2025年8月22日金曜日

第252号

  次回更新 9/12


辻桃子はなぜ大浴場に泳いだか? 筑紫磐井  》読む

■新現代評論研究

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第4回:創刊号「実作者の言葉」…「定型」「現実」/米田恵子 》読む

新現代評論研究(第10回)各論:仲寒蟬、後藤よしみ 》読む

現代評論研究:第13回総論・攝津幸彦4 攝津幸彦俳句鑑賞 執筆者:北川美美 》読む

現代評論研究:第13回各論―テーマ:「冬」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年歳旦帖・春興帖
第一(4/25)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖
第二(5/9)ふけとしこ・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(5/23)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/27)曾根毅・浅沼 璞・なつはづき
第五(7/5)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第六(7/11)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第七(7/25)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第八(8/22)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結

令和六年冬興帖
第一(4/5)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖・ふけとしこ
第二(4/11)鷲津誠次・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(4/25)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/13)曾根毅・浅沼璞・なつはづき・下坂速穂
第五(6/21)岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第六(6/27)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第七(7/5)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結


■ 第49回皐月句会(2024/5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第20号 発行※NEW!

■連載

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(61) ふけとしこ 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり34 高山れおな『百題稽古』 》読む

英国Haiku便り[in Japan](54) 小野裕三 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』 栗林浩 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

7月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …




■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。  

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(61)  ふけとしこ

 草色の蜘蛛

竹皮も太き蚯蚓も乾ききる

夏帽子草色の蜘蛛乗せてくる

縞馬の尻の縞見て白日傘

ざりがにを踏んで行きたる蹄かな

どこからか煙草の臭ひ熱帯夜

・・・

 今年の暑さも尋常ではないが、昨年の今頃も残暑が厳しかった。その暑い中を伊丹市立ミュージアムへ出かけた。

 「虫」展が開催されていたのである。

 『病葉草紙』(京極夏彦著・文藝春秋社刊)の書評を読み、ちょっと興味を持ったタイミングで、この「虫」展の図録を頂いた故でもあった。

 頂いた「虫」展の図録、それが何とも楽しいものだった。

 古来の虫達を題材にした作品が次から次へと。これは図録でもこうなのだから、実際の展示を見なければ、なのであった。

 虫は良きにつけ悪しきにつけ人の暮らしにとても近いものだったのだと、改めて思いながら会場を巡った。一つ一つの虫の描写も細密あり、豪放あり、絵師・画家の個性が現れていて多種多様であった。

 そして、圧巻はやはり絵巻物である。玉むし物語や大名行列、虫歌合せ、合戦の図等々。

 『玉虫草子』を題材にした絵巻は、玉虫の姫をめぐる殿ばらの歌の数々、平安貴族を模した装束。嫁入り行列の従者達の装束も然り。流石に馬に乗る者はなくて、蛙に乗せているところなどは可笑しくも納得できる。調度品も丁寧に美しく描かれていて、見飽きない。

 これは人の姿や暮らしに擬えて描かれているが、酒井抱一の『虫之大名行列図』になると蜂は蜂、飛蝗は飛蝗の姿で毛槍等ではなく野の花や稲穂などを持たせて行進させている。一番気に入ったのが、長持の代わりに足長蜂の巣を担がせていることだった。この蜂の巣の部分だけでも欲しいな~、本当にそう思った。

 ここでつまらぬことを考えるのが私で、四本足の動物なら人の姿に似せて描くのもある意味容易かもしれないが、六本足(脚)の昆虫の類なら中の一対は邪魔ではないのだろうか、といらぬことを思うのである。

 目を凝らして見たけれど、この胸の一対の脚はどう扱われているのかよく分からなかった。胸元に畳んでいるのか、前脚に物を持たせているから、それを補佐しているものか……。

 それはともかく、どちらの絵も人気を博したことだろう。

 虫も美しいもの、愛らしいもの、声の綺麗なものばかりではない。見た目で嫌われるもの、毒針などをもって怖れられるもの等々さまざまである。蛇や蜥蜴、百足や蝸牛や蛞蝓も虫の仲間に入れてあるが、分類上はどうなるのだろう?

 そして、ここから京極夏彦の小説『病葉草紙』と重なるところに至るのだが、つまりこの場合の虫は人体内部に巣喰う虫のことを指し、この虫に取り付かれることで病が起きるという考え方である。この展覧会に加えられていたことにも驚いたが、確かに虫に違いはない。俗に腹の虫とか疳の虫などともいうことだし。

 この展覧会にも出展されていた九州博物館所蔵の『針聞書(ハリキキガキ)』収載の物から発想を得たということであろう。

 結局小説『病葉草紙』を買ってしまった。

 江戸時代(田沼意次が失脚した頃)の八丁堀近くの長屋が舞台でそこの差配、正しくはその差配の倅と、店子であり友人でもある学者とが織りなす物語である。

 死人、病人、事件、事故諸々、この本草学者という若者にかかると全てが「虫」の為す技だということになる。

 虫といっても想像上の物。『針聞書』に記載の多くの虫の中から八種を選んで書かれた短編を纏めたものである。

 「馬癇(ウマカン)」「気積(キシャク)」「脾臓虫(ヒゾウノムシ)」「蟯虫(ギョウチュウ)」「鬼胎(キタイ)」「脹満(チョウマン)」「肺積(ハイシャク)」「頓死肝虫(トンシノカンムシ)」という虫が引き起こす騒動の顛末を描く八章からなるのだが。注釈が無ければ私などは一つとして解らない。

 そもそも『針聞書』なる書物は東洋医学の鍼の指南書であるとのことだが、素人が見ても愉快なのがその疾患を引き起こすという虫共を絵に現わしているところだ。

 よくこんな形を思いついたものだと、感心し、納得し、不思議がり、主人公達の遣り取りもあって、気が付けば最後まで読んでいた。京極夏彦は名前は知っていたが、読んだのはこれが初めてだった。

 そして、小説『病葉草紙』に登場する虫たちの図も全部があった。

(2025・8)

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり 34 句集『百題稽古』(高山れおな、現代短歌社、2025年)を何度も読み返す。

 この句集を読んでいて高山れおな俳句の底敷きにある古典の素養を私自身は、あまり知らないためどれだけこれら高山れおな俳句作品群を読み込めるか心許ない。

高山れおな俳句の代表句でもあるこの俳句との出会いを思い出す。

 俳句雑誌に眼が釘付けになった。

 麿、変? 

 麿とは、平安時代以降にわたくしを指す言葉として使われる。

 この俳句を詠んで私は衝撃を受けた。

 五七五の最短詩型文学よりも言葉を削がれた形態。

 その後、高山れおな句集『荒東雜詩』で再びお目にかかる。

 その句には前書きがあるがここでは読み手である私の創作鑑賞に任せて頂こう。

 ここで登場する麿は真っ白い仮面をかぶったような平安時代の人物だ。

 ただ違うのは私たち詠み手である令和の現代社会に登場するのだ。

 どのように平安時代以降の風習に慣れきった麿は現代社会で暮らしていけるだろうか。

 その時代のギャップに思わず「麿、変?」と尋ねてしまう。

 打って変って現代社会にいる私たちも「私は、変?」と現代社会の孤独の闇に麿の仮面のように浮かび上がるあなた自身の疑問を抱いてしまうことはないだろうか。

 そう、この俳句の衝撃は、自分自身のアイデンティティーを再確認しなくてはならない現代人の危機にあるのかもしれない・・・・。(※1)


 句集『ウルトラ』(沖積舎、1998年、第四回スウェーデン賞)、句集『荒東雜詩』(沖積舎、2005年、第十一回加美俳句大賞受賞)、句集『俳諧曾我』(書肆絵と本、2012年)、『冬の旅、夏の夢』(朔出版、2018年)と読み進めるのだが、古典を底敷きにしているその素養を学ぶ私の時間や興味が足りなさ過ぎる。

 それでも本句集『百題稽古』を何度も読み返しながら私なりの句集鑑賞を綴りたい。

 好きなものうららなる日と達磨歌

 好きなのは、麗らかな日と達磨歌。

 麗らかとは、日ざしが柔らかくのどかに照っているようすを表わす言葉で春の季語。

 達磨歌は、歌論で意味の難解な歌のこと。

 本句集では、たびたび詠まれる百題のひとつ。恋歌が、とても気になりますね。

 命とは白シャツに透く君なりき

 命の息吹は、白シャツに麗らかな日の光りに透けるほど眩しく感じ入る君ではないか。

ドキュン死(ここでは昆虫の仮死状態を文字った造語)してしまう。”胸きゅんきゅん”して死にそうです的な私の胸も切なくなるさー。

 かがよひて遊べる糸か我もまた

 ”かがよう”は、「耀う」とも書いて光り輝くということ。

 この場合、遊糸(ゆうし)ではなく”遊べる糸”なので、遊糸(あそぶいと)は、陽炎と捉えたい。

 ですが、どちらとも云える。

 光り輝く遊べる糸のように我もまた・・・・きらきらと愛し合う。

 ふらここのあのこ消えにし桜かな

 ”ふらここ”は、ブランコのことで、そのブランコの漕ぎ手であるあの娘(こ)は消えるように咲いて散りゆく桜なのかもしれません。俳句鑑賞者の私も胸きゅん止まず。

 見て朧触れて朧の人を嗅ぐ

 息白き別れは星の匂ひかな

 稲妻に映えてよみ人知らずの眼

 見ても触れても朧な君を抱き寄せたまえ、かしら。

 息は白く別れを惜しむふたりは、星の匂いがするのでしょうね。

 稲妻に浮かび上がるふたりの逢瀬は、詠み人知らずの眼と捉える詩眼が光る。

 

 この地球上に男と女、その他諸々いますが、今の私は、この感情と縁遠く居るような気さえするのですが、とてもこの百題稽古の底敷きに生きた古人(いにしえびと)たちが、切実に恋歌を詠う意義を想像して止まない。

 お茶らけて人生も、さてっ。ぎりぎりの風来坊風来松になりかねない私ですが、周囲の自然界を見渡せば、例えば、昆虫の世界の壮絶な雄雌を求める激しいバトルが展開されている。

 高山れおな俳句のとてもデリケートな百題稽古の古典への敬意は、古語の現代語にしてみて御分かりでしょうが、歌枕であったり、優れた先人たちへのリスペクトを込めて引っ張り込んでいる文学における融合とさらなる詩心の飛翔をなしえる大いなる可能性をこの句集で多くの示唆に富んでいる。

 あまたの俳句の果実の収穫を今後も感じ取れる。

 だから私は、私自身も含めて「恋せよ!人類」と云いたい。

 素晴らしい句集をありがとうございまーす。


その他、共鳴句もいただきまーす!


梅の闇アメーバ状に我を愛す

双蝶の激してしづか濃山吹

花は葉に人は渚にころもがへ

光年の駅の別れやほととぎす

昼月に誰の魔法の萩のこゑ

どの子にも朝顔巻いて巻いて笑む

浮寝鳥水うねれども光れども

神君の鷹野の記念写真無し

太陽冠明るく未来明るく冷やし中華

昭和百年源氏千年初鏡

花筏ももとせ揺れて戦前へ

雉いま電流に酔ふギターかな

夏近き迷路で鶯もゐるよ

草いきれいよよ魅死魔の胸毛なら

遙かより「遙」かより火蛾湧き次げる

紫陽花の残党かすむ残暑かな

稲妻や花の都の狂ひ咲き

此道や憑かれ易くてちんちろりん

滅裂のみぞれの窓ぞ磔刑図

初雪や皇帝ダリアありし座に

王の眠り落葉の底を漂へる

星凍つる京へ京へと御調物

たけなはの独り俳諧冬の春

戦争の星空蠅の眼の中に

湯の澄みに寂光残り草城消ゆ

時の日の湖光りつつ眠る

ふるさとや銀器に映る夏至の海

千代の春知る石筍が不気味なり

万物の中の少女が米こぼす

海女の笛感幻楽にありやなし

空蟬の琴弾く形のめでたさよ

余寒なほ顔に張り付く鳶の笛

流氷やみな猫の眼を開きつつ

雉子ほろろ戦ぐは幻肢父たちの

新緑やさもあらばあれ京の酒

「や」はらかき身は降るのみぞ虎が雨

姿煮や夏潮深く恋せしが

涙河ひかりやすきは夏めける

我が思ふ似顔は売らず羽子板市


【下記の注釈を推敲しています。】

(※1)「小熊座」2010年5月号 vol.26 no.300の「感銘句より 麿、変?」(豊里友行)

新現代評論研究:『天狼』つれづれ (4):創刊号「実作者の言葉」…「定型」「現実」/米田恵子

 『天狼』の「実作者の言葉」は、主宰である山口誓子の「言葉」である。昭和23年1月の創刊号から昭和25年12月まで続いて中断した。「実作者の言葉」の内容は多岐にわたる。随筆のようなものから、そのときどきに誓子が関心を持っていたこと、あるいは『天狼』に発表した俳句やもっと前に詠んだ俳句についての誓子の言い訳のようなものなどが掲載されている。

 例えば、創刊号には、「定型」という題で、一回では納得がいかなかったのか、同じ号に「定型 ふたたび」と書き、同じように「現実」という題で「現実 ふたたび」と繰り返す。

 「定型」では、『ロチの結婚』(1872年、フランス海軍士官としてタヒチを訪れ、島の女王の寵遇を得たピエール・ロチが書いた実際の体験のような小説)の挿話の引用である。タヒチの王女が小鳥を放つという場面で小鳥たちは戸を開いても出てこず、一羽一羽手で出して森に放したという。「定型 ふたたび」では、内田百閒の『新方丈記』から、飼っていた目白の餌やりをするとき、戸を開けていても目白は出て行かないという。目白は籠の外へ出ると生存競争に負けてしまうと知っているから出て行かないと内田百閒は書く。

 そもそも「定型」とは、俳句では五・七・五である。俳句を俳句たらしめている文学形式と言っていいだろう。誓子はただロチと内田百閒の文を引用するだけである。あとの解釈は、読者に任せられているのだろう。というわけではないが、私なりに解釈してみる。

 「第二芸術論」で俳句がレベルの低い芸術だとされ、さらに新しい俳句を模索する俳人でもある誓子は、自由律ではなく、江戸時代以来の「定型」にこだわる姿をタヒチの王女の小鳥や百閒の目白に見たのだろう。悪い意味にとれば、「定型」という籠から出て新しい俳句を求めればいい、求めたいがそこから抜け出せないという意味にとれる。一方、いい意味にとると、「俳句」は五・七・五「定型」が基本である。これは破ることはできない、これを守り抜くのだという意味にもとれる。誓子は、後者のほうであるが、敗戦により新しい時代を迎えたのだから、俳句も五・七・五という殻を破って新しい方向を目指してもいいのではないかという誓子の迷いともとれる。明確な答えを出していない「定型」「定型 ふたたび」である。

 次に「現実」「現実 ふたたび」についてふれる。「現実」では、ゲーテの「現実から詩の動機と材料を得なくてはならぬ。私の詩はすべて、現実に暗示され、現実を基礎としている。捏造した詩を私は尊敬しない」を引用し、誓子は「現実尊重」を言う。「現実 ふたたび」では、芭蕉の「俳諧の益は俗語を正す也。つねに物をおろそかにすべからず」(くろさうし)を引用して、ゲーテの言との共通性を見いだす。誓子によると、「正す」は、俗語を詩語の高さにまで高めることであり、これは言語だけでなく、詩の対象である現実についても言い得るとし、「つねに物をおろそかにすべからず」は「現実を大切にする」つまり「現実尊重」ということになる。ゲーテと芭蕉の言葉における共通性を見いだす誓子である。

