2025年1月10日金曜日

第239号

        次回更新 1/24



定住越境の人 大橋愛由等さんを偲ぶ  堺谷真人 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

澤田和弥句文集特集
はじめに 澤田和弥句文集について 津久井紀代 》読む
はじめに 凡例 筑紫磐井 》読む
第1編① 現在という二十世紀 》読む
第1編② 肯うこと―西村麒麟第一句集『鶉』読後評―【西村麒麟『鶉』を読む5】 》読む
第1編③ 無題 》読む
第2編 美酒讃歌 ①麦酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ②続・麦酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ③焼酎讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ④熱燗讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑤続・熱燗讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑥冷酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑦新酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑧続・新酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑨地酒讃歌 》読む
第3編 澤田和弥論 津久井紀代 ①》読む ②》読む ③》読む

■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和六年夏興帖
第一(10/11)小野裕三・曾根毅・大井恒行・仙田洋子・辻村麻乃
第二(10/18)神谷波・瀬戸優理子・岸本尚毅・鷲津誠二・坂間恒子
第三(10/25)ふけとしこ・仲寒蟬・豊里友行
第四(11/1)木村オサム・中西夕紀

第五(12/13)山本敏倖・冨岡和秀・花尻万博・望月士郎・青木百舌鳥・加藤知子
第六(12/20)眞矢ひろみ・渡邉美保・村山恭子・川崎果連・前北かおる
第七(12/27)中嶋憲武・早瀬恵子・小林かんな
第八(1/10)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子

令和六年秋興帖
第一(10/25)曾根毅・大井恒行・仙田洋子
第二(11/1)辻村麻乃・神谷波・瀬戸優理子
第三(11/15)岸本尚毅・坂間恒子・ふけとしこ・仲寒蟬

第四(12/13)豊里友行・木村オサム・中西夕紀
第五(12/20)山本敏倖・青木百舌鳥・冨岡和秀・花尻万博
第六(12/27)眞矢ひろみ・渡邉美保・村山恭子・松下カロ
第七(1/10)川崎果連・前北かおる・中嶋憲武・早瀬恵子・小林かんな

■ 俳句評論講座  》目次を読む

■ 第49回皐月句会(5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第19号 発行※NEW!

■連載

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】 5 無題 矢野玲奈 》読む

英国Haiku便り[in Japan](51) 小野裕三 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり21 池田澄子『池田澄子句集』 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】② 『群青一滴』  田中目八 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(53) ふけとしこ 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】大井恒行『水月伝』評(2) 田中信克 》読む

【新連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

句集歌集逍遙 筑紫磐井『戦後俳句史nouveau1945-2023——三協会統合論』/佐藤りえ 》読む

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を読む⑥ 一人の俳句の書き手・読み手として 黒岩徳将 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む
インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

11月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …

■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

定住越境の人 大橋愛由等さんを偲ぶ  堺谷真人

 2023年12月21日、「豈」同人の大橋愛由等(あゆひと)さんが神戸の自宅で急逝された。享年68。

 大橋さんは、先考・彦左衛門氏が創業された神戸・三宮の老舗スペイン料理店「カルメン」の二代目オーナー。店内ではいつも白シャツに黒のボウタイ。一見、律儀でダンディーな紳士なのだが、何故か口髭の下から発せられる声は上擦り、往々引きつった笑いを含んでいた。そのためであろうか、話題が生真面目な文学論だったりするのにもかかわらず、大橋さんにはどこか無国籍キャバレーの支配人然たる胡散臭さが漂っていたのである。

 新聞記者を経て出版社に勤務し、後には自ら図書出版まろうど社を立ち上げて、あまたの詩集や句集、評論集などを世に送った。スペインつながりでフラメンコに関わり、ロルカ詩祭を主催するかと思えば、コミュニティーFMのDJを務め、やがて奄美の歴史と風土に魅せられてその研究にものめりこんだ。詩誌「Mélange」に所属し、亡くなる直前まで、毎月、「カルメン」で詩の読書会や発表会を開いていた。齢、古稀になんなんとしてその活動の過剰と熱量とは刮目に値した。

 一言で評すれば、大橋さんは「定住越境の人」であった。神戸という土地に根を下ろし定住しながら、絶えずジャンルの垣根を飛び越えていった。但し、その所作は1980年代のニュー・アカデミズムが称揚した「スキゾ・キッズ」のように身軽ではない。増える一方の荷物を持ったまま力任せに垣根を飛び越え続けるのである。その意味では、まことに奇妙なことだが、スキゾ型とパラノ型のキメラといってもよい稀有な越境者であった。

 俳句との出会いは同志社大学在学中。友人を介して、「京大俳句」の人たちと知り合ったが、実作には至らなかった。その後、編集者として担当した俳人諸氏の作品に刺激を受け、30歳頃から俳句を作り始める。大阪・梅田で句会を開き、俳誌「ト・ヘン」を主宰・発行。2000年3月には句集『群赤(ぐんしゃく)の街』を上梓している。

  大地震よタナトス向こうは神なるか

  黒夜なり神戸は失せり冬の震

  イカヅチよ群赤のまち小雪舞う

  難民の妻の手握る毛布なか

  廃ビルは鳥礁となり燕来る

 掲句は1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災を詠んだもの。『群赤の街』の中で震災関連の作品は一部にしか過ぎないが、句集発行の強い内的動機を与えたのは震災の経験であったと大橋さん自身が「あとがき―俳句という仮構」で述懐している。

