2025年10月10日金曜日

第255号

     次回更新 10/24


■新現代評論研究

新現代評論研究(第13回)各論:後藤よしみ、村山恭子 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第5回:「実作者の言葉」…「書」/米田恵子 》読む

現代評論研究:第16回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 》読む

現代評論研究:第16回各論―テーマ:「鳥」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年夏興帖
第一(10/10)杉山久子・辻村麻乃

令和七年歳旦帖・春興帖
第一(4/25)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖
第二(5/9)ふけとしこ・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(5/23)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/27)曾根毅・浅沼 璞・なつはづき
第五(7/5)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第六(7/11)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第七(7/25)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第八(8/22)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結
第九(9/12)水岩瞳・佐藤りえ
第十(10/10)鷲津誠次・仲寒蟬・浜脇不如帰

令和六年冬興帖
第一(4/5)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖・ふけとしこ
第二(4/11)鷲津誠次・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(4/25)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/13)曾根毅・浅沼璞・なつはづき・下坂速穂
第五(6/21)岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第六(6/27)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第七(7/5)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結
第八(9/12)水岩瞳・佐藤りえ


■ 第49回皐月句会(2024/5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第20号 発行※NEW!

■連載

【新連載】口語俳句の可能性について・3 金光 舞  》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり37 金子兜太『日常』 》読む

英国Haiku便り[in Japan](56) 小野裕三 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(62) ふけとしこ 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』 栗林浩 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

9月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …



■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。  

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり37 金子兜太句集『日常』  豊里友行

 句集『日常』(金子兜太、2009年5月刊、ふらんす堂)を何度も読み返す。

 先ずは、帯文を引いておく。

 この日常に即する生活姿勢によって、踏みしめる足下の土が更にしたたかに身にしみてもきた。郷里秩父への思いも行き来も深まる。徒に構えず生生しく有ること、その宜しさを思うようになる。文人面は嫌。一茶の「荒凡夫」でゆきたい。その「愚」を美に転じていた〈生きもの感覚〉を育ててゆきたいとも願う。アニミズムということを本気で思っている。(あとがき)


長寿の母うんこのようにわれを産みぬ

 金子兜太の母は、「うんこのように」の強烈な比喩で彼を産むとある。

 己の誕生を長寿の母を眺めつつ自己や母の死が身近な生活空間にある中で俳句に詠まれる。

 これまでの金子兜太先生のパンチの効いた俳句たちに何処か通底している。

 そして兜太先生の晩年の〈生きもの感覚〉やアニミズムについて思考を深化させ続けたのは、誕生とも死とも向き合うその真摯な俳人の姿勢にあるのではないか。


合歓の花君と別れてうろつくよ

 「手術待つ妻に海上の海月」「癌と同居の妻よ太平洋は秋」「病いに耐えて妻の眼澄みて蔓うめもどき」など妻・金子皆子氏との惜別までも俳句に感情を託していく。


いのち確かに老白梅の全身見ゆ

 「シャワーの湯を体にぶつけ冷(すさ)まじや」「荒星に和む眼(まなこ)の友ら老ゆ」「男根は落鮎のごと垂れにけり」「秋遍路尿瓶を手放すことはない」「バナナ一本の朝食や霧の家」「一人寝に鶴瓶落しの湖(うみ)がある」「寒鯉にかこまれている宵寝かな」「おたまじやくし見ていて眼科医と話す」「ぽしやぽしやと尿瓶を洗う地上かな」など金子兜太先生自身の老いも包み隠さず俳句に生き様を刻み込んでいく。その生き様さえも生きもの感覚の延長線上にあったのだろう。


左義長や武器という武器焼いてしまえ

 社会性俳句の旗手であった金子兜太の態度は、「いのち」に向き合うことだったのかもしれない。命を傷つけ、奪う。そんな武器への戦争への怒りの炎は、その武器を焼いてしまうことにまで言及されていく。

 2015年5月に安全保障関連法案が国会に提出された(同年9月に成立)。その抗議のスローガンは、澤地久枝氏によって考案され、揮毫を金子兜太に依頼された。それぞれの運動の抗議の場でこのプラカードが、躍り狂うようにさえ見えた。社会性俳句への議論は、たとえ議論しつくされたとしても私にとって結論よりもこれから私がどう生きて行くか。私なりの態度を俳句で打ち出していく指針にもなる。

 「父の好戦いまも許さず夏を生く」「新月に浴後の軀一つ曝す」なども金子兜太の社会への態度や葛藤が俳句に刻まれている。


 「海程」会員時代に出会ったこれまでの私なりの俳句への態度は、金子兜太先生たち俳句に人生をかけて刻み込んだ俳人としての態度から、やはりこれからも学び続けることになるだろう。

 共鳴句を下記にいただきます。


秋高し仏頂面も俳諧なり

とりとめなし無住寺のごきぶり

奥山の岩の匂いの無常感

みどりごのちんぼこつまむ夏の父

ここ青島鯨吹く潮(しお)わらに及ぶ

炎昼の茶昆白骨となり現(あ)れしよ

熊飢えたり飢え知らぬ子ら野をゆけり

冬眠も成らずや眼光のみの蛇

母の歯か椿の下の霜柱

東京駅怒鳴る男と寒卵

野に眠る陽炎とともにいる時間

心太真つ暗闇を帰り来て

霧の海ひつそりと春情の野生馬

いのちと言えば若き雄鹿のふぐり楽し

人々に蜩落ちてばたばたす

朴咲けり朝から旧き戀歌ばかり

柿若葉海光とどく頭(ず)や虚し

ごうと黒南風禿頭ほどほどの湿り

頂上はさびしからずや岩ひばり

蟬がこんなに出て寺を猪(しし)歩く

夏の鹿夕日が月のごと赫く

露舐める蜂よじつくりと生きんか

虚も実も限(きり)無(な)く食べて秋なり

山楝蛇の見事なとぐろ昼寝覚

人の子が見ている牛蛙泳ぐよ

ビル街に白木槿フリーターのように

一日中光り貪り夜長かな

梨の花麻痺で曲がつた顔曝す

言霊の脊梁山脈のさくら

源流や子が泣き蚕眠りおり

山霧の触覚もあり螢狩

青胡桃逢いたい人がやつて来る

誕生も死も区切りでないジユゴン泳ぐ

【新連載】新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第5回:「実作者の言葉」…「書」  米田恵子

  『天狼』昭和23年3月号の「実作者の言葉」に「書」と題した随筆が載り、続けて「書 ふたたび」と出てくる。そして、5月号の「実作者の言葉」にも「書 みたび」、8・9月号に「書 よたび」と出てくる。

 誓子の書は、少し丸みを帯びた、細い字であるが、芯の強そうな書である。しかし、決して達筆とは言えず、書道をきちんと学んだというより、誰も真似のできない独自の書である。しかし、そこに至るまでには、いろいろと変遷が見られるのである。いきなり、「誓子流」が完成したのではない。むしろ、誓子ほど書の変化がみられる俳人はいないのではないだろうか。私は「誓子と書―「誓子流」の完成―」(『日本文化論年報』第14号、神戸大学大学院、2011年)において、いわゆる「誓子流」の完成までを、誓子の揮毫や署名の変化から5期に分けて考察した。

 学生時代の書が野風呂記念館(京都市)に保存されているが、書道を学んだとは決して言えない、素朴な楷書である。「素朴」と言ったが、晩年の書から想像できない書である。そこから、誓子は独自の「誓子流」を編み出していった。

 そんな誓子には「書」に関して転機が2つあると私は考える。

 1つ目の転機は波津女との結婚である。波津女は少女のときから、奈良高等師範学校の書道の教授に家に来てもらって、家中で習っていたのである。波津女の書は、誓子とは正反対で、流麗なくずしで「水茎の跡麗しく」と形容されるが、まさにその通りの書であり、誓子とは違い、終生その書は変わらなかった。その書道の教授の手本帖が残されているが、驚いたことにその書はまったく波津女の書と同じであった。波津女も真面目で几帳面な性格であったためか、お手本と寸分たがわぬ書であった。

 ところで、誓子は、良寛のような字を書きたいと目標にしていたが、波津女との結婚によって、誓子の書の先生は実際は波津女であった。ご遺族のお話によると、芭蕉などの江戸時代のものや短冊や色紙もくずしが分からない時は、誓子は波津女によく聞いていたそうである。草書のくずしも、波津女から学んだのである。だからかもしれないが、俳句の作品展で、波津女の清書を誓子の自筆だとした解説があり、これは誓子の自筆ではなく波津女の清書ですと何度か指摘したことがあった。夫婦とは、やはり似てくるものである。わたしなどは、ほほえましく思うところである。

 2つ目は、戦争中、誓子は結核の療養のため四日市市にいたが、空襲のため防空壕に避難するが、そこで誓子は一巻本の『草字彙』を持って入り、指で宙に草書を書いて練習したという。空襲時に何という悠長なことをしているのかと批難を受けそうであるが、誓子の気持ちは、いつ死ぬかわからない時だからこそ、自分を鍛えられるだけ鍛えよう、このままで死んでしまうと恥ずかしい思いをする、だからこそ、俳句と書を極めようとしたというのである。私なら死を覚悟したとき、何を思うだろうか。山口誓子のことは、まだまだ分からないことがあり、私には理解できないところもある。だからこそ、山口誓子を極めようと思うのだろうか。

 ところで、「実作者の言葉」の「書」では、まず、永田耕衣から揮毫するときの遅筆を指摘され、遅筆に関する先人の考えを知ろうとして『玄抄類摘』や中国の書籍から漢文を引用したり、「書 ふたたび」では、漢文の他に鬼貫、藤村を引用する。「書 みたび」では、『孫過庭書譜』の漢文をそのまま引用したが、その読みに誤りがあると読者から指摘を受け、「書 よたび」に、書き下し文を載せる。誓子も書いているのだが、漢文が分かる人は読むだろうが、ほとんどの人は読まないと。私も漢文そのままのところは読みとばしていた。

 それにしても、「実作者の言葉」には、丹念に調べる誓子が出てくるのであるが、負けず嫌いの性格がそうさせるのだろうと思う。

【新連載】口語俳句の可能性について・3  金光 舞

  前稿では、市川一男『口語俳句』(1960)を参照し、口語俳句が決して新奇な潮流ではなく、「生活と詩の直結」を目指す理念のもとにすでに理論的基盤を有していたことを示した。口語俳句とは単にくだけた言葉遣いとは違い、人々の暮らしの中で実際に使われる言葉を俳句という器に定着させる試みであると位置づけた。

 そのうえで、越智友亮『ふつうの未来』より〈すすきです、ところで月が出ていない〉〈草の実や女子とふつうに話せない〉〈焼きそばのソースが濃くて花火なう〉の三句を分析し、伝統的な季語や自然詠の型に口語的なリズムや現代語を重ねることで生まれる表現の新しさを検討した。

 〈すすきです、ところで月が出ていない〉では、「すすき」と「す好き」の音の重なりから、恋の告白を仄めかす二重性を指摘し、理想と現実の落差をそのまま提示することで生まれる欠けの美学を明らかにした。

 〈草の実や女子とふつうに話せない〉では、率直な口語によって青春の不器用さをそのまま俳句の中に定着させた点を評価し、「ふつうに」という語がもたらす日常的リアリティが新たな普遍性を生み出していることを確認した。

 〈焼きそばのソースが濃くて花火なう〉では、SNS的スラング「なう」を取り入れることで、俳句の本質である「いま・ここ」の瞬間性を現代語で再定義していることを論じ、俳句が依然として「生きた言葉の実験場」であり得ることを示した。

 これらの分析を通して、口語俳句は「生活」「青春」「SNS」など現代的なリアリティを積極的に取り込み、俳句の瞬間性を新たな表現形式として更新していることを明らかにした。その一方で、言葉の古びやすさや軽さといった危うさも抱えるため、口語俳句を「生きた言葉としての俳句」の延長上に位置づけつつ、その表現の成熟や持続可能性を今後も検討していく必要があることを確認した。


演出として

 次に、髙田祥聖の指摘を踏まえて考えたい。髙田は、1 口語俳句を特徴づけるもののひとつとして「言い回しによるキャラクター性、関係性の演出」を挙げている。


 2由緒書きをさーっと読んで梅の花

 3肩こって気疲れかしら林檎に葉

 4マフラーに顔をうずめる好きと言おう


 〈由緒書きをさーっと読んで梅の花〉この一句における最大の焦点は、何といっても中七に置かれる「さーっと」という語にある。由緒書きというのは、寺社や史跡に赴けば必ず目にする解説文であり、そこには歴史的背景や伝承、文化的価値などが丁寧に記されている。本来であれば、参拝者はそれをきちんと読み込み、対象物のありがたみを理解した上で花を鑑賞するのが真面目な態度だとされるだろう。しかし、この句の語り手はそうしない。あえて 「さーっと」と、軽く目を通す程度に読み飛ばしてしまうのである。

 この「さーっと」という副詞の効果は絶大である。もしここが「由緒書きを読んで梅の花」であれば、句は単なる観光記録、あるいは少々事務的なスナップにとどまっただろう。だが「さーっと」という言い回しが入ることで、そこには人物の気配が立ち上がってくる。几帳面に活字を追うのではなく、まぁ大体のことはわかったという軽快な態度。堅苦しいものに縛られず、むしろ今この場の梅の花を早く見たいという衝動が優先している。つまり、この句はただの風景描写ではなく、その場に立つ語り手のキャラクターを直接的に表現しているのである。

 ここで重要なのは、この「キャラクター性の立ち上げ」が、俳句という最小の言語形式の中でいかに鮮やかに行われているか、という点だ。わずか五音の「さーっと」が加わることで、読者は几帳面で理知的な人ではなく、肩肘張らず気楽に物事に向き合う人の声を聞き取る。俳句は十七音の限られた空間の中で景物を描く芸術だが、この句はそれを超えて、まるで小説の人物描写や映画のワンシーンのように人となりを立ち上げてしまうのである。高田が指摘する「言い回しによるキャラクター性の立ち上げ」が、まさにここに端的に示されているのだ。

 このキャラクター性は魅力的である。几帳面に全てを理解してから梅を眺める人物よりも、まあまあ、細かいことはさておき、まずは花を楽しもうという態度の方が、むしろ読者には親しみやすく映る。観光地で由緒書きを熟読するよりも、気楽に眺めてああ、きれいだと感じる方が人間らしい。そうした軽やかさは、むしろ現代的な感性とも響き合っている。つまり「さーっと」という言葉によって、この句の語り手は、几帳面さよりも自由さ、理屈よりも感性を大切にする人物として、鮮やかに読者の前に姿を現すのである。

 そして下五に「梅の花」という典雅な対象が置かれることにより、その軽やかさは決して浅薄なものにとどまらない。由緒や歴史を完璧に理解せずとも、梅は梅として美しく咲いている。その美しさに対して、「さーっと」読み流した人間の眼差しが直に向けられる。ここにあるのは、学知や教養を超えた生の感覚の信頼であり、だからこそ句は爽快で読む者を笑顔にさせる力を持っているのだ。

 要するに、〈由緒書きをさーっと読んで梅の花〉は、由緒ある場を訪れた人間の性格の断片を、たった一語の副詞によって浮かび上がらせるという離れ業を成し遂げている。俳句が景物の描写だけでなく、語り手のキャラクターをも描きうることを、これほど見事に示した句は少ないだろう。そのキャラクターは几帳面さとは無縁であり、むしろ気楽で軽やか、どこかユーモラスで人間味に満ちている。読者はそこに共感し、好ましさを感じ、そして自分も同じように、つい由緒書きを読み飛ばしてしまうかもしれないと微笑むのである。この句は、言葉ひとつで人が立ち上がるという俳句表現の可能性を力強く証明しているのである。


 〈肩こって気疲れかしら林檎に葉〉この一句で先ず注目すべきは、中七の「気疲れかしら」である。上五の「肩こって」だけであれば、それは単なる身体の状態の描写にとどまる。肩が凝っている、というのは誰にでも起こる日常的な感覚であり、俳句として取り立てるほどのことではない、とも思える。しかしそこに「気疲れかしら」という言葉が添えられることで、句は一気に人の声を帯びるのだ。

 この「かしら」という終助詞による断定を避け、どこか独白的で柔らかなニュアンスを湛えるその響きは、語り手が自分自身に問いかけるような、あるいは隣にいる誰かに軽く打ち明けるような調子を生む。もしここが気疲れだと言い切られていたならば、句は硬直してしまい、語り手の人柄は立ち上がらなかっただろう。しかし「かしら」と疑問形にずらすことによって、そこには自己観察と同時に微笑ましい曖昧さが生まれ、読者はこの人はきっと几帳面に自己診断をするのではなく、気軽につぶやくタイプなのだと感じ取る。この句は景物や状況の描写にとどまらず、語り手のキャラクターを鮮やかに提示しているのである。

 さらに「かしら」には、独白だけでなく誰かに向けた語りかけの気配も潜んでいる。強く訴えるわけではなく、さりげなく問いかけるような柔らかさ。読者はそれを受け取り、まるで語り手の隣で話を聞いているかのような感覚に包まれる。肩が凝っているんだけど、気疲れかしらね、と言われて、ああ、そうかもしれないねと応じたくなるような親密さが、この句の中で自然に立ち上がるのだ。俳句という短詩が、単なる情景のスナップではなく人と人とのコミュニケーションにまで広がっているのは、この終助詞の選択によるところが大きい。

 そして、下五の「林檎に葉」がこのキャラクター性をさらに補強している。林檎の実に一枚の葉が残っている。その小さなディテールは、身体の疲れを語る人物の前に、ふっと差し出されるように存在している。林檎の瑞々しさ、葉の青さが「気疲れ」という内面的なつぶやきと対比され、句全体に生活のリアリティと柔らかいユーモアを与えている。もし「かしら」がなければ、この林檎の風景はただの季語的な補足にすぎなかっただろう。しかし「かしら」という声があることで、この林檎はまるで語り手がつぶやくときに目に留めている具体物として、ぐっと生き生きと輝き出すのである。

 このように見てくると、「肩こって気疲れかしら林檎に葉」は、単なる身体感覚の報告や自然物の描写を超えて、「声を持った人物」を立ち上げている句だと言える。几帳面に説明するのではなく、ふっと気持ちを漏らす。深刻ではなく、むしろどこか可笑しみを帯びた軽やかさ。そんな語り手の人柄が「気疲れかしら」の一言に凝縮されている。そして読者は、その人柄に自然と惹かれ、句を読んでいたはずが、打ち明け話を聞く時間に変わってしまうのだ。

 俳句の世界において、キャラクター性をこれほど端的に、しかも魅力的に立ち上げてみせる例はそう多くはない。ここでは「かしら」というたった三音が、声の質感を与え、人物像を照らし出し、さらに読者との関係性を生んでいる。俳句が景色の写生である以上に、人の存在そのものを描く文学であることを、この句は力強く証明しているのである。


 〈マフラーに顔をうずめる好きと言おう〉この一句で、先ず私たちの心をとらえるのは下五の「好きと言おう」である。俳句という形式のなかで、ここまで率直に、しかも直接的な言葉が置かれることは稀だ。伝統的な俳句では、感情を余情として漂わせ、読者に汲み取らせるものだという美意識が長く支配してきたのである。ところがこの句は、その伝統的な態度をあっさりと飛び越え、「好き」という直球の言葉を句の中核に据える。その瞬間、この句はただの叙景から、読者の心に直接届く告白の場面へと一変するのだ。

