句集「地霊」所収のものであり、それ以降の句集では各々数句のみである。帰農生活も経験し、また居住環境も厳しいものがあった時代において「北風」は生命や生活の安寧を脅かすものとして身近に意識せざるをえないものだったのだろうが、インフラを含め生活環境が改善していくに従い、「北風」がもたらす脅威の切迫度が低下していったとみるのは穿ち過ぎだろうか。

 さて、掲出句は第2句集「人日」に所収された作品である。中七の後に切れがあり、米の収穫が終わった後、ある男(或いは一家)の行方が知れなくなったことと冷たく吹きつける「北(風)」との取り合わせから成る句である。なぜ行方知れずとなったのか。一家挙げての離農も考えられるが、まず想起したのは出稼ぎに行った男の失踪である。

 かつて、雪に閉ざされる寒冷地の農閑期で、出稼ぎは不可欠だった。そうしなければ、生活が成り立たなかったからである。だが、出稼ぎにはやるせない思いがどうしても付きまとう。家族を置いて都会に働きにいく男たち。一方、農村に残された家族たち。どちらも辛く長い冬を過ごさなければならなかった。また、出稼ぎが契機となって人生が狂い始め、家族の崩壊や離散につながることもあった(注)し、そうした事態が社会問題化したこともある。「出稼ぎがなくても雪国で暮らせるように」と日本列島改造論を唱え、地方での公共事業を大幅に増やしたのは、やはり雪国出身の田中角栄である。

 そうした大盤振る舞いの甲斐もあり、出稼ぎは徐々に姿を消していったという。だが、千空の暮らした津軽地方ではまだ出稼ぎは続いていたのだろう。千空の後の句集には、次のような句もある。

 もの言へば出稼ぎのお父(ど)冬帽子   「白光」

 津軽から出稼ぎが消えたのはいつの頃だったのだろうか。


(注)こうした題材を採り上げた例として、同じ青森県出身の作家三浦哲郎の小説「夜の哀しみ」が挙げられる。



●―14 中村苑子の句  【『水妖詞館』―― あの世とこの世の近代女性精神詩】45.46.47.48/吉村毬子

2014年9月19日金曜日


45 絡み藻に三日生きたる膝がしら

 前回にも「絡み」の句があった。

 41.鐘の音の絡みて震ふ髪を梳く

 41.は髪に絡んだ鐘の音であり、今回の句は、膝がしらに絡んだ藻である。「絡み藻」は、その形状から抜けた女の髪を思わせるので、仮に、41の続編だとすると、鐘の音の絡みついた髪が「膝がしら」に3日間絡んでいるということになる。その状況だけで充分怪談めいているのだが、それだけではない。「に」の格助詞が句意を怪しくさせているのである。助詞が「の」であれば、「絡み藻」は3日経つと「膝がしら」から離れたことになるが、「に」によって、「三日生きたる」は「膝がしら」に掛かってくる。3日経つと「膝がしら」が死んでしまうような読みも浮上してくる。「絡み藻には」と理解し、前者の解釈も成り立つが、「絡み藻」によって、3日間だけ生きた「膝がしら」は、たとえその後死んでいなくとも、生き生きとしていない状態、死んだような状態であることになる。「膝がしら」にとって「絡み藻」は、3日であっても生きた証なのである。「絡み藻」が髪に象徴される女であり、「膝がしら」が男のものであるとすると、艶かしい話となるが、「絡み藻」が女の髪のみであるので、成仏しない女の怨念が絡みつく「水妖」の世界ともとれる。

 もう一漕ぎ 義足の指に藻を噛ませ      鷹女『羊歯地獄』

 三橋鷹女の句は「義足の指」である。生の足ではなくなった「義足の指」に「藻を噛ませ」ているのである。上五の「もう一漕ぎ」は、その後に一字空白があるけれども、義足の主の動作であろう。鷹女は、義足になった不自由な足でも「もう一漕ぎ」と自身を奮い立たせる。この句を所収する句集『羊歯地獄』の「自序」を思い出さずにはおられない。

  (前略)一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である

      一片の鱗の剥脱は 生きてゐることの証だと思ふ

      一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の為に

      『生きて 書け―』と心を励ます

 「自序」で誓った言葉そのものの如き一句であるが、苑子の句との共通点がある。それは「藻」の力である。鷹女は、「指に藻を噛ませ」勢い立つ。苑子は、「膝がしら」に「藻」を絡ませ、3日の生命を与える。そして、二人が尊敬する先達の女流俳人、杉田久女も「藻」の力を信じていたようである。