 誓子の「現実尊重」という作句姿勢は、例えば、スポーツを詠んだ俳句において、誓子が実際に行ったスポーツの俳句しか作っていないことがいい例であろう。誓子が親しんだスポーツは、樺太でのスキー・スケートであり、樺太から転校してきた京都一中でのラグビーとの出合いである。スポーツに関してはこの3つのスポーツの俳句を作っていて、誓子は他のスポーツの俳句は作っていない。ただし、野球については、『天狼』の会員にも阪神ファンが多いと推察するが、ナイターを見に行ったり、高校野球のゲストとして甲子園に行ったりしているため、ナイターや甲子園球児の句を作っている。

 今回も、前々回「(2)『天狼』創刊号の「こほろぎ」」と同様創刊号の「実作者の言葉」について書いてみたが、月一回と継続して書くことの難しさを痛感する。よく雑誌などに毎月連載している作家がいるが、私にはできないと反省している。あせらないで、『天狼』と向き合っていきたいと思う。

【連載】 戦後俳句史を読む・攝津幸彦4

(投稿日:2011年10月07日)

●ショートショートで綴る・・・幸彦句の淋しさ  北川美美

 淋しさの涙で辺りが海になった。なまぬるい羊水の中に戻ったようだ。涙の海で泳いでいると太海(千葉県鴨川市)に辿りついた。立ち泳ぎをしながら陸をみると、つげ義春の漫画の原風景が見えた。『ねじ式』の男もいる。その海は唱えると鯛がでてくるという。鯛がそこらじゅうにいる。30年も生きた老鯛も。遠慮なく、鯛がからだに体(タイ)当たり…。あぁ泣きながら可笑しさがこみ上げてきた。

淋しさを許せばからだに当る鯛 『鳥屋』


 涙の海でぷかぷか浮いていた浮き輪。出てきた空気もそのまま涙になった。俺のあん子は煙草が好きでいつもぷかぷかぷか。西岡恭蔵は何故死んでしまったのだろう。やっぱりひとりが淋しかったのか。輪となれば淋しい、笑っていてもギターを弾いてもやっぱり淋しい。いつもぷかぷかぷか。

輪となりし空気淋しも浮袋 『陸々集』


 淋しいという感情はいつから人間に備わったのだろう。夕餉の支度をしながらふと嫌われ松子は考える。ひとりものの女がつくる一人分の筑前煮。ひとは、いずれひとりで死んでいく。

太古より人淋しくて筑前煮 『鹿々集』


 出張の次いでの日帰り温泉旅行。湯畑の階段で別の男女と眼があった。どこか後ろめたさのある眼差しはあの男女も俺たちと同じということか。神社の境内ではホトトギスが喉を赤くして鳴いている。東京に戻るまでに噎せ返るような硫黄の臭いと情事の怠さを取らなければならない。

情交や地上に溺るゝ蜀魂(ほとゝぎす) 『鸚母集』


 外はギラギラと太陽が照りつけている、昼間のアパート。知らぬ間に部屋の隅で女が汗をかきながら泣いている。ふと女に手を入れるとすでに濡れていた。これは白日夢なのかと男は考える。自分はこのまま堕ちていくのか。ここを出なければ。

手を入れて思へば淋し昼の夢 『鸚母集』


 薄暗いアパートから外に出ると、夏燕が忙しく飛び去って行った。雛に餌を与えるために飛び回る夏の燕は忙しい。頬に燕の糞がしたたれた。糞は、燕の涙だろうか。それとも松子の涙なのか。松子から離れるなら今かもしれない。

肛門をゆるめて淋し夏燕 『鹿々集』


 しばらく連絡のない男の様子に気づき、松子は、男の仕事場である祐天寺のマンションに来た。やはり不倫は不倫である。エレベーターの中に合鍵で落書きを彫った。「タカシのバカ」。ドアの前でベルを鳴らすこともできず、泣きながら非常階段を下りた。見上げると虹がみえた。

階段を濡らして昼が来てゐたり 『鳥屋』


 文鎮は文士の小物。この文鎮は、涙でできている。淋しくて泣けば涙はぽろぽろとこぼれ鉱物になる。ダイヤモンド、ルビー、サファイア、キャッツアイ・・・秋のうつろいが淋しく重い。全て沈めてしまおう秋の海へ。

淋しさを文鎮として秋の海


 岐阜の郡上八幡の徹夜踊りに姉が子供を連れて帰ってきた。ふたりの子供を母に預け、そそくさと浴衣で出かけた姉を路地裏で見かけた。男と一緒だった。群上踊りの喧騒の中、朝になっても姉は帰ってこなかった。子供たちが朝の町にでると水路に緋鯉が泳いでいた。

濡れてすぐ緋鯉となりぬ夏の姉


       ***


 「淋しい」という漢字「淋」には、「そそぐ」「したたる」「長雨」などの意があり、「さびしさ」の別の意味を持たせたのは日本特有の用法である。だから「淋しい」とは濡れている状態になりうること。淋しい→泣く→濡れる→エロティックという構図を描いてみる。淋しくてすぐ寝てしまう、薄幸そうな女についつい惹かれてしまう、男の儚い願望がみえる。

萬愚節顔を洗ふは手を洗ふ 『鹿々集』

泉よりはみだす水を身にとほす 『陸々集』

ぬばたまの夜の人となり舟となる 『鹿々集』

渡仏して極楽浄土の雨に遭う 『四五一句(未刊句集)』


 幸彦句は水っぽい。だからなにもかも流れてしまう。悲しさ、情念も流れていく。「淋しさ」も、諸行無常となってゆく。彼の岸も濡れているのだろう。幸彦のいる岸辺は生温い涅槃の水であることを想像する。

淋しいは濡れてゐること幸彦忌 美美


●ジョン&メリー /北川美美

国境の西にジョン&メリー没る


 「ケンとメリー」ではない。ジョン&メリーである。

 「現代俳句」9号(1980年)に寄せられた幸彦のアンケート回答に以下がある。


問:俳句における課題、執筆・出版予定など

答:自分なりの俳句の完成期をどこまでおくらせることが出来るか。「豈」に精力的に作品発表する予定。来春、書き下ろし句集「John & Mary」を上梓の予定(千句くらい)。


 ジョン&メリーがお気に入りだったようである。

 『ジョン&メリー』。1969年のアメリカ映画。ダスティンホフマンとミアファロー主演によるニューヨークを舞台とした24時間のラブストーリー。メリーは、自由奔放だが知的で自然体な女性。嫌味がなく、上品な可愛さがある。ふとバーで知り合ったジョンとメリーは一夜を過ごすMid Centuryな白を基調とするジョンの部屋。朝を迎え朝食、そして昼食までも共にし、他愛無い話を二人は続ける…。

 暗さのない映画である。会話、衣装、インテリア、NYという街、“おしゃれ映画”の部類として今後も残っていくだろう。

 掲句、青春を葬る儀式を『ジョン&メリー』に託しているように読める。ブレッド&バターの『あの頃のまま』(1979年・作詞作曲/呉田軽穂:ユーミンのペンネーム)は「サイモン&ガーファンクル」が出てくるけれど。

 その後の幸彦句は、『赤ちょうちん』『妹』『バージンブルース』(藤田敏八監督)の秋吉久美子風な女性の影がたびたび登場する。そのような幸彦の脳裏に描かれた女性を「金魚」に置き換えているという説もある(@金魚論争)。日本のヒッピー文化の洗礼を学生時代に受けている幸彦世代は、西洋のそれと違い、通称フーテンともいわれアンダーグラウンド文化の基礎を作ったといってもよいかもしれない。文化は暗闇から生れる。

 「没る」は、「いる」と読むと予想するが、「ぼつる」の業界用語のように読むこともできようか。(山口誓子の句に「郭公や韃靼の日の没るなべにとは」「太陽の出でて没るまで青岬とは」がある。誓子を踏んでいるとすれば、「いる」だろう。)また「国境の西」とは…。「国境の南」であれば、ナット・キング・コール『国境の南』ジャズのタイトルがあり、村上春樹(*1)の長編小説のタイトル『国境の南、太陽の西』(1995年)はそれからきているらしい。オリバーストーンの映画のタイトルにも”South of border”がある。ヒントはその辺から得たとしても、どうも違う。青春を葬るのであれば、「国境の西」とは、日本の西、幸彦が青春時代を過ごした箕面、枚方あたりかもしれない。


秋出水「カルメン故郷に帰る」頃


 掲句と比較してみるとどうだろう。「ジョン&メリー」には鍵かっこ(「 」)がない。「カルメン…」の句は、映画『カルメン故郷に帰る』(高峰秀子主演/1951年日本映画)のストリッパーの二人が珍道中を繰り広げるあの時代の頃という郷愁がある。「ジョン&メリー」は、「ジョンとヨーコ」「ケンとメリー」「ジャック&ベティ」「ヒデとロザンナ」等々に置き換えることのできない、幸彦の中の永遠におしゃれな二人、ジョンとメリーを葬るのだろう。好きだった彼女と行った映画のパンフレットを破り捨てる、回想の恋を葬るのだ。

 幸彦は、『ジョン&メリー』に別れを告げ、デイビット・リンチの『マルホランド・ドライブ』(2001年米仏合作映画)的な現実・夢・空想・回想に読者を行き来させる。読者はどこかで起こったようなデジャブな自己体験を重ねあわせ、時に郷愁に浸ったり、映画を観ているように笑ったり、それぞれの人の脳裏に描かれるさまざまな映像を楽しむのである。


*1)村上春樹の2003年翻訳本の中にサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』がある。野崎孝訳が白水社から上梓されたのは1964年である。村上と同世代の幸彦も『ライ麦…』影響は多分に受けたであろう。『ライ麦…』冒頭箇所に主人公の兄の処女出版の書籍名が『秘密の金魚』であることにも驚いた。

【連載】現代評論研究:第13回各論―テーマ:「冬」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

(投稿日:2011年10月28日)

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 しんしん雪 荷造りされた私の骨が

 しんしん雪 荷造りされた私の骨が

 しんしん雪 荷造りされた私の骨が

 しんしん雪 荷造りされた私の骨が

 「ケイノスケ句抄」(注①)所収の昭和56年の作である。ただこの句には「雪のうた」という題があり、しかもこの全く同じフレーズが四行にわたって表記されている。この句集に於いてこの様な表記がされた例は他に「砂丘へ誰が菜の花をすてたのか」の三行表記があるのみである。「砂丘へ・・・」の句の場合は、その句の前提として「果実をおく 砂丘の時間匂う」「砂丘のなか残響が 月に海に私」の句が据えられており、その三行句の後にも「幻想空間砂丘におれが墜ちてゆく」の句が置かれており、これ等砂丘の連作の中での時間の流れの一つの休止的な役割を果たしていると見て理解出来る。しかるに掲句の場合は全く単独に置かれており、作者としてはかなり意識した構成となっている。所謂、句集という形態の中でこの様な表記を行うことは高柳重信の多行表記とは又異なる位置と目的とを示すものと考えられよう。この同じフレーズの四行表記が示すものは、自画像が降り積もる雪のごとく次々と自問自答してゆく様ではないであろうか。そして私の骨から逆想された世界を故郷の金沢に見い出しているのではないであろうか。この様な思いは後年、下記のような句となって再出していく。

 肉が骨が無防備 冬銀河   平成7年作

 冬銀河の前では人間という私という存在がいかに小さく無防備なことよ、と呟いているかの様である。そして人生という肉から骨への時間的な経過も、この壮大な宇宙時間の中では認識され得ないものの如くに。

 心象風景としての冬の自画像としては下記のような作品もある。

 自画像の黒い目の奥の雪の風車     昭和30年作   注①

 自画像の顔の左右分離して雪の風車   昭和40年作   注①

 この自画像と雪の風車とは相対峙する存在なのであろう。黒い目の奥にある雪の風車とは、それによって起こされる吹雪の為に視界を妨げるものであり、その目の黒と雪の白との対比も併せ持っていよう。また、顔が左右分離するほどの風圧は自意識の分裂さへも示唆しているのではないであろうか。

 講義は続いている テキストに冬蝶が止まって  昭和51年作  注①

 美学とノオトの無い肖像。中国山系葉がふる   昭和52年作  注①

 幹の内部わたしが冬へ傾く           昭和58年作  注①

この講義とノオトは現実のものではなく、社会に於ける人生そのものの背景を暗示しており、冬蝶への一瞥はその中でのひと時の安らぎと疑問符かもしれない。また前句は画家としてのデッサン力を上手く生かしており、それは後二句の実景描写から導き出された美意識と心象風景へと還元されてもいるのである。

 冬の実よ 異郷にきて噛む一つ    平成3年作   注②

 家族に噛みついた死者よ 冬野よ   平成6年作   注②

 異郷ゆえに噛みしめる冬の実の固さ、そのしみじみとした味わいが孤独感を深くするようだ。一つは独りに連なり沈潜してゆく趣がある。

 この死者の過去世は如何なるものであったのか。家族に噛みつくという行為はある種の反抗であり、しがみつきでもある。それ故に冬野は冷徹な判者でもある。

 再び掲句に戻るが、この様な表記法からはやはり詩人としての圭之介の面が押し出されてくる。最後にテーマにそった詩1篇を。


 「冬の街」   昭和27年作  注③

 街の坂をおりてゆく

 港はくれ早く

 下方の白い建物の地下は

 キャバレーである

 無数のうでが人体に生え

 おんなの媚態を

 くうきがあやうくささえる

 地上では寒い風が

 骨のような木をささえる


注①「ケイノスケ句抄」 近木圭之介 層雲社 昭和61年刊

注②「層雲自由律二〇〇〇年句集」合同句集 層雲自由律の会 平成12年刊

注③「近木圭之介詩抄」 近木圭之介 私家版 昭和60年刊


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 短日や灯ともし頃の小買物  句帳より

 昭和12年と16年のきくのの句帳が手許にある。といっても、メモ書きのそれではなく、12年は改造社版の俳句日記、16年は和紙綴じの美しい一冊で、どれも完成した作品が並んでいるため、投句の際の覚書と思われる。俳句の前には「一月六日渋沢邸句会」「六月一日特急アジア」など出席した句会や、旅吟の場所などが書かれており、掲句の前には「ホトトギス 昭和16年2月号」とある。

 ホトトギス誌を確認してみると、確かに該当号の虚子選一句欄に掲句を見つけることができた。しかし、前後1年をぱらぱらとめくってみたが、この他にきくのの投句を見つけることはできなかった。

 きくのが俳句を始めて以来投句を続けていた「春蘭」は、主宰大場白水郎の満州転勤に伴い昭和15年6月号で終刊となり、同年10月に「春蘭」同人であった岡田八千代が中心となって白水郎を選者に「縷紅」が創刊された。誌名は白水郎の別号であった縷紅亭による。昭和19年1月号で休刊となる「縷紅」だが、バックナンバーが確認できるのは昭和17年8月号、18年8月号、9月号の3冊きりである。昭和18年9月号にはきくのの住まいが投句先として表示されている。

 ホトトギス投句の時期は、「春蘭」終刊後、「縷紅」と並走してということになる。

 ホトトギスとの関係は、白水郎も、のちに所属する「春燈」の主宰になる万太郎も、ホトトギス題詠選者岡本癖三酔が指導する三田句会に属していたこともあり、きくのが「ホトトギス」に目を向けたとしても別段不思議はない。

 しかし、ホトトギス掲載の前後の作品を並べてみると、昭和15年「春蘭」3月号には

 初髪に觸るる暖簾ットかはし

 「ット」はひょいとかわす態であろう。この自在な言語感覚!