 ここで重要なのが、「言おう」という意志形である。すでに「言った」わけではない。まだ心の中にありながら、これから口に出そうとしている。つまり、語り手は読者に向かって私は今、好きと言おうとしていると、その瞬間の揺れを曝け出す。これは単なる事実の描写ではなく、心の動きの実況中継である。勇気を奮い起こそうとする気持ち、言葉が喉まで出かかっているのにまだ声になっていない、その緊張の刹那が、この「言おう」に凝縮されているのだ。ここに現れるキャラクターは、決して完成した人物ではなく、むしろ未完成で揺れ動いている。その不安定さこそが魅力的なのである。

 さらに、上五中七の「マフラーに顔をうずめる」という描写が、このキャラクター性を際立たせる。寒さから顔を守る仕草であると同時に、照れや不安から顔を隠しているようにも読める。つまり「マフラー」は防寒具であると同時に、語り手の感情を象徴する小道具なのだ。その中に顔を埋めながら、「好きと言おう」と心に決めている姿を想像すると、私たちは思わず微笑んでしまう。そこにあるのは、無防備で等身大の人間像である。俳句の中に、これほどまでに具体的で愛らしいキャラクターが息づくこと自体が驚きであり、革新である。

 「好きと言おう」という言葉は、また読者との距離感を変える力を持っている。伝統的な俳句では、読者は景色を鑑賞する第三者に過ぎなかった。しかしこの句では、語り手がまるで目の前にいるかのように、直接「好きと言おう」とつぶやきかけてくる。私たちは単なる傍観者ではなく、その瞬間を共にしている存在として巻き込まれるのだ。つまり、句の中で生まれているのは、語り手と相手だけでなく、語り手と読者のあいだの親密な関係性でもある。俳句がここまで読者に肉声を届けることができるという事実は、驚異的であり、同時に非常に魅力的である。

 このように見てくると、〈マフラーに顔をうずめる好きと言おう〉は、俳句の新しい可能性を開いている句だといえる。自然や季語に感情を託すのではなく、感情そのものを口語で直接表現することで、語り手のキャラクターを前景化する。そしてそのキャラクターは、不安を抱えながらも勇気を出そうとする、まっすぐで可愛らしい人物として描かれている。読者はその人物に強い親近感を抱き、まるで隣で告白の準備をしている友人を応援するかのような気持ちになるのだ。

 つまりこの句の魅力は、単なる告白の場面を描いたことにとどまらない。「言おう」という意志形に込められた揺れによって、読者の前にひとりのキャラクターが鮮明に立ち上がり、その声が直接届いてくる。俳句の中で、ここまで具体的で親密な人間像を立ち上げるのは容易なことではない。しかしこの句はそれを成し遂げ、俳句を「人間の声を描く文学」として新たに提示しているのである。


 三句はいずれも、口語的な言い回しによって、客観的な叙景よりもむしろ語り手の声を前景化している。「さーっと」「かしら」「好きと言おう」といった言葉は、単なる描写の補助ではなく、語り手のキャラクターを立ち上げ、同時に読者との関係性を演出する装置である。つまり、高田が論じる「言い回しによるキャラクター性・関係性の演出」という口語俳句の可能性は、これら三句において具体的かつ鮮明に体現されているのである。


 1 『俳句雑誌「noi」vol.2』(2025) 寄稿:髙田祥聖 49頁を参照

 2 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 58頁より引用

 3 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 66頁より引用

 4 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 71頁より引用

英国Haiku便り[in Japan](56)  小野裕三

米国から届いた精鋭アンソロジー

 haikuを通じて知り合ったアメリカ人女性から、一冊の合同句集が届いた。『A New Resonance』という書名で、二十四年前に始まり、巻数を重ねて今号が十三巻目。以前のエッセイで紹介した『英語俳句〜最初の百年』の編者でもあり、英語haikuの唱導者としては第一人者と言える、ジム・ケイシアンが編者を務める句集で、かなり質の高い一冊と感じた。彼の序文にある一節が示唆的だ。

「(この句集には)道理を超え、私たちが既知と思うことに疑問を投げかけ、私たちを別世界へと誘い、感性を変え、狼狽すらさせる、そんな詩がある。革新と伝統の双方にとって場所があることが、詩の集団としての私たちの自負だ」

 ここに指摘のあるように、革新から伝統まで、広い振れ幅の中に優れたhaikuが並ぶさまは壮観で、その許容度は日本の現在の俳句界よりも広いように思うし、それが英語haikuの特徴でもある。


 painting the sea

 she lets the water do

 what water does    Mimi Ahern

海を描く / 水がすることを / 彼女は水にさせてやる


 insomnia

 Jupiter has changed

 windows     Agnes Eva Savich

不眠症 / 木星は変えてしまった / 窓を


 doorknob

 turning

 the world       Pippa Phillips

ドアノブ / 世界を / 回転させる


 これらの句は無季ではあるが、ある意味で大きな自然や世界という存在に真摯に向き合った句であり、かつ極めて現代的な感覚が研ぎ澄まされている。


 on a bus into the mist an idea and us

          John Rowlands

霧へと進むバス 観念と私たち


 forest fire —

 believing I’ll be

 reborn        Cyndi Lloyd

森の火事 / 私は転生する / そう信じて


 これらは有季だが、日本の俳句的情緒とは異なる感覚があり、しかしそれゆえに卓越する。そんな一方で、落ち着いた客観写生の句もこの句集には見られ、時には同じ作者でもそれが同居する。

 果たしてアメリカ人の俳人は、伝統と革新ということをどう思うのか? 知人の一人にメールで訊ねた。難しい質問ね、ちょっと回答に時間をちょうだい、と言いつつ、彼女はこんな逸話を引用した。ある時haikuの先輩に、haikuに必要な条件は何かを訊ねた。彼は答えた。

「書いた人がhaikuと呼べば、haikuさ」

 そんな奔放さは、アメリカ人らしい自由さゆえか、日本語のしがらみに囚われない英語haikuゆえか。とにかくこの句集の輝きは少しばかり羨ましかった。

(『海原』2024年7-8月号より転載)

【新連載】新現代評論研究(第13回)各論:後藤よしみ、村山恭子

★ー3 高柳重信の風景8 後藤よしみ

八 終章

 本連載では、高柳重信の句業における「風景」の概念に着目し、作品の変遷を追ってきた。敗戦後、従来の俳句概念を打ち破り、多行形式による新たな表現を切り拓いた重信の軌跡は、西洋的な象徴主義(『蕗子』『伯爵領』)から、日本的な言霊と呪術の思想(『山海集』『日本海軍』)へと、作風と形式を劇的に転換させた点に特徴づけられる。この大きな転換を駆動した力の源泉こそ、重信が向き合い、そして遊戯的に再構築した風景であった。


㈠  規範化された風景への遊戯的な対応

 重信が生きた戦中・戦後の時代は、風景が二重の意味で規範化に晒されていた。一つは、志賀重昂の『日本風景論』に端を発し、近代国家が精神的な国土を措定するナショナル・アイデンティティとしての規範的な風景である(第二章)。もう一つは、桑原武夫の「第二芸術」論をはじめ、俳壇内部からも突きつけられた形式・美学の規範である(第五章)。

重信は、これらの重圧的な規範化に対し、巧みな「遊戯」性をもって対応した。初期の多行形式による視覚的な「カリグラム」は、五七五という定型の形式的規範を打ち破る、大胆な「遊び」であった(第六章)。


森                            森 の 奥    の

の    夜                           夜    の

更  け    の         *    雪 の お く の

           拝                     眞    紅

火  の    彌  撒           の    ま ん じ 

   に 

身  を    焼  

く    彩

蛾                                       『伯爵領』 


 さらに、関東大震災と戦災により物理的に喪失した小石川の原風景(第三章)の代償として、詩人の想像力のみで架空の自治領『伯爵領』を創設した。これは、国家による国土の上からの「図式化」という空間的規範に対し、個人の詩的意志が仮構された空間を置くという下からの主体的な応答であった。


遂に 

  谷間に 

見いだされたる 

桃色花火                  『伯爵領』 

  

 この遊戯的な構築は、後期の『日本海軍』においてさらに進展させ、挑戦的な局面を迎える(第七章)。軍艦の艦名や地名という、かつての皇国史観と結びつくモチーフをあえて取り上げながら、それをパロディ(松島句)や、少年期の私的な愛着(日本海軍の組み写真)を基盤とする「遊戯的な構築」の題材に組み替えた。そのことにより、重信は公的な歴史の規範から切り離された詩的言説として、自己の深層にあった「日本的なるもの」を「図と地」の反転のように表象することに成功したのである。


松島(まつしま)を 

()げる 

(おも)たい 

鸚鵡(あうむ)かな               『日本海軍』


㈡  原風景への転回と多様性の確保

 遊戯性をもって規範化の圧力を相対化し、形式の限界という課題に直面していた重信に、新たな道筋をつけたのは、一九六五年、宿痾の悪化による入院期の風景の再発見であった(第六章)。日光・筑波の山々との対話は、少年期の眺望体験を再生させ、自己の内省と遡行を促した。このとき、風景は、単なる外界の眺めから、個人の精神と歴史的な古層が繋がる場へと転回したのである。この転回は、それまでの象徴主義から日本的なるものへの反転であり、いわば「図と地」の反転のようであった。

 この転回は、一九七一年の飛騨行で結実する。重信は飛騨の地に、日本的なるものの根源としての言霊や呪術を見出し、風景を神霊の依代と捉えた。ここで生まれた「飛騨十句」は、ゲオルク・ジンメルのいう「感情的統一」や、ニコルソンのいう「崇高」の美学を、日本的な文脈で達成している(第七章)。


飛驒(ひだ)の       飛驒(ひだ)の      飛驒(ひだ)

(うま)朝霧(あさぎり)   *  山門(やまと)の   *  闇速(やみはや)()水車(すゐしや)

朴葉焦(ほほばこ)がしの    (かんが)(すぎ)     ()(ひめ)

みことかな     みことかな    みことかな

                                「飛驒」 『山海集』


 重要なのは、この風景が、重信の詩的伝統における「多様性の確保」の場となった点である。西洋象徴主義の暗喩(心象の連鎖)と、富士谷御杖の言霊倒語論(言葉に宿る力)という、一見相容れない二つの詩的伝統が、飛騨の神話的空間において、「みことかな」の響きと共に統合された。この統合こそが、重信が長年希求してきた、西欧の概念に回収しきれない日本的なるものを、詩として定着させるための道であった。

 また、風景の獲得は、戦後の象徴主義により姿を消していた「私」(一人称)の再浮上を許容した(第六章)。


天に代りて    目醒め

死にに行く  * がちなる

わが名      わが尽忠は

橘周太かな    俳句かな          『山海集』


 規範から解放された風景は、重信の深層に沈んでいた死の体験、父母への思い(『遠耳父母』)といった私的な記憶を再び詩的言説の核として機能させ、内面の真実を語る主体を回復させたのである。一行形式の山川蟬夫作品にも、その系譜は見て取れる。


㈢  創造性のトリガーとしての風景

 高柳重信の句業を総括すれば、そこで獲得された風景は、単に自然を写し取ったものではなく、喪失を抱え、規範に抗い、遊戯によって解体され、内省によって再構築された多層的な心象の場であった。

 この風景の獲得こそが、多行形式の実験が行き詰まりを見せていた重信に対し、四行形式・総ルビという新たな形式と、言霊・地霊に満ちた新たな内容をもたらし、重信後期の創造性のトリガーとなった。

 高柳重信の全生涯は、風景をめぐる個人の精神の抵抗と創造の軌跡であった。彼は、外界の風景の深部に潜む詩的契機を逃さず掴み、それを遊戯と呪術という詩的な行為によって、創造の磁場へと転回させる実践者であった。高柳重信の残した風景は、今もなお、私たちに、失われたものこそが創造の源泉となるということを示している。


★―7:藤木清子を読む5/村山恭子

5 昭和10年 広島県 藤木水南女で出句 ③


  夫病みて十年めぐりぬ秋の蚊帳      京大俳句10月

 夫が病んで十年になりました。〈めぐりぬ〉から十年の間に起こった様々な出来事が想い起こされます。また〈秋の蚊帳〉で休んでいる夫は、長年の闘病からやつれており、その姿を見つめる眼差しは、やさしくもあり冷ややかでもあります。

   季語=秋の蚊帳(秋)


  心の瞳砥ぎつ幾夜ぞ虫鳴けり       同

 〈心の瞳〉とは普段は隠している、自身の心眼です。物事の大事な点を見通す、鋭い心の動きを表し、〈幾夜〉も砥ぎ澄ましてきました。夜の静寂の中、身ほとりについて深く考え、また内観する姿が、虫の音と呼応しています。

   季語=虫鳴く(秋)


  夫かなし野鳥鳴く音にさへ怯え      同

 〈かなし〉は「悲しい」と「愛おしい」の二つの感情を併せ持った言葉です。自分の手ではどうしようもない状態に堪えて、野鳥の鳴く音に怯える夫の姿は、みじめでもあり、守り続けたい存在でもあります。

   季語=無季


  初秋よし静脈透きて脈搏つよ       旗艦11号・11月

 秋の初めの頃は、暑さはまだ厳しくとも僅かながらも秋の気配が感じられます。

 〈初秋〉はよいと言い切り、青い静脈が透いて見える白い手首をしっとりと見つめています。また〈脈博つよ〉に命の鼓動を感じます。

   季語=初秋(秋)


  初秋よしオークル色のわが肢体      同

 〈オークル〉はフランス語で「黄土」を意味し、黄みと赤みのバランスのとれた肌色です。〈オークル〉の長音が視覚と聴覚により、手足と身体の伸びやかや様子を表します。

 秋の気配を感じながら、自身の肢体を賛美しています。

   季語=初秋(秋)


  秋讃へミレーの落穂わが拾ふ       同

 秋を優れたものとして心からほめています。

 ミレーの『落穂拾い』のように農作業をしている実景とも取れますが、〈わが拾ふ〉から内面性が感じられ、貧しくとも生存していく清廉さ、美しさがあります。

   季語=秋(秋)

【連載】現代評論研究:第16回各論―テーマ:「鳥」その他――藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

(投稿日:2011年12月09日)

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

残酷ニデスネ。エエ梟ノヨウニデス

 「層雲自由律2000年句集(注①)」所収の平成6年の作品である。梟という字は鳥と木から成り立っており、獲物を木に突き刺すその方法がちょうど磔に似ていることから晒す、猛々しい、強い意志を示す語となっている。梟師、梟首、梟猛、梟雄などの強く厳しい言葉などが多いのも頷かれる。

 さて掲句だが、その梟の残酷さを示すが如く、異常なドラマ展開の中での問答形式で表されている。しかも漢字とカタカナ表現でその切っ先の鋭さ、ゴツゴツ感から残酷さを増幅させているかの如くに。この様に句読点を含め、自由律の表現には如何様にもドラマの展開を拡げていける自由と奔放さが潜んでいる。しかしこの作品あたりが一行詩とのギリギリの境界に立つものであろうかとも。俳句というものを形式ではなく詩的内容で捉える限り許容される範囲と考えるのだが。


おんなの骨に梟なき 月日すぎました   昭和62年作

 この句の場合は、亡くなった女の記憶が月日の中で角質化してゆく過程を、梟の鳴き声をおんなの骨に潜ませることによって再認識させる構成となっている。また一字空白はその時間的な落差を示しているものと言えよう。狂言に「梟山伏」というのがあり、梟にとりつかれて奇声を発する病人を直そうと山伏が祈るが、自分が奇声を出し始めるという内容のもので、梟の鳴き声はそのように意識下で伝搬してくるようである。

 梟と言えば山頭火の「ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない」という句があったのを思い出す。やはり梟はネガテイブな雰囲気を持っているようである。

 圭之介には鴉の句も多くみられる。


木の椅子が一つ 鴉ぎようさん啼いていた       昭和23年作  注②

鴉よ かれ独りの ときのうしろ姿を おもえ(山頭火)昭和25年作  注②

二羽の黒い鳥が的確に空間              昭和28年作  注②

人間笑う以前カラスぎようさん笑う          昭和38年作  注②

生(なま)のもの口にしてカラス不敵に笑う      昭和40年作  注②

あらうみからすをとばす               昭和48年作  注②


 鴉の場合はその存在が常に人間(自己)に対峙するものとして表現されている。その数が一羽でも二羽でもぎようさんでも、その不穏な反意は裏返せば人間そのものに存するとも言えよう。つまりは人間の奥底に潜んでいる鴉をえぐり出すが如くに。それは山頭火に対しても同じような思いであったであろう。

 その他「鳥」に関する句と詩の断片を若干列記する。


鳥の渡る湖がランプもう灯していた         昭和24年作 注②

鳥ら空の道の明るさにつづく            昭和30年作 注②

気管の奥に断崖 海鵜の啼く時もある        昭和55年作 注②

鳥の貌北へ北へその日河口空瓶(くうびん)一個   昭和56年作 注②

署名をする海鳥の啼く古里の中で          昭和58年作 注②

林の部分が明るいのは其処へ一羽で行くんか     昭和59年作 注②


<パレットナイフ 2>  注③

Ⅰ この時間は黄泉のくに珈琲房

星座と呼ぶ仮面の女 そのまなざし

(ドリップがこれから香るのだ)

Ⅱ 憎悪は一本の影

太陽に位置の確かさ

Ⅲ 少年は性の倒錯を宿し数年経た

どこにも通り抜ける道を持たずに

――いらだちのサラダ私に青い

Ⅳ 刃のごとく窓に映る河

内なる凶

沈黙と溶暗

Ⅴ 虚空(そら)が一羽の鳥を溶岩に変えて堕した

二枚の翼の重さ 鳥の半生


注①「層雲自由律2000年句集」合同句集 層雲自由律の会 平成12年刊

注②「「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊

注③「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会 平成17年刊


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 いろ恋に邪魔なふんべつ鳥雲に

 昭和39年作、『冬濤』に所収される作品である。

 鳥たちがはるか大陸へと帰っていく「鳥雲に入る」は、きくのの気に入りの季語であったと思われ、第一回の感銘句に挙げた

 歯でむすぶ指のはうたい鳥雲に  『榧の実』所収

を始め、

 似合はなくなりし薄いろ鳥雲に 『榧の実』所収

 買物籠充たす玉ねぎ鳥雲に  『冬濤』所収

 拍子木にきざむ豆腐や鳥雲に  『冬濤』所収

 銭かぞふ女の指よ鳥雲に 『冬濤』所収

と、どれも軽い嘆きを伴うように詠んでいる。

 冒頭に引いた作品には「いろ恋に邪魔なふんべつ」と、勇ましい言葉を発しながら、はるか雲間に鳥の影が紛れる様子を見ることで、実際には常識に縛られながら生きていかねばならないため息が混じる。

 また、

 ふつつりと絶ちし想ひよ鳥雲に 『冬濤』所収

 昭和41年に作られたこの作品は、30年近くの時間を共にした恋人が亡くなった年である。「ふつつりと絶ちし」とはいっても、決して自ら望んだものではなく、死によって一方的に「絶たれてしまった」関係への想いである。ことにきくのの場合、同居する関わりを持てなかったこともあり、会えるの会えないのという焦燥に人一倍苦しめられてきた。待つことに慣れている身には、もう二度と会えないという実感がなかなか湧かないのではないか。やり場のない憂愁を胸に抱きつつ、空の彼方に消えてゆく鳥たちを遠く眺め、この失意をどこか遠くへ持ち去ってもらいたいという願いが込められているようだ。