 ところで、大橋さんの住んでいた神戸市東灘区本山中町という街区は被害が甚大であった。特に自宅周辺の破壊は凄まじく、家屋倒壊率90%以上、死者も出たという。それだけに、震災に対する思いの深さはひとしおであった。そういえば、東日本大震災が発生した直後、大橋さんがこんなことを言っていた。

「地震発生は14時46分。この数字に神戸の人はびくっと反応するんですよ。ああ、阪神・淡路のときも(5時)46分だったなと」

 2025年1月、神戸は震災から30年を迎える。もし大橋さんが今もお元気であったならば、必ずや災害を語り、復興を語り、それらと文学・詩歌との関係を語り、更には東北や能登など被災地の人たちとも手を携えて、出版や対談、シンポジウム等の企画に奔走していたのではないだろうか。それらはすべていかにも「定住越境の人」にふさわしい仕事である。だが、その仕事を担うべき大橋さんはもはやいない。

 大橋さんの訃が伝わってしばらくして、偲ぶ会のようなことをやりたいという声が各方面から聞こえて来た。しかし、度重なるジャンル越境と深いコミットメントを事として来た大橋さんの人脈はあまりに広くかつ錯綜しており、大同団結的な会を催すことは到底困難であった。

 そこで、一周忌を前にした2024年11月、ひとまず「豈」の関西在住同人を中心にしてささやかな句会を開催し、もって大橋さんの人柄と在りし日の交流を偲ぶこととしたのである。兼題は大橋さんの名前にちなみ「愛」「由」「等」。各自、兼題一句とその他三句を出した。

  寒空を透きて流れる白きイカ    北村虻曳

  眠られぬ夜の島唄に連れだされ   堀本吟

  紙飛行機の後部座席で立ち上がる  小池正博

  離脱する此処から彼方へ不可視の路 冨岡和秀

  雑踏を逆のぼりたがる鮎がいた   野口裕

  表現の自由りんごをむく自由    岡村知昭

  奄美へとつゞく二等兵の笑顔    堺谷真人

 「カルメン」は大橋さんの姪御さんが跡を継いで三代目オーナーとなり、改装工事を経て夏に再オープンした。店内にはバーカウンターやワインセラーが設置され、お洒落なレストランに衣替えを果している。筆者と荊妻はここのパエリアやガスパッチョがことのほか好きで、何度か足を運んでいるが、大橋さん時代の料理人が引き続き厨房をあずかってくれているとのことで、往時と変わらぬ味を愉しめるのは嬉しいことである。

 しかし、大橋さんが盤踞した巣穴、文学の魔窟のような妖しい雰囲気を醸し出していた往時の「カルメン」の面影をそこに見ることは難しい。それにつけても大橋さんの口癖が懐かしく想い出される。

「堺谷さん、どうですか。そろそろ、句集出しませんか。お安くしときますよ」

 大橋さん。神戸は今日も元気です。

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり21 『池田澄子句集』  豊里友行

 『池田澄子句集』(1995年刊、現代俳句文庫―29・ふらんす堂)を再読する。

帯文を先ずは引いておく。


産声の途方に暮れていたるなり


〇解説より

池田さんの言葉は池田さんの実際の生活から生まれている。フィクションな句もあるだろうが、それもまた生活の濃厚な肉感によって支えられている。(略)正直、デリケートに、またユーモアを秘めて時代と向き合っていると思う。(谷川俊太郎)


気負いなく丁寧に今を俳句に詠う。

その率直ぶりに私たちは、共感を覚えた。

私は、まだ御会いしたことがないです。ですが、facebook友だちしていただいている俳人の池田澄子さん。


「池田澄子先生。」

「先生でなくサン付けで。」


とても口語俳句の人気作家とは思えない気さくさに俳句らしさよりも池田澄子らしさ全快な感じが魅力的だ。

とくにfacebookにアップされる写真と言葉に丁寧に生きる姿勢があふれていて魅了される。

珊瑚礁のひと欠片を丁寧に写した池田さんの写真がアップされていて魅了された。

沖縄の人の多くは、沖縄戦で骨さえ帰れない戦没者が沢山いるのだが、池田澄子さん自身も父を戦争で亡くしていたと「俳句四季」の連載を読んで知った。

この俳人の感性は、写真にも瑞々しく投影されていたのだ。

私もその池田澄子俳句への魂の共振という同時代性から自分自身の俳句らしさに影響を与えられ、自分なりに創意工夫をしながら私自身の俳句へと乗り越えて行きたい。

何故に池田澄子俳句は、みんなを魅了するのだろうか。

池田澄子俳句に問うてみた。


ピーマン切って中を明るくしてあげた


まるでエドワード・ウェストンのもっとも有名な写真 「Pepper No.30」のピーマンを連想してしまう。

エドワード・ウェストンの自然物の造形美を追求した写真シリーズの再現性は、「Pepper No.30」のピーマンがピーマンの存在を越えていくほど写真にリアリティーを獲得させている。