  春潮に流るる藻あり矢の如く       久女『久女句集』

 久女の句は、上五中七の平凡で控えめな表現から、下五の「矢の如く」は意表を突く。当時の女流俳人の多くは、台所俳句と呼ばれる類に傾注していた。(そんな中にあって、〈短夜や乳責り泣く子を須可捨焉乎(ステッチマオカ)〉を発表した竹下しづの女も異才を放ち、久女も「花衣」で取り上げている。)久女の句は、昭和4~10年の間の作品であり、自ら創刊し、僅か5号で、昭和7年に廃刊してしまった「花衣」時代に該当するため、久女が俳句に最も奮起していた頃の作品である。「矢」のごとき「藻」は自分自身であろう。〈久女よ。自らの足もとをたゞ一心に耕せ。茨の道を歩め。貧しくとも魂に宝石をちりばめよ。〉の辞を掲げ創刊した頃なのか、〈私もまだへ力足らず二人の子の母としても、又滞りがちの家庭の事情をも、も少し忠実にして見たく存じて居ります。〉と廃刊の辞を述べた頃なのかは判然としないが、久女は、「花衣」廃刊後も俳誌「かりたご」(清原枴道主宰、朝鮮釜山発行)の女性雑詠選者を続けており、昭和8年9月号の文章を抜粋してみる。 

いつ迄も無自覚に類型的な内容表現にのみ安心してゐるべきではなく、漫然と男性に模倣追従してゐるばかりでは駄目だと思ひます。女流という自覚の上に立って、自らのよき句境涯をきりひらいてゆく努力勉強がぜひ必要です。

 久女の句が「花衣」廃刊の頃の作品で〈春潮に流されてしまう藻〉を詠んだとしても、その「藻」は「矢の如く」流れの先へ直進していくのである。しかしながら、「花衣」廃刊の辞が、たとえ語られる通りであれ、久女ほどの向日性を以てしても、女性が一誌を発行し続けることは難しかったのだ。

 昭和29年、8名の発起人(加藤知世子・鈴木真砂女・池上不二子・桂信子・細見綾子・横山房子・野澤節子・殿村菟絲子)によって創刊された超結社誌「女性俳句」の創刊理由は、家を空けることのできない全国の女流俳人達の勉強会と懇親のためであったと、創刊後ほどなく入会した苑子から聴いた。平成4年に入会した私は、その時初めて女流俳句の歴史というものを考えた。家事も便利になり、交通機関の発達とともに女性が全国どこへでも出掛けられる時代になり、女性の社会進出とともに、本来の目的のひとつを果たせられたことも終刊(平成11年)の理由であったらしい。

 冒頭に述べたように「藻」は、女の髪に似ている。日輪の日射しを透かして水中にゆらゆらと泳ぐ様は、美しく優雅でさえある。そして、藻刈りをしなければならないほど繁茂する生命力をも持つ。嫋やかで強靭ともいえる「藻」に、自身をなぞらえて女流俳人は詠う。

 久女は凛然と、鷹女は剛直に、そして苑子は妖艶な深い撓りを持って……。

  くらがりに藻の匂ひして生身魂     苑子『花隠れ』吟遊以後


46 くびられて山鴉天下真赤なり

 あれは、5年前の苑子の忌日(1月5日)のことである。私は、俳人の連れ合いと冨士霊園へ墓参し、墓を立ち去ろうとした時である。私達二人の頭上をすれすれに大きな鴉が行き過ぎた。苑子と重信の墓碑に俳句の精進を誓った直後なだけに、二人の遣いとして、我らの頭上でバサバサと羽音をたてたのではないかと、一羽の鴉が寒風の真冬の空に去ってゆくのを放心状態で視つめていたのである。

 苑子は、鴉が好きだったような気がする。鴉の濡羽色の美しさを語り合ったことがある。彼女はその狡猾さもしきりに語っていたが、嫌悪感というよりも、頭の良さが不思議でならないと言った表情がひどく印象に残っている。

 3.河の終りへ愛を餌食の鴉らと     『水妖詞館』 

 6.鴉いま岬を翔ちて陽の裏へ        〃 

   鴉らよわれも暮色の杉木立      『四季物語』 

   羊歯刈るや羽づかひ荒き山鴉     『花隠れ』「春燈」時代 

(『四季物語』にも所収)