 こうしてみると、元来感傷的な季語ではあるものの、きくのの「鳥雲に」にはことさら現実を逃避したいこころ、また社会のしがらみからの解放を願うこころが描く幻影に見えてくる。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 冬の雁空では死なず山の数

 昭和53年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 齋藤玄は鳥が好きだった。

 鳥好きに雀ばかりの麗かさ 昭和47年作 『狩眼』

と表白していることからもうかがえる。数量的な根拠としては、後半生(昭和46年から昭和55年)の三句集だけで110の鳥の句があり、全体の12パーセントに相当する。(三句集合計938句中、『狩眼』43句、『雁道』43句、『無畔』24句)

 前回の「桜」13句に比べると「鳥」の句は8.5倍に相当する。

 これまでにも「冬」「精神」「夏」「色」の項で、玄の鳥の句を紹介してきた。あらためてあげておくが、内容に関しては重複するので割愛する。

 玄冬の鷹鉄片のごときかな   昭和16年作 『舎木』

 骨ひらふ手は初雁を聴いてゐる   昭和16年作 『舎木』

 膝立てて大露の雁をゆかせけり   昭和17年作 『飛雪』

 つぎはぎの水を台(うてな)に浮寝鴨   昭和48年作 『狩眼』

 すさまじき垂直にして鶴佇てり   昭和49年作 『狩眼』

 寒風のむすびめごとの雀かな   昭和50年作 『雁道』

 雁の道のごとくに死ぬるまで   昭和53年作 『雁道』

 雁のゐぬ空には雁の高貴かな   昭和53年作 『雁道』

 雁の道はなかりき水景色   昭和53年作 『雁道』

 雀らの地べたを消して大暑あり   昭和53年作 『雁道』

 このなかでは、〈玄冬の鷹鉄片のごときかな〉が秀抜。大空に舞う鷹を〈鉄片のごとき〉ととらえた感性は現代的である。厳寒の大空を舞う鷹に自己を重ね合わせながら、その鬱屈感が象徴的に表現されている。この句の鑑賞と作句時期の時代背景については「色」の項で詳しく述べたので、そちらを参照されたい。

 戦前の作品では、ほかに次のようなものがある。

 枯るる園雌雄の鷹をわかち飼ふ   昭和13年作 『舎木』

 鷲鬱と青き降誕祭を抽(ぬ)く   昭和15年作 『舎木』

 〈枯るる園〉の句は、自註(*2)によると函館公園に飼われていた鷹で、雌雄が別々の檻に入れられていたようだ。大空を舞うことも、つがいで寄り添うこともままならない檻のなかの鷹の凄まじさを詠んでいる。冬枯れてゆく動物園の情景に24歳の玄は己を投影させていたに違いない。

 〈鷲鬱と〉の句では、降誕祭、つまりクリスマスの夜の鬱屈した心理を鷲に託して描いているが、言葉が具体的な心理を射抜いておらず、上滑りの感は拭えない。総じて、戦前は「鷹」「鷲」「雁」など比較的大型の鳥を詠み、青年期の作者の鬱勃とした心情と重ね合わせた作品が多いようだ。石川桂郎、石田波郷に出会う前ということもあるのか、この二句からは凝視の果てに対象の本質をえぐり出す、晩年の玄作品に特徴的な「確かな眼」はあまり感じない。

 癌の妻風の白鷺胸に飼ふ   昭和41年作 『玄』

 割腹死鶲(ひたき)撒かるる空の端   昭和45年作 『玄』

 主宰誌「壺」を休刊し俳壇から遠ざかっていた昭和28年から昭和45年までの沈黙期の作品から二句あげた。〈癌の妻〉の句は第三句集『玄』に収録された連作「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」のなかの一句。ベッドから起き上がった妻の後ろ姿と畦に佇む白鷺の風姿が重なり合って哀切。自注には「醜くなった妻を俳句でしか飾れない」と悲痛な文章を残している。(*2)

 〈割腹死〉の句の前詞は「三島由紀夫の死」。死と鳥の組み合わせはヤマトタケルの昔から度々現れてきた文学的モチーフではある。オレンジ色の胸を持つ鶲の群れが空を飛ぶさまを〈鶲(ひたき)撒かるる〉とした措辞が印象的。

 笹鳴のまにまに麻酔きかさるる   昭和52年作 『雁道』

 病室の空のいづちへ揚雲雀   昭和52年作 『雁道』

 患者食こんにやくつづき百千鳥   昭和52年作 『雁道』

 三句ともに「入院、腹部切開手術を受く 五句」中の句。入院生活の日常の寂しさを描きながら、どこかに明るいユーモアを感じるのは、〈笹鳴〉〈揚雲雀〉〈百千鳥〉といった季語の恩寵であろうか。鳥の鳴き声や軽やかな振る舞いが病者の心に明るく健やかなものを与えているのが読み取れる。師である石田波郷と同様に死線をさまよいながらも詠嘆に流されることなく、一種の軽みさえ感じる句をなせたのは、俳句に対する信頼と一句独立の精神が根底にみなぎっている故だろう。

 蹼(みずかき)に乗つたる鳥や雪催   昭和52年作 『雁道』

 〈蹼(みずかき)に乗つたる鳥〉も軽妙な感じを受ける句だ。それは「蹼」という難しい漢字のあとに〈乗つたる鳥〉というひねりを加えた表現の効果だろう。重苦しい印象のある〈雪催〉の前を切字の「や」で一拍置いているのも良い。言葉の重い、軽いを交互に配しながら水鳥の姿を描出しており、巧みである。

 冬の雁空では死なず山の数   昭和53年作 『雁道』

 〈空では死なず〉も読みようによっては諧謔のように見えなくもない。雁にとっての〈空〉は日常であり、そこで死ぬことはないという断定は、自己の死に引き寄せて考えているようにも読めてくる。下五を〈山の数〉と抑えたことで雁の骸を抱いている山が累々と連なっている景が見えてくる。山をすべての命の根源として捉えるならば、根源回帰への希求ともとれる。

 生きかつ死なねばならない恍惚と恐怖。玄の鳥の句を読むたびにそのことがしきりに胸にこみ上げてくる。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 首都の芝厚し栗鼠・鳩・老婆あゆみ

 『火づくり』(1962年)最終章「火の章」の句。「太陽の専制」と題された連作50句の劈頭を飾る「アメリカ 九句」より。

 見事に手入れされた厚い芝生がどこまでも広がる公園。愛くるしい栗鼠が垣根づたいにひょいと顔を出し、一瞬じっと何かを見つめてから、するすると走り去る。子どもの撒くポップコーンに鳩があつまり、ふくよかな老婦人は脚をいたわるようにゆっくりと散歩を愉しんでいる。

 1960年6月、国際棉花諮問委員会出席のため渡米した葦男は首都・ワシントンに滞在した。葦男の眼をまず捉えたのは、超大国の首都の美しさである。ナショナル・モールの緑あふれる景観はもとより、輪奐たる諸官庁の建物やオフィスビルの合間にもここかしこに分厚く敷き詰められた芝生は、金銭的尺度や軍事力だけでは測り得ないアメリカの豊かさ、底力というものを思い知らせたに違いない。祖国・日本を完膚なきまでに打ちのめした超大国の凄みを、葦男はビジネスシューズで踏む公園の芝生の厚みから感じ取っていた。

 筆者がこの作品を「鳥」の句として取り上げたのには理由がある。第一句集『火づくり』837句には鳥を詠んだ作品が31句ある。しかし、全206ページの69ページ目に位置する鳥の句No.23「つばくらの白胸(しらむね)よごる街貧しく」のあと100ページ近く鳥を詠んだ句は一つもなく、163ページ目に至ってやっと出現した鳥の句No.24が即ち「首都の芝厚し・・・」なのである。制作年代にして1952年から1960年まで足かけ9年間に及ぶブランクは何を意味するのであろうか。

 無論、葦男が9年間ものあいだ鳥の句を一切詠まなかったわけではない。例えば1954年5月に発行された「十七音詩」第3号には「君と見し夕日のごとし雁啼けり」という作品も見える。しかし、『火づくり』編纂時の葦男はこれを採らなかった。

 ところで、鳥の句の空白期は『火づくり』第三章「地の章」をまるまる含むが、実はこの「地の章」は『火づくり』刊行当時、集中のアキレス腱と見なされていた形跡がある。今、1963年5月発行の「十七音詩」第25号<火づくり特集号>の座談会「“火づくり”を手にして」を披見すると、鈴木六林男ら同時代の俳人たちは「風の章」から「水の章」への深化を高く評価する一方、「地の章」については「低迷」「足踏み」「勇み足」等の言葉で忌憚なき評定を下しているのだ。

 しかし逆にいえば、「地の章」の時代こそ葦男が全身全霊を賭けて俳句表現上の試行錯誤を繰り返した歳月だったともいえよう。僻目かもしれないが、葦男が新しい表現や思想の地平を開くため、敢えて好きな鳥の句を封印するという「鳥断ち」の挙に出たのではないかなどと筆者は想像してしまう。

 葦男が約2ヶ月の外遊を終えて羽田空港に降り立ったのは1960年7月14日であった。同じ日、アメリカの民主党大会においてジョン・フィッツジェラルド・ケネディが大統領候補に指名された。指名受諾演説で彼が高らかに掲げたスローガンが「ニュー・フロンティア」である。


For the problems are not all solved and the battles are not all won—and we stand today on the edge of a New Frontier … But the New Frontier of which I speak is not a set of promises—it is a set of challenges. It sums up not what I intend to offer the American people, but what I intend to ask of them.


 アメリカで始まろうとしていたフロンティア精神の復興運動。その息吹を目の当たりにした葦男の俳句にようやく鳥はもどって来たのだ。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 羽抜鶏の抜けつ放しで遊びをり   安川貞夫

 掲出句は第2句集『独酌』(1961年1月 青玄発行所)所収。作者は1919年(大正8)生まれ、奈良県出身。軍隊時代に伊丹三樹彦と出会ったのがきっかけで俳句への関わりが始まり(同じように俳句と出会った楠本憲吉と戦後すぐに日野草城の家を訪れている)、1949年(昭和24)に「まるめろ叢書」第4として第1句集『小盃』を刊行(「まるめろ」は草城が指導、三樹彦が編集で1946年に創刊した俳誌、ちなみに叢書第2が桂信子の『月光抄』)。「青玄」には創刊から参加。『独酌』は1949~60年までの作品220句余りを逆年順に収録、掲出句が収められた1958年(昭和33)の章の作品12句は、すべて「羽抜鶏」がモチーフとなっている。

 そこで、「羽抜鶏」という季語を手元にある歳時記で改めて見直してみると、

西日が射しこむ鶏舎の中で、羽抜した鶏の姿は、なんとも見すぼらしく、哀れである。鶏冠の色まで暗白色にかわり、しょぼしょぼと歩くさまは滑稽ですらある」(講談社版『カラー図説日本大歳時記』より、筆者は飯田龍太)、

昔は、農家の庭で放し飼いにされていた鶏が哀れな姿をさらして駆け回ったりする光景がよく見られた。滑稽味のある季語。(『今はじめる人のための俳句歳時記』角川文庫)

というように羽根がだんだんと抜け落ちてゆく姿に対する「哀れ」さと羽根を散らばらせながら駆け回る姿への「滑稽」さ、人間サイドからの目線に基づいたこのふたつの感情が受け継がれていきながら「羽抜鶏」は存在しているわけである。

 掲出句以外の作品での「羽抜鶏」たちは、「身辺を抜け羽が舞へり羽抜鶏」「抜け羽の行方へ一顧羽抜鶏」「羽抜鶏の尻うごきをり草の中」といった身近にいる鶏自身の羽根が抜け落ちてゆく動きをじっと見つめ続けたところから生まれた句があると思えば、「バスの砂塵へ片目つぶって羽抜鶏」「雲見る間も羽抜けやまず羽抜鶏」「天想うこと多くなり羽抜鶏」「羽抜鶏の尻を見しより母恋し」というような自分自身のいまの姿を鶏に投影したかのような作品も現れる。鶏の尻から母の後ろ姿を想う姿は母恋いには珍しいのではあるまいか。「羽抜鶏の雄が羞らう雌の前」「狡い雌とはなれて雄の羽抜鶏」では雌の優位に対して雄であることへの無力を訴えてやまないのは男性である自分自身、己への「哀れ」「滑稽」の投影もここに極まれりというところなのだろうか。「羽抜鶏どうしであそぶ沼に映り」「沼に映る凡夫につづく羽抜鶏」は沼という独特の不気味さを醸し出す場所との取り合わせを通じて、生命としての存在そのものの不確かさを写し取ろうとしている、その先にあるのはもちろん自分自身の不確かさなのだろう。

 そして掲出句の「羽抜鶏」である。この鶏は羽が抜け落ちてゆく真っ只中にありながら、それがどうしたと言わんばかりに周辺を堂々と走り回る。作者を含めた人間たちから向けられる「哀れ」や「滑稽」の目線などはいとも易々と跳ね返し、夏の暑さにおろおろともせずに走り回る。もしかしたら「抜けつ放し」を恐れることのないたくましさこそが本当の「羽抜鶏」なのかもしれない、と思わせてしまいかねないぐらいである。作者がこの1句を外さなかったのも、己が生命もまたこのようにたくましくありたいものだ、との感慨が鶏を見つめながらよぎっていたからだろうか。

 著者の第1句集『小盃』に日野草城は序に次の一文を送っている。

「安川貞夫罷り通る」

 その安川貞夫氏の目の前を、羽抜鶏たちははつらつと動き回っている、羽を全身からほとばしらせるかのように飛び散らせながら。まさに「羽抜鶏罷り通る」。


●―9上田五千石の句/しなだしん

 火の鳥の羽毛降りくる大焚火   五千石

 第四句集『琥珀』(*1)所収。昭和五十八年作。

 「火の鳥」の句であるから、厳密にいえば「鳥」の句とは云えないかもしれない。五千石には「渡り鳥」をはじめ、多くの鳥の句があるが、今回はこの「火の鳥」の句を紹介したいと思った。

     ◆

 火焔鳥、不死鳥、フェニックス、様々に呼ばれる火の鳥は、永遠の時を生きるという伝説上の鳥。数百年に一度、自ら香木を積み重ねて火をつけ、その火に飛び込んで焼死し、その灰の中から再び幼鳥となって現れるという。ちなみに鳳凰とフェニックス、東西の聖なる鳥の代表としてよく混同される両者だが、フェニックスのルーツはエジプトにあり、歴史書によれば、形態は猛禽類(エジプトで愛好されていた鷹)に近い。それに対して鳳凰は長い首、尾羽など孔雀に近い見た目をしており、そのルーツはインドにあるという。また鳳凰は雌雄の別があり卵も産むのに対してフェニックスは単性(雄)生殖をするとされているところに大きな違いがある、とのことだ。

     ◆

 この句は「火の鳥」を詠ったものではなく、この「火の鳥」は大焚火の比喩として使われている。

 五千石は大焚火を前にして(目の前にしたわけではなく、題詠ということも考えられるが)、舞い上がる火の粉を追い視線を上に向けたとき、炎に染まった夜空に「火の鳥」を認めたのだ。そしてその「火の鳥」が羽ばたきを見せたとき、羽毛がしずかにゆっくりと舞い落ちてくるのを見た。そんな幻想の後、現実の眼前には焚火がまた炎をあげる。それは不死鳥の数百年に一度の再生を見るがごとくである。

     ◆

 題詠という可能性に触れたが、『上田五千石全集』 (*2)の『琥珀』の補遺、「畦」昭和58年2月号には、「左義長や火の切れ宙にむすびあひ」「かんばせをどんど明りにまたまかす」「山風に焔あらがふ磯どんど」という「左義長」を詠んだ句が残っている。これらの作品のどこかに掲出句に通ずるイメージを感じるのは私だけだろうか。

 この頃の吟行時の作品には前書きがあるが、この一連の「左義長」の句にはそれがない。「左義長」の題詠だったことも大いに考えられる。そして掲句が「左義長」の一連として詠まれ、「焚火」に推敲されたとも考えられなくない。

     ◆

 掲句、「火の鳥」自体誰も見たことがないだろうから、読み手によってそのイメージは随分異なるかもしれない。ただ「焚火」に対して「火の鳥」を単に持ち出しただけでなく、その「羽毛」という細かい描写を加えたのが、五千石の技であり、詠み手の想像力を刺激するところだろう。


*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊

*2『上田五千石全集』 富士見書房刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 私は船お前はカモメ海玄冬

 前号、鑑賞文の中で例句として取り上げたが、再度、憲吉の技法を確認するために取り上げよう。

 61年、『方壺集』より。玄冬は間違いではない、「厳冬」は寒い冬だが、「玄冬」は中国の5行説で色彩と四季を組み合わせたとき、青春、朱夏、白秋、玄(くろ)冬と呼ばれるからだ。極寒の冬を連想しなくてもよい、おごそかな冬の季節感を感じ取ればそれでよいのだ。

 憲吉には、既に述べたように他の俳句や詩、歌謡の借用が多かったが、これに通じるものとして、こうした対句の構造が多い。それも、月並みではない、しかしいかにも通俗的な使い方が目立つことだ。この句で見れば、たちまち歌謡曲の一節が思い出されるが、「私は船お前はカモメ」はありそうでない歌詞だ。しかし、私は船あなたは港、私はカモメ・・・など類した歌謡曲を探すことは苦労は要らない。

 蘭は絃、火焔樹は管、風は奏者

 曇り日の風の諜者に薔薇の私語

 ひらひらとコスモスひらひらと人の嘘

 足跡に春日洽(あまね)し潮騒遠し

 ヒヤシンス鋭し妻の嘘恐ろし

 ヒヤシンス紅し夫の嘘哀し

 ”矛盾”それは花言葉ではない君言葉

 巨花か巨船か流離のごとき熱の中

 君と白鳥探すこの旅死探す旅

 ひまわり多感 中年よりも南風(はえ)よりも

 我を愛せとバラ我を殺せとまんじゅうしゃげ

 二日はや死と詩が忍び足でくる

 鴨遊ぶ池畔孤客でおしゃれで僕で

 鴨川を何か流るる心か何か

 湖は秋波で僕は秋波でホテルは何波

 とある女ととある話の虫の宿

 没日何色私はあなたの何色

 天に狙撃手地に爆撃手僕標的

 このように見てくると、くすぐったくはなるが、作詞家であれば阿久悠の感覚に似ているかもしれない。かるく、しかしどこか心が疼けばそれでよいという詠み方なのである。

 戦後俳句は、稲垣きくのや斎藤玄も必要だが、一方でこんな感性も生んでいる。戦後俳句の豊饒さを言うときにはどちらも忘れられない人々であると思うのである。兜太、重信、龍太、澄雄ばかりが戦後俳句なのではない。通俗性は、戦後俳句の特徴の一つであり、やがて「俳句って楽しい」という、とても文芸とは思えないキャッチフレーズまでが生まれ始める。確かに楠本憲吉はそうした風潮の責任を負うべき最初の作家であり、戦犯である。ただ厭うべき戦犯ではなくて、愛すべき戦犯と思ってほしい。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 鷓鴣は逝き家の中まで石河原