池田澄子俳句のピーマンは、そのピーマンの存在感にピーマンの空洞にして光を与える所作を俳句に盛り付けている。

池田澄子俳句の魅力は、今を切り取る観察眼ではないか。

若い世代の俳人たちにも絶大な影響を与えてきた。

その観察眼に裏打ちされた五感をフル稼働して丁寧に池田澄子俳句の人生が紡ぎ出されている。


定位置に夫と茶筒と守宮かな

これ以上待つと昼顔になってしまう

空腹を彼に知らるな芹の花

冬の虹あなたを好きなひとが好き


あなたを見つめる池田澄子俳句の恋の果実も絶品だ。

定位置に夫と茶筒と守宮が居ることの瞬間性も俳句の中に永遠に生き続けている。

待たされる女は池田澄子さんなのだろうか。「昼顔になってしまう」の心情の吐露も恋の行方の連作としても読者を興味深々にさせてしまう。

空腹の腹の蟲が泣き出すのを彼に知られまいとする女心の芹の花も可憐に風に揺れている。

凛と立つ冬の虹は、あなた。「あなたの好きなひとが好き」とストレートに女性の本音を云えるのも池田澄子俳句の恋の果実の斬新さで強烈なスパイスになっている。


青い薔薇あげましょ絶望はご自由に

じゃんけんで負けて蛍に生まれたの

十五夜の耳かきがあァ見つからぬ

行く先はどこだってよくさくらさくら

大丈夫と言ってしまいし霙かな


池田澄子俳句を会話形式にしてみる。

「青い薔薇をあげましょう」「絶望はご自由に」。

なんて映画のワンシーンが永遠性を持って俳句化されてしまう。

口語俳句の魅力が存分に味わえるのも池田澄子俳句の醍醐味。

ジャンケンで負けたから「螢に生まれたの」なんて言ってしまう。

そこには、生き残った者の人生の折々で一瞬性のジャンケンの勝敗に囚われていく。

そんなに軽く言っちゃっていいのかな。

たぶん池田澄子俳句は、何度も繰り返し人生に課せられた戦争の時代を自問しながら生きてきたのだろう。

そのことが俳句にも影を潜めているようだ。

十五夜の耳かきが見つからないと「あァ」と歓喜の溜息を零す。

「行く先は何処だってよく」なんて言わせてしまう、あなたは、桜~さくら~に紛れぬように~見つめていたのかもよ。

「大丈夫っ?」って霙(みぞれ)に問いかけてしまいたくなる池田澄子さんのモノに心を通わせる俳句の柔らかさが池田澄子俳句にはある。

率直に軽快に豪快に人生の生活空間を俳句に丁寧に盛り込む。

池田澄子調ともいうべき瑞々しい感性は、魅力的である。

俳句作法は、自分らしさの匙加減で日常の口語俳句を百にも千にも多様な配合の池田澄子らしさで俳句の読み手を魅了し続けている。

俳句観賞をしたいのだが、もうそれ事態が野暮な気さえする。

さぁ~!らっしゃい!らっしゃい!池田澄子の俳句の果実は、いかが。この感じ。楽しんでね。

大切な人生をあなたも自分らしい俳句で書き綴ってみませんか。


最後に共鳴句をいただきます。

卯の花腐しハンガーに兄を掛けておく

主婦の夏指が氷にくっついて

脱ぎたてのストッキングは浮こうとする

紫陽花やいつもここらで息きれる

お祭りの赤子まるごと手渡さる

腐(いた)みつつ桃のかたりをしていたり

煮凝に御座(おわ)さぬ母を封じたり

着ると暑く脱ぐと寒くてつくしんぼ

芒原握り拳の内あたたか

かまきりの孵り孵りて居なくなりぬ

いつしか人に生まれていたわ アナタも?

砂糖醤油しみて鰈はさびしかろ

揺籠ごと長女を持ってきて見せる

この国で生まれて産んで苔もみじ

うつぶせに覚めている我が翅なき羽化

太陽は古くて立派鳥の恋

英国Haiku便り [in Japan] (51)  小野裕三


 ロンドンの美術展に寄せたエッセイ

 ロンドンで開催のhaikuをテーマとした美術展に、俳句作品で参加したことは前回にも触れた。その美術展にあたってのエッセイを英国のオンライン雑誌に寄稿したので、和文の要約を採録する。

          #

 英語俳句の世界では「写真を見てそれに呼応する俳句を作ってください」と言われることがよくある。しかし、日本の俳句では、提示された言葉から俳句を作る季題・兼題というやり方が一般的だ。

 この展覧会では、まず「俳句の精神」をテーマに現代アート作家たちが作品を作り、その作品に呼応して詩人・俳人が俳句を作る、という制作過程が採られ、僕には新鮮かつ難しい作業となった。俳句は何かの具体性を通常は出発点とする。だから、季題・兼題という具体的な言葉を使った方法が機能する。ただし、その具体性の中に結果として微かな抽象性をまとわせる。それが俳句の美学だ。

 今回の作業はそれとは違った。現代アートの作品の多くは抽象的だ。その作品に向き合って俳句を作るには、まず作品の持つ抽象性を的確に掴み、次にその抽象性を俳句という具体性に落とし込む順番となる。つまり僕にとっては、具体性と抽象性の順序が通常とは逆になった。なので、非常に作りにくかった半面、結果としてできた俳句は抽象性の純度が非常に高いものになったと感じる。

 本展ではそのような俳句とアートとの出会いを愉しむことができたが、アートと俳句の関係は複雑な側面を持つ。特に、西洋のアートとの関係はそうだ。

 俳句史上に有名な「第二芸術論」は、西洋の崇高で壮大な芸術に比べれば、俳句は芸術と呼ぶに値しないとの主張であった。あるいは俳句史上の重要な契機となった「写生」「前衛俳句」といった概念も西洋美術由来でもたらされた。

