2025年7月11日金曜日

第250号

 次回更新 7/25


■新現代評論研究

新現代評論研究(第8回)各論:眞矢ひろみ、後藤よしみ、村山恭子、佐藤りえ、横井理恵 》読む

現代評論研究:第11回総論・攝津幸彦2 執筆者:北村虻曳・北川美美 》読む

現代評論研究:第11回各論―テーマ:「秋」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第3回:『天狼』創刊に際し/米田恵子 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年歳旦帖・春興帖
第一(4/25)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖
第二(5/9)ふけとしこ・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(5/23)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/27)曾根毅・浅沼 璞・なつはづき
第五(7/5)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第六(7/11)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム

令和六年冬興帖
第一(4/5)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖・ふけとしこ
第二(4/11)鷲津誠次・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(4/25)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/13)曾根毅・浅沼璞・なつはづき・下坂速穂
第五(6/21)岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第六(6/27)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第七(7/5)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結


令和六年秋興帖 補遺(6/21)中村猛虎

■ 第49回皐月句会(2024/5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第20号 発行※NEW!

■連載

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり32 赤野四羽『夜蟻』 》読む

英国Haiku便り[in Japan](54) 小野裕三 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(59) ふけとしこ 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』 栗林浩 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

7月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …




■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

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佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

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麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【新連載】新現代評論研究:各論(第8回):眞矢ひろみ、後藤よしみ、村山恭子、佐藤りえ、横井理恵

 ★―2橋閒石の句 7/眞矢ひろみ

 閒石にとって、俳諧とは文学文芸のジャンルや形式の名称ではなく、「身の処し方」という心境の深さの次元で体得する心持ちを指す言葉であった。即ち「いっさいに遊ぶこと―遊びとは囚われない心ざま」(*1)「『雲を踏む確かさ』に明け暮れる軽み」(*2)に他ならない。

 壮年期から晩年期にあたる1960年代を中心に、閒石は二つの対立する概念、虚と実、仮面と素面(自我と反自我)、具象と象徴、個性と非個性といった対概念に関して、書籍やエッセイなどで繰り返し取り上げ、考察している。古典から芭蕉をはじめ心敬や世阿弥、近現代では井泉水、宇野浩二や三島由紀夫、さらに英文学からは専門であるC.ラム、W.イェイツ等々の多方面にわたる著述等を引きつつ、これら対概念が融け合うような次元における客体、そのような「物」に行きつこうとする志向に深く共鳴する。そして、そのための環境として、自己意識を超えた無我、忘我の境地、芭蕉の言葉とされる「無心所著」の意義を強調する。それは「虚であれ実であれ、おのが意識に囚われて粘着する状態から解放されたおもむき」であり、文学芸術において創造する力の源泉としている(*3)。一方、当時の閒石の句は、強い自我意識と重く硬直化した表現が相まって、一般的には評価も低いことは周知の通り。逆に言えば、だからこそ自らの課題として、粘着する自我や物から脱却し、虚実が融合する場に遊ぶこと、即ち去来が言及した「俳諧をもって身を行う」(*4)ことを目指したのであろう。

 なお、このような詠み手の無我の境地や俳句性等への言及は、平畑静塔による「俳人格」に関する一連の論説を彷彿とさせる(*5)。しかし閒石は「俳人格」論を「裏返し的姿態が習癖となって類型をうみ、批判精神の稀薄亡失に陥った末期現象」として厳しく批判する(*6)。静塔が「流れ行く大根の葉の早さかな」といった句に、虚子の「空白精神」「一種の放心状態」を認めて理想的俳人格としたことに納得しない。最晩年の閒石は、良寛のような「俳人格」に到達したようにも見えるが、人格を持ち出すまでもなく、俳諧の心持ちで処したとする方が本人の意に沿うものと言える。閒石の「反写生」という立場、信念は終生変わることは無かった(*7)。

 柳立つうしろの柳笑いけり      「虚」 昭60年

 西田幾多郎のごとく冬帽掛かりいたり 

 はるかなる冬木と夢に遊びけり

 揚句では、虚実融合の世界が展開する。柳、冬帽、冬木は虚とも実とも、象徴とも具象ともとれる「物」であり、「囚われない心」によって捉えられる。前述の、対概念が溶け合うような次元における客体とも言える。文頭の「雲を踏む確かさ」とは、多義性の曖昧さ、浮遊性の中に、虚実といった対概念が並び立ち一体であることを捉えた言葉とも言えよう。なお、西田幾多郎の句に関しては、閒石にしては珍しく自解を残しており(*8)、「掛かりたり」ではなく「掛かりいたり」とした理由については「冬帽の生ける存在感を込め、時空の深みを暗示したかった」とし、「西田さんを憶うとき、いつも決って、古びた冬の中折帽が化身のように現れる」と同郷(金沢)の哲学者への思いを記している。