 シュールレアリストによる自働記述のような句である。四次元空間に入り込む気分になる。「逝」という字意に文学的匂いのする鶏・「鷓鴣」への愛着があったことを伺わせ、鷓鴣への追悼、そしてその悲しみの彼岸の風景が家の中まで入りこんでいるように読める。これを第一の読みとしてみる。

 さて、掲句は句集『鷓鴣』のタイトルになっているだけでなく、中扉に三鬼、白泉、敏雄の鷓鴣の句を錚々と鎮座させている。戦国三武将の風格である。

 鷓鴣を締むおそるる眼かたく閉づ 西東三鬼

 新興俳句の旗手として名高い三鬼。ルナアルの『にんじん』の中で岸田國士によりヤマウズラ族の雛が「鷓鴣」と訳されている。三鬼補遺にある「『にんじん』を詠む」と前書き風タイトルがついた昭和9年の作品の一句である。二羽の鶏が殺される場面に恐ろしさのあまり眼を閉じるのは三鬼である。その後の三鬼が、新興俳句弾圧に従うままでいるしかなかったようにも読める。

 塵の室暮れて再び鷓鴣を想ふ 渡邊白泉

 白泉からは、漢詩の叙情が伺え、「想ふ」に孤独感が漂う。白居易『山鷓鴣』の心情に近い。これも発表後の事になるが、新興俳句弾圧後、俳壇から距離を置いていた白泉のボヘミアン的身の上を重ねあわせると、群れから外れたその身が毎朝毎晩啼きつづけていた鷓鴣をたびたび思い出しているように読める。「塵の室」が、穢れた世ながら貧しく高貴に映る。痛々しい淋しさを伴う句である。

 そして三句目に敏雄の鷓鴣の句。先師とともに掲げた句が意味することが第二の読みである。

 「鷓鴣」を「俳句」と置き換えてみる。敏雄が想う、三鬼、白泉、敏雄のそれぞれの立ち位置が見えてくるようだ。ひとつひとつの石は敏雄が目覚めた新興俳句という新しさを求めた俳句への鎮魂。外から内に繋がり境の区別が無くなっている賽(さい)の河原の風景である。その石々を家の中で積み上げている敏雄の背中を想うのである。弔いと創造を繰り返す俳句への思いと読めてくる。そして、どこか途方に暮れている印象がある句である。

 『眞神』から『鷓鴣』の刊行まで約五年のインターバルがあるが、制作年に於いてこの二句集は同時期である。両作品とも敏雄俳句史に於ける新興俳句からの起死回生といえるだろう。『鷓鴣』での彼岸の捉え方が微妙に『眞神』と異なることに注目しながら更に読み進めて行きたい。


●―13成田千空の句/深谷義紀

 白鳥の花の身又の日はありや

 第2句集「人日」所収。

 千空作品の中で最も多い季語は「雪」である。青森、それも雪の多い津軽の五所川原を終生離れることがなかった千空だから、これは謂わば当然の結果だろう。ところが、それに次いで多いのが「白鳥」。これは、やや予想外の結果だと言える。確かに東京などと異なり、青森には冬季になれば白鳥が多数飛来するから、白鳥を見かけることがさほど珍しくないという事情はあるだろう。しかし、そうは言っても、他の作家の場合「白鳥」の作例はそう多いとは言えないし、この点はやはり千空の句業の一つの特質であろう。

 掲出句以外の「白鳥」の句を挙げる。

 波なりに冬去る白鳥の墓一基   「地霊」

 白鳥の黒豆粒の瞳を憐れむ    「人日」

 白鳥の遥かな一羽父なるか    「天門」

 白鳥千羽東にひらく海と空    「白光」

 白鳥の声かすめ去る夢の端    「忘年」

 白鳥の飢ゑのうら声風のこゑ   「十方吟」

 各句集から一句づつ引いた。

 これら「白鳥」の句を眺めているうちに気付くのは、白鳥に千空の様々な想いが込められているということである。千空は白鳥を客観視するのではなく、かけがえのない存在の人間に接するような眼差しを注いでいる。上述の句に即して言えば、或る時は“墓を遺して逝った男”を、或る時は“幼少時に死別した父”を、或る時は“凶作による飢饉に見舞われた津軽の先祖たち”を、それぞれ見ているのである。

 では、なぜ千空はこの「白鳥」という対象に惹かれ、このように己が想いを託したのだろうか。以下は、全くの独断である。

 五所川原からさほど離れていない津軽外が浜には「雁風呂」「雁供養」の伝承が残る。津軽の人達は、春になると砂浜に残る木の枝を拾いながら、北に帰ることができなかった雁の霊を弔うという。千空が白鳥を見る眼差しに、これと相通ずるものがあったような気がしてならない。

 純白の白鳥の姿は確かに美しい。だが、長い旅路の中途で力尽きるものも少なからずいるだろう。また、たとえ無事に辿り着いても飛来した地で斃れていくものも多い筈である。眼前の白鳥と来年再び相まみえる事は不可能と言ってよいだろう。掲出句では、運命の過酷さに裏打ちされた、哀しいまでの白鳥の美しさが詠われている。


●―14中村苑子の句  【『水妖詞館』―― あの世とこの世の近代女性精神詩】41.42.43.44/吉村毬子

41 鐘の音の絡みて震ふ髪を梳く 

 以前、鑑賞した4.の句の拙文の最後に以下がある。

 4.跫音や水底は鐘鳴りひびき

 苑子の詠む「水」はなぜか粘りを持つ。跫音は冴え、水は透明でさらさらと流れ、鐘の音は美しく澄む。だが、苑子の水底に捕まると、それらも清澄なものを湛えながら絡まっていくのである。(中略)跫音と鐘の音は、永遠に響き、そして絡まっていくのであろう。

 先日も〈5.撃たれても愛のかたちに翅ひらく〉と〈30.愛重たし死して開かぬ蝶の翅〉の両句の関連性を論じたが、今回の「鐘」もまた、4.の句との繋りを予知した訳ではなかったが、自ら、予告したような文章を書いていたことに驚きながらも、納得している次第である。

 掲句の「鐘の音」が、4.の句の「水底」から聴こえてくる音なのかは、書かれていないのであるが、「髪を梳く」行為は、髪を洗った後に必ずすることであり、水を裏付けている。私はまた、4.で〈躰の水底に鐘があり、水底が鳴っているのだ〉と論述したが、今回の句も自身の水底の「鐘の音」が絡んで「震ふ髪を梳く」のだとも思える。

 鈴=〈34.鈴が鳴るいつも日暮れの水の中〉や、鐘のその美しい音色は、神仏との交信とも云われ、湖には寺院が沈んでいて、ときとしてその鐘の音が聞こえる、などという日本各地に残る沈鐘伝説とともに、苑子の魅かれるものであったのだろう。苑子は、民話や伝説が好きであった。

 苑子の好んだ紀州には、僧の安珍に裏切られた清姫が蛇に変化(へんげ)、変成(へんじょう)し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺すという、安珍清姫伝説がある。

 そして、福井県敦賀の金ケ崎には元禄2年8月、ここを訪れた芭蕉の句碑がある。

  月いつこ鐘は沈るうみのそこ  松尾芭蕉

 『奥の細道』には記されていない句だが、宿の主から聴いた沈鐘伝説を一句にしたそうである。福井への旅を私に勧めていた苑子も訪ねた地かも知れない。また、即身仏の行者は、生きたまま木棺に入り、その中で断食をしながら鐘を鳴らしてお経を読み続けたと云われる。

 「鐘の音」が、古代の神仏の遥か悠久の時より鳴り続け、女の髪に絡みついて震える。その「震ふ髪を梳く」一刻(いっとき)、巫女のごとく、鐘とともに水底に沈んでいる者達の憑代となっているかのようである。苑子は、それらの美しく荘厳な悲哀の鐘の音を確かに聴いているのである。


42 若き蛇芦叢を往き誰か泣く

 蛇は古代より神の象徴である。眠らず脱皮して若返る(ように見える)、強い生命力は、生と死を超越した存在として崇められる。陸上のみならず、水の上や、さらに木の上までとどこまでも素早く移動できる事が、昔の人をして、あの世とこの世の往来さえ可能だと思わせていた。

 〈あの世とこの世を往き来する女流俳人〉の異名を持つ苑子も、「花」や「桃」に次ぐほど多くの「蛇」の句を残している。後日鑑賞することになるが、『水妖詞館』にも他に2句を掲載しているし、その後の句集にもいくつかの蛇を登場させている。

  草擦りの野擦りの蛇へ火を放つ      苑子『四季物語』 

  荒髪も蛇と長けるぬる水鏡         〃『吟遊』

 今回の句は、句集に収めた「蛇」の句では最初の作品である。が、『水妖詞館』は62歳刊行であり、編年体で作成した句集ではないため、何才頃の作品かは解らないのである。しかし、『四季物語』や『吟遊』からの掲出句よりもやはり若書きの感はある。

 「若き蛇」は青年であろう。「蛇」の強い生命力は性の象徴でもある。高さ2メートルにも伸びる大群落を作る「芦叢」は川辺に自生する。蛇は、川の姿に重ねられ、水神とも伝えられることから、「芦叢」は、蛇の思うがままに支配できる場所とも言えよう。生めかしい「若き蛇」が、獲物を呑み込み芦叢を往き過ぎるように、瑞々しい艶気(つやけ)を持つ青年が巷間で泣かせた「誰か」がいるという事を詠んでいるのか――。誰かの措辞は、複数とも取れる。己れの意のままに青年は世間の女達を弄ぶ。

 「誰か」のひとりが苑子自身であるのかは、定かではないが、「若き蛇」の行動や「泣く」者達を客観的にとらえ、愛憎も悲哀も描かれてはなく、静かに視つめ受け流しているようにさえ思われる。

 苑子に限らず、神々や生命の象徴と崇めれる「蛇」は、多くの俳人の佳句として、その姿をなお一層輝かせているのである。


  吹き沈む

  野分の

     谷の

  耳さとき蛇               高柳重信


  法華寺の空とぶ蛇の眇(まなこ)かな   安井浩司


  水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首       阿波野青畝


43 身を容れて夕ぐれながき合歓の歓

 「合歓」は、葉が夕方閉じるが、花は夕方に開き、夜になっても咲いている。中七下五の「夕ぐれながき合歓の歓」は、夕暮れになり花が咲き始め、その時間は、花にとっても見る者にとっても楽しい時であるという解釈が成り立つ。「合歓の歓」と同字を当てた技巧も効いている。また上五「身を容れて」は、高木である合歓の木の下で花を眺めているのか、樹形が真っ直ぐではなく倒れたようであるため、身を容れる風情も面白い。

 しかし、「合歓」は〈ごうかん〉という読み方もあり、歓楽をともにすることの他に、同衾するという意味もある。とすると、上五の「身を容れて」と「合歓の歓」が途端に艶を帯びた句に変貌してくるのである。

  象潟や雨に西施がねぶの花      松尾芭蕉

 春秋時代、呉王夫差が、その美貌に溺れて国を傾けるに至ったという美女、西施を合歓の花に譬えた『奥の細道』での有名な一句であるが、山本健吉の文章を抜粋する。

『芭蕉・その鑑賞と批評』2006年新装版)

   西施が悩ましげに、半眼閉じているさまに、薄紅の合歓の花が、雨に濡れながら眠っているというのであって、その姿を雨中の象潟の象徴と見たのである。(中略)つまりその雨景そのものが、恨むがごとく、魂を悩ますがごとく、寂しさに悲しみを加えた、女性的な情緒だったのであって、それはまた、象潟に思いを寄せてははるばるやって来た、芭蕉の心の色でもあった。

 芭蕉は、象潟の雨景に西施を重ねながら、恨むがごとく、寂しさを表現しているが、苑子の句は歓楽をともにする嬉しさを詠っている。そして、日常茶飯事では無いがために、(合歓(ねむ)の花を眺める時間も、合歓(ごうかん)の時間も)その喜びも一入のように思われる。逢引に似たイメージも想像される。

 ネムの名は、葉の睡眠運動によって閉じることから付いたそうであるが、西施が眠っている様子や同衾をも思い起こさせる「合歓の花」は、そのほのぼのとした柔かな花の姿のように、朦げな艶があるようである。漢名を夜合樹とも言うらしい。

  羅(うすもの)の中になやめりねぶの花       各務支考


44 死にそびれ絲遊はいと遊ぶかな

 句集の序において高屋窓秋氏が〈通読していて心のやすまるひまもないような気がして、すこしぐらい息ぬきになる作品が含まれていてもよいではないかと〉思ったことについて、同感しつつ、全139句の三分の一近くまで書き綴ってきたのだが、掲句が、久し振りに息をつける気がするのはなぜだろうか。

 苑子の句には、たびたび「死」が頻出するが、掲句もまた、上五から「死にそびれ」という尋常でない言語で始まるのだが、「死にそびれ」てもいるためか、句全体に「死」を扱った凄絶さは感じられない。「絲遊」(陽炎(かげろう))は実体のない気であり、日射しのために熱くなった光が不規則に屈折されて起こる儚い仄かなものであると、死が喩えられているからであろう。

 また「絲遊はいと」の韻を踏む音感と、「絲遊は」「遊ぶかな」の視覚的な文字による言葉遊びも影響している。この句の前句〈39.身を容れて夕ぐれながき合歓の歓〉にも見られた。同じ手法で1頁に2句並べられている趣向である。

 「死にそびれ」とは、死のうとしたけれども機を失ってしまったことだろうが、人は、人生のいろいろな場面で〝寝そびれた〟ように、「死にそびれ」ているのではないだろうか。

 母親の胎内で父親の精子が生き残る時、羊水の中でようやく臨月を迎え、出産される時、危く交通事故に遭遇した時、自然災害にあった時、大失恋して、仕事上の大失敗をして〝もう死んでしまいたい〟と思った時、等々――。そんな時、「死にそびれ」なかった人もいるということを考えると、生あればこそ「絲遊」を感受し、その中に遊ぶ自身の姿も実感できるのである。

 しかし、人の一生など、「絲遊」のように儚いものだと、苑子が、その浮遊する光の中で微笑んでいるような気もする。その微笑に私は少しだけ、息をつけるのかも知れない。


【連載】現代評論研究:第16回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会➂ 仲寒蝉編

(筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉、コメント:堀本吟)

投稿日:2011年11月25日


3.戦後の政治と遷子について


 筑紫は〈東大卒のインテリ程度の政治感覚は持っていたが、それを行動に結びつける意思はなかった〉、〈東京の開業医たちとは違った鋭い感覚が次第に育っていったことは間違いない〉が〈取り立てて優れた思想になっているわけでもないし、困窮劣悪に対する解決策を提示できているわけではない〉と述べる。

 その上でこうした政治的不満が自然へ目を向けることにつながり、〈開業医としての社会的意識とリリシズム、それこそが遷子にとって価値のあることだった〉と考える。

 は「ストーヴや革命を怖れ保守を憎み」が端的に表すように〈誠実な良識的知識人〉であったと言う。

 中西は遷子には政治の句が少なく、それらは『雪嶺』に集中していると言う。例句として次の句を挙げる。

 人の言ふ反革命や冬深む(昭和31年のフルシチョフによるスターリン批判)

 誰がための権力政治黒南風す

 夏痩の身に怒り溜め怒り溜め

 会議陳情酒席いくたび二月過ぐ

 三句目は昭和35年5月19日の強行採決以後ますます激しくなった岸内閣への批判や安保反対デモの様子を連日のように伝えるマスコミの報道に基くのではないかと推測する。しかし遷子の怒りは〈あくまでも一般的な受け止め方だと思う〉と述べる。また四句目を〈遷子自身が何らかの形で加わった政治運動の句〉として挙げる。

 深谷は「ストーブや革命を怖れ保守を憎み」など多少の政治的言辞を含んだ作品もあるが〈ごく常識的な感覚〉であり、〈特定のイデオロギーに傾いた様子は見受けられない〉と言う。

 また〈税務署に対するやや皮肉めいた視点、あるいは核実験や「プラハの春」鎮圧に対する怒りは、やはりヒューマニズム的な観点から理解すべきもの〉と考える。

 は政治についての句は『雪嶺』に多く〈選挙や核実験、果てはプラハの春を蹂躙したソ連軍(ワルシャワ条約機構軍)の戦車まで詠んでいる〉が〈核実験を愁い、戦争が終わって欲しい(ベトナム戦争の頃)と願う気持ちは通常の市民感情の域を出るものではない〉と言う。「人類明日滅ぶか知らず蟲を詠む」には定家の「紅旗征戎わが事にあらず」に通じるものを読み取る。

 ただ東西冷戦の最も激しい時代に詠まれた「ストーヴや革命を怖れ保守を憎み」を〈遷子にしては珍しく己の政治観を表明した句〉とし〈革命は困る、しかし保守にもまた与しない。つまりリベラル派というか良識ある一知識人として中立を守るという姿勢が読み取れる〉と言う。〈但し語調の激しさから単なる日和見ではなく積極的中立とでも言える立場〉と読む。


まとめ

 全員に共通した認識として、遷子には『雪嶺』を中心に政治的な出来事や世界史的事件に触れた句が見られるものの特定のイデオロギーに傾いたものではなく知識人としての良識、一般市民の感覚の範囲を出るものではなかった。また複数の人が「ストーヴや革命を怖れ保守を憎み」を彼の中立的な立場の証左として挙げる。

 ただ筑紫はこのような〈開業医としての社会的意識とリリシズム〉が大切であったと述べ、深谷は〈ヒューマニズム的な観点から理解すべきもの〉と判断する。


コメント

堀本 吟:『相馬遷子 佐久の星』は、相馬遷子に関する殆ど初めての集中的な読書会記録(らしい)。らしいというのは、私は「馬酔木」圏内のこれまでの動きについては、殆ど知ることがなく、多少関心は持ってもその知識は教養以上のものではなかったからである。で、さきごろのウェブ「俳句空間—豈—weekly」でほとんどはじめて目にとめたのである。その全体的感想を先ず記しておく。

 ただし、水原秋桜子と「馬酔木」への私の関心が高まったのは、すでに数年前に遡る。角川選書385『12の現代俳人論(下)』(平成19年・角川学芸出版)の筑紫磐井の《水原秋桜子論》がくわわっている。これはさらにさかのぼる雑誌「俳句」誌上にシリーズ連載され、それが集成され同社の刊行で単行本に作り替えられたのだが、筑紫のこの評論は、山口誓子、西東三鬼、篠原鳳作、または高柳重信らに代表される「新興俳句」という運動のもうひとつの読み方を示唆した視点として、私の今回の関わり方にもかなりの影響をあたえている。(といっても全面賛成と言うことでもないが)。