 その一方で興味深いのは、ときに西洋の偉大な芸術家が俳句への関心を示すことだ。米国の音楽家ジョン・ケージには「haiku」と題された楽曲やアート作品があり、著作の中でこんな言及もする。

「山を心地よく照らす火は、遠くは照らさない。同様に、美しい形式は短い瞬間を照らすだけで充分だ。(中略)そう考えれば、ブライスが著書『俳句』で書いた〈芸術家の最高の責任は美を隠すことだ〉という言葉が納得できるだろう」

 俳句とアートとの関係は複雑に錯綜する。ひとつ言えるのは、美が成立するのが具体性と抽象性との関係やバランスの中だとすれば、その三つの相関は西洋美術と俳句では何かが違う。それゆえ、崇高な西洋美術に比べて俳句は価値がないと非難した日本の学者もいる一方で、西洋美術にはない美の考え方を俳句に見出して着目した西洋の芸術家もいた。それは、同じコインの両面なのだと思う。

※本美術展「SPLASH ! The Haiku Show」はロンドンのWhite Conduit Projects ギャラリーにて2023年10〜11月に開催された。

原文掲載のウェブサイト https://www.soanywaymagazine.org/issue-sixteen

(『海原』2024年1-2月号より転載)

■現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7  筑紫磐井

【評論執筆例(初期能村登四郎作品について):筑紫磐井】


6.初期身辺生活句(3)

 3カ月間の慟哭・悲傷の作品の後、登四郎の新しい作品が始まる。


咳了へてほのかにぞ来る人の息(24・1⓸)

凩と言へどそれぞれものの音(24・3⑨)

卒業生言なくをりて息ゆたか(24・4⑤)


 初期身辺生活句(1)で述べた作品が復活してくるのである。以前のこれと類似する句を掲げてみよう。


咳なかば何か言はれしききもらす(23・2➁)

うすうすとわが春愁に飢もあり(23・6⑥)

春靄に見つめてをりし灯を消さる

部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす(23・7➀)

たよりあふ目をみなもちて梅雨の家


 対象を的確に描こうとするのではなく、自分の内心を見詰める俳句であるのだ。初期身辺生活句(1)と(3)こそが登四郎の俳句にとって貴重なものとなる。『咀嚼音』の大半を占める教師俳句、『合掌部落』の大半を占める社会性俳句ではなく、少し悲しみを帯びた具象性を欠いた心象風景句である。

        *       *

 しかしこのような俳句がなぜ生まれてきたのかを考える必要がある。それは登四郎の内面的な成長なのだろうか。性急な結論を出さず、十分に吟味する必要がある。それは、当時の馬酔木の作品を見ることによって分かってくると思うからだ。当時の若い作家の作品には、このような登四郎とよく似た雰囲気の作品が多く見られるからである。


日を仰ぐ咳やつれせし面輪かも   竹中九十九樹 昭和23年

風荒れて春めくといふなにもなし  秋野弘    

春愁やむしろちまたの人むれに   岡野由次   

咳堪へて逢はねばならぬ人のまへ  大島民郎   

あてどなく急げる蝶に似たらずや  藤田湘子   昭和24年

諭されし身を片蔭に入れいそぐ   馬場移公子  

待つありて継ぐ息勁し麦は穂に   野川秋汀 

  

 (念のため言っておかなければならないのは、こうした作品と対照的な句も同時に詠まれていることである。個人個人の作風はそう単純ではない。それは戦前からの馬酔木の系譜を継ぐ、外光的な美しい句やリズミカルな句である。藤田湘子や林翔などはそうした傾向の句の方が多かったようである。


忽然と雪嶺うかぶ海のうへ      澤聡    昭和22年

雪白き奥嶺があげし二日月      藤田湘子 

ぬばたまの黒飴さはに良寛忌     能村登四郎 昭和23年

さふらんに沖かけて降る雪しばし   水谷晴光 

花烏賊やまばゆき魚は店になし    林翔   

茶摘み唄ひたすられや摘みゐつつ   藤田湘子 

虹の輪を噴煙荒れてつらぬける    沢田緑生 

夕潮の紺や紫紺や夏果てぬ      藤田湘子 

逝く汝に萬葉の露みなはしれ     能村登四郎

さつまいもあなめでたさや飽くまでは 林翔   

うぐひすや坂また坂に息みだれ    馬場移公子 昭和24年)


 話を心象的な俳句に戻して、こうした中で、馬酔木新人会をリードした一人の作家を見る事が出来る。それは秋野弘である。既に忘れ去られた作家であるが、当時、湘子や登四郎以上に独特の作風を形成し、新人会の中心となって、周囲の作家に影響を与えていたのである。


片蔭をいでてひとりの影生まる    昭和22年

光りつつ冬の笹原起伏あり      昭和23年

ひさびさに来れば銀座の時雨る日 

風荒れて春めくといふなにもなし 

蝶の息づきわれの息づき麦うるる 

青芝にわが子を愛すはばからず 

七月のかなかななけり雑司ヶ谷 

椎にほひ病むともなくてうすき胸   昭和24年

見えねども片蔭をゆくわれの翳 

夏ふかししづかな家を出でぬ日は

雪つもらむ誰もしづかにいそぎゐつ  昭和25年


 秋野は早々に俳句の世界から消えてしまった。ところで、興味深いことに、一種の熱病のように流行したこうした作風の伝搬は、若手作家に止まらなかった。中堅作家の中にもこうした心象風景が広がっていたのである。