 苑子の鴉の句を掲げてみた。1、2句目は、すでに鑑賞済みのものである。俳句は、物に自己投影する手法が多く摂られるが、苑子の「鴉」は他者であるようだ。しかし、1句目の「鴉らと」や、3句目の「鴉らよわれも」の表記から、同志的なものを感じているようである。「陽の裏へ」翔ち(2句目)、「羽づかひ荒き」(4句目)鴉らに好奇心を持って凝視している様子が伺える。

 苑子は、『四季物語』(昭和54年)刊行以後、「鴉」の句を発表していない。(『四季物語』には、もう一句〈空谿(からだに)を鈍な鴉が啼きわたる〉がある)。『花隠れ』所収の句も「春燈時代」と記されている。高柳重信が長逝したのは昭和58年である。以前〈3.河の終りへ愛を餌食の鴉らと〉の鑑賞で、


 私には、「鴉」らが、重信をはじめとした俳句評論の同人達に感じられて仕方がないのだが……。


と書いた。「鴉」もまた、重信ではないかとの憶測が私にはある。手元にある句会での資料(私が指導を受けていた平成3年~没年の前年12年迄であるが)を探ると、平成7年2月5日東京、駒込の「六義園吟行句会」に出句した〈雪の園人恋ふごとく鴉啼き 苑子〉の一句があるのみである。「園」が「苑」であり、名園の雪の中の苑子に「鴉」の重信が啼いているのか――。

  喪を終へて喪へ生涯の鴉らと   鷹女『羊歯地獄』

 下五が、「鴉らと」置かれ、苑子のように鴉を同志として扱った三橋鷹女の句であるが、上五中七が鷹女らしく意味深長である。この句は、昭和33年に書かれているが、その年「薔薇」を発展的に解消した同人誌「俳句評論」が創刊された。鷹女は、昭和28年に高柳重信に誘われて「薔薇」の同人になっていた。(昭和15年「紺」を退会して以来の俳誌参加であった。)在籍8年の「春燈」を辞して、高柳重信とともに発行所を立ちあげた苑子は勿論であるが、鷹女にとってもまた、新たなる俳句道への覚悟の気持ちの引き締めがあった筈である。

 「喪を終へて」は、前年母を亡くしたことや、10年余りも時を経た終戦なども考えられるが、その次の「喪へ」と続くことで、「喪」は俳句を指しているのではないか。俳句革新を懸けた気鋭の仲間達と茨の道を進んで行くことが、「喪へ生涯の鴉らと」に込められていると思われて仕方がない。句集に収められた次の句もまた感慨深い。

  濤狂ふ濤のゆくてに渚無く    鷹女『羊歯地獄』

 さて、苑子の掲句であるが、他の鴉の句に比べると唯事ではない事が起こっている。以前〈36.狂ひ泣きして熟練の鸚鵡をくびる〉は自らの手で鸚鵡をくびる句であったが、今回は、山鴉が「くびられて」いるのを見ているのである。人は、自分が無惨な行為に堕ちていっている時は、無我夢中であるが、見る側に立った場合、沈着冷静なだけにその無惨さに恐れをなすことがある。「天下真赤なり」という状況はその色彩から鮮血さえもイメージすることができよう。一日が終わる時刻、日輪は沈み、西天を、天が下を血の色に染め上げる。くびられた鴉が西方浄土を彷彿とさせる真赤な西の空にうなだれているのか――。「なり」の言い切りが、客観的な語法を強めながら、山鴉と山鴉を包み囲む山々の黒さと、真赤な夕焼けのコントラストによる、鮮やかな色彩を、非情な美しさとして浮かびあがらせてくるのである。

 因みに女流俳人の「鴉・烏の句」を拾ってみた。

  人を人と思はぬ浜の寒鴉          鈴木真砂女 

  低く飛ぶ寒鴉敵なく味方なし        津田清子 

  塔古るぶ気触れの烏棲みつきぬ       福田葉子 

  万のこと恃みし愚か梅雨鴉         稲垣きくの 

  熟柿つつく鴉が腐肉つつくかに       橋本多佳子

 水鳥や鶯、雲雀などよりも、鴉の声と姿は敬遠される特異な存在なのではないか。

 自己の心情を詠う句にも、鴉は独特の位置を占めているようだ。真砂女の境涯、清子の個性、葉子の幻妖さ、きくのの人生等を感得できる。多佳子の句は、没年の昭和38年(64歳)のものであるが、衰えゆく身体と精神を見据えて吐露した呟きが鬼気迫る。