 短日のここにも釘を打てと云う    「橋閒石俳句選集」 昭62年

 掛詞とけて柳の芽ぐみけり

 経と緯の交わるところ水すまし

 遊びの境地は、更に同じ舞台に並び立つことの無かった異次元、異世界の言葉、物、概念等が融合する世界へと広がる。閒石が20年以上を要して到達した句境、遠い昔も現在も、また眼前の実景も異世界の幻影も綯交ぜとなった世界である。閒石自身は「かねてから願っている忘我の境にはなお暫く間がある」としながらも、「少し気持が軽くなったのは確か」と、珍しく自信をのぞかせる(*9)。

 ラテン語の風格にして夏蜜柑   「微光」平4年

 噴水にはらわたの無き明るさよ

 銀河系のとある酒場のヒアシンス

 歯がひとつ抜けたる秋の笑いかな  「微光」以後 『橋閒石全句集』平15年

 寒鴉一羽となりて透き徹る

 「和栲」(昭58年)の後、最後の句集となる「微光」までの八十路の約十年、閒石は教職を辞して俳諧と俳句の活動に専念し、最も自由自在の最晩年を迎える。「和栲」に見られる滑稽、諧謔、ずらし、ユーモア等々は、耕衣の句ほどでは無いにしても、いくぶん卑俗性やこれに伴うエロチシズム、グロテスクがあるように感じられるが、そのような色合いも徐々に薄らぎ、可笑しみは残したまま、単純清澄で自在の境地に遊ぶ句が多くなる。閒石自身も「しばしば、身も句も共々に、不思議としずかな明るさの、幽かなおもむきを楽しむ折もある」としている(*10)。

 揚句はそのような傾向を示す句として抄出した。中でも、著名なヒアシンスの句は、酒場の場所が地球外であればSF的な虚実綯交ぜの句とも言えるが、日本のどこにでもある典型的な居酒屋であれば、事実を並べたてた「写生句」「ただごと俳句」としても読めてしまう。もちろん、銀河系とヒアシンスを並置したところに誇張・面白味があり、読み手はグーグルアースで宇宙からゴルフボールを覗き込むように、大宇宙→銀河系→酒場→ヒアシンスとズームの視覚的なドライブ感を味わえることが、この句の意義と言ってよいだろう。

 「微光」出版後、3か月後に閒石は鬼籍に入る。「白燕」に掲載の随筆「俳諧余談」の97回原稿を脱稿した直後のことである。その稿では、エッセイの要諦について「何物にも何事にも煩わされない自由な在り方を説くモンテーニュの言葉に戻らねばなるまい。まことの〈遊びごころ〉はそこに芽生える。〈道草を食う〉愉しさを知らなくては、この文芸に関わる資格がない」とする(*11)。俳句、俳諧と同様の内容に驚かされる。閒石が生涯を通じて、古今東西の文学、俳句、俳諧、随筆等々に携わり到達した、作者(詠み手)側の結論・実感ということができる。

(了) 

*1 あとがき「和栲」昭58年

*2「俳諧の人」『俳諧余談』平21年

*3「無心所著のこと」「仮面と素面」ほか 『泡沫記』南柯書局 昭55年

「ラムの思考様式」 神戸商科大学経済研究所 昭38年

 なお、同書において、閒石は「虚実の場」という章を設けてC.ラムの思想について「(ラムの)理想は忘我の境地にあった。相反する二物の対比から出発し、(中略)全一の調和を図り、さらに時間空間の場における虚実の問題にまで発展して、究極の真理を無我に見出した」と結んでいる。

*4 「俳諧の人」『俳諧余談』において、「俳諧をもって文をかくは俳諧文。歌を詠むのは俳諧歌也。身を行はば俳諧の人也。」『去来抄』を引用している。

*5「表現と人格の高度な結合」平畑静塔 『「俳句」百年の問い』夏石番矢編 講談社学術文庫 平5年

*6「俳句性について」『琴座』10月号 昭36年 再掲『俳諧余談』平21年

*7 閒石の俳句観を如実に示したものとして、参考までに次の記述を引く。

 「俳句の如き短詩型に於いて、専ら写生による印象明瞭を理想とするのは謬りであって、暗示的な象徴主義こそすべての詩の本質であり、殊に短い詩に於いてはその生命とも言うべきもの」「狭い詩型の中では活現法によって描く事物の複雑精緻さには限度がありますが、暗示法は叙情余韻を特長としますから、何処迄も奥深く進み得る余地をもってゐます」(俳句史大要 関書院 昭27年)