 また昭和17年8月号「縷紅」には

 藻の花や相觸れし手のただならず

 藻の花やなんにも云はず別れませう

と、正調きくの節ともいえる作品が並ぶ。

 冒頭挙げた「ホトトギス」掲載の句に立ち現れる柔順な女性像もまたきくの自身であることは間違いないが、それでも1号限りでホトトギス投句をあきらめたのは正解だったのでは、と愚考する。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 寒風のむすびめごとの雀かな

 昭和50年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 〈寒風〉というと肌の細胞がキュッと引き締まる感じの風。その寒風には〈むすびめ〉があり、その〈むすびめごと〉に〈雀〉がいるという。ふつう風は直線的に吹き抜けてゆくものと思っているが、実は〈むすびめ〉がある、という発見が、この句のユニークさだろう。おそらく、その〈むすびめ〉は風が休息する場所なのだ。そこを目ざとく見つけて、集まっている雀たち。よくみれば、雀は点在している。おそらく、そこにも〈寒風のむすびめ〉があるのだろう。その〈むすびめごと〉に〈雀〉が身を寄せ合っている。ぬくもりをさがすのに長けた雀ならではの振る舞い。一点凝視で〈むすびめ〉を発見した作者の視野が、〈雀〉の補助線を得て、ひろがってゆく。〈ごとの〉の措辞に作者の認識の深まりが凝縮されている。見逃しがちな雀の生態を空間的に把握しながら、〈寒風〉によって温度感をも伝達させている。寒風の冷たさと雀のぬくもりを優しい視線で手渡してくれた秀句。

 掲句と同様に、冬の厳しさの中で息づく生き物たちをモチーフにした句をいくつかみていこう。最初に鳥の句を次に魚の句の順。

 玄冬の鷹鉄片のごときかな 昭和16年作

 つぎはぎの水を台(うてな)に浮寝鴨 昭和48年作

 すさまじき垂直にして鶴佇てり 昭和49年作

 凍鶴に寸の日差しも来ずなりぬ 昭和54年作

 氷下魚(かんかい)は夢見るごとく釣らけれる   昭和47年作

 動かぬが修羅となるなり寒の鯉 昭和50年作

 一句目は、初期の齋藤玄の代表句のひとつ。厳寒の空を突き破らんばかりに飛翔する鷹の姿を鉄片に喩え、自己と重ねている。「壺」を創刊した翌年の作。当時は「京大俳句」時代からの俳号、齋藤三樹雄を名乗っていた。「音の句」の項でも書いたが、いわゆる新興俳句弾圧事件を背景とした青年の鬱屈と自由への憧憬に満ちた青春性を湛えた秀句。

 二句目は、結社同人間の政治的な振る舞いに疲弊して、長らく俳壇から遠ざかり、個人誌を出していた玄が「壺」を復刊した年の句。昭和50年刊行の『狩眼』および全句集の表記に従ったが、昭和53年刊行の自註(*2)では、下五を〈浮寝鳥〉と改変している。〈つぎはぎの水〉を才智とみるか、凝視とみるかで評価は分かれるだろう。私は〈台〉の一語で、〈つぎはぎの水〉が浮寝する水鳥の不安定さを射抜いているように思うが、いかがだろうか。

 三句目の〈鶴〉は、一句目の鷹とは対照的に空から舞い降りて、大地に降り立った姿を詠んでいる。テレビを通して、世界中の動物の姿態を観てきた我々の目からすると〈垂直にして〉がやや安易に思える。だが、作句年次を考えると一般家庭におけるテレビの普及率はまだそれほどでもなかったはずだ。厳寒の北海道の丹頂鶴を実際に見た者でなければ〈垂直にして〉は出てこない。雪原の広さも見えてくる。

 四句目は句集『雁道』を刊行した昭和54年の冬の作。遺句集『無畔』に収録。〈寸の日差しも来ず〉の措辞に雪に覆われてほの暗い天空を仰ぎつつ佇つ〈凍鶴〉の姿がありありと浮かび上がる。

 五句目の〈氷下魚(かんかい)〉は「こまい」の北海道における呼称。海面の氷に穴を開けて釣る。氷下魚の稚魚は目の周りがほんのりとピンク色に染まっており可愛らしい。〈夢見るごとく〉によって、氷の穴から釣り上げられたばかりの氷下魚の姿を活写している。

 六句目は、水底に魚体を沈めてじっと動かない姿から〈寒の鯉〉の執念を読み取っている点に特徴がある。動きたいが動けない、鯉と水との相克を、〈動かぬが修羅となる〉とした措辞に玄の底知れない独創性を感じる。

 今まで見てきたように冬の生き物を詠んだ玄の句は、的確に季覚と空間をとらえており、そこに卓抜した凝視の力と景物の情感に甘んじない、堪え性の強さを感じる。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 カレンダー配るやさしく打つ真似して

 『山姿水情』(1981年)所収の句。

 師走になると、新しいカレンダーが刷り上がり、取引先や社員に配られる。フォトジェニックなモデルを起用した大判ポスター風のもの、コンパクトで実用的な卓上型、花鳥画をあしらった掛け軸タイプなど意匠も仕様も千差万別である。経費節減の近年、たとえ部数はぐんと絞られても、相手先の自宅や職場で社名や商品名を長期間継続的に露出できるカレンダーは、手頃な宣伝物として依然重宝なアイテムなのだ。

 葦男の第四句集『山紫水情』は1975年から1979年までの作品を収録する。日本経済が第1次オイルショックの苦境を脱し、再び成長軌道に乗った頃である。当時、歳末の挨拶として今よりずっと多くのカレンダーが流通していた。葦男は繊維業界の団体に勤務していたから、職場には服地メーカーやアパレルメーカーのものも届いたはずだ。最新モードに身を包んだファッションモデルたちが颯爽と闊歩する華やかな意匠。丸めたカレンダーで相手の肩をぽんと打つゼスチュアからは、美しいものに感応した女性職員の心の弾みのようなものが伝わってくる。

 それにしても何と明るく軽妙なスケッチであろう。過去に葦男が描いた職場風景からはおよそ想像もつかない明るさと軽やかさである。比較のため、第一句集『火づくり』最終章「火の章」から引いた次の10句を見て頂きたい。

 動乱買われる 俺も剃り跡青い仲間

 信に遠きことばかり鉛筆の濃緑削ぐ

 午前の憤(いか)り首大の球壁へ打つ

 夜は墓の青さで部長課長の椅子

 事務の波間に黒の無言の島沈む

 靴の中の指らの主張寒い会議

 見えない階段見える肝臓印鑑滲む

 ある日全課員白い耳栓こちら向きに

 リコピー書類他を焦がす汚染する友情

 揉み捨て鳴るセロフアン空席者の意見

 1956年から1962年にかけて、40代前半の葦男が描き出した職場風景はこのように陰鬱極まりないものであった。動乱を商機とする背信の日々。上司や同僚、部下との間に育つ疎外感。そして、組織の中で汚れ、疲れゆく個。葦男は職場の日常の随所に露頭を見せる「極限状況」にとことん向き合っていたのである。この間の消息については、以下の金子兜太の評語に譲るのが良いであろう。

 葦男の感性にある暗さ(中略)が批評意識によって刺激されて募りつつ、批評をより暗鬱に盛り上げていくことにもなって、こうした作品がつくり出されたことは間違いない。当時の社会情勢に向って意識的に批評的に自己表現しようとするとき、誠実な人柄だけに過剰反応していて、その結果のことといえなくもない。

(遺句集『過客』序 1996年)

 まったくの余談ながら、東宝映画の社長シリーズ第1作『へそくり社長』(森繁久彌主演)が公開されたのは1956年、同じく東宝のドル箱となったクレージー映画第1作『ニッポン無責任時代』(植木等主演)が公開されたのは1962年のことである。これらの娯楽映画と葦男の作品が同時代のサラリーマン社会の空気を背景に生み出されていることは確認しておいても良いかもしれない。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 喋るより黙しがちなる凍鶴忌  小寺正三

 初出は「青玄」1957年(昭和32)8月号、「草城一周忌追悼作品」のうちの一句、

 この特集には同人90名のそれぞれ一句が掲載。季語として用いられた「凍鶴忌」とは、日野草城の命日である1956年(昭和31)1月29日のこと。

 草城と「鶴」といえば代表作である「高熱の鶴青空を漂へり」をはじめとした作品の数々が思い出されるが(第2回で取り上げて鑑賞しているのでご参照いただければ)、この一周忌へ向けて草城の命日を修するにふさわしい言葉として、俳号をそのまま使った「草城忌」、最後の句集のタイトルから取られた「銀忌」(しろがねき、ひらがなでの使用例もあり)とともに、「凍鶴忌」と「鶴唳忌」という草城と「鶴」のイメージから生まれたふたつの語があったのだが、この追悼特集では「凍鶴忌」が多く用いられたのに対して、「鶴唳忌」は八幡城太郎が「鶴唳忌夜雨がありし土やはらか」の一句のみ。「青玄」誌の中での定着の度合いに大きな差が出ているのがうかがえる結果となった。ちなみに「草城忌」の句においても「鶴」のイメージを背景にした作品がいくつか見られるので、合わせて引用してみる。

 かの微笑まざまざとあり凍鶴忌    日野晏子

 凍鶴忌とて美しい火を囲む      伊丹公子

 酔はぬ酒に想ふ凍鶴忌といふことを  播本清隆

 天より鶴の羽音高鳴り草城忌     板垣鋭太郎

 ねんねこの鶴の模様や草城忌     平井石竜

 ではなぜ「凍鶴」が「鶴唳」より受け入れられたのだろうか、と考えてみたい。草城の「鶴」の句は高熱の身体を空を漂わせている、天高く飛べない己への嘆きに溢れているかのような姿を見せており、「凍鶴」の静かさの極まる立ち姿とはどこか違う存在であるはずで、「鶴唳」のほうがふさわしいと思えるくらいでもある。だが「青玄」誌の同人たちが抱いた草城のイメージはどうやら空高く鳴き交わす鶴ではなく、細い脚を貼り付けているかのように地に付けて、厳しい冷気の真っ只中に立ち尽くす「凍鶴」であった、ということなのだろう。そこには戦前の才気を前面に押し出した作品群から来る華やかさと、戦後の病床での生活によってもたらされた沈静に満ちた作品群とままならない身体と俳人としての活動への不如意の部分、そのどちらをも抱え込んだひとりの俳人の命日を修する語としては「凍鶴」は「鶴唳」より確かにふさわしく思われたのだろう。

 掲出句はそんな「凍鶴忌」の印象が充分に生かされた一句である。「喋るより黙しがち」なのは師の命日を迎えた自分自身であり、同じようにこの日を迎えた弟子たちであり、そして亡き師の家族であろうが、亡き師もまた「喋るより黙しがち」な人であったことよ、との感慨も深く一句には込められている、亡き師は病の痛みも生活の苦しみも創作の苦悶も、それら一切の何もかもを引き受け、嘆きの数々をけっして見せようはせず、静かに微笑んでいた人だったのだと。草城との日々の記憶が鮮やかに残るなかでの追悼の一句として、草城の静かなる立ち姿を見届けたひとりである正三は「喋るより黙しがち」以上のことを喋らないように何とか踏みとどまっている、それこそが師である草城の忌を修するにもっともふさわしい態度であると自らに言い聞かせているかのように。

 最後にもうひとり「凍鶴」の句を紹介したい、作者は草城の第2句集「青芝」の扉に登場する愛娘の温子さん、この頃「青玄」の一員であった。父から句集の冒頭に「温子よ はやく 大きくおなり/ちよこちよこばしりが できるやうになつたなら/青い芝の上で 鬼ごつこをしよう」と呼びかけられた娘が、いまは亡き父への想いを寄せた一句である。

 冴ゆるなり凍鶴星となりて燦    日野温子


●―9上田五千石の句/しなだしん

 剥落の氷衣の中に滝自身     五千石

 昭和五十年作。第二句集『森林』所収。

 見立てと擬人化のオンパレード、かなりしつこい句ではある。 

 凍滝にかかる「剥落」は見立てであり、「滝自身」は滝の擬人化と言えるだろう。そして極めつけは「氷衣」だ。これは「ひょうい」と読ませる造語らしい。ただこの「氷衣」、強引な語彙ではあるが自然に受取れなくもなく、音では「憑依」も感じさせて、この句では面白い効果を生んでいる。こういうしつこい句、私は嫌いではないのだ。

     *

 この句は、冬の滝を詠んだ連作と思しき四句の最初の一句で、他に、

 凍滝の膝折るごとく崩れけり

 氷結の戻らねば滝やつれたり

 涸滝をいのちと祀る三戸はも

が続いている。最後の句は「涸滝」であるから、一連とは云えないか―。

 五千石の句集には地名をはじめとする前書のある句が割合多く、この『森林』もそれに洩れないが、掲句を含む連作には前書は無い。『上田五千石全句集』(*2)の「『森林』補遺」のこの時期には当該句の掲載がないことから、この関連はこの四句がすべてと推測される。このことから、これらがどこで詠まれた句かは定かでなく、吟行の際の即吟ではないように思われるが、「凍滝」等の題詠だという証拠も無い。

 この句の制作年、昭和五十年は、昭和四十八年にはじまった「畦〈通信〉」が正式に「畦」として月刊誌となった年にあたる。言えば「畦」が活発に活動していた時期であろうし、五千石自身もスランプから脱し、吟行やもちろん題詠句会などに精力的に動いていた時期であろう。この精力的な時期に生まれた、精力的な句、ということになろうか。

     *

 以前、私は北海道知床で、素晴らしい凍滝を見た。そのとき、自然が創り出した造形を前に私は言葉をなくし、ただの一句も詠むことができなかった。掲句はどこの凍滝か不明だが、その荘厳な凍滝の様をまざまざと思い起こすことができる。

 五千石の句としてはあまり表に出てこない作品であるが、冬の「凍滝」の句として、私の愛誦句となっている。


*1 『森林』 昭和五十三年十月十日 牧羊社刊

*2 『上田五千五全句集』 平成十五年九月二日 富士見書房刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 昭和57年12月という時点は、憲吉を見ると面白い時期である。この月、健吉は還暦を迎える(26日が誕生日)。

 その1か月前から弱気な句があふれる。

 寒く剃り寒く呟やく「還暦か」

 自鳴鐘カンレキといま零時打つ

 冬灯ちりばめK氏遺愛のボールペン

12月になると、

 多岐多雑多弁多職で今年も昏る

 更けて柚子湯に恋潰すごと柚子潰す

 いつも冬愁苔を撫でれば苔妻めき

 師走二十六日いま死ねば憲吉忌 炎ゆ冬バラ

 死ねば野分が葬送してくれるか君らの怨歌

 一見反省に満ち満ちているようだ。ちなみに、「死ねば野分」は加藤楸邨の「死ねば野分生きてゐしかば争へり」を借用したもの。憲吉にはこの類が多い、自分他人を問わず洒落た文句は共用と考えていたようだ。それでも、六十歳という節目の年は憲吉も粛然とする思いを抱かないではいられなかったのだろう。

 しかし、性懲りのないのが憲吉という人。

 ハンドバックは男のポケット愛経て恋

 ポインセチアの緋が訴える遅き帰宅

 同時期にこんな句を詠んでいるし、翌年には、

 島擁く港私を繋ぐあなたは虹

 街は傘咲かせあなたはオベリスク

 窓に虹のけぞる七彩 女体も亦

と憲吉調が絶好調である。さて話を戻して、

 多岐多雑多弁多職で今年も昏る

を裏付ける活動を上げてみよう。

 『春の百花譜』『食は「灘萬」にあり』『美味求心』『女ひとりの幸はあるか』『みそ汁礼讃』『会社の冠婚葬祭』『食べる楽しみ・旅する楽しみ』『洒落た話のタネ本』『東京いい店うまい店』『結婚読本』『女が美的に見えるとき』『言いにくい、困ったときの話し方』『全国寺社めぐり』『味のある話』『手紙上手になる本』などなど。この1~2年書いた本であるが俳句関係はほとんどない。おそらく憲吉がすっかり吹っ切れた時期がこの年であったのではないか。シニカルながら安住の地を見つけた楽しさがある。