 歴代の有季定型作品には、生活の一端や背景を描く作品が見受けられたが、情緒のある美しい作品を掲げてみる。

   初雪や鴉の色の狂ふほど          加賀千代女 

   身を透明に春の鴉が歩き出す        柴田白葉女

 江戸時代、各務支考に師事し、画も熟(こな)す千代女ならではの黒い鴉と、一面の雪景色の純白が、鴉の濡羽色を狂うほどに際立たせている。白葉女の句の、「透明に」は、「春の鴉」が見事に設えられていて繊細な明るさが醸し出されている。

 柴田白葉女は、いわれなき不幸な殺人事件で非業の死を遂げている(昭和59年、77歳)。江戸時代、一般女性には遠かった俳句を千代女や遊女・歌川らが残し、近代の久女やしずの女、4Tたちが切り開き、継承され花開いた現代女性俳句の歴史に残されたこの奇怪な事件は、誠に悲しむべきことである。(栗林浩著『新・俳人探訪』で詳細に記されている。)前回記述した「女性俳句」や「俳句女園」を創刊し、女流俳句の発展に努めた、名の知れ渡った女性であるが故に起こった事件なのである。この21世紀は、女であることが芸術の妨げにならないことを祈るのみである。それはきっと、先達の願いでもある筈だ。

   落日の巨眼の中に凍てし鴉          赤黄男

 冒頭の5年前の苑子・重信の墓参の際の鴉は、その後の苑子忌の墓参の折り再びは訪れてはくれない。一度、7月8日の重信忌に行ってみようかなどと思っている。あの鴉の濡羽色が夏富士ともよく似合いそうである。


47 船霊や風吹けば来る漢たち

   男らの汚れるまへの祭足袋         飯島晴子『寒晴』

 御輿は男性が担ぐものである。(近年は女性の担ぐ姿も見られるが)船も、女性が乗ると海が荒れたりするとして、忌む傾向がある。それは、船霊が女の神とされるからである。漁民の大漁や航海の安全などを願い、男女一対の人形、女の髪、櫛、簪、銭、さいころ、五穀などを船に奉納するが、女の髪が一番古くから伝わっていると云う説がある。命懸けの航海に家族の形見として持って行くという意味もあるらしい。

 前回、〈41.鐘の音の絡みて震ふ髪を梳く〉、〈45.絡み藻に三日生きたる膝がしら〉では、女の髪の妖艶さに関連付けたが、今回の、神事の髪は男たちが崇めるものであろう。

 晴子は、神体や御(お)霊(み)代(しろ)が乗るとされる、御輿を担ぐ前の男達の溌溂とした姿を「足袋」に託し、清々しい男の色気を詠んでいるが、苑子は、航海から帰らなかった男達の静寂且つ清爽な御霊を詠っているようである。中七「風吹けば来る」の寂寥感が、〈28.放蕩や水の上ゆく風の音〉を彷彿とさせる。

 航海の前に、神仏を「船霊」に奉ると、海風に乗って現れる「漢たち」。漁に出掛け、遭難し波に消えた「漢たち」や、戦争の犠牲となり海に散った「漢たち」が、海に囲まれたこの小さな島国を、女たちを、懐しみふわりとやって来るのだ。女の神である「船霊」が、大らかな風にのせて手招いているような神話性があり、御霊を詠んでいるのに妖しさは感じられず、子守唄のような調べさえ持つ。

 高柳重信の句集『日本海軍』もまた、海に散った軍艦やその地名を歌枕として、日本の地霊を悼み、慈しんだ男の子守唄の如き、多行形式の詩である。


        一夜

   二夜と

   三笠やさしき

   魂しづめ             


   夜をこめて

   哭く

   言霊の

   金剛よ


   海彦も

   疊を泳ぐ

   嗚乎

        高千穂

高柳重信『日本海軍』昭和54年(56歳)


 巻末に随筆「富士と高千穂」を加え、〈昭和の子供〉について自身の体験や思を語っているこの句集は、刊行当時、「戦場へ行った者には(とても)書けない(はずだ)。」という意見もあったと聞く。それならば、胸部疾患のため、戦場へ行けなかったからこそ、まとめあげられた、重信晩年の入魂の仕事だったのではないだろうか。(昭和58年没、60歳)