 「漠然と俳句性と考えているものは、すべて比較的濃い色調といった程度のもので、独自性ではない」「あるが如くに考えられてきたいわゆる俳句性が、つきつめてみれば幻覚にすぎない(略)十七音という骨組みしかない」(「俳句性について」『琴座』昭36年10月号 再掲『俳諧余談』平21年)

*8 「つれづれなるままに」『俳諧余談』平21年

*9 あとがき「橋閒石俳句選集」昭62年

*10 あとがき「微光」平4年

*11「九七」『俳諧余談』平21年


★―3「高柳重信の風景 」4  後藤よしみ

四 戦前期の文学と社会思潮

 金魚玉明日は歴史の試験かな  『前略十年』  

 この句は中学二年の夏休み前の期末試験を詠んだものになるが、 歴史の教師は久保田収といい、重信入学の年に着任している。彼は東京帝国大学の平泉澄(皇国史観の歴史家)に学んだ神道史学者であり、重信に色々な面で影響を与えたようである。 

 〈その新任の教師の教えは、それ自体が一つの意志を持っているに等しい大きな歴史的な時間の流れと、それに確乎たる志を抱いて意識的に関わろうとした人物の事績を、あたかも我がことのごとく痛感しながら学べというものであった。(略)さまざまな感情の動きなどを想定しながら、いっそう我が身に引き寄せて判断してみることが、いつしか私の習慣のごとくになってきた。(略)事実、いわゆる新興俳句運動も、また戦後俳句の諸相も、そして、それに微妙に反応した各時代の俳壇の動きも、あるいは個々の俳人の言動も、このような考察を試みることによって、はじめて明らかとなる問題が少なくないのであった〉。(「『蕗子』の周辺」『高柳重信全集Ⅲ』) 

 彼のその授業はいわば感情移入のフィーリングの歴史教育であったようだ。  

〈いつも私は楠木正成公や新田義貞公北畠顕家公などの率いる軍勢の中にいて、(略)しかも、なぜか私は、死に直面する場面が好きであった。ただ見事に敗れることのみを第一義として湊川に赴いた楠木正成公が、(略)一族ともども七生報国を誓って薨去されたとき、私も同じ誓いの下に死んでゆくのであった〉。(「『蕗子』の周辺」『前出』)  

 楠木正成像は、「朝敵」から「忠臣」へと時代とともに変わる。そこでは、「七生滅敵」を「七生尽忠」とし、命をささげることが求められている。戦時下、若者は楠木正成の思想を拠り所として決死の覚悟を固めようとしていたという(谷田博幸『国家はいかに「楠木正成」を作ったか』)。 戦前からの重信の蔵書のなかに、吉田松陰、藤田東湖、平泉澄の書と『神皇正統記』などがあったという。また、加藤郁乎は、重信が「神典皇学にたえざる敬意愛着をよせつづけた」と次のように記している。 

〈高柳重信は独自の皇道観を持っていた。(略)俳句の話が大方出尽くして対酌酣となると憂国の志情鬱勃と湧出するもののごとく、大楠公の忠義から南北朝へと話頭転回、吉野朝の悲哀をひとりで引き受けたかのように嗚咽した。その皇道精神が戦前戦中に養われたのは論を俟たない〉。(「皇道と俳道」『高柳重信読本』) 

 ここでの皇道とは、「皇神の道」の簡約語であり、「皇神の道」は「皇神の道義」と同義とされる。この「皇神の道義」の意味は、「君臣の大義」、即ち現人神たる天皇とそれに仕える臣民の「君臣の道」を指しているという(河田和子『戦時下の文学と〈日本的なもの〉』)。郁也の言うところの独自の皇道観が何であるかは不明であるが、推測すれば重信の祖先の大宮某に行き当たる。大宮某は伊勢の守将であり、一族は南北朝時代に南朝側に加わっていたという。もう一つとしては、重信の後南朝への愛着心をあげることができるだろう。その皇統は、大宮伯爵の実態としての血統と大宮某を見なす重信には尊いものになっていると思われる。これらの影響が作品にもあらわれているものとしては次の上段の句をあげることができよう。

 

 天に代りて          目醒め  

 死にに行く    *    がちなる  

 わが名            わが尽忠は 

 橘周太かな         俳句かな     『山海集』  

  

 日露戦争時の軍神「橘中佐」の歌詞は、「(略)霧立ちこむる高梁の/中なる塹壕声絶えて/目醒めがちなる敵兵の/肝おどろかす秋の風」である。この歌を「本歌取り」し、俳句への献身の心情を発露したのが下段の句である。  重信に横たわる日本的なるものの背景の一つはこれらにもあると言えよう。 