 以上すべて『方壺集』。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 こがらしや壁の中から藁がとぶ

 冬が来る。突風がごうごうと凄まじく吹き渡り戸を叩く。何かが飛んでいく音がする。疾風の中に藁が混じって飛んでいくのである。土壁の中にある藁である。壁の中で粘土に混ぜられ埋め込まれている藁が飛ぶのだから通常ではありえない風景であり、超現実的(シュール)と言える句だと思った。街が荒野となり、心の荒び、あるいは叫びのようなものを感じる。

 「凩・木枯」は、秋の末から冬の初めにかけて吹く、強く冷たい風のことである。木を吹き枯らすものの意味がある。東京・大阪限定として「木枯らし一号」「木枯らし二号」などの冬型の気圧配置になったことを示す気象用語でもあり、風速8m/s以上の北寄りの風であるらしい。枯葉を吹き散らし擂粉木のように木を丸裸にしてしまう風。

 初めてこの句に接したとき、その発想、その創意に驚いた。時を経て、東日本大震災を契機とし、それは幻想ではなく、実景ではないかと思い始めた。北関東地区には蔵を多く持つ家が残存し、多くは土壁が剥がれ落ちる被災状態を目の当たりにする。剥落後の壁の中に確かに藁が埋め込まれている。考察するに江戸時代の藁だろうか。ドライハーブを越え植物のミイラである。壁の剥落を見ているうちに、同じような風景を敏雄も見たのではと思えてきた。句の制作年は終戦直後の昭和21年であり戦争の爪痕が激しく残っていた時代である。

 土壁は、木舞(こまい)と呼ばれる竹と藁で編んだ格子状の枠組に粘土質の土と藁スサを混ぜたものを塗り込んでいく日本の伝統工法である。竹、土、そして藁という自然の素材は製品完成後も呼吸をしている。掲句の「壁」という一見無機質な言葉に隠れているのは、「土」という粘り気のある天然素材である。「土着」「土地」というように土の上に人が暮しているのである。掲句は、家、家族の崩壊とも読めなくない。以下の句もある。

 しづかなり一家の壁の剥落は 『長濤』

 前回でも触れた、昭和21年頃の敏雄の作品には古俳句の風格漂う句をみる(*1)。敏雄26歳の枯れぶりには驚くばかりである。新興俳句弾圧の二次的な傷が古俳諧に向かわせたのだろう。同年、敏雄は渡邊白泉、阿部青鞋との再会を喜び合い、歌仙(*2)を巻いている。白泉が檜年、青鞋が木庵、そして敏雄が雉尾という俳号である。句そのものも古俳諧の趣があり、江戸の華やかさに通じる終戦の解放感がある。同じ頃、三鬼との師弟関係、今後の俳句創作について混沌とした時を過ごしていた時期とも一致する。後の昭和23-26年の4年間、敏雄は作句を中断する。

 冬の到来を告げる「こがらし」は淋しく凄まじい。山々が唸り、バケツが飛び梯子が倒れる音も、荒々しい命がそこにあるようだ。疾風とともに藁が飛びゆく音を壁の内側でひっそりと聞く人の吐息をも想像する。冬の眠りにつくものも何処かで息をしている。作句中断が敏雄における「冬の時代」ならば、その間も波の間で息をする敏雄がいる。


*1)昭和21-22年の終戦直後の作品は、三冊目の句集『青の中』に「先の鴉」と題し42句収録。上掲句は巻頭に置かれている。

*2)歌仙『谷目の巻』とし、「俳句研究」昭和22年4月号に発表。弾圧によりほぼ消滅していた句を収集し敏雄が編纂に尽力した『渡邊白泉全句集(沖積舎)』に収録。


●―13成田千空の句/深谷義紀

 仰向けに冬川流れ無一物

 第1句集「地霊」所収。

 一読、冬の津軽野の景が目に浮かんでくる。平野に川が走るが、冬涸れで水量は乏しい。そのどことなくうらぶれた様子が、当時の千空の生活状況あるいは心境と重なり合ったのだろうか。自らの姿を投影した作品とも言える。

 眼目は「仰向けに」という措辞だろう。無論、直接的には冬川の様子を上空から鳥瞰しての描写であるが、謂わば無防備に己をさらけ出した、あるいはあっけらかんと開き直ったような川の姿に、千空は、ある意味での潔さを感じ共感を覚えたのだろう。

 千空は、若き日に肺を病み、4年にわたる療養生活を送った。折りしも太平洋戦争の時期と重なる。戦後も開墾地での帰農生活を五年ほど送り、その後五所川原に小さな書店を開いた。作句当時の経済状況の詳細は不明であるが、過ぎし日に「無一物」の生活を送った自分の姿を、冬涸れの川の景に重ねても不思議はなかろう。

 その後も、決して豊かとは言えない生活が続いていた筈だが、徒にそれを哀しむわけではない。千空には、後年、次のような作品もある。

 びんばふが苦にならぬ莫迦十二月   「百光」

 こうした骨太の向日性が千空の人柄あるいは作品の魅力である。

 技法的には典型的な擬人法ということになろうが、決して安易な見立てに陥ってはいない。それは、上述のような深い共感に裏打ちされているからだと考える。

 実は、津軽でこうした光景が見られるのはそう長い期間ではない。冬が来れば、やがて雪が降り、一度降った雪は根雪になる。津軽平野は何もかも雪に覆われてしまうのである。千空が見た川の姿は、その直前の一瞬の光景でもある。


●―14中村苑子の句  【『水妖詞館』― あの世とこの世の近代女性精神詩】29.30.31.32/吉村毬子

29 まさぐる終焉手に残りしは苦蓬

 「終焉」それは死に臨むこと、今際(いまわ)ということでもあるが、あの世とこの世を行き来する女流俳人の異名を遺す苑子のその一端を掲句からも伺うことができよう。

 「まさぐる終焉」とは、死を了解し、死を探しあて弄ぶということである。私が頂いた『水妖詞館』の感動を、拙い言葉で述べた四半世紀前、それは苑子の晩年であるが、「この句集を出した頃はある病気で死ぬと思っていたのよ。」と語っていたことを思えば、自身の人生の終わりに接し、思い残すことを詠んだ句なのだと納得できるのだ。けれども、前回からの流れから察するに、恋への葛藤が描かれているような気がしてならない。

 この死は、肉体的な死にまでも至る恋の「終焉」と呼べるのではないか。しかし、それは放っておけばなるがままになり、そう苦しまなくとも済む筈であるのに、自らの手でまさぐり、終末を引き込んでいるのだ。その「まさぐる」行為が自虐を極めた後、「手に残りしは苦蓬」である。真夏の激昂する陽射しの下、強烈な臭気を放つ「苦蓬」が恋の残骸の如く己が手に残る。もはやその苦蓬は苑子にとって生薬としての効きめも失い、薄い掌の上で、無音無風の真夏の妖気にも似た臭気が立ち込めるだけである。


30 愛重たし死して開かぬ蝶の翅

 前章〈遠景〉に次句がある。

撃たれても愛のかたちに翅ひらく

 前句に蝶の翅の指摘はないけれども、此の句を意識して、念頭に置いて書かれたように思われる。

 かつて、どんなに「撃たれても」「翅ひらく」ことを念じていた「蝶」は、「愛」という名の元に「死して開かぬ」蝶であったのである。撃たれることには耐えられても、「愛」の重さに撃ちのめされ「死して」しまったのだと告げる。愛とは永遠には、見つめられない、叶えられないものなのだからと、薄い翅に支えられるほどに一刻だけの春風に舞う蝶も多いであろう。苑子の苑に棲む蝶は、その一刻にも一生命を掛けて翅がちぎれる程、舞い狂う。それは、死を招くことと解ってはいてもそうせざるを得ない性なのである。

 この両句について、苑子と話をしたことがあるが、「若い頃の句で恥ずかしい」と笑っていた。決してナルシズムの範疇を出る句ではないが、詩人は若書きにこういった句を幾つかは残しているものである。恥ずかしいとは言いながらも厳選した25年間の俳句苦業のなかの139句に入れているということは、作者にとって何がしかの思い入れがある句なのであろう。〈撃たれても愛のかたちに翅ひらく〉は、苑子がある日旅先で、此の句の短冊を見つけたと言い、「今度皆で一緒に是非観に行きましょう」とお誘いすると、「恥ずかしいわ」と、また言った。果たして、それが何処にあるのか、聴きそびれたのか、聴いたはずが忘れてしまったのか、解らず了いである。遠い遥かな処で「愛のかたちに翅ひらく」蝶が、今も確かに存在しているのである。


31 逢へばいま口中の棘疼き出す

 死まで思い至る恋愛の傷が癒えぬ内に、忘れたいのに忘れられないその顔を偶然目にすることがある。またこちらの悲哀など感じていない相手は、何の悪気もなく連絡して来たりするものである。絶望に打ちひしがれた思いを、やっと喉元へ押し込めようとしていた矢先の再会の言葉は、「口中の棘」となって「疼き出す」。言葉にならず自身を刺すどころか、目の前の相手へも口中から零れ落ち刺してしまいそうな予感さえ持つ。

 「逢へばいま」は、〝今逢ってしまったならば〟という仮定に置き換えて読んでいたのだが、何度も読み重ねるうちに〝逢ってしまった今〟という現実感として捉えた方が、緊張を伴う臨場感が伝わり、句が鮮明になってくるように思われる。

 しかし、掲句の口語体の調べに流れる一句一章は、俳句というかたちを成すが、詩や短歌の部分的な句とも差がないように思われる。むしろ、「疼き出し」と続けた七七の下の句の転換を望むのは私だけであろうか。前句からの流れの展開からすると致し方ないのであったか……。七七への欲求不満を抱えて次句への転換を見てみよう。


32 狂ひ泣きして熟練の鸚鵡をくびる

 毎回見開き2頁4句を観賞しているため、(昭和50年俳句評論社刊、初版『水妖詞館』)今回の一句目「まさぐる終焉手に残りしは苦蓬」からの流れを物語風に追えば、自虐的ではあるが、重たい恋への窶れを抱えながら、家に帰り着くと、常日頃は楽しみや慰めにもなる愛玩の鸚鵡のおしゃべりが煩わしくて、ついには殺めそうなことにもなってしまったということになる。「狂ひ泣きして」「くびる」のである。

 「熟練の鸚鵡」とは誰であろうか。前掲の句、

鈍(のろ)き詩人(うたびと)青梅あをきまま醸す

の「鈍き詩人」ではなさそうに思われるが、先にも述べたように〈鈍き=女に甘い、色におぼれやすい〉とも言える。言葉に熟練した饒舌な「鸚鵡」は無垢に見えたあの詩人ではないだろうか。


    死のまなざしの

    はにかみに

    首をかしげる 

    黒髪格子     重信「蒙塵」所収


 苑子と「俳句評論」を立ち上げ、後半生をともにした高柳重信の多行形式の一句である。俳人同志の家庭であるから(自宅が発行所でもあった)、俳句のことで議論になることも多々あった。

 この多行形式の俳句の四行目「黒髪格子」は、苑子が秘かにあたためていた造語であり、掲句は、それを重信が無断で使用してしまったため、喧嘩となったと聞く。そして、重信はお詫びにと


    中洲にて

    叢葦そよぎ

    そよぎの闇の

    残り香そよぎ   重信「蒙塵」所収


と、頭韻に〈中・叢・そ・残〉(なかむらそのこ)と名前を詠み込んだ句を作ったのだと、半ば、のろけるように笑いながら語ったことがある。

 また、重信の此の句について、随筆集『俳句礼賛』にて綴っている。


    松島(まつしま)を

    逃(に)げる

    重(おも)たい

    鸚鵡(あうむ)かな     重信『日本海軍』所収


 海防艦の「松島」は、草間(時彦)氏の鑑賞文(「俳句研究」昭和五十九年七月「高柳重信特集号」)のとおりに、わずか四千七百噸の小艦にもかかわらず、三十二サ((ママ))ンチの巨砲を積むという無謀を敢行したために、砲撃のたびごとに艦首が反動で回転し、照準が逸れてしまうというお粗末さだったが、涙ぐましいまでのその健気さを愛して巻頭に挙げた、と高柳は言っていた。しかし、おそらくそれだけではなかったであろう。折りにふれては僕は現代の芭蕉だなどと冗談めかして言うこともあったから、芭蕉が、待ち焦がれた松島の、想像を絶する造化の妙に魂をうばわれながら「いづれの人か、筆をふるひ、詞を尽さむ」などと言って、一句も残さなかったことに対して、自分の新歌枕を以て挨拶をしたのではあるまいか。さらに、そこに鸚鵡をしつらえたのも、わが身の、晩年、肥えてきてお腹がせり出してきたのを「高柳重信らしからぬ」といって嘆いていたから、あるいは、自画像だったか、とも思われる。(括弧内補筆は引用者。)

 俳句にその生涯を懸けた連合いへの、同志としてのあたたかな眼差しが感じられる文章だが、やはり、「鈍き詩人」「熟練の鸚鵡」は重信がモデルなのである。

 二人は男女間についての痴話喧嘩も公然としていたと聞く。

 人前で、喧嘩を締めくくってしまうことで尾を引かないようにしていたらしいとも――。

 句作の動機や舞台裏はどうであれ、この句における醍醐味は、「狂ひ」「熟練」「くびる」のク音、ジ・ビの濁音が「鸚鵡」の繰り返す甲高い声と反響し合い、女の感情が昂揚し狂っていくことで、驚異の結末に至るという演出効果に読み手が引き込まれていくということにある。

 掲句は句集出版の62歳(昭和50年)以前に書かれた句であり、女としての「狂ひ泣き」が生々しいが、三橋鷹女は、56歳(昭和30年)で次の二句に狂を詠んでいる。


    狂ひても女 茅花を髪に挿し     鷹女『羊歯地獄』所収

    祭太鼓鳴り狂ひつつ自滅せり         〃     

 二句とも、自身を詠ってはいないようであるが、明治女の気骨の術が、狂ふことを自我へと埋没させる鷹女の悲哀が滲み出ている。


 更に二人の晩年の狂の句を比較してみよう。鷹女73歳(昭和47年)、苑子80歳(平成5年『吟遊』以後、平成8年『花隠れ』所収)。


    千の蟲鳴く一匹の狂ひ鳴き      鷹女『橅』以後

    炉火爆ぜて一会狂ひし夜なりけり   苑子『花隠れ』所収


 鷹女の死を意識した(没年の作)とも思われる壮絶な生への「狂ひ鳴き」に比べると、鷹女よりも10年の歳月を経た苑子句(没年の5年以前の作)は、鷹女と比べても壮健な苑子の、女であることの証しを書き留めておきたいという思いが描かれているようだ。これもまた生への壮絶さの表出なのだろう。

【新連載】新現代評論研究(第10回)各論:仲寒蟬、後藤よしみ

 ★―1 赤尾兜子を読む4 /仲寒蟬

 7. 滄桑の夢ならなくに師走かな

 「山梨宮戦争犯罪容疑者と指定さるに二句」と前書のあるうちの二句目。

 山梨宮を調べても山梨縣護国神社の摂社としてしかヒットしない。山階宮と梨本宮はいる。うち戦犯となったのは梨本宮守正王、久邇宮朝彦親王の第四王子。元帥陸軍大将でもあったが戦犯とされたのは伊勢神宮祭主、つまりは国家神道の親玉であるという理由らしい。皇族唯一のA級戦犯として巣鴨プリズンに拘留されたが半年後に不起訴で釈放された。

この句の前書にある「山梨宮」は恐らくこの梨本宮の誤記であろう。この人自体、別に表立って活躍した形跡はなく閑院宮、伏見宮、東久邇宮、朝香宮ほど戦意高揚に努めた訳でもなかったようだ。連合軍による一種の見せしめとも言われる。