蠅ひとつをりてあたりに誰もゐず  相馬遷子 昭和22年

手を洗ひをえて思ひぬ春めくと        昭和23年

人なかにうしろより来るひとの咳       

うぐひすの去りて漸くこころ急き       


 相馬遷子は戦前から活躍し、戦後も馬酔木を支える柱となった作家であったが、こうした作家にも影響を与えている。いや、主宰者である秋櫻子もこうした心象風景は色濃く染まった作品を詠むようになった。これが終戦直後の馬酔木俳句の一つの風景であったのである。


鰯雲こころの末の波消えて  秋櫻子 昭和25年 

萩の風何か急かるる何ならむ     



資料 能村登四郎初期作品データ

(制作年月の次の〇数字は馬酔木集の席次。*は下位作品)


刈田のなか池ありあをき空を置く(23・1*)

高槻のそのたかさよりしぐれくる

茶の咲くをうながす晴とちらす雨


咳なかば何か言はれしききもらす(23・2➁)

かがみゐし人のしごとの野火となる

潮くみてあす初漁の船きよむ

ななくさの蓬のみ萌え葛飾野


ぬばたまの黒飴さはに良寛忌(23・3➀)

雪といふほどもなきもの松過ぎに

雪天の西うす青し雪はれむ

佗助やおどろきもなく明けくるゝ


雪の戸にけはひして人のおとなへる(23・4⑧)

匆々ときさらぎゆくや風の中

蓋ものに春寒の香のさくら餅

松の間に初花となり咲きにけり


弥生尽追ひ着せられて羽織るもの(23・5➁)

人いゆく柴山かげや春まつり

さく花に忙しききのふ無為のけふ

さくら鯛秤りさだまるまでのいろ


うすうすとわが春愁に飢もあり(23・6⑥)

春靄に見つめてをりし灯を消さる

摘むものにことば欠かねど蕗生ひし

畑すみに萌えいですでに紫蘇のいろ


部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす(23・7➀)

たよりあふ目をみなもちて梅雨の家

梅雨の傘抱きて映画に酔ひがたき

藺の花の水にも空のくもりあり


老残のことつたはらず業平忌(23・8③)

黴の香のほのかなる書を手ばなしぬ

白麻の着くづれてゐて人したし

白靴のしろさをたもち得てもどる


露はしり我にあかるき今日きたる(23・9⑥)

かぼちや咲き貧しさがかく睦まする

かぼちやかく豊かになりて我貧し

病める子に蚊ばしらくづす風いでよ


長男急逝

逝く汝に萬葉の露みなはしれ(23・10①)

供華の中に汝がはぐくみしあさがほも

汝と父母と秋雲よりもへだつもの

かつて次男も失ひければ

秋虹のかなたに睦べ吾子ふたり


白露の朝にはじまる言葉佳し(23・11③)

白露や子を抱き幸のすべてなる

秋草やすがり得ざりし人の情

日とよぶにはかなきひかり萩にあり


露幾顆散り惜しむとも吾子はあらず(23・12⑤)

鶏頭やきはまるものに世の爛れ

朝寒や一事が俄破と起きさする

林翔に

貧しさも倖も秋の灯も似たる。


咳了へてほのかにぞ来る人の息(24・1⓸)

わが胸のいつふくらむや寒雀

枯芭蕉どんづまりより始めんと

炭は火となるにいつまで迷ひゐる


霜ばしら怒りは内に燻ゆらすな(24・2③)

手袋やこの手でなせし幾不善

またけふの暮色に染まる風邪の床

かけ上る眼に冬樫の枝岐る

  殿村兎糸子氏を新人会に迎えて

朱を刷きて寒最中なる返り花


凩と言へどそれぞれものの音(24・3⑨)

遠凧となりてあやふき影すわる

水洟を感じてよりの言弱る

冬百舌の裂帛にわが虚を衝かる


老梅を愛して物を卑しまず(24・4⑤)

新雪の今日を画して為す事あり

卒業生言なくをりて息ゆたか

風邪熱を押して言葉にかざりなき


●戦前作品

芦焚けば焔さかんとなりて寂し(14・2*)

枯山の星するどくてひとつなる(15・12*)

蒲の穂のしづかなれどもふれあひぬ(16・11*)

盆のものなべてはしろくただよへり

寝返ればふたつとなりぬ遠蛙(18・6*)

四五枚のいつも雪解のおくるる田(19・4*)

いつの間にみてゐし雲や春の雲(19・5*)

朝は子とゐし緑陰や人のゐる(19・8*)

ひとりゐる蘆刈に鳰もひとつゐる(20・1*)


●戦後作品(受験子・教師俳句)

受験子の髪刈りて来し目のうるみ(24・4特別作品)

しづかにも受験待つ子の咀嚼音

あぢさゐの褪せて教師に週めぐる(24・8⑦)

氷菓もつ生徒と逢へりともに避け(24・9⑫)

長靴に腰埋め野分の老教師(26・4馬酔木コンクール受賞)

教師やめしそのあと知らず芙蓉の実


澤田和弥句文集特集(3-1➀)第3編 澤田和弥論 1 津久井紀代の部

 ➀(澤田和弥一周忌に寄せて〉こころが折れた日 澤川和弥を悼む 津久井紀代[天為28年5月号]