     *

 しかし、この過程では、筑紫磐井の評文には、まだ、相馬遷子の名もその例句もピックアップされていない。この角川選書の評文は全体としてわたしにいわせると、論者の論の締め方に緩いところがある。大阪で読書会をしていてもそつなくできてはいるがけっきょくは飽きてしまったのであった。が、「水原秋桜子論」は、その中でも読んでいて多少は新たな場所にわれわれの思考を導いてくれるようだった。秋桜子と馬酔木は、ホトトギス独裁からの離脱と言う役割を果たした後は、新興俳句から落ちこぼれていったとされる。だが、そこからはみ出した異端が、例えば山口誓子、高屋窓秋、石田波郷、加藤楸邨、金子兜太たちが作り上げた支流、それが勢いよく俳句活性化をもたらしたのである。筑紫の論調は、その支流の系譜化のような役割があったのではないだろうか?それは、誰かがやるべきことであるが、まだ集大成はなされていないのである。いわば、現代俳壇の土壌たる「結社史論」の整理であった。そのなかで、今回新たに相馬遷子をその支流のひとつであることが、提唱されている。当時の筑紫磐井は位置づけてはいなかったのである。

 筑紫は「社会性俳句」という概念に入らず切り捨てられ無視された俳句を「社会的意識俳句」と呼び、それら埋もれてしまった俳句を再発見する必要があると言う。「社会的意識俳句」の中に特定のイデオロギーや態度を持った「社会性俳句」があり、その外側にそれとは別の膨大な「社会的意識俳句」が存在したことを忘れてはいけないと強調する。「社会性俳句」が廃れた後も、俳句と社会のあり方の両方に根ざした本質的な俳句であるがゆえに「社会的意識俳句」は生き残っていた、と言う。

 この「社会的意識俳句」の代表的な作家として相馬遷子を位置付け、その他多数の社会的意識を持った俳句作家を「別の遷子たち」と呼ぶことを提唱する。【2.遷子と他の戦後俳人の共通点についてどう考えるか?】(筑紫磐井の発言(下線堀本)

とまで言いうるようになったのか、もうすこし強力な立論の過程と根拠がききたかった。

 相馬遷子が魅力的な作家であることは私にも解った。それはこの読書会が誇るべき発見である。しかし。「馬酔木」の美意識を脱したことは、秋桜子の美学に呪縛されてきた馬酔木イズムの雰囲気の中では個人としては重要だが、「きりすてられた社会意識の代表」というように、わざわざここまで持ち上げていいものかどうかは私には疑問だ。こういうカリスマ化が、結社制度の反近代性を等閑視することにもなろう。

     *

 それから、彼のイデオロギーではない社会意識についてであるが、すでに戦前にこういう例がある。

 私は現在、関西で【京大俳句を読む会】というあつまりにいれてもらって、昭和9年や10年ごろのバックナンバーを逐次読んでいっている。ここでは、山口誓子が、新しい時代の事象を積極的に俳句に読み込む、という提唱が盛んに実践されていて、また誓子が言わなくとも、都市化してゆく現実はおのずから投句の中に現れている。私がレポートを担当した昭和10年8月号では、例えば、こういうのがある  。

 野に遊び子供の肢体汽車となる 山口誓子《青郊思慕》5句・(連作)

 闇そこの白蛾のひゞき壁にせり 清水昇子 《留置場》6句(無季・連作)

 禁断の書(ふみ)よセードの綠光に 岸風三楼《學の感傷—M博士に与ふ》(5句)

(註・「禁断の書」とは、それまで法学上の必読書であった美濃部達吉「天皇機関説」の排撃がおこり、貴族院議員辞職。政府が「国体明徴声明を出した。一連の事件。(昭和10年〜11年)を指していると思われる。「M氏」は、美濃部のことだろう。

 一瞬の孤独地獄の汗つめたし    西東三鬼

 黄に燃ゆる孤独地獄に耳きこえず   同

 西東三鬼は、《株式取引所》《武蔵野》各4句(年風俗と田園にともに「孤独地獄」という内面世界を取り合わせている。全8句の連作)

 古りし靴に風青くどこぞピアノの弾奏 三谷昭《すてられた古靴》(4句自由律)

 疫痢児のうはごとなるを母は知らず 藤後左右 5句

 森に佇つ風癲守に月墜ちよ 平畑靜塔5句   (以上、「京大俳句」第三巻、昭和10年8月号)

 新興俳句の牙城となった京大俳句の同人達のこれらは、いずれも、近代社歌会の現実に直面した題材を真っ向から取り入れている、しかし、これらはだんじて社会イデオロギーではない。かれらはむしろ戦後はイデオロギーをさけている。藤後左右や平畑靜塔は医師として究めて職業的に感性的に俳句的に特異な題材を生活詠として自然に詠んでいる。俳句に於けるイデオロギーと単純な社会意識の分岐点はまだはっきり分析されていない。筑紫の提案はそう言う意味でも過渡的な説として意義がある。

 俳句を始めた頃の相馬遷子がこの「京大俳句」の購読者であったかどうかは私には解らないが、生活が都市化されるし専門職が増えてくるにつれ、このような生活意識が日本人の感性に入り込んできた、山村のエリートであった遷子にもそれを受け入れる感性が芽吹いていたといえるのではないだろうか?

     *

 が、そのことは、筑紫磐井の相馬遷子発見、と本書の共同研究のありようをを過小評価する理由にはならないのである。

 昭和十年遷子が秋桜子の門下として出発したころは、新興俳句が台頭し俳句弾圧事件でリベラリスト達が弾圧された。また石橋辰之助は。昭和10年に句集『山行』を刊行し、単なる登山俳句ではない、と平畑靜塔の共感ふかい評をもらっている。(「京大俳句」同年8月号)。石橋は都会人であるが、馬酔木同人が「自然の真と藝術の真」と追究してゆくはてには、人間存在の真に行き当たる機会が必ず誰かのうえに生じてくる。そういう秋桜子の俳句思想具体化の過程とも考えてみると、私達の現代俳句にとっても一層意義深いところがあると思う。(この稿了)

2025年9月26日金曜日

第254号

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令和七年歳旦帖・春興帖
第一(4/25)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖
第二(5/9)ふけとしこ・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(5/23)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/27)曾根毅・浅沼 璞・なつはづき
第五(7/5)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第六(7/11)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第七(7/25)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第八(8/22)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結
第九(9/12)水岩瞳・佐藤りえ

令和六年冬興帖
第一(4/5)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖・ふけとしこ
第二(4/11)鷲津誠次・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(4/25)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/13)曾根毅・浅沼璞・なつはづき・下坂速穂
第五(6/21)岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第六(6/27)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第七(7/5)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結
第八(9/12)水岩瞳・佐藤りえ


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…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。  


【新連載】新現代評論研究:各論(第12回):後藤よしみ、村山恭子

★ー3「高柳重信の風景 7」後藤よしみ


 前章では、重信にとって風景とは言霊を宿すものであり、過去と現在をつなぐ歴史的な場であることを論じた。その重要な契機となったのが、1971年の飛騨行である。重信は、飛騨の風景の奥に神々の存在を感じ取り、隅々に宿る霊の生動と、それに伴う言霊の響きを捉えた。こうして生まれた「飛騨十句」は、重信の絶唱と称されている。


㊀飛騨の       ㋥飛騨 

 美し朝霧   *   道傍の酒栄し

 朴葉焦がしの     黒木格子の

 みことかな      みことかな 

 

㊂飛騨の       ㊃飛騨

 山門の    *   法体の仏の木

 考へ杉の       足無しの

 みことかな      みことかな 


㊄飛騨の       ㊅飛騨

 真男鹿    *   大嘴の啼き鴉

 角戴きの       風花淡の

 みことかな      みことかな 

 

㊆飛騨の       ㊇飛騨

 雪襞    *    風早の神無月 

 天の高槍の      猪威しの

 みことかな      みことかな 


㊈飛騨の       ㊉飛騨

 袈裟山   *    闇速の泣き水車 

 長夜の深井に坐す   依り姫の

 みことかな      みことかな       『山海集』


 これについて、さらに言葉を重ねたいと思う。

  ゲオルク・ジンメルは『風景の哲学』において、「風景として眺めることは、自然から切り取った一片を、それなりの統一として見ることにほかならない」と述べている(『ジンメル・エッセイ集』平凡社、1999年)。風景に対する感覚が覚醒したとき、人は「中心と境界を変化させる力」を得て、「特別な性質の統一」に至る。つまり、風景には感情的な統一が不可欠なのである。

 この統一の点でつけくわえるならば、中川理は、マージョリー・ホープ・ニコルソンの「崇高」という概念を引きながら、思想の変化が風景へのまなざしを変え、「崇高」の受容を促すと述べている(『風景学』共立出版、2008年)。これは、風景の発見にとどまらず、内的感情と外界の風景が結びつくことで生まれる感情的統一が、「崇高」の美学の形成に不可欠であるという指摘である。この「崇高」は、風景が精神を揺さぶり、感情的統一をもたらす美学とみなせよう。重信の「飛騨十句」は、まさにその崇高の構造を日本的霊性、日本的なるものの文脈で再構築している。

 具体的に見ていくなら、まず、「飛騨十句」の配列である。上のように二段に分けて掲載するとわかりやすいが、一番目から九番目までの奇数句は一行目に〈飛騨の〉を置き、偶数句では〈飛騨〉の二文字から始まっている。また、各句の一行目は〈飛騨の〉または〈飛騨〉で統一され、四行目はすべて〈みことかな〉で締めくくられている。変化が見られるのは二行目と三行目のみであり、この構成によって句群全体に統一感が生まれ、飛騨の風景と内的感情が結びついてくる。さらには、日本的霊性として憑代を置いている。㊀の句では、三行目の〈朴葉焦がしの〉香りがそれにあたるだろう。㊉の句では、二行目の〈水車〉が憑代として登場している。このような一体感をもった構成となり、実際に飛騨山中に足を運んだことのない者にも飛騨の本質を感じさせてくれる。

 「飛騨十句」は、以上のようにニコルソンのいうところの「崇高」の美学が風景感覚の覚醒からなる感情の統一感があらわれている。これらの特徴をまとめると、風景の役割において神霊の依代・言霊の場。感覚の統合において、視覚・嗅覚・聴覚そして言語の統合。詩的契機において、「みことかな」による神性の顕現がみられる。重ねて言うならば、重信において風景は象徴主義と日本的なるものとのひとつの結合、統合としての現象なのである。

 それでは、「飛騨」以降の作品をながめてみよう。 


後朝や        葦牙に

いづこも    *  立つ日入る日や

伊豆の        故

神無月  「坂東」   葦原ノ中国  「葦原ノ中国」


日読童女を      目醒め

誓ひて    *   がちなる

樹つる        わが尽忠は

筑紫鉾  「倭国」   俳句かな   「日本軍歌集」


 ここには、重信の内面に深く根ざした「日本的なるもの」が、より明確に表出している。これらの句群が仮構性を高めつつ構築された作品が、『日本海軍』である。

松島を       弟よ

逃げる    *  相模は

重たい       海と

鸚鵡かな      著莪の雨


夜をこめて     腹割いて

哭く    *   男

言霊の       花咲く

金剛よ       長門の墓     『日本海軍』


 このように『山海集』「日本軍歌集」を受けて、艦名と地名から喚起されるイメージにより仮構した世界を創りあげている。冒頭の掲句に立ち返れば地名は「松島」であり、軍艦「松島」は敵艦に対抗するために船体に似合わない巨砲を搭載していた。そのため、砲撃すると反動により船体の姿勢がかわり、進路まで変わってしまったという。 この句は、『奥の細道』における曽良の〈松島や鶴に身をかれほととぎす〉を下敷きにしており、原句の意は「松島にはほととぎすの姿では小さすぎるため、鶴の姿を借りて優雅に見せてほしい」というものである。重信の句はこれをパロディ化し、軍艦「松島」の逸話と重ねることで、風景と軍事的記憶を融合させている。

  『山海集』で見られたように、象徴主義などの影響が薄れることで、新たな日本的なるものがよりいっそう浮き彫りになってきた。ここから、重信にとっての日本という仮構を担う旅がはじまったととらえられる。その点では、『伯爵領』で見られた国見・道行の新たな展開とも読みとれる。

 ただし、留意すべきは、風景感覚の覚醒がそれ自体で自立するものではなく、虚構と創作によって支えられている点である。風景は神話的空間としての働きを持ち、創造の磁場を提供する。現代において共有される風景の地が失われつつある中、詩人は架空の風景、架空の場所を創り出すことになる。それは再生ではなく、失われた場所への代償である。 

 『日本海軍』の〈 夜をこめて/ 哭く/言霊の/金剛よ〉の句のように、日本人にとっては、山や海や川、森などは神霊、祖霊の住み処であり、その風景に立つことで霊感をえてきた。また、日本人の深層にひそむ古代の呪術的な空間をも育んできた。そして、西行や芭蕉をはじめ、古い歌に詠まれた風景の前に立つのであればその土地の霊と一つになり、豊かな詩をもたらしてくれるものと信じられてきた。このように詩歌をはじめとする創造の磁場を風景は提供している。現代の普通の風景を共有する共同体が衰弱したなかでは、風景の地という根拠を持たない架空の風景を、架空の場所・地を創り出すことになる。   

 しかし、それは仮構された場所・地であり、その場所・地の再生ではなく、あくまで失われてしまったところの代償でしかないと言う(中川 理『前出』)。これらの例としては、清朝の時代、皇帝は有名な風景を縮小再生したが、これは都から遠く離れた地を魔術的・呪術的に都に近づけようと意図されたものとされている(柴田陽弘『前出』)。これらは、仮構された空間という意味では、高柳重信の『伯爵領』『日本海軍』につながるである。

 また、この作品が日本海軍をめぐるものとなったことは、それ自体が重信の原風景とかかわっている。その時の小学校の思い出に正門脇の文房具店があり、そこで大切にしていた思い出は日本海軍の組み写真であったという。少年であった日々に、「如何にも親しげな感じと共に多くの地名をもたらしたのは、これらの軍艦の艦名である。ひょっとすると、わが『日本海軍』は、そのときから少しずつ始まっていたのかもしれぬ」と回想している(「わが『日本海軍』の草創」『全集Ⅲ』)。ふつうであれば、思い出のなかで想像の世界に遊ぶにとどまるであろうが、重信の偏執的な気質のためか、あるいは遊戯性とあいまってか、それを俳句作品として構築する姿勢は、いかにも重信らしいと言えるだろう。重信の創作動機としては、「記憶の再構築」および「遊戯的な構築」の両方と言ってよいだろう。

 このようにして、重信の戦後の句群を眺めてみるならば、象徴主義時代とその成熟と変容、そして日本的なるものへという一つの道筋が見えてくる。その変容そして進展には、重信における「原風景」と「風景の発見」「風景感覚の覚醒」が重要な役割を演じていることがわかる。


★―7:藤木清子を読む4 / 村山 恭子


4 昭和10年 広島県 藤木水南女で出句 ②


  火夫にあはれ窓は苦熱の焔をあぐる    京大俳句8月

 火夫は火を扱う職業の男性を指す言葉で、蒸気機関車の機関士のような役割を担う人を意味します。〈窓は苦熱の焔をあぐる〉ので〈火夫にあはれ〉と倒置法により、〈苦熱の焔〉が上がる様を強調しています。また〈火夫にあはれ〉の「に」は窓との接近を表し、燃えたぎる焔と苦痛な灼熱の様子を際立てています。

  季語=無季


  火夫しづか夏の山脈窓にはるか      同、旗艦9号・9月

 火夫が〈夏の山脈〉を窓から見ています。苦役から開放されて、身も心も落ち着いて眺める〈夏の山脈〉ははるか遠くに堂々と美しくあり、火夫の慰みになりました。

  季語=夏(夏)


  火夫涼し陸の娼婦に口笛を        同

 〈陸の娼婦〉と「陸」の強調により、火夫は「海」から上がったことがわかります。

 火夫が娼婦に吹く口笛の音は涼しく、海から陸へ上がった火夫の安堵も表しています。

 季語=涼し(夏)


  火夫あはれ船底の夏初まれり       旗艦9号・9月、天の川9月

   *天の川9月号に「発動汽船の火夫」の前書きあり

 火夫にとって苦しい〈夏〉がはじまりました。〈船底〉での労働は想像よりはるかに辛く、

〈あはれ〉は感動詞の「ああ」でもあり、名詞として労働への同情や哀愁の念を感じます。

  季語=夏初む(夏)


  人あつし身ごもる妻の黄なる声      京大俳句9月

 〈身ごもる妻〉の〈黄なる声〉を聴いている人がいます。耐え難い蒸し暑さ中、甲高い声を発する何かが生じ、不穏さをあおっています。

  季語=あつし(夏)

 

  日焼けては夕べ忙しく潮汲める     同

 日に焼けて潮を汲む一日が終わろうとしています。〈夕べ忙しく〉から今日の予定分を終わらせようと忙しく立ち回る様子が見えます。

  季語=日焼(夏)


【新連載】口語俳句の可能性について・2  金光 舞 

【学生俳句大会コラム】(筑紫磐井)

 本BLOGで紹介している全国学生俳句会に関する情報を提供します。

➀フリマ

 全国学生俳句会合宿 2025の結果が報告書にまとめられることとなり、文学フリマ東京41(11月23日)にて販売される予定です。本論を執筆している、金光舞さんの入選論文も掲載の予定。

➁コールサック

 コールサック社の「コールサック」124号で、「全国学生俳句会合宿 2025」のルポを鈴木光影氏がまとめられる予定です。11月上旬刊行、定価1650円です。

俳句四季11月号

 「全国学生俳句会合宿 2025」の紹介を馬場叶羽さんが、「俳壇観測」で筑紫磐井が「大学生俳人の意識」として合宿参加者各位の考えの紹介を行う予定。10月20日ごろ刊行、定価1100円です。


 自序では、従来の俳句が文語を基調とした定型・季語・簡潔な描写を軸に成立してきたことを確認したうえで、戦後の現代俳句における形式の硬直化が指摘される。その停滞を打破する試みとして「口語俳句」が登場し、俳句を現代の言語感覚と接続し直す営みであると位置づけた。

 越智友亮『ふつうの未来』の〈ゆず湯の柚子つついて恋を今している〉を取り上げ、以下の論点を示した。

一、 季語「ゆず湯」という伝統的要素に、「恋を今している」という現代的で直接的な口語表現が結合している。

二、 「今」という語が現在進行形の切実さを強調し、読者をその瞬間へと立ち会わせる。

三、 直接的な表現が余情を損なうのではなく、柚子をつつく仕草や香気と重なり合い、新たな余韻を生み出している。

四、 伝統形式と口語的感覚の交錯が、句全体に独自の温度感をもたらしている。

このような点を通して、口語俳句は「省略と余白の美」から一歩進み、「口語の直接さが生む余韻」という新たな地平を切り拓くことが示された。同時に、それは「生活俳句」「青春俳句」「SNS俳句」といった今日的潮流とも呼応し、時代の呼吸を取り込む詩型として注目される。ただし、口語表現には「古びやすさ」という危うさも伴うことが、暮田真名の批評を通じて指摘されており、口語俳句の意義と限界を考察する視点が提示されていることを確認した。

生きた言葉として

 こうした試みは、実は新しいものではなく、すでに1市川一男『口語俳句』(1960)において理論的に提起されていた。市川は、 文語に依存した俳句の硬直性を批判し、日常の息づかいをそのまま作品に取り込むことの重要性を説いた。つまり「生活と詩の直結」である。口語俳句は、単にくだけた言葉遣いというのではなく、人々の暮らしの中で実際に使われる言葉をそのまま句の器に定着させようとする試みなのである。