 兜子からすれば軍部、政府、皇族などはみな結託して国を滅亡へ追い込んだ連中であるから梨本宮であろうが伏見宮であろうが意味合いは同じであったろう。ざま見ろとまでは言わないが当然の報いとは思ったかもしれない。この人を含めてA級戦犯容疑での逮捕者は計126名(5名は逮捕・出頭前に自殺)、うち28名が裁判にかけられ7名が死刑となった。

 戦前ならば国民(臣民)の尊敬を得て羽振りもよかった宮様が今やブタ箱入りだ。滄桑の夢とは滄桑之変と同義であろう。『唐詩選』にある劉希夷(劉廷芝)の有名な詩「代白頭翁」に

  已見松柏摧為薪  已に見る松柏の摧かれて薪となるを

  更聞桑田変成海  更に聞く桑田の変じて海となるを

とあるように桑畑が海になるくらい時世の変遷の激しいことを言う。当時「桑田滄海」または「滄海桑田」という成語があったようだ。

 こうして連合軍による戦犯摘発の嵐が吹き荒れる中、敗戦の年は暮れてゆく。

 

8. 思慕金と恋の卍や炭火消ゆ

 兜子にしてこんな俗っぽい句を作るとは、と驚いてしまう。まあ、この句集というか草稿は他人に見せるつもりはなかったようなので、一種の日記として記されたのであろう。それにしても「金と恋の卍」って何なんだ?下世話な、週刊誌的興味からすればその中身を知りたい気もする。兜子の評伝を本気で書くつもりならば色々と調べて事実関係を明らかに出来るかもしれないが、筆者はそこまで彼の私生活に興味はない。俳句の鑑賞ができれば充分である。

 当時金と恋のことで大いに悩むところがあったのだろう。「炭火消ゆ」というのは、炭火も消えるくらいまで長く悩んでいたということか。古典的に火は恋のメタファーなので金が絡んで恋の火が消えてしまったということかもしれぬ。

 

9. 萩桔梗また幻の行方かな

 「旧知の女失恋したるを聞くに一句」の前書がある。この旧知の女と兜子の関係は?いわゆる元カノなのか、単なる知り合いなのか。いずれにせよその女が兜子とは別の男と恋をしていてそれが破れたということだ。自分を振った女であればいい気味と思うだろうか、それとも気の毒に思うだろうか。

 同人誌の編集長が伝統芸能に造詣深く、小唄と端唄の違いも判らぬ筆者に色々と指南してくれる。端唄は広辞苑によると「江戸で、文化・文政期に円熟し大成した小品の三味線歌曲。(中略)これから、歌沢と小唄が派生した」ということだ。端唄は撥弾き、小唄は爪弾き。

 岩波文庫に『江戸端唄集』(倉田喜弘編)というのがあってその「端唄百番」29に「萩桔梗」というのがある。

  萩桔梗 なかに玉章しのばせて 月に野末に 草の露

君を松虫 夜毎にすだく 更ゆくかねに 雁の声

こひはこうした(ママ) 物かいな

 この句がどこまでこの端唄を踏まえていたのか否かは知らない。萩も桔梗も秋の七草のひとつであるし古来和歌や物語に多く登場してきた。もちろん恋との関係も深い。破局を迎えた他人の恋を「幻の行方」と表現したのだ。


★―3「高柳重信の風景 6」  後藤よしみ

 3 多行形式の行方

 一九四七年の「群」四・五月号に初めて多行形式による作品と多行形式への「提議」を他の同人とともに発表し、「空白圧力を効用した有機的構成によっての漂泊内容の拡張」を試みを試み、象徴主義の形式と空白を利用する志向をあらわした。これ以降、重信は多行形式に取り組み、その可能性を追求していく。


 身をそらす虹の     船焼き捨てし 

  絶巓      *  船長は

     處刑台  

             泳ぐかな     『蕗子』 


 そして、第二句集『伯爵領』では、、多行に視覚的な表記上の配置(「カリグラム」)の工夫を凝らしている。


   森                         森 の 奥    の

   の   夜                         夜    の

     更 け   の        *    雪 の お く の

          拝                  眞    紅

  火 の   彌 撒           の    ま ん じ 

     に 

  身 を   焼  

  く   彩

  蛾                           『伯爵領』 

  

 重信は、『蕗子』『伯爵領』の実験を進め、自身の多行形式をさらに深めていく。  

  

軍鼓鳴り     かの日         電柱の  

荒涼と   *  炎天       *  キの字の  

秋の       マーチがすぎし     平野  

痣となる     死のマーチ       灯ともし頃   『罪囚植民地』 


 この『罪囚植民地』という句集名は、『伯爵領』の「あとがき」に「遂に、罪囚植民地に流されてしまつた」という記述から、長期の構想のなかの作品群ということがわかる。そして、一字下げなどの様式は、しだいに影を潜めていく。

 ここで、課題が少しずつ浮上してくる。多行形式の表記の工夫を重ねてきた重信に対し、「一行形式で書けるのでは」という根強い批判を受けるようになったのだ。当時の俳壇の無理解による批判とも見えるが、澤好摩は『罪囚植民地』の次の句を挙げ、下段のように一行に書きあらわした。

 

月明の       *     月明の冬の砂塵の行方かな

冬の

砂塵の

行方かな

 

 そして、一行形式にしても「あまり違和感はない」としている(『高柳重信の一〇〇句を読む』)。一行形式の本来の姿でそのまま読み取れるのであれば、多行形式にする必要はないとも言える。つまり、多行形式の必然性が見えてこなければ一行形式がふさわしいものとなるのだ。ここに多行形式の困難さがあらわれている。このような課題も抱えたことで、重信は多行形式の今後の新たな展望をなかなか見出せなくなっていくのである。

  

 4 「風景の発見」と日本的なるもの

 重信の停滞脱出の変化の切っ掛けは、またしても宿痾の悪化からであったと言えよう。一九六五年一月元旦から発熱し、熱が収まったものの初めての喀血をしために自宅安静となっていた。そして、栃木の宇都宮病院長をしていた平畑静塔のもとに二月、入院することになった。 

 これが一つの転機となる。重信は歩けるようになると病床から散歩に出かけ、北西の日光の山々、東に筑波山を眺めていたという。そして、これまでの半生を振り返り生と死を考えている。志賀直哉の「城崎にて」の主人公のようにである。 

 〈ここでは、晴れているかぎり、眼前に日光の連山がくっきりと見え、たまさか快晴に少し高いところに立つと、うち続く家並みのはるか遠くに、うっすらと筑波山を眺めることが出来る。(略)だが、その昔、この日光や筑波の山々は、もっと直接に人間の日常生活につながり、その精神にも生き生きとしたかかわりを持っていたにちがいない。そこでは、人間がそれを眺めると同時に、山々もまた人間を強く見つめていたであろうし、季節に応じ天候に応じ、そして時々刻々に微妙に変化する山容は、人間とのさまざまな対話をもたらしたであろう。それは、いま、想像も出来ない澄みきった空気と、驚くべき荒涼とした見はらしの中のことである。おそらく、俳句が俳句であって、なおかつ同時代の多くの人間の心の中に、ある普遍的な感情を共通に喚起することが出来たのは、このような人間と自然との豊かな対話が、常に可能であったからであろう〉。(「俳句の廃墟」『高柳重信全集Ⅲ』) 

 そこには、原風景の喪失を埋めるような風景の発見ともいうべきものが見られたと言えないだろうか。自然の風景に身を置き風景に触れることで自己の内省が促され、過去の時代へと思いを馳せることは、多くの人が経験する現象である。言葉をかえれば、内省と遡行が行われていたと言えよう。この入院での風景体験が重信の内面を深く掘り下げる作用をもたらし、重信の後半の句業へと導いてゆく転機となったと見ることができるであろう。 

 この時期以降、重信の精神は遡行により次第に言霊・呪術と古代へと向かっていったとみられるが、重信には小学校時代に富士を眺めることで育てた風景との連想力による交換もあった。風景との対話のうちに自身の思いを煮詰めてゆくのだが、少年時代にはすでに重信の周りに霊魂に充ちた存在があったと言える。それが、入院中の生活で「自然から語りつづけられる体験」として甦ったのであろう。

 また、入院中の読書体験では、以前から関心のあった古代の呪術や原始宗教に関する本にあたっているが、それらにより、重信は言霊や呪力というものに強い関心を寄せるようになったと考えられる。

 言霊については「言語自身に精霊があつて、意味通りの効果を発揮する」とする折口信夫(「言霊信仰」)の説明が一般的であるが、その言霊は、言葉に内包されている創造力を信じる表現上の思想として考えられている。重信は国学者の富士谷御杖の言霊倒語論に親近感をもっていたようである。倒語とは直言をするのを避け、所思と異なる表現をすることであり、「其言の外にいかし置たる所のわが所思」が御杖の言う言霊にほかならないと言う(河田和子『戦時下の文学と〈日本的なもの〉』)。これは、日本的なる暗喩の象徴として言霊がとらえられよう。言霊を求めることは、言葉ではどのようにしても表現することができないものがあるということにほかならない。その意味では、重信は言霊や先の風景の認識においてこれまでの西欧の概念や思潮に回収しきれずこぼれ落ちるものを顧みたと言えよう。これまでの象徴主義をくぐり抜け、御杖の言う象徴としての言霊を用い、新たな日本的なるものを創出しようとした。

 一九六七年には、呪術について「俳句形式とは対抗呪術である。古代、呪術にかからないために必要とされたのが対抗呪術で、俳句形式によって、言葉は力あるものとして存在し、季題、切字、定型などは、人間が生み出した巧妙な対抗呪術ではないか」(「俳句形式の思想」『高柳重信散文集成第十冊』)と述べるようになっている。さらに、一九七一年には「呪術的なものに対するあこがれと好奇心があり、この頃、少し迷信深いくらいに神がかってきた」と山口誓子らとの対談で語っている(「現代俳句の原型」『高柳重信対談座談会集第五冊』)。これらの重信の言葉は、言霊と同様に呪術の力にふれることで創造性の回復を希求したものと読みとることができよう。重信は俳句形式を書こうとしながら「神話的象徴」を書き、俳人から呪術師に変身してゆく。

 一九七一年に「俳句評論」の全国大会が名古屋であり、その時に飛騨高山へ重信は三橋敏雄らと足を運んでいるが、そこで飛騨の自然の奥の神々の存在と隅々にまします言霊を見てとった作品は、「飛驒」十句として一九七二年に「俳句研究」二月号に発表されている。

  

飛驒(ひだ)の         飛驒(ひだ)の         飛驒(ひだ)

(うま)朝霧(あさぎり)     *  山門(やまと)の      *  闇速(やみはや)()水車(すゐしや)   

朴葉焦(ほほばこ)がしの      (かんが)(すぎ)の        ()(ひめ)

みことかな       みことかな       みことかな                                   「飛驒」『山海集』   

  

 これらの作品は、「はるかなる祖霊や地霊の密かな語りかけ」に耳を澄ましえたものであった(「後記」山海集』)。澤好摩は、「よくよくこの土地、風土の本質を見抜いた作品である」としている(『高柳重信の一〇〇句を読む』)。これまでの風景との対面が、飛驒において開花し、言霊・地霊の声を受けとめることにつながったと言ってよいだろう。このことは、風景感覚の覚醒が心の奥深くに作用して、感情や記憶と結びつき、新しいインスピレーションから生まれたものと言えるのではないだろうか。その風景のもたらすさまざまな働きが指摘されているが、そのなかでアイデンティティの拠り所、想像力としての連想力の強化、神話空間と創造の磁場の提供などと呼ばれるものの影響があったのではと思われる(柴田陽弘『風景の研究』)。これにより、重信にとって風景は言霊を含むものとなり、過去と現在をつなぐ歴史の世界に立つことになる。


 5 父母と「私性」

 一九六四年に「俳句評論」同人の橋閒石の句集『風景』が出されると、次のような句を引いて論じている。 

  

  階段をのぼる亡父の瞳の豪雨 

  くさむらに幹沈みゆく娼婦を母 

  水底に父母のむつごと虹負うとき   橋 閒石 

  

 〈橋さんが示した「父」と「母」への思いの、深刻な相違を考えたりすると、その興味はいっそうふかまってくるであろう。 

 遠い少年の日から、いまや還暦をむかえた老年の日まで、長く、消えずに引きつがれてきた心の翳りであり、おそらくは、青年期以後の橋さんにとっては、もはや、ひとつの思想のようなものとなっていたにちがいない、いわば精神の底流ともいうべきものであったろう〉。(「父と子と、そのほか」『高柳重信散文集成第八冊』) 

 ここでは「父母に関する一筋の青白い光線を照射すると、それぞれに、襞のふかい、翳りの多い、不思議な交換」を感じとっている。重信においては、その後の『遠耳父母』の諸作品につながるものがあった。

 一九六六年から、次の『遠耳父母』の句を「俳句評論」へ発表しはじめている。 

  

   耳の五月よ    沈丁花       沖に

   嗚呼     *         * 父あり

   嗚呼と      殺されてきて    日に一度      

   耳鐘は鳴り    母が佇つ闇     沖に日は落ち   『遠耳父母』  

 

 二句目の〈沈丁花〉の作品について、次のような文章がある。「その少年の頃の僕は、なぜか、くりかえし殺される『母』のイメージを育てていた。(略)そして、僕は、殺された『母』にあうために、夜ごと、庭の片隅の沈丁の繁みへ出てゆくのであった」(「母が佇つ闇」『高柳重信散文集成第十一冊』)。これは、母についてのネガティブな側面をあらわすものであり、重信が敗戦後からの「心理的に受け止める」という側面をうけついだものとなっている。 

 その一方で、三句目は、「自らの来歴に関わるイメージの集中的な展開が試みられる」作品となっている(澤好摩『高柳重信の一〇〇句を読む』)。この句集では、橋閒石の『風景』でも取り上げられた父母らが登場してくる。これまでの傾向を変え、自己の内面、そして深層に転回してゆくと受け取れるものになっていると言えよう。その傾向が明瞭となるには、『山海集』を待たねばならない。 

 なお、『蒙塵』は句集としての設計図を持ちながら完成せず、『遠耳父母』は「別個に制作され、別個に発表された四つの作品群によつて成立し、しかも微妙な共鳴を伴つている」として新たな創作意欲を再びかき立てるものとなったと言える(「覚書」『高柳重信全句集』)。 

 そして、『蒙塵』『遠耳父母』の時期の俳句形式は徐々に変化を見せ、一字下げ、一字空白、一行空白がなくなり、四行形式へと収斂する時期にあたっている。入院生活での風景体験が、いわば風景発見というべきものが内面化をもたらし、新たな重信を促してきたと取れるであろう。このようにして、『遠耳父母』では橋閒石の『風景』に触発されてか父母について集中的な展開が見られている。肉親や象徴的な父母を含めて自己の内面を掘り下げ、井戸に降りてゆくような作業と言いあらわせるだろう。 第六句集『山海集』(七六年)以降、一行空白が姿を消す。そして、漢字には総ルビ(ここではカッコ内)がふられている。

 さらに、形式面のみだけではなく内容面から時期ごとの特徴をとらえると次のことがわかる。それは、「私」(わが・われなどの一人称)の消失と復活である。具体的に見ると、初期『蕗子』において