 澤田和弥のこころが折れた日は革命前夜だったのか。

 改めて第一句集『革命前夜』を読む。

 この『革命前夜』を書いた時、すでに和弥は「こころが折れる日」を予感していた。

 理由はいくつも掲げることが出来る。        

 句集名『革命前夜』の命の文字だけ大きく傾いて書かれている。著者名澤田和弥の文字の上にはなぜ血の跡が飛び散っているのか、疑問が残る。

 見開きから静かに目次に眼を移す。

 青竜、朱雀、白虎、玄武、とある。これは天の四方を司る四神である。つまり天の隅々の神様への挨拶と取れる。

 さらに句集あとがきに眼を移すと、そこには「ありがとう」「ありがとう」の文字が多いことが気になる。

 知人友人には「僕の人生は君たちのおかげで色彩を得ることができたよ」と。「こんな弱い僕をいつも、どんなときでも、あたたかく見守ってくれる両親、兄夫婦に心から、最大級の御礼を申し上げます。本当にありがとう。あなた方がいなければ、私はここまで生きてこられなかった。ありがとう。本当にありがとう。」と締めくくる。

 三十五年間という人生の挨拶を『革命前夜』の日にすでに行っていると取っても不思議はない。

 なぜ革命前夜に心が折れたのか。彼の言い知れぬ「やさしさ」ゆえであった。

 三十五年に凝縮された澤田和弥の俳句に傾ける情熱を紐解く。


 『革命前夜』の最初と最後の句を見る。


  故郷の桜の香なり母の文

  ストーブ消し母の一日終はりけり


である。

 これは三十五年問常に母の匂いを感じていたのである。言い換えれば母は常に和弥とともにいたのである。ストーブという日常をもってくることにより和弥もまた、母と共にあったのである。

 更に見ていくと晴よりも褻のものに目を留めているのである。


  壊れてゐたる少年の風車

  空缶に空きたる分の春愁

  このなかにちりめんじやこの孤児がをり

  風船を割る次を割る次を割る           

  蛇穴を出で馬鹿馬鹿しくなりけり           

  箸割つて箸の間を春の風

  卒業や壁は画鋲の跡ばかり


 「青竜」の項より挙げた。

 ここに見られる「虚無感」は「あきらめ」とも取れる。少年の「風車」は和弥にとって、「壊れてゐた」のだ。「空缶」と「春愁」とのあいだに生じる虚しさにはまだ救われる余地はあった。

 たくさんのちりめんじやこの中の一つは、世の中から取り残されたと感じる「われ」ととるべきものであろうか。

 なぜ風船を割らなければならなかったのか。その答えが「割る」を三つかさねたところにある。そんな自分が馬鹿川鹿しくなった時の虚無感は、箸を割った時の間から更に感じ取ることが出来る。晴れやかであるはずの「卒業」は硬質な「画鋲の跡」ばかりだったのか。 「革命」としての「詩」としてはあまりにもさみしい。                  

                             

  咲かぬといふ手もあつただらうに遅桜 

  春愁のメールに百度打つわが名

  陽春や路傍の石が全て笑ふ

  椿拾ふ死を想ふこと多き夜は

  おばあが来たり陽炎より来たり


 和弥に何かあったのか、などと詮索することは無意味だ。

 ここに経験したであろう「挫折感」は、さらに和弥の「革命」へとしての「詩」を深めたのか疑問が残る。和弥にとって「おばあ」は母親にはない「ともしび」であったのだ。シルエットが確としない「陽炎」の中の「おばあ」は和弥に取って最後の救いであった。


  革命が死語となりゆく修司の忌

  海色のインクで記す修司の忌

  修司忌や鉛筆書きのラブレター

  船長の遺品は義眼修司の忌

  廃屋に王様の椅子修司の忌

  折りたたむ白きパレット修司の忌

  修司忌へ修司の声を聞きにゆく


 「修司忌」より挙げた。

 『革命前夜』がここから始まったとすると「革命」は青春に満ちていたはず。「海色のインク」「鉛筆書きのラブレター」「王様の椅子」「白きパレット」、ここから青春の革命は始まるはずであった。しかし幾度の挫折が和弥のあまりの「やさしさ」ゆえにこころが「折れて」しまったのだ。


  若葉風死もまた文学でありぬ

  或る人に嫌はれてゐる聖五月

  とびおりてしまひたき夜のソーダ水

  東京に見捨てられたる日のバナナ

  太宰忌やぴょんぴょんとホッピング

  プール嫌ひ先生嫌ひみんな嫌ひ

  蟬たちのこなごなといふ終はり方


 「朱雀」の項より挙げた。

 ここにきて和弥のこころはすでに折れている。「死もまた文学」と突き放す。「或る人に嫌はれてゐる」という感覚は、すでに和弥のこころを離れて独り歩きを勝手にしている。

 「とびおりてしまひた」いという叫び、和弥を救えなかったのか。すでに「見捨てられた」と言い切る。傾倒した太宰を「ぴょんぴょんとホッピング」と書いた。ここにはすでに心が折れきっている。「嫌ひ」をこれほどはげしく重ねたことはすでに世の中をあきらめていると取れる。だから蟬の死を「こなごなといふ終はり方」と書いた。この時点で救える余地はなかったのかと考えるのは当然であろう。