2 すすきです、ところで月が出ていない

3 草の実や女子とふつうに話せない

4 焼きそばのソースが濃くて花火なう


 いずれの句も、伝統的な季語を含みながらも、そこに会話調やネットスラングといった現代的な表現を重ね合わせている。

 〈すすきです、ところで月が出ていない〉この一句を読むとき、私たちはまず冒頭の〈すすきです〉という言葉に引き寄せられる。俳句の上五に「すすき」と置かれれば、誰もが古典的な抒情を思い描くのではないだろうか。秋の野にたなびく薄の穂、月光を受けて銀色に輝く草姿、風にそよぎながら静かに佇むその情景。古来より多くの歌や句で讃えられてきた、典雅で気品ある自然描写が立ち現れるはずだ。ところがここでは「すすきです」と、まるで自己紹介や宣言のような言い方で始まる。これが一気に調子を崩し、読者を意表を突かれた気持ちにさせるのだ。

 しかも、この「すすきです」という響きは、ただの植物名の提示にとどまらない。音として耳にすれば、「す、好きです」という告白の言葉にきわめて近い。恋の言いよどみ、声に出した途端に赤面してしまいそうな、そんな不器用な気持ちが、この一句に重ねられる。作者は意図的に「すすき」と「す好き」の響きの重なりを利用し、伝統的な自然詠を装いつつ、実際には恋の吐露を仕掛けているのだ。この二重性が、句の第一印象を豊かにし、読者の想像を一層膨らませてくれる。

 さらに続く「ところで月が出ていない」という中七下五の句が、鮮やかな転調を生み出す。古典的な薄の描写には通常「月」が不可欠だ。秋の名月と薄は、千年以上にわたり連歌や和歌の世界で相性よく取り合わせられてきた。しかしこの句では、その期待を裏切るかのように「月が出ていない」と断言される。これにより、私たちが期待していた雅な光景は一瞬で霧散し、代わりに月を伴わない現実のすすきが立ち現れる。まるで理想的な舞台は整っていない、それでも自分の気持ちを伝えたいという、切実で不器用な人間像が浮かび上がるのである。

 ここでの「月が出ていない」という事実の提示は、単なる自然の状態の報告ではない。むしろ告白の場面において完璧なロマンチックな条件はそろっていないと白状してしまうような、正直さと滑稽さを帯びている。これによって句全体は、古典的な美の模倣から大きく逸脱し、人間的な温かみ、さらにはコミカルな愛らしさを獲得する。読者は自然描写の荘重さを期待して読み始めたのに、いつの間にか目の前に告白の言葉を探している一人の人間が立っているように感じさせられるのだ。

 つまりこの句の最大の魅力は、美と不器用さの落差にある。薄のように繊細で、月夜のように幻想的な情景を呼び出しておきながら、その直後にでも月は出ていないと告げる。理想と現実の落差を隠さずにさらけ出すことで、むしろ句は人間味を増し、私たちの心を揺さぶるのである。これは「余白の美」に頼る古典俳句とは異なる、むしろ「欠けたものを堂々と見せることで余情を生み出す」という現代的な表現態度だといえる。

 このように〈すすきです、ところで月が出ていない〉は、伝統的な自然詠の型を借りながら、その内部で大胆に崩しを加えることで、俳句に新たな息吹を吹き込んでいる。古典の美学に親しんだ読者には裏切りとして働き、現代的な感覚を持つ読者にはリアルな人間像の提示として響く。その両義性こそが、この句を強く印象づける最大の力なのである。


 〈草の実や女子とふつうに話せない〉この一句が立ち上がるとき、私たちはまず「草の実」という素朴で小さな自然物に目を向けることになる。草むらの中で服や手にまとわりつく、あの目立たないけれど確かに存在する草の実。そのささやかな季語が示すのは、野に生きる小さな命の印であり、どこか取り留めのない日常の一コマでもある。だがこの句では、そうした自然の細部が、いきなり人間の内面の痛切な吐露と結びつけられる。女子とふつうに話せないという率直な自己告白が続くことで、句全体は一気に青春の痛みそのものを抱え込むのだ。

 俳句の伝統において、恋や青春の悩みは多くの場合、比喩や暗示、余情に託されてきた。たとえば花に寄せて思いを隠す、あるいは雨や風を媒介に感情を滲ませるといった形で、直接的に言葉にするのを避けるのが美意識とされてきた。しかし、この一句はその慣習を潔く突き破る。「ふつうに話せない」と、まさに現代の若者が友人に打ち明けるかのような、会話そのままの言葉を持ち込んでしまうのである。そこにあるのは技巧を超えた率直さであり、作為を拒むがゆえのまぶしい誠実さである。

 この「ふつうに話せない」という表現に宿る切実さは、誰もが経験したであろう青春の不器用さを強く呼び起こす。クラスの女子に声をかけようとして、心臓が高鳴り、言葉が出てこない。日常的にはごく簡単なやり取りのはずなのに、当人にとっては大きな壁のように立ちはだかる。そうした思春期特有の照れや痛みが、この短い一句のなかに凝縮されているのだ。池田澄子が 「これ程に青春の姿を現す言葉は他にはない」と評したのも頷ける。なぜなら、ここには青春を美化したり文学的に装飾したりする余地がなく、ただ話せないという事実の苦しみと真実だけがあるからだ。

 さらに注目したいのは、この句に流れるさりげなさだ。「女子とふつうに話せない」と言い切ってしまえば深刻な悩みにも聞こえるが、それを支えるのが草の実という季語である。これにより句全体に軽やかさが漂う。草の実の小さな引っかかりは、青春の悩みの象徴のようにも見え、同時に日常の風景の一部にも過ぎない。重大でありながらも取るに足らないその二重性が、青春の悩みそのものを象徴しているかのようだ。

 ここで重要なのは、句が余情や暗示を超えることで逆に新しい余韻を生んでいる点である。従来の俳句の美学であれば、草の実と女子への思いを直接結びつけず、読者の想像にゆだねただろう。しかし、この一句ではためらいなく「話せない」と言い切る。ところがその直截さは、むしろ読む者の胸に鋭く突き刺さり、かつ懐かしさを呼び覚ます。誰しもがかつて経験した、言葉にできなかった気持ちのざらつきが、ここで一挙に可視化されるのだ。

 〈草の実や女子とふつうに話せない〉は、青春を象徴する一句として比類のない輝きを放つ。自然を媒介にしながらも、その核心は人間の未熟さと正直さにある。俳句という伝統の形式に「ふつうに」という日常語を持ち込み、まるで日記の一行のような素朴さで心情を刻む。そこにあるのは未熟さではなく、むしろ未熟さをさらけ出す勇気であり、文学としての新鮮な力なのだ。この一句を読むとき、私たちは自分自身の過去の不器用さや胸の痛みを思い出し、同時にそれを俳句というかたちで残してくれた作者に深い共感を覚える。まさにこの句は、青春そのものが持つ輝きと痛みを、これ以上なくシンプルな言葉で掴み取った稀有な一句であるといえるだろう。


 〈焼きそばのソースが濃くて花火なう〉この一句は、従来の俳句の枠組みを軽やかに飛び越え、極めて挑戦的で刺激的である。まず目を引くのは、下五に置かれた「なう」という言葉だろう。これはSNS、とりわけX(旧Twitter)文化の中で広まり、ある出来事を「いま・現在・リアルタイム」で体験していることを表す俗語である。古典俳句の文脈において、このようなネットスラングが登場することなど、想像だにされなかった。しかしながら、ここにこそ句の核心があるのだ。

 俳句はそもそもいま・ここの瞬間を切り取る芸術である。十七音という器に、いかにしてこの瞬間の気配を閉じ込めるか。これこそが、俳句が古来より追い続けてきた本質的な問いであった。「なう」という言葉は、まさにその本質を現代語でストレートに言い表している。SNS的スラングと見なされるがゆえに軽んじられがちだが、その実は俳句が持つ瞬間性と強烈に共鳴する言葉なのである。この句は、その気づきを大胆に実践した試みといえる。

 さらに注目すべきは、「焼きそばのソースが濃くて」という上五中七の部分だ。祭りの屋台を思わせる匂いや味覚のリアルさが、句の世界を具体的に立ち上げている。濃いソースの香り、口の中に広がる甘辛さはまさに庶民的であり、煌びやかな「花火」とは対照的な日常性を帯びている。その対比が、いま・ここの生々しさをより強調しているのである。つまりこの句は、味覚と視覚を同時に提示し、さらにSNS的時間感覚を重ね合わせることで、きわめて現代的で多層的な瞬間を再現しているのだ。

 「花火なう」と言い切ることによって、句は従来の抒情的な余情を拒否しているように見える。しかし実際には、その直接さゆえに逆説的な余韻が生じている。花火という古典的な夏の季語に、現代のネットスラングを直結させる。その異質な組み合わせは、一読しただけで笑いや違和感を呼び起こすが、同時に、いま私たちが生きている時代の言葉で俳句をつくるとはどういうことかという根源的な問いを読者に突きつける。俳句は過去の形式をなぞるだけでなく、つねに「生きた言葉の実験場」であり得るのだということを、この句は強烈に示しているのである。

 また、この句には祭りの現場感が濃厚に漂っている。焼きそばを食べながら花火を見上げるという、誰もが経験したことのある夏祭りの一場面。その親しみやすい光景が「なう」という言葉によってSNS的な共有の感覚へと拡張される。いまこの瞬間、作者が体験している祭りの熱気が、読者にまでダイレクトに伝わってくる。つまり「なう」は単なる流行語ではなく、「共有されるいま」を提示する装置としても働いているのだ。

 結果として、〈焼きそばのソースが濃くて花火なう〉は、伝統と現代をつなぐ架け橋のような一句となっている。焼きそばや花火といった普遍的な題材に、現代的な表現を接ぎ木することで、俳句の根源である瞬間の切り取りを新たな形で提示している。これは単なる遊びではない。俳句が時代ごとに生きた言葉を取り込み、変化し続けてきた歴史を思えば、この句の試みはむしろ俳句の正統的な進化のひとつと言えるのだ。

 このようにして「焼きそばのソースが濃くて花火なう」は、ユーモラスでありながらも挑発的であり、伝統を壊すように見えて実は俳句の本質を鋭く突きとめている。私たちはこの一句を通じて、俳句という器の柔軟さ、そして現代語の可能性をあらためて実感させられるのである。


 1 『口語俳句』(1960) 著:市川一男 56-57頁を参照

 2 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 33頁より引用

 3 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 39頁より引用

 4 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 49頁より引用

 5 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 序より引用


【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり36 宮崎斗士句集『そんな青』(2014年、六花書林)を再読する。 豊里友行

  『そんな青』宮崎斗士句集の私の読後感は、丁寧に日常を生きているということ。

 宮崎の第一句集の『翌朝回路』に見られた感性の原石は、彼の日々の丁寧に生きていく俳人としての姿勢によって磨かれ、さらなる俳句の新境地へと歩み始めている。

 第二句集にあたる『そんな青』宮崎斗士句集は、宮崎斗士のオンリーワンの生き様であり、現代をみずみずしく生き生きと表現したひとつの可能性をしめした新しい俳句の領域を提示している。


花合歓や光源氏にインタビュー  

 金子兜太先生の俳句に「合歓の花君と別れてうろつくよ」の名句がある。金子先生が健在の際に句集『日常』にサイン入りを購入できたのは、当時の「海程」の重要な若手メンバーであろう宮崎斗士さんに無茶振りのお願いをしたからだった。

 この句は、 『源氏物語』の主人公である光源氏にインタビューという独創的な切り口が先ず斬新だ。花合歓の和名・ネムノキは、「眠る木」を意味し、夜になると葉が合わさって閉じて(就眠運動)眠るように見えることに由来する。夏の季語からイケイケドンドンの光源氏のインタビューであることを想像してしまう。現代社会にも光源氏は脈々の生き続ける。


尺取虫街少しずつバリアフリー

 バリア・フリーとは障害者や高齢者が生活していく際の障害を取り除き、誰もが暮らしやすい社会環境を整備するという考え方のことをいう。

 体ごと尺取虫のわずかな前進を丁寧に観察しているからこそこの直喩が活きている。


青き踏むふとおっぱいという語感

 俳人として語感を丁寧に噛みしめている。爽やかなエロス。

 ある時期、あいみょんの歌に触発された若手俳人たちを中心に「おっぱい」俳句が話題をさらっていた。「おっぱい」の語感だけでなく宮崎斗士俳句において語感は、大事な鍵になっているようだ。


父と子の会話蟹味噌ひと匙ほど

秋葉原に僕の定位置冬の蜂

祖父も笑顔鮟鱇鍋のそんなリズム 

 身近な父子の会話の味付けに宮崎さんのエッセンスが効いている。

 秋葉原の現代社会に僕の定位置を見出す。宮崎斗士ワールドの、オンリーワンの醍醐味。

 宮崎斗士さんは、祖父も笑顔になる鮟鱇鍋のそんなリズムを日常から見出せる俳人なのだ。


平穏って見つめ合わない雛人形

 一緒の生きるスピードなんでしょうね。

 なんでもない言葉で喩で生きている、感じているニュアンスを表現できる丁寧さだって新たなる俳句の地平ではないだろうか。


氷湖ありもう限界のボクサーに

 ぴったり言い切る比喩の的確さが魅力的。


海鼠拾えばわがほろ苦き現在地

 海鼠(なまこ)に心を通わせつつも自己の心境の把握が俳句の味を出す。

 いわゆる宮崎斗士ワールド。


みんな笑顔雪合戦の一球目

 よく観察している宮崎の面白がるツボとユーモラスが心地よい。


「じゃ、上脱いで」とあっさり言うね蛇苺

 すがすがしいエロス。


ひとり言の意外な重さ秋の蛇

 言葉が言霊になり生き方を決定づけていくことと自覚・覚醒。


わが良夜細い絵筆で仕上げてゆく

 そんな良夜があり、宮崎斗士俳句の確立していく。


 わが道を行く。

 楽しんで行く。

 等身大の自分をさらけ出せるからこそ多くの共感を得ていける。

 この句集は、生活の営みの息遣いや言葉のニュアンスなどを丁寧に噛みしめるように観察しているからこそ表現の細部のこまやかで鮮やかな表現に実感を持って活かされている。

 このほか私の気に入った共鳴句を最後に掲げさせていただく。


かたつむり術後同士という呼吸 

バックミラーに向日葵今だったら言える 

秋葉原キスが嫌いで鮫が好き 

消去法で僕消えました樹氷林 

婚期という長さ短さ牡蠣すする 

ギンヤンマいい質問がつぎつぎ来る 

会えないまま雪が溜まってゆく水槽 

鮫すーっと動いてたっぷりの夜かな 

鯨が一頭ゆっくりじっくりと術後 

炬燵で寝て目覚めて嫉妬だと気づく 

そそっかしいシンバル奏者春嵐 

天文学っておおむね静かふきのとう 

桐咲けり日常たまにロングシュート 

鮎かがやく運命的って具体的 

母と暮らす時報も鉄線花もふわり 

かまきりやこの村オムライスの明るさ 

寒満月石だんだんと椅子のかたち 

疲れたかな一羽の冬かもめに夢中 

メール送信狐とすれちがう呼吸 

ポインセチア家族ぴったり満席です


「 -BLOG俳句新空間- 」2015年1月23日(金)【鑑賞】 宮崎斗士句集 『そんな青』 -オンリーワン俳句の息吹- 

https://sengohaiku.blogspot.com/2015/01/toyosato.html


【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(62)  ふけとしこ

 後ろ手

秋暑しいちじくの葉のざらつきも

青柿や空家に隣るのも空家

優曇華に触れ金物の町を去る

銀漢や後ろ手は知恵授かる手

草の実を並べて母と子の去りぬ

                   ・・・

 『かざぐるま』という小説があった。

 父の本棚から抜き出して読んだ。いつだったか? 小学校の高学年? 

 内容は殆ど憶えていないのだが、冒頭の1ページがクレヨンで子供が書いた字をそのまま印刷したような、そんなレイアウトだった。どんな文章が書かれていたのかは記憶にない。

 はっきり憶えているのは

「先生は僕のことを〈僕のクランケさん〉って呼ぶんだよ」これだけに等しい。

 患者であるこの『かざぐるま』の主人公の男の子の台詞。クランケは独語のkranke、病院では普通に使われている言葉だが患者のこと。つまり入院中の患者と主治医の物語である。この本を読んだ時私はクランケという言葉を知らなかった。だから却って記憶に残ったのだろうか。

 主人公は小学校へ上がる前の子供だったと思う。あやふやだけれど「お母さん、入学式には紫の着物を着てね。僕あの着物が大好きだから」こんな会話があったような気がするから。

 そんな年頃の子供たちが風車を回して遊んでいた時、2人がぶつかって風車を支えていた金属、真鍮の箸だったような、それが目に刺さったのである。脳に達するような傷。始まる入院生活。その子の目は失明するわけだが、他方の目もやがて見えなくなり、最後には亡くなってしまうという話だった。

 今なら病室へ入る前の医師の心情なども考えてしまうが、当時の私は何を思って読んだのだろうか。担当医にしても、快癒へ向かう患者と死へ向かっている患者と、相対する気持は当然異なる。

 この小説にも手術や死の場面、両親、加害者となってしまった子供やその家族等々のことも書かれていたはずであるが……。

 実家へ行った時にこの本のことを思い出して父の本棚を探したが見当たらなかった。処分されてしまったのだろう。

 小説『かざぐるま』の作者も出版元も知らないが、もしかしたら実話に基づいた話だったかも知れない。

 「かざぐるま」も「風車」だったのか「風ぐるま」だったのか、それさえも覚えていない。

 ついでに思い出したのが昔の隣家の女の子。お姉ちゃんと慕ってくれてよく遊び相手をさせられた。  

 一時、彼女の臨終ごっこに付き合わされたことがあった。「お姉ちゃん、ちょっと寝て」という。横になると「息止めてね」と命令される。白いハンカチを私の顔に被せて「ご臨終です」という。そして笑い転げる。「息してもいいよ」というまでおとなしく寝て付き合ったけれど。こんなことが面白かったのだろうな。自分の家でやると叱られるから、私の所へ来て遊んでいたのかも知れない。

 彼女が幼稚園の頃だったはずだが、テレビでこんな場面でも見たのだろうか。

 これは笑い話ですむようなことだけれど。

 俳人にはお医者様も看護師の方も多い。そんな人達の俳句を読むと、色々と思い出したり考えたりしてしまう。

(2025・9)

【連載】現代評論研究:第15回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会(仲寒蝉編集) ②

出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)


2.遷子と他の戦後俳人の共通点についてどう考えるか?