   わが来し満月    わが誇

   わが見し満月  * われを欺け

   わが失脚      獄のうち

   城と飾り


 このように〈わが・われ〉など「私」を用いるものが八句ある。『伯爵領』では二句。その後に消え、後期『山海集』から私性が復活する。


   天に代りて     目醒め

   死にに行く  *  がちなる

   わが名       わが尽忠は

   橘周太かな     俳句かな


 この「日本軍歌集」十句すべてが〈わが〉をふくむ。これは、次の『日本海軍』においても


 いま

 われは

 遊ぶ鱶にて

 逆さ富士


と一句、あらわれている。

 重信が影響を受けたマラルメは、「純粋な作品においては詩人は発語するものとしての姿を消してしまう。彼は語にその主導権をゆずりわたすのだ」(「詩の危機」『マラルメ全集Ⅱ』)としている。つまり、作者たる「私」が姿を消していく。そして、そのマラルメの影響たる象徴主義が弱まることで「私」が浮上してきたと言えるのではないだろうか。

2025年7月25日金曜日

第251号

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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。  

【緊急】辻桃子はなぜ大浴場に泳いだか?   筑紫磐井

  令和7年6月11日に辻桃子が亡くなった。自己紹介によると、「曲水」の作家に18歳で手ほどきを受けたのが最初であった。後に楠本憲吉と出合い勧められて「青玄」に入り坪内稔典や攝津よしこと轡を並べ、後に楠本の「野の会」の創刊同人となった。しかし、阿部完市や高柳重信から絶望的な助言(「野の会」にいたら君は駄目になる)を受け、飯名陽子に勧められ「鷹」に入会したのだという。

 余り経歴を詳しく述べてもしょうがないので、端的に結論に移ろう。こんな桃子を代表する句といったら誰しもまず、

 虚子の忌の大浴場に泳ぐなり

を思い出すであろう。奇しくも桃子の亡くなった直後に届いた、最も新しい自選句集『白桃抄』(7年6月20日付)は数ある桃子の句集を精選したものであるが、その冒頭にはこの句が掲げられている。辻桃子の生涯を代表する句と辻自身も認めていたことはこれからもよくわかるであろう。

 しかしこの句は曰く因縁がある。この句は、「鷹」の新人賞を受賞した作品群の中にあり、無名の新人賞作品でありながら、多くの俳人に早くから高い評価を受けていた。


「「虚子の忌・・」なんて、あたしびっくりっしちゃたんです。こんなことを言い出そうとは、ちょっと思いませんでしたので。」(「新人賞選考座談会」飯島晴子・鷹57年)

「虚子とは一面識もないうら若き(?)女性。私には残念ながらこれといって虚子忌の句がないだけに、正直いってこの句には驚いた。鎌倉から二重丸がついて戻ってくる一句と思う。」(波多野爽波・毎日新聞58年)


 実はこの句は、「鷹」の上諏訪吟行会(56年6月6日~7日)で詠まれた句である。当時「鷹」は我々から見ても最盛期であり、飯島晴子、高野途上、永島靖子、いさ桜子、酒井鱒吉、大庭紫蓬、後藤綾子、四谷龍、冬野虹、宮坂静生、鳥海むねき、石田よし宏、小澤實、宮脇真彦らの錚々たる顔ぶれの229名が参加したという。こんな盛大な吟行会は聞いたことがない。そんな中、夜中の2時、温泉の大浴場で独り泳いでいたのが桃子だった。こうした状況の中で生まれた句であったのである。

 翌日の句会で、この句は飯島晴子の特選を得た。「新人賞選考座談会」で飯島晴子が激賞したのもこうした経緯があったからだ。しかし、当日の湘子の選には入らなかった。並選でとられたのは、

 青嵐愛して鍋を歪ませる

の方だった。

 この吟行会での成果を引っ提げて、会員投句の「鷹集」56年8月号で桃子は巻頭を取る。しかし、湘子は「今月の30句」で取り上げたのは「青嵐」の句の方であった。巻末の「選後独断」でも取り上げていない。飯島晴子が取り上げた「新人賞選考座談会」でも、湘子は「虚子の忌の」の句は取り上げていない。湘子は引っかかるものがあったのだろう。

 3年後、桃子は鷹賞を受賞して、第1句集『桃』を牧羊社から刊行するのだが、この時の序文にあたる「辻桃子について」で、湘子は一連の流れの中で新人賞作品を触れて「虚子の忌の」の句を掲げているが、必ずしも熱のこもった紹介の仕方ではないのである。どうやら湘子は釈然としていないのではないかと思う。

 では、桃子自身はどうであったのか。巻頭作家には、2か月後に「巻頭作家登場」が割り当てられるのだが、桃子は「虚子の忌の」句だけを取り上げている。

 この句ができるに当たっての、飯名陽子(現遠山)、飯倉八重子(桃子が「虚子の忌の」句で巻頭を取る直前に亡くなってしまった)、飯島晴子との緊密な関係も感動的だが、最後に桃子はこんな述懐をしている。

「湘子は、「愛されずして沖遠く泳ぐなり」と、はるかな沖を泳いでいる。私もやっと金魚鉢から大浴場へ出て来た。いつか海へ出て波打ち際のあたりで泳いでみたいと思っている。」(鷹56年10月)

 そうか、「虚子の忌の」の句は「愛されずして」の句を思いながら詠んだのか。湘子に憧れる俳句であったのだ。しかし、湘子には愛されなかった。考えると、湘子の「愛されずして」も秋櫻子へ憧れる俳句であったのだ。しかし、湘子も秋櫻子に愛されなかった。師弟のこんな一方的な関係は、ボタンの掛け違いのようによくある事なのだろう。

【新連載】新現代評論研究:各論(第9回):後藤よしみ、佐藤りえ

 ★―3「高柳重信の風景 」5  後藤よしみ

 2 敗戦下の封印と西欧主義者

 重信の敗戦当時の様子は、敗戦時の虚脱感の蔓延から魂の彷徨が見られたという。  

〈十月、福寿院本堂にて勤皇文庫『保健大記』『中興鑑言』を筆写、亡国を嘆ず。なお時期不明なるも、憂国の情を発し「群」にいた小崎均一等とある種の行動を企画したと推定される。これは志においては、後の三島由紀夫の自刎事件の情 と相似したものであった〉。(「略年譜」『高柳重信全句集』) 

 敗戦時に「自決殉難」した者は五二七人にのぼったという(影山正治『日本民族派の運動』)が、重信らの行動も当時のこのような動きに類したものと推測できる。これは、敗戦前の皇国史観などによる愛国の心情からの行動と思われる。しかし、その一方では、たとえ漠然としてではあっても、何ものかへの期待感と情熱がしきりに掻き立てられていったという。 

 敗戦直後より、社会全体の戦前との反転が見られ、戦前の社会思潮は日本的なるものも含め否定されるようになる。再刊の「群」の創刊号にも重信の次のような勤王俳句が掲載されていた。 

   梅雨嵐勤王のこと世にすたり   『前略十年』  

 この「群」がGHQの検閲の目に留まり、出頭命令を受け、重信も憂慮したものの検閲の網にはかからずに済んでいる。その時期の検閲を保守的な伝統的な面にきびしいと重信はとらえており、俳壇での保守伝統派の状況をどことなく怯んだように受け取っている。この戦前下に劣らぬ占領軍の検閲が大きな壁としてあったと言えよう。重信自身もその作風を見つめ直すことになるが、日本的なるものを内面にひそめておこうとするならば、より身近であった象徴主義の下が受け入れやすく、また急激な変化も可能であったろうと思われる。

 その変転の重要な足掛かりとなったのは、桑原武夫が「第二芸術―現代俳句について―」をあらわしたことへの反論となる「敗北の詩」であった。これは、戦前からの時代思潮、とりわけ皇国史観に根差した日本的なるもの、そして当時彼の中に萌芽しつつあった象徴主義的な傾向をも一度否定し、その上に新たな自己を築くことを意味する。つまり、俳句否定論に対して捨て身の自己否定から立ち上がろうとしたと言えるだろう。俳壇が「第二芸術」論の反論により沸き立つなかで、重信は「敗北の詩」をあらわす。 そこでは、俳句否定論を受けて、「俳句という詩型の特殊性を追求」している。そして、「小説・詩・俳句が、それぞれに持っている形式の危険の度合の最上級に、この俳句があることは事実であろう」と述べている。 

 〈いちばん重大な問題は、時代の流行に逆行する俳句文学そのもの、いわば反社会性、ならびに、敢えてそのジャンルを選択した俳句作家の反社会性を、如何に明確に、正直に自覚するかにかかっていると思う。僕は、そうした多分に反社会的な、あるいは超越的な立場を明らかにすることによって、人間の進歩を信仰する合理的な評論家たちに、大きく開き直りながら、ここに一つの特殊で偏屈なジャンルを主張したいと思う〉。(「敗北の詩」『高柳重信全集Ⅲ』) 

  また、一方で重信の読書対象ではエドガー・アラン・ポーの詩論を、また右記のリラダンおよびヴァレリーを愛読している。ポーはフランス象徴主義の父であり、マラルメらに影響を与え、リラダンはマラルメの交友相手である。ヴァレリーはマラルメのサロンである火曜会に参加していた。重信がマラルメに心を寄せていたことの証は、マラルメとの交流の場として「火曜会」が持たれていたのに対し、重信が「火曜会」を催して句会を行ない、『火曜句集』を編み、そして家業として起こした印刷業の会社名を「火曜印刷所」としていることからも明らかであろう。

 そして、マラルメの「影像の連鎖の方法」などを取り入れて、暗喩を用いてゆく(川名大『昭和俳句史』)が、重信の方法は「心象を積み重ねて、最後に一つの作品全体の心象を形づくる」ものである。ここには、以前からの連想に秀でた重信の特徴があらわれている。このようにして急速に西欧化と言えるようなフランス文学をはじめとして象徴主義などを受容していったと言えよう。

 大戦下の病床では皇国史観の書物をひも解き、敗戦後の病床には大宮伯爵があらわれて象徴主義の世界へと誘っていったのである。


★―5清水径子論7    佐藤りえ

 体温の中の雪の戸たたかるる

 引き続き『鶸』より。初出は「氷海」昭和29年4月号「体温のなかに雪の戸叩かるゝ」。「体温の中の雪の戸」は冬の寝覚めの布団のなか、朦朧としながら誰何の音を聞いている景だろうか。感覚的な捉え方、結句をひらがなとしたことで、ぼんやりした余韻がより強調されている。

 「氷海」の同じ号で小宮山遠が清水径子論を書いている。径子について叙情性と知性双方を持ち合わせつつ、絶えず「焦慮」をかさね、俳壇という男の世界を生き抜こうとしている、と分析した後曰く、

かゝる孤独や憤怒に依って形作られていった径子の作風は徹頭徹尾「気まじめな」表情である。ぼくは径子の作品からわらひ・・・の声を聞いたことがない。(「清水径子小論」小宮山遠)

 小宮山は同時期「天狼」昭和29年9月号にも「氷海のひとびと」として同人14名の簡単な紹介記事を書いている。径子は三番手で「主知的な作風の持主で、日常の生活を虚飾なく描き得る作家でもあります。」と紹介されている。

 さらに少し遡り、「氷海」昭和27年14号の散文「日記」で林屋清次郎は径子についてこのように書いている。 

会えば人間味ある人なるに、句は冷たきスタイリストなり。やゝおすましなり。(中略)賢姉径子は技巧派にてやゝ虚無派(シン強し)なり。

 昭和一桁生まれの小宮山遠はこの頃二十代前半、親と覚しき年長の径子に気まじめ、主知的といった印象を持っているのは時代のならいと言えようか。今回引いた「体温の中の雪の戸~」などは感覚的な表現のはじまりと見てよい気がするが、彼らにとってあまり注目されていないようなのは、彼らが暗に期待するところが主宰秋元不死男のようなヒューマニズムのはっきり発露した句、また生活の細部を慈しむタイプの句だったりするからだろうか。もしそうだとしたら、それはどこかないものねだりのような気がする。径子の作品は当初からいわゆる写生を標榜しないことがはっきりしているし、生活実感のある句も、単純に喜んだり悲しんだりするような詠嘆を回避する、現在性が重視されている。

 もてあます真夜の体温に雪明り  加藤知世子(昭和23)

 冬萌や朝の体温児にかよふ  (昭和26)

 凍てし靴ふみしめふみしめ体温生む  (昭和28)

 同年代(2歳年長)の加藤知世子の同時期の作品をいくつか挙げてみる。一句目、自身の中のなにかの昂りを諫めるかのように、戸外の雪明りが明るい。二句目、そろそろ芽ぐむ頃とはいえまだ寒い、冬の朝にふれあう子供の体温はひときわ暖かく感じられる。三句目、靴まで凍ってしまいそうな寒さの中を歩く。自分の動きによって、冷えた体がようやく暖を取り戻す。

 これらの句の「体温」は「ぬくもり」と言い換えることができる。子供との間に感じるぬくもり、自身の寒さを拭い去るためのぬくもり。ここで「体温」という語はオーソドックスに用いられ、多義的な意図は感じられない。

 「体温の中の雪の戸」はもう少し表現そのものにウェイトがかけられている。「体温」という語彙の扱いが物質的といおうか。そもそもこれが「ぬくもり」なのだとしたら誰のものなのか? 結句の受身からは主体そのもののことであると判断され、ここに人は一人しかいない。

 深読みしていけば、「体温の中の雪の戸」とは自身のかたく冷たく閉ざした「雪の戸」を誰かがコンコンとノックしている、という読みもありうる。しかし、そんなにロマンチックでいいのだろうか。「かたく閉ざした私の扉(心)を訪うひと」は少女趣味な仮定に過ぎない。

 「なかに」から「中の」へ、「叩かるゝ」から「たたかるる」に推敲したことで、受ける印象として、より身体性が強調された句となった。結句の「たたかるる」の表記は同じ仮名が二度繰り返され、「体温の中」という場所の提示と相まって、「雪の戸」が飛雪で固まる寒々とした扉から、なにか生命のある装置めいたものに変貌を遂げた。


 ところで「体温」という語は女性作家特有の語彙ではないか。立風書房の「現代俳句全集」全6巻、みすず書房の「現代俳句全集」全8巻中に(新人作品を除いて)以下三作品しか認められなかった。

 体温の銀線きらと枝蛙  友岡子郷

 激怒する体温の渦バラの季節  佐藤鬼房

 寒き作業衣著けし体温負くるまじ  三橋敏雄

 子郷の句は体温計の水銀のことを言っているし、鬼房の「体温の渦」は頭に血の上ったイメージであって、具体的な他人の体温のことではない。3句だけのサンプルで云々はできないが、これらの「体温」はイメージの提示となっている。健康上の問題の有無に拘わらず、自身の状態を常に観察している、また出産・子育てを通して「子供」という他者と触れあい、嫌が応にも身体性と向き合う機会の多い女性とでは、「体温」という語彙に対する実感がかなり違っているのかもしれない。

 寒燈や残る体温掌に惜しむ  柴田白葉女

 唐紅葉わが体温と同じうす  阿部みどり女

 露霜に体温うつる傍えの児  長谷川かな女

 早乙女の体温泥の田にて蒸る  津田清子

 体温のこる帯が触れゆく春障子  河野多希女


【連載】現代評論研究:第12回各論―テーマ:「記憶」その他―  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 

投稿日:2011年10月14日

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 うまれた家はない風ふく絵本

 昭和53年作の「ケイノスケ句抄」(注①)所載の句である。圭之介は明治45年に福井県舘町で生れたが、生後三カ月目に逓信省勤務の父の転勤で石川県金沢市へ移り、そこで小学校一年生終了までの七年間を過した。当然、圭之介の記憶にあるのは金沢の家であり、圭之介自身「金沢をふるさとに持ったことは一生涯、心の誇りですね」と語っている(注②)。犀川の流れる金沢は室生犀星や泉鏡花等を生んだ文化の香り豊かな土地であり、圭之介の金沢への愛着は後に「北の町に埋れた春はぬれた舌でしょうか  昭和58年作 」の句も生んでいる。