  秋めくやいつもきれいな霊柩車


 「白虎」より挙げた。

 ここではすでに「霊柩車」を美化している。恐ろしいと思う。


  手袋に手の入りしまま落ちてゐる

  冬めくや母がきちんと老いてゆく

  外套よ何も言はずに逝くんじやねえ

  マフラーは明るく生きるために巻く


 「玄武」の項より挙げた。

 ここでは「母がきちんと老いて」いることを確かめている。

 「外套よ何も言はずに逝くんじやねえ」は自分をすでに他者として客観視している。

 和弥は「真の革命とは何か」を突き詰めた最後に、「死」という結論を自らに出した。一本のマフラーだけが彼の首を離れぽつねんと取り残された。


『革命前夜』より 澤田和弥自選十句


  薄氷や飛天降り立つ塔の上

  佐保姫は二件隣の眼鏡の子

  革命が死語となりゆく修司の忌

  廃屋に王様の椅子修司の忌

  太宰忌やぴょんぴょんとホッピング

  プール嫌ひ先生嫌ひみんな嫌ひ

  秋めくやいつもきれいな霊柩車

  蜘蛛の囲に蜘蛛の屍水の秋

  寒晴や人体模型男前

  ストーブ消し母の一日終はりけり




澤田和弥句文集特集(3-1➁)第3編 澤田和弥論 1 津久井紀代の部

 ➁澤田和弥は復活した  津久井紀代


 一年前の『天晴』夏号で澤田和弥追悼特集を組んだところ大きな反響があった。これは五月修司忌に合わせたものである。修司の忌は即ち澤田和弥の忌日でもあった。『豈』代表筑紫磐井に稿を依頼したところ「澤田和弥は復活する」と題して澤田論を展開してくれた。それ以前から澤田和弥のただ一つの句集である『革命前夜』を評価していたことを知っていたからである。『天晴』夏号の発刊が六月十日。そのあと筑紫は「俳壇」六月号、「俳句四季」六月号とつぎつぎと澤田に触れ、この一年さまざまなところで澤田論を展開してきた。また自らのブログに「澤田和弥論集成」として、十三回にわたって澤田和弥論を展開した。直近では二〇二〇年一月十四日「連載 澤田和弥」(第六回―七)において『若狭』に連載された「俳句実験室 寺山修司」に触れ、「澤田の最後の思い出は寺山にあった」という論を展開。澤田の連載は四回で終わったこと、体調を崩し、文章を書く気力は蘇らなかったようだ、と結論づけている。『若狭』に掲載された最後の作品として、


 冴返るほどに逢ひたくなりにけり

 菜の花のひかりは雨となりにけり

 白梅を抱え諦めている瞼かな


があげられている。この作の数か月あと澤田は自決した。ここには人間としての自分を放棄し、諦めだけが記されている。

 特記すべきは革命前夜のあとがきである。「これが僕です。僕のすべてです。澤田和弥です。」と言った言葉をもとに筑紫はつぎのように分析している。

 「これ」以後の澤田和弥 ― 新しい「これ」も我々は完璧に語ることが出来る。なぜならば新しい「これ」以後もう作品を作ることがないからだ、と結論づける。つまり澤田和弥を伝説として語ることが出来るようになったのである。

 筑紫が『天晴』の紙面で、「澤田和弥は復活する」と宣言して一年。筑紫磐井は見事に伝説の人として澤田和弥を復活させたのである。

 澤田和弥が俳壇で知られるようになったのは第一句集『革命前夜』を上梓してからだ。師である有馬朗人は「新風を引きおこす」という言葉を使って期待は大であったがそれは見事に裏切られた。

 私は筑紫が「連載澤田和弥論集成」のなかでおもしろいことを言っていることに注目した。『革命前夜』は決して全共闘世代の革命とは違うようだ。どこか「革命ごっこ」が漂う、と言っていることだ。全く同感なのだ。

 澤田は中学生の頃、自宅のテレビから流れる寺山修司特集に大きく衝撃を受けた。修司の「とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩」に衝撃を受けたのである。澤田は「中学三年間のいじめに耐えてきた力の源に、この歌が一助をなしていたことは確かに否めない」と述べている。澤田は「革命が死語となりゆく修司の忌」と詠んだ。澤田は修司に憧れ修司にならんと必死でもがいたが革命という言葉は澤田にとって死語になったのである。

 先に述べた筑紫の言葉に戻ろう。筑紫の言う「革命ごっこ」という言葉が身に沁みるのである。なぜならば澤田は「雪割や死にたき人がここにもゐる」と述べ、「春昼は春の昼なり嗚呼死にたし」といい、「生きるはずもなきわたしが蟻の中」「こほろぎ鳴け此岸はつまらなたった」と述べ、自らを「生くる子が首吊る子へとなりし冬」と記している。私は筑紫に「革命ごっこ」と言わしめたのは澤田の生き方が「甘え」に起因しているからだと考える。澤田は文学においても「死」という言葉は散見するが「生きる」という言葉は見当たらない。澤田にはいじめられても挫折しても常に帰る場所があったということでないだろうか澤田自身平成三年九月号『天為』において、家は良い意味でも悪い意味でも守られ場所であった」と言い、家の外は戦場あった」と述べている。澤田の死はいじめられっ子だったからではない、生きることへの「甘え」が澤田を死に至らしめた要因であると結論付けたい。