   戦争と女はべつでありたくなし          藤木清子 

   戦死せり三十二枚の歯をそろへ            〃 

   黙禱のしづけさ空にとりまかれ            〃

 藤木清子は伝説の俳人である。生年、出身地も不明である。昭和8年に藤木水南女名で「蘆火」(後藤夜半主宰)に投句し始め、同誌終刊後、「天の川」「京大俳句」などに出句。昭和10年創刊の「旗艦」(日野草城主宰)へ参加し、新興俳句最初の女性として同誌同人となる。昭和15年10月号を最後として俳句から身を引き、その後は不明である。

 3句とも、戦争を詠んでいるものであるが、昭和15年が最後の投句であるため、昭和16年の太平洋戦争開戦から昭和20年の終戦、そして戦後も清子が無事であったならば、掲句の3句よりも過酷な情況にあった訳である。清子は、俳句を書くことを本当に辞めてしまったのだろうか。詩人は、窮極の果て、魂の叫びを詠うものである。富澤赤黄男のように戦場での慟哭や哀絶は綴りようもないが、1句目の毅然とした覚悟、2句目の冷静な怒り、3句目からは、哀切の嘆きの詩を書かずにはおられないという思いが痛切に伝わってくる。清子にはたとえ薄汚れた紙片と言えども、一句でも俳句を書き留めておいて欲しかった。反戦的な内容だと周囲の人々に止められたのか、戦時状況の悪化のために、已むを得ない理由があったのか、誰にも解らない事だが、時代は、一人の貴重な俳人をまた一人失ったのである。

 苑子は、戦死した夫の遺品の句帖を手渡されたことが、俳句を始めた切っ掛けとなった。苑子は、生涯、戦争の句を作らなかった。20年近く前の句会でのことである。


   爪噛んで血の出ぬ八月十五日      広美(毬子)


 私の拙い句を何人かが褒めてくれた。しかし、苑子は選句しなかったので、二次会の席でどう修したら良いのか尋ねると、「修すところは無いと思います。でも私は、戦争の句は作りません。あんなに惨めで屈辱的な思いは二度としたくありません。」―― 静かな口調であったがきっぱりと言った。私なりに、祖父母や父母、俳句教室の先輩達から聞いた話や、映画や小説で感じた思いもあったため、私は苑子の言葉に驚き、落胆した。その様子を見て「あなたに作っていけないとは言っていません。書きたいと思えばお書きなさい。」と笑顔で言ったのであった。現金な私は、(若気の至りである)「はい。作り続けます。私たちの世代が伝えなければならないと思います。」と元気に答えたのである。しかし、その後8月が来るたびに慎重にならざるを得なかった。少なくともこのやり取りが、私に、簡単には戦争の句を作らせない結果となったのである。苑子が選ばなかった拙句は、戦争を知らない世代のひとりよがりで曖昧なだけの句であった。

 苑子は戦争にこだわらず、直接的な表現ではない、もっと遥かな人間愛としての鎮魂詩を書けと教えてくれたような気がする。

 今回の句を、子守唄のようであると先述したが、苑子が女の神である「船霊」となり、遠い処から「漢たち」が引き寄せられて来るような爽やかな艶をも持つ。いつかは、この心境に近付きたいと思っているのだが……。

 研ぎ澄まされた才能を持った藤木清子を女流俳句が失ってしまったことを、さらに、現代の女流俳句をともに築きあげてきた飯島晴子(大正10年生まれ)の自死(平成12年6月、79歳)を無念だと語っていた。平成12年7月の句会後、「吉村さん、私は自死はしないわ。」と呟いてから半年後(平成13年1月、87才)苑子は静かに永眠した。

   しろい昼しろい手紙がこつんと来ぬ           清子 

   白き蛾のゐる一隅へときどきゆく            晴子『蕨手』 

   白地着て己れよりして霞むかな             苑子『花狩』

 

48 はるばると島を発ちゆく花盥

 「花盥」とは美しい言葉であるが、上五中七から受ければ盥舟に花が散り降る中、島を発つということであろうか。盥舟といえば、佐渡ヶ島が有名であるが、佐渡ヶ島とともに芭蕉の『奥の細道』に名を残す、結びの地、〈蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ〉と詠われた岐阜の大垣でも観光のひとつになっているそうだ。