 掲句の絵本は幼き日の記憶の中でのものであり、吹きすぎてゆく風が、心の中の家も絵本も消し去って行くような思いがしたのであろう。時間が記憶の中に紛れ込み、それによって記憶そのものがほろほろと分解されてゆくようにも。また、この句の下敷として山頭火の「うまれた家はあとかたもないほうたる」の句が意識にあったものと思われる。しかしその二人の作風の違いは、自己を現存在の彼方に置くか、現存在そのものに埋没してゆくかにあり、各々の句にその特徴が表れている。圭之介は山頭火と交誼を結んでいたが、「山頭火から俳句の批評や添削された記憶はなく、俳句の話もほとんどしたことはない。」と述べており、句作の上では影響をあまり受けていないと考える。しかし、山頭火の人間そのものには大いに魅かれるものがあったのであろう。後年、「山頭火」と題した思い出の下記の句を発表している。(注①)

 いつもらんぷ磨いてあるほどに身辺簡素      昭和25年

 らんぷが家の中につき彼が心中にある煩悩       々

 独りでおるべき身の茶の花のもつ清貧         々

 酒をたべる山頭火に鴉が来て誰も来ない        々

 心の暗い日のかれ米をとぐ大いなる手を持つ      々

 らんぷより明るい外で 柿の木の柿        昭和31年

 仏にあげたものが ひとり食べる           々

 この様に圭之介は、山口県小郡の其中庵時代の山頭火の生活やその人間的苦悩そのものにまで踏み込んだ思いを抱いており、圭之介が年齢を重ねるにつれて山頭火の句の深さにも魅せられていったと述べている。

 今回のテーマ「記憶」にも関連すると思われる、圭之介の昭和28年作の一篇の詩を紹介したい。(注③)


「離散」

あれもこれも離れてゆき

これもあれも離れてゆく

コップは手より卓の上に位置をかえ

手とコップは無限のへだたりを生じる

右手と左手の間に 枯野が横たわり

木の葉は女ごころの如く林を離れた

記憶の如きは雲の浮遊と共に移り去り

全てのものが風景の中にへんぺんと離散した


 人間にとって記憶というものは心象風景の中でいつかは離散し、消え去ってゆくものなのであろうか。そしてその時間的推移は瞬時と永遠が交叉したり、隔たったりして過去、現在、未来を照射してゆくのであろうか。その時、個的実存が孤独、不安、絶望といったものに蝕まれてゆくのであろうか。それ等の孤独感を引きずりながら圭之介は後年、下記の句群の中を泳いでいったのかも知れない。

 一さいが去り 一つの灯にいる          昭和30年

 一対の椅子の時間誰かいて 行ってしまう     昭和52年

 記憶の構図くずれ ひたむきに構図        平成12年

 己の記憶の中で笑った              平成18年


注①「ケイノスケ句抄」 近木圭之介 層雲社刊  昭和61年

注②「うしろ姿のしぐれてゆくか・山頭火と圭之介」桟比呂子著 海鳥社刊 平成15年

注③「近木圭之介詩抄」 近木圭之介 私家版  昭和60年


●―2稲垣きくの/土肥あき子

 養へば命哀しき籠蛍  「春燈」昭和56年8月号

 昭和54年8月号「俳句とエッセイ」にきくのは「想い出」というエッセイを寄せている。最近見た蛍養殖のテレビニュースから、亡くなった師久保田万太郎の作品「蛍」に思いを馳せる。戯曲「蛍」は、悲運な男女の死を予感させるラストを蛍籠で暗示させる。

 掲句の「養う」にも、蛍の命終をそう遠くない日に見届けなければならないことをじゅうぶん承知している屈託がにじむ。

 さらにきくのにとって、蛍は特別な記憶を呼び覚ますものでもあった。

 「思い出」に書かれた蛍のエッセイは、いよいよ過去へとさかのぼり、忘れられないあるできごとへと誘導されていく。

 大正9年、きくのが女学生になった頃、幼友達に近所の田圃へと蛍を見に誘われ、躊躇なく同意する。そこで14歳の少女はゆらめく蛍火のなか、いきなり接吻をされたのだった。「いやっ」と少年を振り切ったきくのは「息もつかづに家へ戻ると、台所へ下りて柄杓の水でがぶがぶと気がすむまで口を漱いだ」。これだけだったら感じやすい少女時代の微笑ましいとすら思える経験で済むのだが、きくのの場合、その後結婚してからも男女に関する不潔感はつきまとったのだという。

 幻想的な蛍火に惑わされた、あるいは思慕を募らせたあまりの計画的な行動だったかもしれない少年の想いに一切触れることなく、半世紀以上前経った今もまざまざとその忌まわしい感触に身をこわばらせる。

 多感な少女期の不幸な経験が、その後のきくのの並外れた潔癖さと、それにあらがうような、ときに退廃的な選択の原点となったように思える出来事である。

 蛍火は明滅する業火となって、いつまでもきくのにねっとりとまといつく。

 「私は今でも接吻が怖くて出来ない」

 最後に置かれた一文は、「恋のきくの」にとってあまりに切ない告白である。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 ひもじくて芒かんざししてゐたり

 掲句は、昭和50年作、句集『雁道』(*1)所収。

 この句を鑑賞するさい、ポイントになるのは〈ひもじくて〉の主体である。擬人法と捕らえるならば、〈芒〉が〈ひもじくて〉となる。ススキの姿を凝視した結果、腹が減って食べ物が欲しいと思いながら、うな垂れている人のように見えたというのだ。しかも風になびいている黄金色に輝く花穂を長い髪にさしている〈かんざし〉に見立てた。そこにこの句の独自性を見出すことも出来る。

 齋藤玄が「見る」ことにこだわる「凝視」の作家であることは、この連載において何度となく書いてきた。晩年の句集である『雁道』においても見ることに重点を置いて表現を重ねている句が多いことを考えれば、この句は凝視の成果のひとつといえるだろう。

 芒はとてもひもじかった。風が吹き通るたびに、ひもじさは身に応えた。頭のきらきらしたかんざしは、ゆらゆらと重かった。(*2)

 自註の玄の記述を勘案すると、芒の写生句と読めなくもない。

 しかし、なぜ〈かんざし〉なのか。ふつう「かんざし」といえば、女性の髪飾りである。かんざしを挿している女性が、戦前ならまだしも昭和50年の北海道で一般的であったとは思えない。ちなみに玄が当時居住していたのは北海道滝川市新町である。新町は空知川の川岸沿いに位置する町で、昭和48年頃から文化センターや図書館、郷土館が建設され、市内の文化地域を形成している。余談だが、同時代に北海道札幌市で暮らしていた筆者の周囲でかんざしを挿していた女性は、明治生まれの祖母くらいの印象がある。ここでの〈かんざし〉は、記憶の中の女性を芒に重ね合わせて詠みこんだと考えられなくもない。

 いままではあくまでも〈ひもじくて〉の主体を〈芒〉ととらえて考えてきたのであるが、一方で、作者自身ととらえるとどうなるだろう。

 すると、作者である玄が〈ひもじくて〉髪に芒を挿しながら芒原をあてどなく歩いている景が見えてこないか。当時玄は61歳。10月に盟友である石川桂郎を聖路加病院に見舞い、断腸のお思いで別れてきた時期の作と思われる。

 桂郎を見舞った時に次の句を残している。

 死の側で笑む桂郎や秋の暮   昭和50年作『雁道』

 死を予期している友の笑顔を眼前にしながら玄は何を思っただろう。昭和18年、「生涯のつきあいを約した」(*2)という一夜だろうか。それとも昭和19年、第二句集『飛雪』の題簽の染筆を依頼するために横光利一邸に二人で泊まった日のことだろうか。あるいは昭和47年、厳寒の網走を二人で旅した日の着膨れた桂郎の姿だったろうか。

 いずれにせよ、句集『雁道』では〈死の側で〉の二句後に〈ひもじくて〉の句がある。掲句の鑑賞に戻ると、〈芒かんざし〉とはススキの花穂を折り取って、髪に挿すことで、女性に限定されるものではない。むしろ、果てしなく続く芒の原を歩きながら一本の芒を短く手折ったのであれば、男性的ですらある。よって〈かんざし〉に女性を読み取る必然性はなくなる。〈ひもじ〉さを紛らわせるための所作、あるいは、芒原に同化するための振る舞いととらえた方が自然だろう。なぜ、芒に同化する必要があるのか。それは、記憶を消し去るためである。たとえば、哀しい記憶。現実からの逃避。あるいは孤独感を忘れるため。昭和の子どもたちがお面をつけて、たやすくテレビのヒーローになりきったように、自分ではない何ものかになりたいとき、人は仮面をかぶり、頭に何かをかざすのではないか。そう考えるならば、先に掲げた自註の解釈も変わってくるように思う。友の死を契機にして、噴出してきた記憶。あるいは文字通り〈ひもじ〉かった頃の記憶を忘れるために玄は〈芒かんざし〉の重さを感じつつ、芒の原を歩いたのではないだろうか。消したくなるほどの記憶を持たないものには、到底理解されることはないと思いながら。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2  自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 幾何解く夜花火みどりに裏返る

『機械』(1980年)所収の句。

 夏の夜。窓辺の机に向かい、幾何学の問題に取り組む少年。しかし、やがて思考の糸は腹の底に響く爆音で途切れることになる。今夜は花火大会だったのだ。次々と夜空を彩る大輪の花火。放射状に開ききった光の尖端が闇に吸い込まれ、一瞬ののち、緑に反転した閃光が浮かび上がる。花火見物をよそに独り図形と格闘する少年は葦男その人に違いない。受験生としての遠い日の記憶の中から、花火の開く瞬間を鮮やかに切り取ってみせた一句である。

 葦男は神戸第一中学校から岡山の第六高等学校文科甲類に進み、1938年、東京帝国大学経済学部に入学した。1934年には六高受験に失敗、山手高等予備校に通うという経験もしている。六高はスポーツの強豪校として有名だった。13の運動部がインターハイにおいて延べ55回の全国制覇を達成しているほどだ。中高時代を通じて陸上競技部に所属した葦男も、厳しい鍛錬に明け暮れるアスリートだった。

 学生時代に走幅跳や三段跳の練習をやったせいであろうか。激しく地面を蹴って、体を空中で海老のように屈伸する姿勢をとると、私の体はふわりと空中に浮く。その体を弓にそらし、次いで、高く振り挙げた両手を強くうしろに掻きつつ、揃えた両膝を前へぐつと引き上げる、この動作を律動的に繰り返すと、不思議や私の体は地上一メートル余りの高さで、地面と並行にスーツスーツと進む。

 第一句集『火づくり』の「あとがき」に出て来る奇妙な記述は、結局、夢の中の飛翔体験であることが明かされるのだが、繰り返し肉体に刷り込まれたヴィヴィッドな運動感覚が、はるか後年まで夢の中で再現されることに筆者は興味を覚えた。ひょっとすると記憶の中には、大脳皮質の働きと関連しつつもそれとは別個に存在する「脊髄記憶」あるいは「小脳記憶」とでもいうべきものがあるのではないだろうか。

 やがて葦男は「この天狗飛び切りの術」を進化させ、下級生の教室の窓を飛び抜けたり、泰山木の花を真上から眺めたり、果ては高い丘の上から谷を越えて緑地に着陸するというパラグライダーまがいの飛翔を愉しむ。その多くは病気の時、高熱の後の回復期などに体験するのだという。

 葦男が俳句を「形象性の詩」と呼ぶとき、それは素朴実在論的な写生だけではなく、自己の心の中にしか存在しない形象の表現をも含む。夢の中の飛翔体験や鳥瞰イメージを克明に描くこととそれはどこかで相通じている。

 さて、冒頭の句は西東三鬼の「算術の少年しのび泣けり夏」を連想させる。が、しのび泣きながら少年が取り組んでいるのは幾何学や微分・積分などの「数学」ではない。「算術」なのである。鶴亀算か、旅人算か。いやそれ以前の九九あたりで彼はすでに躓いていたのかもしれない。要はセンスやひらめきの問題ではなく、それ以前の丸暗記=記憶力の問題だった可能性が高い。

 対する葦男作品の少年は記憶力抜群だった。そこに描かれているのは幾何の問題がすっと解けた瞬間の強烈な快感である。葦男はそんな「数学的エクスタシー」を「花火みどりに裏返る」という官能的な表現のうちに見事に言い止めたのである。


●―8「青玄」系作家の句/岡村知昭

 今奏づ亡き師がききし諏訪根自子   桂信子

 初出は『青玄』1957年(昭和32年)2月号、「おでんの湯気」と題された6句の中の一句。句集および『桂信子全句集』(2007年10月、ふらんす堂)には未収録。「ニューイヤーコンサート」との前書きがある。

 諏訪根自子は1920年(大正9年)生まれのバイオリニスト。16歳からベルギー、フランスへ留学、第二次世界大戦下のヨーロッパで演奏活動を行った。戦後に帰国してからは国内で演奏活動を行ったが、1960年代に第一線から退いたという。ウィキペディアでの記述によれば「その後、消息はほとんど聞かれず、伝説中の人物となっていた」、また「絶世の美貌を謳われ」たとある。掲出句が書かれた時期はちょうど国内での演奏活動を精力的に取り組んでいた頃にあたるので、前書きの「ニューイヤーコンサート」もそのうちのひとつだろう。

 年明けのとある1日、ラジオから流れてくるバイオリンの音色は、いまは亡き恩師が愛してやまなかったあの諏訪根自子が奏でているもの。病床の先生はラジオから流れてくる音楽をジャンルを問わずとても楽しみにしていらして、その中でも特に彼女のバイオリンの演奏は好きでしたねえ、との追憶にしばし身をゆだねるひとときである。このとき師を想う一弟子としての作者の脳裏には、「亡き師」がこのバイオリニストを詠んだ次の一句が浮かんでいたに違いない。

 弾きて澄む顔は見えねど諏訪根自子   日野草城

 この草城の1句の初出は『青玄』1949年(昭和24年)10月号、つまり『青玄』の創刊号に掲載された作品である。すでに病床での生活を余儀なくされていた自らの耳に届くバイオリンの響き、それはまぎれもなくあの一切の邪念を払いのけたかのような美貌から産み出された音色に間違いなく、今まさに彼女は一心に研ぎ澄まされた精神のすべてを賭けてこの一曲を奏でているのに違いない、それはいまこのとき、彼女自身が曲と一体化しているかのようではないか、と草城は美貌の演奏者への感嘆を惜しまないのである。そのような思いに満ちた1句を草城は主宰誌の記念すべき創刊号に載せ、さらには第7句集『人生の午後』にも収録したのだから、バイオリニスト諏訪根自子への賛歌として詠まれたこの1句は、弟子たちの心にも強く刻み付けられていたことだろう。もちろん桂信子も草城の弟子のひとりとして、このひとときは師が愛してやまなかったバイオリンの音色から浮かんでくるさまざまな回想に思いを馳せていたのだろう、まっすぐに澄んだ表情で。

 さて、掲出句が掲載された号の作品を見ると、同じように草城への回想を背景にした作品が他にも見られる。

 日向より膝に来し猫沈みねる

 膝にねて程よき重さ冬の猫

 師の愛せし猫なり師なき部屋あるく

 「日光草舎」との前書きのあとのこの3句は今は亡き恩師の家での猫の様子を詠んだものにとどまらず、飼い猫だった「ルミ」の死を悼んだ草城の作品も踏まえられている。

 猫死ねりいまはを人に知られずに

 凍る闇死にたる猫の声残る

 分ち飲む猫亡しミルクひとり飲む    (『人生の午後』所収)

 可愛がっていた飼い猫の死を深く悲しむ恩師の姿を作品を通して見ることになった弟子として、いま主なき家を堂々と闊歩し、家族や客人の膝に熟睡する猫たちの姿もまた師への想いを甦らせるには十分なものだったに違いない。とある冬の1日、あのバイオリンの音色もあの猫たちの元気な姿も、もう先生は見ることも聞くこともできないのだということを改めて深く心に刻む、そんなひとときを弟子の一人は過ごしている。年明けということは師の命日(草城の命日は1月29日)はもうまもなく訪れる。