 筑紫は〈戦後俳句の理解のためには、沢木欣一、能村登四郎、金子兜太らが行った社会性俳句とは別の、より広い社会的な志向を持った俳句というコンセプトを定めてみる必要がある〉と主張。「社会性俳句」という概念に入らず切り捨てられ無視された俳句を「社会的意識俳句」と呼び、それら埋もれてしまった俳句を再発見する必要があると言う。「社会的意識俳句」の中に特定のイデオロギーや態度を持った「社会性俳句」があり、その外側にそれとは別の膨大な「社会的意識俳句」が存在したことを忘れてはいけないと強調する。「社会性俳句」が廃れた後も、俳句と社会のあり方の両方に根ざした本質的な俳句であるがゆえに「社会的意識俳句」は生き残っていた、と言う。

 「俳句」編集長大野林火が「社会性俳句」を取り上げた特集「俳句と社会性の吟味」(昭和28年11月)の後、同じ「俳句」での特集「揺れる日本――戦後俳句二千句集」(昭和29年11月)に掲載された次のような俳句を「社会的意識俳句」の例として挙げる。


インフレの街の夜となり花氷 岩城炎 21・10

ラヂヲまた汚職をいふか遠雲雀 萩本ム弓 29・5

絞首刑冬の鎖はおのが手に 小西甚一 24・3 

深む冬接収家屋の白き名札 草間時彦 28・6 

桐咲いて混血の子のいつ移りし 大野林火 28・5 

血を売る腕梅雨の名曲切々と 原子順 24・9 

堕胎する妻に金魚は逆立てり 野見山朱鳥 24 

嘆くをやめかの裸レヴューなど見るとせむ 安住敦 24・7 

汝が胸の谷間の汗や巴里祭 楠本憲吉 28・9 

小説は義経ばやり原爆忌 佐野青陽人 27・12 


 文学性については吟味するべきとしながらも、これらの俳句を忘れてはならず、社会性俳句が否定されたとしてもこれらの〈俳句やそのモチベーションを社会性俳句と一緒に葬ってしまうことは危険〉と述べる。

 この「社会的意識俳句」の代表的な作家として相馬遷子を位置付け、その他多数の社会的意識を持った俳句作家を「別の遷子たち」と呼ぶことを提唱する。

 は「社会性俳句」から前衛俳句という流れの中で、次第に個に拡散していった傾向に触れ、遷子の場合、地方の風景や生活を実直に詠んだ個の一つと認識する立場を取る。

 中西は遷子が入会した昭和10年代の「馬酔木」は俳壇で革新的な役割を果たした時期であり、その同人達の影響を受けているだけで十分に革新的だったのではないかと言う。

 当時は今よりずっと結社の束縛が強く、遷子の時局詠、生活詠、自然詠のすべてが馬酔木の中にあったのではないかと指摘する。つまり〈遷子は「馬酔木」を通して、戦後俳句と間接的に繋がっていた、だから消極的な社会性俳句も理解できる〉と述べる。

 深谷は同じ馬酔木「高原派」でも堀口星眠・大島民郎などの純粋自然賛歌と遷子の作風と大いに異なると言う。かと言って所謂「社会性俳句」の範疇も入らない。たとえ社会的な問題を含む題材でもヒューマニズムの発露が成せるものであって政治的イデオロギーの匂いはない、と述べる。

 また地域性(地方色)と言う点でも、大野林火の慫慂を受け謂わば戦略的に「風土性」を全面に展開した側面のある「風土俳句」作家とも異なり、遷子は〈あくまでその作品の素材を自分が居住する佐久に求めたに過ぎない〉と言う。

 は、高原派と呼ばれる作風から『山国』の終り頃、昭和28年頃には医業を含めた生活詠、患者の貧しい生活や税金、医療費のことを取り上げた社会性俳句と呼んでもいい内容の句が増えて来るのに注目する。これは「俳句」の特集「俳句と社会性の吟味」、沢木欣一『塩田』、能村登四郎『合掌部落』といった所謂社会性俳句の潮流が高まってくるのと軌を一にしている。さらに文体という点からは新興俳句への架け橋的な存在であった「馬酔木」の影響があると言う。

 一方、西の兜子、東の兜太を中心とした前衛俳句の影響はほとんど受けていない。その証拠として『雪嶺』(昭和44年刊行)の字余りの句が95/430=22.1%に過ぎないことを挙げ、赤尾兜子『虚像』(昭和40年刊行)の95.2%と比較して破調の句が少ないことを指摘する。〈遷子の俳句の姿の正しさは写真に見る彼の背筋の伸びた姿勢に通じる気がする〉と述べる。


まとめ

 これについては意見が割れた。

 は遷子について、「社会性俳句」の影響を受けたにせよ、それらの作品の題材は自己の生活の一環であり、飽くまで佐久での生活を基盤に自己の作風を培っていったと捉える。

 中西は時局詠、生活詠、自然詠のすべてが「馬酔木」の中にあり、社会性俳句についても「馬酔木」を通して、戦後俳句と間接的に繋がっていたと考える。

 自然詠については仲も「馬酔木」高原派としての遷子、との捉え方であるが深谷は他の高原派との違いを言う。

 問題は社会性俳句である。中西、仲は「馬酔木」や周辺の所謂「社会性俳句」の作家たちの影響を強調、原、深谷は飽くまで地域性を基盤にして出てきた独自性があると主張する。こうした中、筑紫の「社会的意識俳句」という捉え方は遷子の俳句を論じる上で新しい観点を提供するものである。〈沢木欣一、能村登四郎、金子兜太らが行った社会性俳句とは別の、より広い社会的な志向を持った俳句というコンセプト〉は魅力的で、所謂「社会性俳句」の影に埋もれてしまった多くの俳句を見直すことにつながる可能性がある。遷子をこれら「社会的意識俳句」の代表的作家と位置付けるのである。


【連載】現代評論研究:第15回各論―テーマ:「花」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

(2011年11月25日)

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 汽船が灯る 菜畑受胎

 第5回にも既出の昭和28年の作品(注①)である。「下関港と周辺」と題した一連の作品中にあるので、港に停泊している船に灯がともったのであろう。その灯火の黄色にポッツと点った瞬間に照応する如く、菜の花の受胎を感応したのであろうか。まるでカンバスに浮び上る様に描かれた海峡をはさんだ船と菜畑のような趣のある作品であり、その取合せも絶妙である。更に七・七の快い短律のリズムである事も詩的共鳴として見逃せないものがある。又、この句に先立って昭和27年に下記の詩(注②)が発表されており、それがこの句の基材ともなっているようである。。

<丘にて>

菜の花は靴の中で受胎する

菜の花はズボンの折目で受胎する

菜の花は耳のそばで受胎する

菜の花はデパートの屋上で受胎する

遠く沖を走る船のマストで受胎する如きは

何の不思議もないことだ

 菜の花の原種は、西アジアから北ヨーロッパの大麦畑に生えていた雑草で、日本では弥生時代以降から利用されたとみられており、江戸時代になって植物油の採油目的として栽培されたそうである。また菜の花は自然交雑して雑種が生まれ易く、同種だけでなく他種の花粉によっても結実してしまうそうだが、果たして圭之介がそこまで考慮してこの詩を書いたかどうかは疑問である。しかし、菜の花という対象への視点の位置を変える事によって様々な受胎の様相が現れてくる事は確かである。

 菜の花は圭之介が特に好んだものらしく、他にも多くの作品がある。

 海峡の向こうで菜の花が咲いている     昭和40年作

 豪華な菜の花ばたけの角を曲がる      昭和41年作

 砂丘へ誰が菜の花をすてたのか       昭和42年作

 思想喪失 菜の花が咲いた         昭和54年作

 菜の花ばたけ黄に 絶望の人は通らぬ    昭和57年作

 かなり散文的な句調のものもあるが、常に菜の花という存在を自己に引きつけては、その実存を確認しているがごときである。そしてその折には菜の花の向光的性格を積極的に意識しつつ。そういえば与謝野蕪村にも菜の花の句が多くあった。

 菜の花や月は東に日は西に        蕪村

 菜の花や鯨もよらず海暮ぬ

 菜の花や摩耶を下れば日の暮るる

 菜の花を墓に手向けん金福寺

 これ等の句の菜の花と月、海、夕日、墓との配合は同じ画家としての視線を通じての印象鮮明な構成となっている。尚、摩耶は私が住む近くの六甲山系の摩耶山であり、金福寺は京都左京区にあり、蕪村の墓や蕪村等によって再興された芭蕉庵がある寺である。


 また、圭之介には受胎関連の句も多い。

 花が受胎する夜のインクと壺        昭和28年作

 旅をもどり花の受胎おわり         昭和32年作

 受胎とはある種の非日常的な詩の誕生への入口でもあり、その行為の結果としての日常への回帰でもあろうか。

 「花」とくれば女性がつきもの。

 それだけの夜だった バラを手にもたせ   昭和20年作

 真相は言わず白く咲く所存         昭和51年作

 女の闇に辛夷ちる覗いてはならぬ      昭和62年作

 お互いに何も言わずに別れ、秘めた思いは秘めたまま、そして散る辛夷は女の闇の中で怪しくほの白く浮び上る。年代によってドラマは少しずつ濃厚になってゆくようである。


注① 「ケイノスケ句抄」 層雲社  昭和61年刊

注② 「近木圭之介詩抄」 私家版  昭和60年刊


●―2稲垣きくのの句 / 土肥あき子

 こころの喪あくる日のなし花散れり

 きくのにとって、しばらく桜は悲しい思い出を引き連れてくる花だった。

 第一句集『榧の実』に収められた掲句は昭和33年(1958)の作で、前書に「急逝せし弟の三回忌を迎ふ」とある。きくのにはふたりの弟があり、上の弟を昭和30年(1955)の春に亡くしている。作品は40代の若さで亡くなった弟の三回忌に宛てたものだ。集中には並んで

 ゆく春やかけがへのなきひと失くし

がある。

  きくののエッセイ「古日傘」によると「南方の島々で全うした命を、彼は松林の家で自ら絶った」とある。自死の理由はさだかではないが、彼の嫁となった女性はきくのが紹介したといういきさつもあって、家庭の事情が関係してくればなおのこと後悔も嘆きも深いものであったと思われる。昭和35年(1960)作の

 花散れりこころの呪縛まだとけず

も弟の一件に関わるものだろう。

 姉弟はたいへん仲がよかったようで、戦地の弟へ「火焔樹の花を知りたいからもしあったら写生して送ってほしい」ときくのが書き送れば、烈しい戦いのひまを見つけスケッチと押花が返ってくる。同封の手紙には

道路に並木を作って咲きそろう頃はその名のとおり火焔のようで(中略)相当どぎつい花だが親しみが持てる

と記されており、きくのは長旅を経てしなびた南国らしいおおまかな花片を愛おしく弟の、その手に触れる思いでそっと手に取る。

 先日、きくのの姪の野口さんから、叔母であるきくのの話しをうかがう機会を得た。野口さんはきくのの下の弟のお嬢さんで、戦後しばらく赤坂の屋敷の敷地内に住んでいた。広大な屋敷の思い出のなかで、ことのほか印象に残っているのが紅蜀葵だったという。紅蜀葵は独立した花弁が特徴のハイビスカスのような花で、その目に沁みるような赤と5片の花弁の独立した姿は火焔樹の花にも似る。

 きくのは毎年咲く紅蜀葵を見ながら、戦地にいても、姉を慕い南国の花の姿を描き送ってきた弟の姿を重ねていたのではないか。

 句集には収められていないが、昭和12年(1937)の俳句手帳の10月1日にただ一句紅蜀葵の句を見つけることができた。

 紅蜀葵一輪なれば痛々し

 当時住んでいた家の庭に咲いていたものか、あるいはどこかで見かけたものかもしれない。しかし、一輪だけ咲いている原色の花を、きくのは痛々しいと見た。日本の風土にどこか合わない花だからこそ、群れ咲いてほしいと願ったのだろう。

 その後、野口さんから紅蜀葵の種を頂戴した。乾いた花房から小さな種がころころと手のひらにこぼれる。この無愛想な種から深紅の花が開くのだ。

 愛するものを秘めるきくのの胸のうちのように。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 花散るや飢も睡りも身を曲げて

 昭和50年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 花と言えば桜。今も多くの俳人たちが桜を詠んでいる。「桜巡礼」と称して日本中の桜の名所に足を運んだ俳人もいる。しかし、齋藤玄という俳人は、桜の句をそれほど残してはいない。ことに後半生(昭和46年から昭和55年)に限って言うと13句しか桜の句を残していない。(*2)

 第4句集『狩眼』で4句、第5句集『雁道』で8句、遺句集『無畔』で1句を数えるのみである。3句集の合計収録句数が938句であることから考えると全体の1パーセント弱に過ぎない。

 そのうち10句が「落花」すなわち、散る桜を詠んでいる。

 散るさくら昼の淡きにさしかかり  昭和48年作 『狩眼』

 桜が散り始めると、桜の木のあたりは淡い色に包まれる。淡い紅色は見つめていると眠気を誘う。昼にさしかかろうとする春の日の倦怠感を〈散るさくら〉の淡い色あいに重ねて描いている。

 癒ゆる身はかりそめのもの朝桜  昭和49年作 『狩眼』

 胆嚢炎を患い入院していた頃の句。〈癒ゆる身はかりそめのもの〉という独白と、昼には散ることを連想させる〈朝桜〉の取合せ。回復に向かっている肉体を〈かりそめのもの〉と突き放して見せているところに、死の予感に包まれている玄の心理状態を読み取ることができる。だが、絶句の〈死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒〉ほどの迫力はない。

 生くるをも試されゐるか花吹雪 昭和50年作 『雁道』

 桜は独白を誘うのかもしれない。饒舌な独白は観念に堕しやすく、俳句を陳腐化させる。〈花吹雪〉でかろうじて人生訓俳句から脱しているが、病に執している心が見える。

 花びらの掃かるる音は知られけり 昭和50年作 『雁道』

 聞こえるはずのない〈花びらの掃かるる音〉を病室内のベッドの上で聴いている病者の心理状態を想像して欲しい。幻聴といえばそれまでだが、花屑を掃く音を探す病者は狂気と生への執着との葛藤のなかで、自身が花屑となって誰かに掃かれている音を聴いていたに違いない。現実と非現実の音が耳の奥で交差する。壮絶な無音の病室が見えてこないか。

 花散るや飢も睡りも身を曲げて 昭和50年作 『雁道』

 掲句は〈生くるをも試されゐるか花吹雪〉〈花びらの掃かるる音は知られけり〉と同時期の作。〈飢も睡りも身を曲げて〉が句の眼目。ひもじさに耐えて眠った終戦後の日本人の共有体験が〈花散るや〉の上五から浮かび上がる。病中吟として読むこともできるが、戦後の一風景として記憶にとどめておきたい。

 惜しげもなく散る桜の姿に多くの日本人が美を感じ取るなか、齋藤玄は故郷函館の桜を一度として詠むことはなかった。死後、生家にほど近い函館公園の桜の木の下には、玄の〈ひるがへる遊戯を尽す秋の鯉〉の句碑が建てられているというのに。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2 参考までに『狩眼』『雁道』『無畔』に収録されている桜および桜の関連季語を詠み込んだ13句をあげておく。


配列は句集における掲載順である。遺漏・過誤があればご教示願いたい。

 花屑の険しさほどに狼藉す 昭和47年作 『狩眼』

 散るさくら昼の淡きにさしかかり 昭和48年作 『狩眼』

 悪しき世の坂は細りつ花吹雪 昭和48年作 『狩眼』

 癒ゆる身はかりそめのもの朝桜 昭和49年作 『狩眼』

 花散るや飢も睡りも身を曲げて 昭和50年作 『雁道』

 生くるをも試されゐるか花吹雪 昭和50年作 『雁道』

 花びらの掃かるる音は知られけり 昭和50年作 『雁道』

 花の屑うすゆき鳩も忘らるる 昭和50年作 『雁道』

 鯉守のやがてさびしき初櫻 昭和53年作 『雁道』

 鯉の身のまた浮きやすし花吹雪 昭和53年作 『雁道』

 野施行の心は空に花の雲 昭和53年作 『雁道』

 花散るをすぐ立つまでの杉木立 昭和53年作 『雁道』

 散りかかるばかり花びらめざましき 昭和54年作 『無畔』


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 落花いま紺青の空ゆく途中

 『山姿水情』(1981年)所収の句。

 颯々と吹き渡る一陣の風。その刹那、満開の桜の花がどっと薙ぎ払われ、夥しい花びらが紺青の空に溢れ出す。1秒、2秒、3秒・・・。少しずつ密度を落としながらなおひとしきり虚空を流れゆく花びらを、作者はたまゆらの旅人に見立てているのだ。

 落花とは本来「落ちる花」「落ちた花」である。高きより低きに移動する花弁を、いわば本意本情とする言葉だ。しかし、葦男の落花は容易に落ちない。それどころか上昇気流に乗って旅に出ようとするかのような気勢さえある。

 この句を初めて読んだとき、筆者は初唐の詩人・劉希夷の「代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代はりて)」の劈頭の聯を想い起こした。

洛陽城東桃李花   洛陽城東 桃李の花

飛来飛去落誰家   飛び来り飛び去りて 誰が家にか落つる

洛陽女児惜顔色   洛陽の女児は顔色を惜しみ

行逢落花長歎息   行くゆく落花に逢ひて長歎息す

 描写力に優れる唐詩は、「飛び来り飛び去る」花びらは一体誰に落ちかかるのだろうかというところまで書ききってしまう。これに対して葦男の落花は、30数年前のある春の日に彼の視界をよぎった瞬間から今に至るまで、ずっと地上に落ちることなく紺青の空に止まっているのである。

 葦男の句集『朝空』(1984年)の解説文の中で、大串章が述べている。 

堀葦男氏は、みずからを極小の旅人と自覚する。しかし、そこからニヒリズムや  受身の無常感に堕ちてゆくことはしない。極小の旅人は極小の旅人として、自らの命をいつくしみ、自らの生を充実させていこうとするのである。

 『朝空』の最終部は「過客」という章名である。歿後刊行された遺句集が関係者の熟議の末、同じく『過客』と名づけられたのは偶然ではない。百代の過客である光陰=悠久の時間にしばし随行をゆるされた極小の旅人という葦男の自己認識を尊重した結果であった。

 この集名を撰した際、葦男の忌日である4月21日を今後「紺青忌」と呼ぼうではないかという提言をした門弟がいた。冒頭の句にこめられた過客の思いが葦男の人柄を何よりもよく表しているという理由からではなかったかと思う。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 このまま眠れば多摩川心中いぬふぐり   諧弘子 

 掲出句は著者の第一句集『牧神』に収録。表記は初出においては分かち書きがされていると思われるのだが、「青玄」誌上での初出が確認できていないため、楠本憲吉編集による『俳句現代作品集』(1982年、広論社)及び作者の追悼特集が組まれた「野の会」2011年9月号での表記に従った(『牧神』での表記がすでに分かち書きから改めているのかもしれない)。作者は1963年(昭和38)11月号の「青玄」誌上に初出句にして初巻頭でデビュー、1965年(昭和40)には青玄新人賞を受賞。その後に楠本憲吉の「野の会」に所属、2011年3月に亡くなられた。句集に『牧神』『兎の靴』がある。

  「春うらら」という言葉がふさわしいある真昼の多摩川の河原で、1組の男女が土手の草の上に腰を下ろして佇んでいる。いぬふぐりの花が咲き誇る土手、草の上の二人はとりとめのない会話を繰り広げているではあるが、その中には確かな充実感が漲っているので、さまざまに話題を変えながらもお互いのやりとりが途切れることはない。そんな中、じっと見つめていた彼の顔から少しだけ目を離し、眩しい春の光に照らされながら流れ続ける多摩川の水へ視線を移した彼女の心にふとこんな思いがよぎる、「いまここでふたりが死んでしまったら、のちの人から曽根崎心中みたいに『多摩川心中』なんて言ってもらえるのかな」。自分のふとした思いつきがおかしくて、思わずかすかな笑みを浮かべる彼女。一方いきなりの彼女のほほえみに彼は「川を見ているだけのに何がおかしいんだろう」と思いながらも、彼女に向かって「何がおかしいの」と問いかける野暮な真似は決してせずに、眩しい春の光に輝く彼女のほほえみを改めて見つめ直す。そんなふたりを、いぬふぐりをはじめとした春の草の匂いはぼんやりと包み込むのである。