澤田和弥句文集特集(3-1➂)第3編 澤田和弥論 1津久井紀代の部

 ➂澤田和弥のこと         津久井紀代


 この度、『研究会の進め方』が発端となり、このまますでに忘れられていた和弥に光を当てていただいた。

 私は澤田との接点はなく、2-3度会う機会があったが、印象はうすく、確としない姿がぼんやりとあるのみである。

 よって、私は『天為』の中の澤田の文学に触れることが唯一の接点であった。

 しかし、澤田の句は何か気になる、何かを常に訴えているようであった。通常では「自分」は一句のうらがわにあるのが常であると思っていたが、澤田はその常識を破ったのである。「自分」をつねに文学として吐き続けたのが澤田和弥ではなかったのか。次の句を見れば明らかだ。


春愁や溢るるものはみな崩れ

魂漏らさぬように口閉づ花疲れ

生きてゐることに怯えて立夏かな

生も死もどつちょつかずの夏に入る


 『天為』平成24年作品コンクールの作品の中から挙げた。

 生きていることに怯えている様子が窺える。

 私は作品としての澤田がずーと気になっていたが、『天為』の中から澤田の作品に触れる人は現れなかった。

 このままで終わらせたくないと思い、一周忌の五月に(彼が自殺した日)に「こころが折れた日」と題して『革命前夜』の論を展開し、『天為』誌上に発表した。また、例会で「修司の忌即ち澤田和弥の忌」を発表した時、初めて有馬先生が「いい文章を書いてくれてありがとう。惜しい人を亡くした」とみんなの前で話されたのが唯一のすくいであった。


 生きていることに怯え、どっちつかずの生と死の間でもがき続けたのか、あらためて検証してみた。

 彼の根底に「いじめられた」ことがあった。文学の中で必死にもがいたが、そこから抜けだすことが出来ないまま自らの命を自分の手で断った。和弥は次のように記している。

 「中学に入ってとにかくいじめられた。同級生、後輩、教師、私の卒業アルバムは落書きだらけである。・・・いじめられることはそれほどまでに苦しい。死という選択肢を私は敢えて否定しない。社会にでてからもいじめに遭った。」

 彼は文学として心のうちを吐き出さなければ生きていけなかった。必死にもがいた。筑紫氏の言うところの「「新撰21」の影響をうけつつ独自の道を模索しつづけたようである」の発言には少し疑問を禁じえないが、「様々な媒体に挑戦した」ことは事実で、すべてのことが中途半端に終わっていることが、「死」への道を加速したのであろう。筑紫氏の指摘の「その行く先は茫漠としていた。若い人らしい行方のなさだ」には同感する。

 澤田の寺山への傾倒が見えて来たので記しておく。

 筑紫氏の「澤田は自らも寺山修司への傾倒を語り、句集にもその痕跡を残したがしかし作品として寺山の傾向が強かったとはあまり感じられない、・・寺山の系譜を確認し続けたといった方がよいかもしれない」という発言に答えたものである。

 澤田は『天為』のコンクール随想の中に次のように書いている。

 「最晩年の二年間を特集した番組が片田舎の我が家のテレビに流されたのは私が中学生の頃のこと。寺山の死からすでに十一年の歳月が流れていた。ぼんやりとテレビを見ていた私は不意に我を忘れた、亡我。寺山と出会った。それは両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっ子にはあまりにも衝撃的であった。いや。衝撃そのものだった。早速、地元の本屋へ行った。『寺山修司青春集』。生まれて初めて、血の流れる生きた「詩」と対面した。

 とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩

 私の詩を汚すものは憎きいじめっ子たち。中学三年間のいじめに耐えてきた力の源に、この歌が一助をなしていたことは確かに否めない。中学の時の「想像という名の現実」。いつも寺山に教えられているばかりだ。彼に憧れながら、私は彼にはなれない。一体これから先、何ができるのだろうか。俳句はそれを教えてくれるのか。わからないことが多すぎる」。

 両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっこ。寺山に救いを求めたが、「彼に憧れながら、私は彼になれない」と自ら結論を出している。

 生と死の隣り合わせの人生の中に寺山に一条のひかりをよすがに、文学の中に自らを吐き出すことに拠って、和弥はかろうじて35歳の命を全うした、といえる。

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】5 無題 矢野玲奈

  豊里友行は沖縄在住の俳人であり写真家である。 

 豊里は写真で今を表現するからだろう。俳句では過去や未来を詠むことを意識している作家である。戦争を伝えるには今を写すだけでは困難であり、過去の出来事を題材に詠んだり未来もしくは非現実的な状況を詠んだりすることが必要だと感じているのだろう。

万歳の手しだいに鶏頭の海

  万歳は単純な身振りである。声に合わせて両手を上下するだけだ。同じ瞬間に同じ身振りを皆が一斉にすることで、そこに自分自身が参加している実感を得ることができる、謂わば共同体の一体感をもたらすものである。万歳は単純な身振りであるがゆえ、この一体感を強烈なものにする。

 掲句を一読すると出征を見送る人々の万歳の手が無数の鶏頭に変わった場面へ切り替わるようなイメージがわく。

 万歳で送り出したその場所が建物など残っていない鶏頭だけの海になったのである。鶏頭の炎のような鮮やかな花色が胸に迫る。 

 豊里が鶏頭の写真を提示したら、この句をきっと思い出すだろう。 今後も写真と俳句の両輪でメッセージを打ち出し続けていただきたい。

(俳人)