●―9上田五千石の句/しなだしん

 鰯雲くづれは雲の襤褸なる       五千石

 第二句集『森林』所収。昭和四十五年作。

 この句は、俳人協会新人賞受賞後のスランプの時期のものであり、『森林』の、この句の制作年、昭和四十五年の作品はわずかに8句であったことも前回書いた。

     ◆

 この句について五千石は自註(*1)で、短く、次のように書いている。

 「特攻隊くづれ」とか、「役者くづれ」というが、ここでは「鰯雲くづれ」。

 「襤褸」は「ぼろ」ではなく「らんる」と読む。「襤褸」とは、破れた衣服・ぼろぼろの衣服・また、ぼろきれ・ぼろ、のこと。つまり、鰯雲の崩れた雲、または鰯雲になりきれない雲はボロキレのようだ、ということ。なんとも捨て鉢のような句ではある。

     ◆

 私はこの句の下地になっているのは、昭和三十七年の、

 流寓のながきに過ぐる鰯雲      五千石

ではないかと考えている。

 流寓(りゅうぐう)とは、放浪して異郷に住むこと。以前にも書いたが、五千石は戦時に信州へ疎開し、その後細かく長野、山梨、静岡と転居する。その間、昭和20年には東京の自宅を空襲で失っている。

 この流寓の句の自註には、

「流寓が流寓でなくなってゐるところに人生の寂寥性がある」

「鰯雲は、倦怠の象徴と思はれる」(山口誓子評より)

と、誓子の評をそのまま載せている。この評が行き届いたものだったことを顕していると見るべきだろう。

 著書『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「自作を語る」の中で次のように記しており、それを裏付けている。

《前略》(流寓が)あまりに「ながきに過ぐる」ということになりますと、もはや「流寓」が「流寓」ではなくなっているとでも言いましょうか、妙にさびしく、うらぶれた気持ちになってしまいます。天を覆う「鰯雲」をうち仰ぐと、いよいよそんな思いに胸ふたぐばかりであります。《後略》

     ◆

 この二つの句は「鰯雲」が共通するというだけではなく、鰯雲を見上げたときのあきらめにも似たさびしさの極みがベースとなっているのではないだろうか。五千石の少年期の「記憶」の句だと思う。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊

*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 汗ばみ聞く故人の古き恋歌を

 53年7月、『方壺集』より。

 亡くなった人の歌う恋のうたを聞いているのだが、その歌の流行った時代が思い出されて、静かな室内におりながら次第に汗が吹き出してくるようである。この故人は、水原弘。昭和10年生まれ、昭和34年「黒い花びら」でデビュー、大ヒット曲となり第1回日本レコード大賞を受賞した。その後低迷するが、昭和42年「君こそわが命」で復活。酒豪であったと言われ、それが原因で昭和53年7月5日、42才でなくなった。

 憲吉が水原弘と面識があったかどうかはわからないが、俳人というよりは、タレントとしての活躍が目覚しかった後半生にあっては出会いがなかったとも言えない。年齢的には一回り下であるが、老成した水原弘は憲吉と同世代人と錯覚してもおかしくない。

 歌謡曲はとりわけ時代を想起させるが、「故人の古き恋歌」と言えば、やはり「黒い花びら」になるだろう、汗ばんで聴くのにふさわしい歌だ。そしてその時代にはこんなことがあった。

 

南極からのタロー、ジローの帰還

少年マガジン、少年サンデーの創刊

皇太子(現天皇)ご成婚

王貞治の初ホームラン、長嶋茂雄が天覧試合にサヨナラホームラン

児島明子ミス・ユニバースに

伊勢湾台風来襲、空前の5000人の死者

水俣病のチッソの有機水銀に由来することが判明

 

 昭和34年とはこんな時代であった。やがて、安保闘争、三池争議という熱い政治の時代を迎えるようになる。暗さ明るさのないまぜになった時代を「汗ばむ」と形容するのは誠に適切な措辞であった。

 では、これはだあれ。

 歌姫の歌も豊かに夏に入る

 昭和55年6月、『方壺集』より。

  これはペギー葉山。水原と違い、憲吉とペギーは確かに面識があったようである。

 ペギー葉山は昭和8年生まれ、水原より3歳年上であるが、今も元気でいる。水原の「黒い花びら」の出た同じ34年に「南国土佐を後にして」が大ヒットした。また水原と違い、「ケセラセラ」「学生時代」「爪」「ドレミの歌」「ラノビア」など息長い活動を続け、日本歌手協会会長も務めた。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 いつせいに柱の燃ゆる都かな

 読者の記憶から掘り起される映像がある。その映像がどのように映し出されるか作者は読者に任せるしかない。何よりも読者自身が句に向き合わなければその映像は見えてはこない。

 掲句は、多くの論者から評され戦後の代表句のひとつとされてきた。昭和二十(1945)年の作、『まぼろしの鱶』『青の中』に収録されている。

 一句として成り立つ、先の百年も残る無季句を得たいという敏雄の信念が伝わってくる。

  「いっせいに柱が燃える都」という現象は尋常ではない。都が燃える要因となるものは、革命、テロ、暴動、戦争、天災など。さらに、都はどこの都という限定された場所ではない。ただ、「都」という言葉から、政治・行政・皇帝などの中枢機構が置かれている街というイメージを持つ。ポンペイ、バスチーユ(パリ)、ロンドン、平城京、天安門、本能寺(京都)、江戸、何処の都市でも、何時の時代でもよいのである。世界遺産登録の建造物、ひいてはその大元であるユネスコ憲章の世界平和(*1)をも考える、とにかく壮大な句である。俳句はちっぽけな驚きばかりでなく、歴史的な事象を想起させることもあり、ということをこの句を通して知ることができる。猛烈な火の粉をあげ都が燃えている。炎柱と炎柱との狭間にうごめく民衆の姿、声を想像する。大惨事である。

 技法的には、「柱の燃ゆる」の「の」は、独立句の主格を示しており(*2)、更に「燃ゆる」の古語表現により、雅で歴史的な音感、質感を持つ。そして「かな」の詠嘆により崩れゆくもの、喪失していくものの美を感じる。『まぼろしの鱶』の昭和三十年代の項から昭和四十年代に制作された『眞神』での復活まで、この「かな」が姿を消す。それは三鬼の影響もさることながら、過去の新興俳句弾圧に対する抵抗とも感じられるのである。

 制作年の昭和二十年は第二次世界大戦が終結した年であり、日本各地の小都市の多くが空襲の被害を受ける。確かに、制作年から考えれば、「空襲、特に東京大空襲を詠んだ戦争句」という多くの解説の通り、空襲の惨事に結びつけることができるだろう。しかしながら敏雄は、『まぼろしの鱶』の選句時にあえて何年何月何日という具体的な事象、場所がわかる句を外している。

 制作年が同じ頃の敏雄の作品。

 こがらしや壁の中から藁がとぶ  昭和二十一年作

 梟の顔あげてゐる夕かな        〃

 むささびや大きくなりし夜の山  昭和二十二年作

 終戦で混乱した頃において、この落ち着きようである。敏雄は、あえて現実を、あるいは戦火想望俳句ひいては新興俳句を早急に遠い目線で見つめ直そうとしていたように思える。戦争が終わった安堵感と同時に暗闇の中の行き場のない悲しみ、慈しみ、そして不安を感じる。

「俳句は一たび作者の手を離れてのちは、そこに使われた言葉の意味と韻律から触発される映像表現に一切を掛けている。」『まぼろしの鱶』後記

 「いっせいに…」の句は、ほんの前に起きた生々しい記憶の絵コンテだったかもしれないが、遠い記憶、回想のように滅びゆく美しさすら詠っている。敏雄を通過した言葉から生れる映像は、読者に遠く切なく迫りくる。敏雄は、具体的事象の概念を外すことにより、読者の(それもまだ生まれていない読者も含む)記憶に刷り込まれた映像に懸けたのである。

 掲句から六十六年経過した現在も時空を超越する壮大な句である。


*1)ユネスコ憲章前文は以下で始まる。

 「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」

*2)格助詞「の」が独立句の主格を示す他の句例:

五月雨のふり残してや光堂 芭蕉

おのづから影の出来たり籾筵 高屋窓秋

夕つばめあつまつてとぶ空のあり 石田波郷

 

●―13成田千空の句/深谷義紀

 土偶みな寝に帰りき秋の山

 第4句集「白光」所収。

 青森は縄文文化が花開いた土地であり、今も県内には三内丸山などの遺跡が残る。その縄文文化の象徴として、よく挙げられるのが土偶である。一般になじみのあるのは、大きな目、突き出た腹が特徴的な遮光器土偶だろう。もっともこの土偶は、どんな目的で制作されたか、今も定かではないという。それでも現代人のわれわれから見ると、何とも言えない温かみをもつオブジェである。

 そうしたことから、青森の人々にとって縄文文化や土偶はとても近しい存在である。その点は、他の地域とは決定的に違う。他の地域で土偶に親近感を覚えるなどと言えば、よほどの考古学マニアと言われかねないだろうが、青森ではもっと一般的に語られる。

 そして青森の人々は、自分たちが縄文人の子孫であることを、折に触れ意識する。加えて、その意識というのは、単純にそうした遺跡が発掘された地域にたまたま住んでいるということではなく、この土地が何世紀も前には温暖な気候に恵まれた豊穣な地域であり、文化的にも進んでいた地域だったという自負が、その奥底に潜んでいるのである。土地の人達が「縄文」を語るときには必ず、そうした強い自意識あるいは誇りのようなものが根底に存在する。

 掲句も、一読した限りではどこかファンタジーを感じさせる空想句とも思えるが、もっと重層的な構造を有しているように思う。例えば、かつての縄文人たちは土偶を、冬眠する動物たちと同じように考えていたのかもしれない。あるいは、千空にとって、この「土偶」は自分を含む津軽人の祖先であり、そうした縄文人も冬になると(冬眠する動物たちと同じように)山に生活拠点を移したかもしれない。いずれにせよ、そうした太古の縄文人たちの記憶が時代を超えて千空の脳裏に蘇ったとみることができるのではないか。さらには、千空自身が、「混沌とした現代社会に疲れた。かつての先祖たちと同じように、そろそろ秋の山に寝に帰ろうか」そんな心情を託したように思えてくる。謂わば縄文人としての記憶や自意識が現代に蘇った作品である。


●―14中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】25.26.27.28./吉村毬子

2014年8月8日金曜日

 25. 鈍(のろ)き詩人(うたびと)青梅あをきまま醸す

 詩人は鈍い方が良い。器用に言葉を操る詩人は魂の真髄から詠っていない気がするのは私だけであろうか。愚かな「鈍き詩人」と「青梅」の取り合わせによる在るがまま、成すがままの大らかな解放感。青々とした丸い実梅が、初夏の日射しを浴びる大地に音を立てて転がり落ちる。「あをきまま醸す」とは梅酒にする様を思う。ホワイト・リカーの円みのある透明な液体に、泳ぎながら沈む「青梅」の涼やかさは「鈍き詩人」の持つ純粋な美しさと少しの薄情さをも表現している。

 しかし、鈍いとは〈遅い・はかどらない・愚か〉の他に〈女にあまい・色におぼれやすい〉という意味もある。これは恋句なのかも知れない。人は恋すると誰もが詩人になると云う。「青梅」は、丸やかで張りがあり、桃の実ほど艶やかではないが、少なくとも形状は似ている。詩人(の、ような)の男が汚れなき少女をその無垢な状態のまま養育する――という、光源氏的なものも垣間見えないこともないが、此の句は、愛しい「鈍き詩人」を詠った句であると思える故、彼の作る詩、即ち彼の言動は爽やかで新鮮に見える。その少年のような愚かさに母性愛の如きものが心音を波立たせる。二人の愛も青梅の初々しさのまま醸されていくようである。

 過日に掲げたこの章の初まりの二句

 羽が降る嘆きつつ樹に登るとき 

 落鳥やのちの思ひに手が見えて

とは趣きが違うし、苑子俳句にしてはいささか甘い。しかし、〈回帰〉という名の章であり、一周りして元に帰るには様々な物語が展開し、転回されるのであろう。次句もまた詠いあげられていく「恋」の行方を追っていこうではないか。

 26.乾草は愚かに揺るる恋か狐か

 前句の明色さに比べると昏い苑子調がうかがえる。「乾草」は、家畜の飼料として夏の間に刈り干して置くものだが、「狐」がしのびこみ揺らしていったのではない。「乾草」を揺らしているのは男女の営みであろう。直接の行為でも語らいでも良いのだが、前者の方が句の激情感が増すと同時に、その揺れが激しいほど哀切を帯びる。それは、苑子が「乾草」を選択したことにある。

 青々とした(前句の青梅のような)草の中の愛の営みではなく「乾草」という、刈られてしまった、植物としての生命は絶え、家畜に食われる運命を残しただけの草。「狐」は人を巧みに騙すといわれている。「恋か狐か」――「か」のリフレインが切ない。しかし、「狐」は稲荷神社の使いではないか。稲荷は食物を主宰する神、御食津神であり、その使いであるということは、やはり「乾草」の如く食べられてしまうだけの結末であるのか……。

 27. 流木の夜は舟となる熱発し

 見開き2頁4句に並べられた3句目である。狐(かも知れない)との恋は「熱発し」と至る。舞台は、乾草からの田園(もしくは、田園の中の納屋)から、大海原へと移る。「流木」「舟」は、共に大海原に浮き泳ぐこそ生命存在を確認するものである。「流木」は、樹木としての生命は絶えているが、波に浮いて群れにはぐれた渡り鳥が最後に羽を休める処であり、遭難者、例えば「船焼き捨てし 船長」が一息つけるものかも知れない。しかし、「流木の夜は舟となる」のである。流木が浮く夜の海という状況設定ではなく、流木としての我がその夜は舟となり、一刻、或いは一晩、岸に繋がり人を乗せる。それが、「熱発し」舟となったということである。 

 苑子の敬愛する三橋鷹女の句

墜ちてゆく 燃ゆる夕日を股挾み    鷹女『羊歯地獄』所収

 この凄絶さにはない諦念感の沈澱から漂うエロティシズムが浮遊している句である。

 28. 放蕩や水の上ゆく風の音

 熱は癒えたのか、冷めたのか――。

 「放蕩」という憎み切れない語は、その字の持つ意味、(「放」=かまわずにおく・解きはなつ・赦すこと、「蕩」=広くゆきわたる・揺れ動くこと)と、音に寄る語感であるかも知れないとも思う。「放蕩や」の切字は、一拍置くことを促し、また感嘆詞としての役も担っているのだろう。「水の上ゆく風の音」は、河川や海を詠うのなら格別に際立った中七下五の表記ではないのだが、「放蕩」という物質や現象ではなく(感情的、道徳節をも呼び起こす)、抽象的とも具体的ともいえるその語について詠っているのだから、なんとも掴みどころのない飄々とした様が的確に表現されているのである。(池袋西武カルチャー教室の頃、男性に此の句が好まれていたのも頷ける。)

  「水の上ゆく風」は勿論見えない。「風」とは流れていくものである。流れることでその音が聴こえるのである。「風」は水底を知っているのか、知ることができないのか、見る時がないのか、唯、「水の上」を流れていくだけである。まさしく「放蕩」の真髄を語っているのである。けれども、きっと、「放蕩」は、水底まで覗いて知らない振りをして流れていくのであろう。

 前回までの流れから行けばそういった起承転結に至るのだが、〈回帰〉は、未だ未だ終わらないのである。始まったばかりである。