 「心中」という言葉からもたらされるイメージは、「曽根崎心中」や「ロミオとジュリエット」(少し違うか)のように家族や世間、または自分たちの過ちといった要因によって追い詰められてしまったふたりが、相思相愛を貫こうとする欲望と、現世からの脱出を求めてお互いの手で命を断つというものなのだが、掲出句においては、ふたりの関係が十分に満ち足りたものであるのを確認している今このときに「心中」という言葉がふいに露わになる。だからといってお互いの関係に何かしら不吉な兆候が現れたとか、実は相思相愛のふたりが世間や社会にとっては到底許されない関係性を持っている、などといったいらぬ邪推はいらない。今このときを心中物のクライマックスである「道行」のはじまりとする把握は、あくまでも満ち足りたふたりの関係がもたらした彼女の悪戯心の賜物なのである。いぬふぐりはそんなかりそめの「心中」の舞台を飾るにはもってこいの花、「多摩川」は大都会の生活から醸し出されるさまざまな匂いを両岸で漂わせている空間であるだけに、ふたりのかりそめの「道行」の場の舞台としてはこれほどふさわしい場所はないだろう。

 「青玄」誌上で活躍した若手作家たちの軌跡をたどった『青春俳句の60人』(1988年、土佐出版社)の著者森武司氏は掲出句について、 

愛の極限の女心をこんなに見事に詠んだ句を私は知らない。多摩川原に燦燦と原始よりの太陽は降り注ぎ、相抱く男女。これは万葉人の直情的な相聞歌にも似て、さらに詩的であり、そして俳句そのものの骨法に支えられて深い感動を伝えてくる。怖しい作品である。

と賛辞を惜しまないのだが、読んだ後の深い感動を書いたあとで「怖しい作品である」との一言が加わったことで、評者がこの1句に対して感じた凄みがさらに伝わったのではないかと思われてならないのは、満ち足りた春の空間、満ち足りたふたりの関係への喜びを全身で深く味わい尽くそうとするさなか思いついた「心中」への想念が、誰の心にも一瞬訪れることがあるだろう「死」へと通じる「魔」への誘いのようにも見えるからだろうか。もっともこの春のひとときのこの瞬間、彼女は「魔」への誘いなどどこ吹く風とばかりに振り払って、何事もなかったかのように彼の顔へ満面のほほえみを向けるのであろう、その事のほうが実は「怖しい」のかもしれないが。


●―9上田五千石の句/しなだしん

 まぼろしの花湧く花のさかりかな   五千石

 第四句集『琥珀』所収。昭和五十八年作。

 今回の「花」というテーマではたと気づいた。五千石に「花の句」が少ないのだ。五千石の代表句を多く収める第一句集『田園』には、「花」「桜」の作品は一句も残っていない。第二句集『森林』になって、〈ぽつとりと金星一顆初ざくら〉〈側溝を疾走の水山櫻〉の二句が登場し、第三句集『風景』には、〈土くれに鍬の峰打ち山ざくら〉〈花さびし真言秘密寺の奥〉〈うち泣かむばかりに花のしだれけり〉の三句がある。

 第四句集『琥珀』には掲出句を含め、六句が収められ、徐々に「花」の句が多くなっているが、『田園』のゼロ、というのはやはり意外というほかない。

 ちなみに『上田五千石全集』(*2)の『田園』補遺には「氷海」の発表作として、以下が残る。

 さくら降りとめどなく降り基地殖ゆる  30年6月

 午後の懈怠さくら花翳濃くなりて     〃

 夜桜に耀りし木椅子の釘ゆるぶ     31年8月

 朝ざくら悪夢に慣れて漱ぐ       35年5月

 『田園』刊行までの十四年間にして、四句の発表というのはごく少ないと云っていいだろう。この「花」の句の少なさの理由を知るすべはないが、当然名句といわれる作品も多い「花」「桜」の作句を五千石はやや敬遠していたのではないか、というのは深読みし過ぎだろうか。

     *

 著書 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*3)の「自作を語る」の中で、掲句について、“伊豆の韮山での作”とし、“満開の桜に出会ってこの句が生まれた”と記す。“「花のさかり」を前にすると誰しも絶句してしまうもの”、“私も「花」のむこうから「花」が「湧」いてくるのを眼前の景にしばし沈黙を強いられた”と書き、さらに“我慢して「よく見」ていれば何かが発見できる”、“「まぼろしの花」が見えてきたのはそのお陰”、“現実の「花」も「湧」きつぎ「まぼろしの花」も「湧」きついで咲き加わっているのが見えた”、“「花のさかり」は虚実の「花」の混交だった”としている。ここに書かれた通り、花に対峙したとき五千石でさえ絶句し、沈黙を強いられた。「花」を敬遠していたのではないかというものまんざら絵空事ではないかもしれないが、それを越えて詠もうとすれば、残せる作品ができるということだろう。

     *

 「まぼろしの花湧く花のさかり」というのはやや分かりにくようにも感じるが、「まぼろしのような花」をうち出したことにより、現実の「花」との遠近が鮮明になり、いわゆる「花の雲」の情景が読み手に伝わってくる。「かな」止めもよく働いている。

 掲句は、五千石の数少ない「花」の句の中での代表句と言っていい。


*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊

*2『上田五千石全集』 富士見書房刊

*3 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 乳房のごと辛夷盛りあぐ画家羨し

 椿落ちて万緑叢中一朱脣

 『孤客』45年、46年より。

 花といえば普通は桜だが、ここでは花一般を取り上げてみた。第1句は、油絵である。絵の具を盛り上げて描いた辛夷の花に、乳房の立体感を感じたものだ。「羨し」は「ともし」と読む。第2句は、緑の山の中で落ちた椿の上向きの花弁が女性の唇に似ているというものである。乳房より一層エロチックに見える。何を見ても女に見えてしまう困った性癖であるが今回注目したいのはそれではない。この句の背景に中村草田男の句があるからだ。

 冬空を今青く塗る画家羨し 『長子』

 万緑の中や吾子の歯生え初むる 『火の島』

 万緑は、王安石の詩の「万緑叢中紅一点」からとったものであるから、憲吉はその出典に遡って、「紅一点」を「一朱脣」に似ているだろうと示しただけのものである。憲吉の師日野草城は昭和初期に新婚の一夜を描いた「ミヤコホテル」一連で物議を醸し、とりわけ中村草田男と激しい論戦をした経緯がある。そうしたことを忘れたかのごとく、平気で草田男のフレーズを借用しているのである。

 こうした部分借用は枚挙の暇がないほどであり、さらにそれは自己模倣にまで陥っているのである。

 春は名のみと書き出す手紙ペン涸れ勝ち

 春は名のみの風がもたらす一つの訃

 ぼうおぼうと喚ぶは汽笛か鰊群来

 無惨やなわが句誤植を読む寒夜

 埃吹く街黄落の激しきに (『埃吹く街』近藤芳美の代表歌集名)

 私は船お前はカモメ海玄冬

 見よ東海の岬にたてばひそかに春

 夕立のほしいままなり言うままなり

 我耐えるゆえに我あり梅びっしり

 我愛しむ故に我在り裾冷ゆ春

 君はいまどのあたりの星友の忌更け

(仙台侯に愛された遊女高尾の詠んだ句に「君はいま駒形あたりほととぎす」がある)

 詩であろうが、俗謡であろうがそんなことに構わず、耳に快いフレーズを使う。誠に危険な作句法だが、実はこれが俳句の本質を突いているから厄介である。


●―12三橋敏雄の句 / 北川美美

 切花は死花にして夏ゆふべ

 花に「生」と「死」を見るのは、ジョージア・オキーフ、アラーキーが思い浮ぶが、敏雄に共通の審美眼をみる。

 野に咲く花には生命臭があり、自然界から切り離された切花は既に屍である。夏は特に水が腐り易く、異臭甚だしく花は水の中で腐っていく。掲句は「切花」を通し、今生の儚さと死後の世界の美しさを秘めているように思える。それが「夏ゆふべ」のおどろおどろしさと重なり彼岸をも暗喩している。掲句は『疊の上』収録。

 日本人の美の根底にある「幽玄」を「花」に見ることが多々あるが、あえて「死花」として表記しているところにタロットカードの死神に近いものを感じるのである。

 活花や家居を永くせざりしよ 『鷓鴣』

 「いけばな」もしかり、「幽玄」の美意識から発展してきた。ここにある「活花」が立華に代表される定型、あるいは茶花のような非定型なのか、はたまた中川幸夫のような血のような前衛いけばな芸術なのかは見えてこないが、すでに半屍となった植物が、造形・装花として屋内にあることがわかる。切花に残る匂い、その存在が敏雄を屋外へと押し出していたのである。「いけばな」の起源はアミ二ズムにあると考えられており、切り落としてもまだ生命を維持できる植物の神秘性が根源らしい。ゆえに、その美しさは一瞬のものである。敏雄は、活花に生死の淡いを見ていたのだろう。

 曼珠沙華何本消えてしまひしや 『疊の上』

 つぎつぎに死ぬ人近し稲の花 『鷓鴣』

 我とわが舌を舐むるにあやめ咲く 『〃』

 白百合を臭し臭しと獨り嗅ぐ 『巡禮』

 「エロス」と「タナトス」が見える。花は敏雄にとって、淡く悲しく匂う淫靡な生命として映っていたと読む。アラーキー語で言うならば、「エロトス」。まさに敏雄の花は「エロトス」である。


●―13成田千空の句/深谷義紀 

 藁の家田打桜は満開に

 第6句集「十方吟」所収。

 田打桜。桜の文字が入っているが、実は桜ではなく、辛夷の別称である。辛夷の開花をみて田打ちに取り掛かったことに由来するという。

 菅江真澄が文化年間(1804~18)に記した随筆「たねまきざくら」(随筆集「しののはぐさ」)に「辛夷の花の咲くのを出羽では田打桜といい、その頃に田を打ち、苗代の種蒔の頃の彼岸桜を種蒔桜という」という内容のくだりがある。(講談社刊・新日本代歳時記「種蒔」・解説執筆:多喜代子)

 自然事象を農作業の目処にすることは日本全国各地に見られ、他にも雪形に「種蒔爺」「代掻き馬」などの名を付け、それぞれの作業の目安にしていたことはつとに知られるところである。

 東北の春は遅い。その春の到来を告げるのが、白い辛夷の花である。千昌夫が唄った「北国の春」にも次のようなフレーズが登場する。

 こぶし咲くあの丘 北国の ああ 北国の春   (作詞:いではく)

 青く澄み切った空を背景に、眩しいほどの白さを放つ辛夷の花。それは、長かった冬を乗り越えられた安堵の象徴であると同時に、これから一年の農作業が始まる謂わば開幕ベルである。冒頭の千空の作品にも、そうした喜びと期待が満ちている。

 弘前城をはじめとして、北東北にも桜の名所は多い。確かに、あでやかに咲き、はかなげに散っていく桜の雅な美しさもいい。だが、「田打桜」という名を持ち、この地に生きた農民たちの思いを伝える辛夷こそ、津軽の「花」に相応しいと思う。


●―14中村苑子の句  【『水妖詞館』―― あの世とこの世の近代女性精神詩】37.38.39.40/吉村毬子

2014年9月5日金曜

37 無体に来る四季赤き眼に目薬あふれ

 先にも述べたように、苑子は『水妖詞館』を出版する理由として、死をも予告する病名を告げられたからだと語っていた。「無体」がその現実を如実に描いていることからも頷けよう。

 余命の無い己が肉体に、四季の移ろいが歯痒く、眩しく、愛しい。未だ到達できぬ俳句への至願を抱えつつ、自身の眼に映る季節の色彩は、永遠に瞼を閉じるその時まで苑子を捕える。まさに実体の無きがごとく浮遊する「無体」、また、その心の動揺や諦念から自身をないがしろにする「無体」は、有体の浮世と接することなどより自然を視つめ、自然に視つめられることを望んだのではないだろうか。しかし、「来る」という表現に、自然という有体も自らを拒むことができぬように、迫りくる時の経過を迎える日々。

 死期を思う焦燥や疲れ、不眠から「赤き眼」の表現が伺えるが、「四季赤き眼」とも取れよう。年中、眼底出血のような赤い眼に目薬を注している状態であるということである。前者の解釈では、中七が句跨りになり、〈無体に来る四季/赤き眼に/目薬あふれ〉になるが、後者は〈無体に来る/四季赤き眼に/目薬あふれ〉である。どちらにしても「四季」は、「無体に来る」と「赤き眼」の両域に掛かり関係を結ぶのである。〝四季が無体に来る〟、そして、〝四季、即ちいつも赤い眼に目薬があふれる〟ということである。

 文学に携わる者は、多く読書家でもあり、疲れ眼の状態が続く。況して苑子は、夜から明け方に及び原稿を書くタイプであり、闇夜の灯で眼を酷使しては目薬を常用していた。それは又、限られた残りの時間に貪りつく読み書きの結果であるのかも知れない。

 晩年の苑子に、眼に良いからと贈ったブルーベリーを、少女のように喜んでいたことを思い出す。

 

38 野の貌へしたたか反吐(もど)す水ぐるま

 前句の「眼」から「口」へと身体を材料にした句が並ぶ。

 「水ぐるま」は、土地を潤すために田畑に水を注ぎ入れ、例えば刈り終えた稲の精米や、小麦粉を製粉する。この句は、春夏秋冬の陽射しを受けながら「水ぐるま」のカタンカタンという音を発するのどかな田園、あるいは、山里の風景画であるはずの様相が、グロテスクな幻想画として読み手に呈示されるのである。

 それは、「野の貌」「したたか反吐(もど)す」の表現によるものであるが、「野の貌」とは、壮大な自然の実態を単なる風光明媚なものではなくもっと厳しく、生々しくとらえたリアルな表現であると言えよう。自然の織りなす、造っては生滅を繰り返す野の時間に「水ぐるま」も「したたか反吐す」ことを繰り返す。

 昨今の減反や農業の機械化が進む以前の日本において、たとえば宮沢賢治の作品にも見受けられるように、農耕という長い歴史と自然との葛藤、忍耐は想像を絶するものがあるだろう。

鳥が食ひ虫が食ひ雨にくさり落つるあまりの李(すもも)が人間のもの

                       石川不二子『さくら食ふ』

旱天の雷に面あげ一滴の雨うけしわれや巫女のごとかる

                       同  『水晶花』

 1933年生まれの歌人、石川不二子の短歌である。不二子は、温暖な神奈川県藤沢市出身の農業家であり、農業生活の辛苦の歌を必ずしも多く残しているわけではない。農業に携わる身の、自然との交歓の景が多く歌われている。しかし、昭和生まれの彼女の歌にも、自然の中に生きる厳しさが垣間見えてくる。

 「野」には、開墾に血と汗を流しながらも、貧苦に朽ち果ててしまった貌もあるだろう。幾多の戦の歴史の犠牲に倒れた無念の貌も、この世では遂げることのできなかった絡まり縺れ合う男女の悲愴な貌も――。それらを受容し、眠らせる「野の貌」へ「水ぐるま」は「したたか」水を与えるのである。自然からの恵みの水を頂いては、自らの力で自然へ「反吐す」ことを繰り返す「水ぐるま」は、渇きゆく「野の貌へ」魂の救済のごとく、永遠に回り続けているかのようである。


39 流木を渉るものみな燭を持ち

 「燭を持ち」て渉る時刻は、夜、または夜明け前、夕暮れ時であろう。昼間、山から伐り落とし、水の流れに運ばれた「流木」か、嵐の海に割れ砕けて流れてきた「流木」か、薄闇の中、凪いだ海上の流木を渉り、沖に向かって行く者たちのひとつひとつの灯りが仄かに揺れ動いている。風も止み、潮騒だけが幽かに聞こえ、月光が海面を静かに照らしている。この果て無く幽玄な美しき光景は、この世の風景とは思われない。

 かぐや姫は、満月の夜、光彩を放ちながら、艶(あで)やかに空を渡り、故郷へ帰って行ったのだが、ここに描かれる者たちも、また、魂の故郷へ旅発つところなのである。

 十七文字の中には、〝死者〟とも〝あの世かの世〟、〝彼岸〟とも表記されてはいないのであるが、とぎれのない一句一章を読み下した後に残る静けさと崇高さは、読んだ者をもその中有のような世界へ誘い込む。生者が死者へとゆっくり変容する姿を見送っているような心持ちになる。

 随筆集『私の風景』の「原始は水」の文中に、『水妖詞館』という題名について語っているが、 

人間の生死の時刻も潮の干満とおおむね符合することなどを思うと、「人間とは、何と玄妙な生き物か」とそぞろ虚しさを覚え、……

というくだりがある。また、俳句の講義の中でも〈潮の干満の時刻は、明け方や夕暮れ以降に多く、人の生死と深く関係している〉と度々話していたことを思えば、「燭を持ち」にその意識が表現されているのだ。これまでに登場して来た直接〝死〟に纏わる句。

  1. 喪をかかげいま生み落とす竜のおとし子

 15.喪の衣の裏はあけぼの噴きあげて

 16.祭笛のさなか死にゆく沼明かり

 24.落鳥やのちの思ひに手が見えて

 30.愛重たし死して開かぬ蝶の翅

 これらの句のように、〝死〟に関連する語は使われていないのだが、より〝死〟が感じられる。そして、これらの句と比べると、静寂さのみが極まる作品と思われるのだが、愛唱者が多いのは、一句に漂う〈人間とは、何と玄妙な生き物か〉と言う苑子の思いの丈ゆえに尽きるのであろう。

 

40 死は柔らか搗かれる臼で擂られる臼で

 前句39.の文中で取り上げたこれまでの直接的な語、〝死〟を扱った句の中でも、特異な薄気味悪さが感じられる句である。

 臼の中で搗かれ、擂られる、真白い餅の様子が想像される。搗かれるままに、擂られるままに、餅は柔らかにされるままにある。水を含みながら、艶を持ち、上下左右様々に変容されながら、より一層柔らかく滑らかになる。そして、繰り返し動く臼の中の餅が、いつしか人の肉のように思われてきたのではないだろうか。

 しかし、その妄想は、怖しい情景を目の当たりにしているという描写ではなく、むしろその状態に見入り、恍惚としている風にも思えてくるのである。

 「死は柔らか」の表現は、死の持つ美的情緒へ吸い込まれて行きそうな感覚であり、「搗かれる臼で擂られる臼で」の畳み掛けは、さらに死への陶酔にのめり込んでゆく様が感じられる。この6音、7音、7音の構成は、定型を超えた不安定な詩的世界へと消えて行きながら、「柔らか」のか、「臼で」ので、の余韻を残す。また「柔らか」という語と、「死」「臼」「擂られる」のシとサとスのサ行のしめやかな音感が奏でる、あくまで淡々とした静かな流れの印象なのである。

 恍惚として見蕩れながら、苛虐的視点を持ち、柔らかい女体のごとく撓る白い餅を、自らの肉体と感受している被虐的要素も見受けられる。死を客感的、主観的に、精神的な観点から炙り出しながら、ひたひたと呪文のごとく唱えられる稀有な作品として耳に残る一句である。