荒海や佐渡によこたふ天河               松尾芭蕉『奥の細道』

 芭蕉が、出雲崎から眺めた佐渡を「海の面ほの暗く、島の形彩雲に見え」と感動し、順徳天皇、日蓮上人、世阿弥など遠流された人たちを思い浮かべ、悲痛な流人の境涯として、佐渡の歴史への回想を込めて詠まれた。

 苑子の戦死した新聞記者の夫は、佐渡出身である。以前も、

   22.行きて睡らずいまは母郷に樹と立つ骨

の回で、苑子が佐渡の歴史や文化を愛していたことを書いたが、今回の句に佐渡情話を思い浮かべたのである。佐渡情話は、佐渡おけさを基に浪曲師寿々木米若が脚色し、口演したレコードが売れて有名になった。佐渡の漁師の娘お弁は、越後国柏崎の船大工藤吉と恋仲になったが、佐渡での仕事を終えた藤吉が柏崎へ帰ると、お弁は盥舟に乗って逢いに通った。妻子のある藤吉は、煩わしくなり、お弁の目印にしている常夜灯を消してしまい、お弁は波にのまれ翌朝柏崎の浜に打ち上げられていた。藤吉は罪の深さに自身も海に身を投げて後を追うという話である。

 「花盥」と「はるばると」に、花の盛りの華やかさと春の伸びやかな海と空を思い描く。前句〈47.船霊や風吹けば来る漢たち〉は、海から「来る漢たち」であったが、今回は、「発ちゆく花盥」に女を乗せている様子がうかがえる。満開の花の下、盥舟も女も春陽に舞う花片を浴びながら、島を発つのである。旅人であろうか。「瀬戸の花嫁」という流行歌があったが、佐渡の花嫁なら尚、艶(あで)やかである。佐渡情話のお弁が、花嫁の如き心情で藤吉の元へ毎晩通いつめているその情景こそ、掲句に適うものであろう。お弁は愛しい人へ逢うために「はるばると島を発ちゆく」のだ。小さな盥舟に、小さな己が身と溢れる恋情を乗せて、やがて散りゆく花の中を――。

   濠の菱舟むかしむかしの音きします     加藤知世子『太麻由良』

 佐渡ヶ島を有する新潟県出身の俳人、加藤知世子は、加藤楸邨の妻である。昭和4年、楸邨と結婚後、ともに「馬酔花」で水原秋桜子の選を受け、15年楸邨が「寒雷」を創刊し、同人となる。昭和29年創刊の「女性俳句」発起人の一人である。(明治42年生、昭和61年没、76歳)

   横顔の夫と柱が夕焼けて        知世子『冬萠』 

   稲光り男怒りて額美し            〃   〃 

   夏痩せ始まる夜は「お母さん」売切です    〃 『朱鷺』 

   夫婦友なる刻香りけり机上の柚子       〃 『太麻由良』 

   めをと鳰玉のごとくに身を流す        〃 『菱たがへ』

 夫婦ともに俳人の家庭は、苑子も同じであった。(重信と苑子は入籍はしていなかったが)苑子の場合は、寡婦となってからの後半生25年間をともにしたが、知世子は56年間である。知世子の作品から夫や子を詠んだ句を拾ってみた。2句目は夫とは表記されていないが、同句集に〈怒ることに追はれて夫に夏痩せなし〉があるので楸邨のことであろう。楸邨は怒りっぽかったのだろうか。その2句目の下五「額美し」や、4句目の「夫婦友なる刻」の様子、5句目の瑞々しさ溢れる情愛など、夫婦俳人のひとつの典型が見受けられる。

 苑子は、知世子を慕っていたようであった。私が「女性俳句」へ入会した頃は知世子は亡くなっていたが、その貢献ぶりをよく語っていた。山梨県甲府に「中村苑子俳句教室」で旅吟した際、小淵沢の「加藤楸邨記念館」(平成13年に閉館、資料等は埼玉県桶川市の「さいたま文学館」に引き取られた。)へ足を延ばし、夫婦句碑の知世子の碑を撫でては感慨深げであった。

   落葉松はいつ目ざめても雪降りをり        楸邨 

   寄るや冷えすさるやほのと夢たがへ        知世子

 苑子が「女性俳句」の懇親会で私を紹介してくれた女流俳人がいる。上品で美しいその姿について話す私に苑子も笑顔で相槌を打った。その人は、知世子とともに「女性俳句」創刊時の発起人の一人である、福岡県小倉市出身の横山房子であった。(大正4年生、平成19年没、92歳)

   夕顔の闇よりくらき蚊帳に入る          房子『背後』

 横山房子も夫婦ともに俳人である。房子は昭和10年より「天の川」に投句。吉岡禪寺洞に師事。12年、横山白虹主宰の「自鳴鐘」創刊同人。13年にら白虹と結婚。33年、山口誓子の「天狼」に白虹とともに同人参加。58年、白虹没後「自鳴鐘」主宰継承。

   客たちて主婦にあまたの蚊喰鳥          房子『背後』 

   秋燕駅の時計を子に読ます             〃  〃 

   夫の咳やまず薔薇喰ふ虫憎む            〃 『侶行』 

   夕顔の数の吉兆夫に秘す              〃  〃 

   枯芝に柩の夫を連れ還る              〃 『一揖』

 房子の家族の句も引いてみた。3、4句目の夫を思いやる句々を読むほどに、5句目の夫の死の悲しみが静かに伝わってくる。房子も白虹との夫婦句碑が建立されている。

   梅寂し人を笑はせるときも               白虹 

   欄に尼僧と倚りぬ花菖蒲                房子

 俳人同志の夫婦であり、夫が主宰誌を持つという事の苦労は計り知れない。夫を理解し、夫を立て、客人のお世話をする。主宰誌の同人への気遣いも勿論あったであろう。しかし、家庭の主婦、母としての役目もある。そして何よりも自身の俳人としての仕事がある。知世子も房子も、女流俳句の発展のために「女性俳句」を他の6名の俳人と設立もした。俳句とは無縁の日常生活においては、著名な女流俳人といえど、「○○さんの奥さん」と、ご主人の名で呼ばれることが多い。夫の知名度が高かったとしても、知世子、房子、苑子は、自らの作品が世に出ても、相変わらず「奥さん」と呼ばれることがあったであろう。それでも笑顔で皆にお辞儀を繰り返す日々、心の芯は常に折らずにしっかりと張りつめていたはずだ。苑子が二人に特別な好意を持っていた(ように私には思えた)のは、半世紀に渡り、蔭になり日向になり夫を支えながら、女流俳人としても一家を成した二人に、尊敬に価するものがあったからであろう。

   初泣きや二階の我を夫知らず            知世子『頬杖』 

   白菊や暗闇にても帯むすぶ              〃 『朱鷺』 

   納骨のあとの渇きに蟻地獄             房子『一揖』 

   声出して己はげます石蕗の花             〃  〃

  佐渡へ遠流された世阿弥の『風姿花伝』に、

   家、家にあらず。次ぐをもて家とす。

とある。血縁者が「家」となるのではなく、真に芸を継ぐ者を「家」とする厳しいものだと世阿弥は云う。縁者として主宰誌を継ぐ苑子や房子に残されたものの大きさは、その運命に立たされた者にしか解らない。房子は白虹亡き後の「自鳴鐘」主宰を継承した。苑子は重信亡き後、「俳句評論」を200号まで存続させ、終刊した。苑子に「俳句評論」時代の話は時折り聴いたが、その事については一言も語らなかった。加藤知世子、野澤節子が天上で見守る「女性俳句」は、現代女流俳人に様々な奇跡と軌跡を残し、さらなる女流俳人の躍進を誓い合い、平成11年その幕を閉じた。天上の苑子も房子も終刊の際の中心的存在であった。


 世阿弥の『風姿花伝』を再度引く。

   秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず。

 花は一年中咲いておらず、咲くべきときを知っている。能役者も時と場を心得て、観客が最も花を求めている時に咲かねばならない、と説いている。

 前述したように、今回の掲句は佐渡情話のお弁によせる「花盥」の悲愛へと趣いてしまったのである。お弁をのせた盥舟は、水草のように揺れながら、命短かい花散る中を沖へ沖へと小さくなって行く。お弁は、花の咲くべき時を知り、藤吉への愛を貫いたのだろうか―。

   野は雪解越後女は荷が多き               知世子『夢たがへ』 

   追憶の淵へは行かず螢飛ぶ               房子『一揖』 

   風落ちて水尾それぞれに月の鴨             苑子『吟遊』