 その一方では、フランス文学、そして象徴主義とも出会っている。「少年期から青年期にかけての私に、いちばん大きな影響を与えたものは、たぶん、辰野隆・鈴木信太郎・渡辺一夫などを中心とする主としてフランス文学の古典に関する本であった」と重信は回想している(「模糊たる来し方」『高柳重信全集Ⅱ』)。また、大学時代には、『ヴァレリイ全集』と共に『リラダン全集』を予約、購読しはじめている。重信はフランス語に無縁であったため、翻訳を読み比べるなどにより作品の読み方を学んでいる。これらのフランス象徴派の詩人からの言語体験は後の俳句詩論形成の基になっていると言ってよいだろう。 

〈フランス語は習得できなかったが、ボードレール、ランボー、ド・リラダン、ヴァレリーなどのフランス文学に翻訳を通じて傾倒していた〉。(夏石番矢「高柳重信学校」『俳句縦横無尽』) 

 渡辺一夫らは、いずれもリラダンの翻訳を手掛けており、当時のリラダン流布の立役者でもあった。リラダンの一九世紀末の貴族主義的、耽美的なものに重信は長く影響されているが、その孤高反俗的なリラダンの美学は、戦時下では「非国民」として扱われるようなものであったと言える。 そして、マラルメはもう一方の重信の敬愛する詩人である。マラルメはポーの詩論である「構成の哲学」に影響を受け、意図的に詩的効果を追求していく方法を継承し、この詩論は重信の『蕗子』や『伯爵領』などの作品に影響を与えていると目されるものである。このフランス文学との出会いが、日本的なるものとともに戦時下の思想形成の源流として敗戦後の方向を重信に示してくれるものになる。


★―7:藤木清子を読む2 / 村山 恭子

2 昭和7年

 幼名を呼び合ひながら十夜婆     蘆火3号(昭和7年1月号)

 十夜は陰暦の十月五日夜から十五日朝まで、浄土宗の寺で十昼夜にわたって行う念仏法要。多くの信徒が参詣します。高齢の女性〈十夜婆〉は、幼少の頃から付き合いのある人々とお互いの〈幼名〉で呼び合いながら、法要に参加しています。長年にわたる信仰心とともに、お互いの成長を見守り合ってきた姿が尊くもあります。

   季語=十夜婆(冬)

 夜学子の道一ぱいに戻りけり     同

 夜学を終えた子らが、道一ぱいに広がりながら通り行きます。昼間は工場などで働き、夜は勉学に勤しみました。一日の終わりを仲間と共に、仕事や勉学の話をしながら、がやがやと行く子もいれば、疲労困憊し黙々と歩く子もいます。〈戻りけり〉から寮へ一斉に帰る様子でしょうか。慈愛に満ちた眼で、夜学子らを見守ります。

   季語=夜学子(秋)

 天井へわが影およぶ夜なべかな     蘆火4号(昭和7年2月号)

 秋の長い夜を働き続けています。手元の光を頼りに作業をしており、その者の影を天井まで大きく立ち上らせます。熱心になればなるほど、光源へ身体が近づき影は一層広がります。

その影は己の分身で、恐ろしげでもあります。光の「白」と影の「黒」が印象的です。

   季語=夜なべ(秋)

 まち針を数へて夜なべ仕舞せり     蘆火5号(昭和7年3月号)

 今日も一日が終わりました。夜なべの針仕事を仕舞にしましょう。まち針を何処かへ落としていないか入念に数えます。最初と最後の数が合い、ほっと安堵のため息がこぼれてきます。明日もまた夜なべをするのでしょう。つつましやかで静かな暮らしが見えてきます。

   季語=夜なべ(秋)

 年寄のたえいるばかり風邪のせき     同

 風邪のせきに苦しんでいます。医者にかかって薬を飲めるとよいのですが、手持ちを考えると心細く、何とかこのまま自然に治るよう耐えています。年齢を重ねると治りも遅くなり、

日延べが薬でもあるようです。

   季語=風邪(冬)


★―5清水径子論6/ 佐藤りえ

 春星が目薬パンを買ひに出て  (昭和41)

 引き続き「鶸」より。翌朝の朝食用だろうか、パンを買いに外へ出た。仰ぎ見た空にある星、その光が自分にとっての目薬なのだという。21世紀の今でもなく、深夜にパンを売る店もあるまいし、ひょっとして早朝、焼きたてのパンを買いに出た情景なのかもしれない。この春星はうしかい座のアークトゥルスか、おとめ座のスピカだろうか。径子はこの頃俳人協会事務局で事務職に就いている。遠い空にわずかに輝く光が自分を癒やすものであるという感覚は、寂しくもありつつ、「天狼」の師たる山口誓子の影響がうかがえる。

 投函の後ぞ寒星夥し  山口誓子『晩刻』

 寒星を見に出かならず充ち帰る

 名ある星春星としてみなうるむ

 誓子には星の文人の異名を持つ天文民俗学者・野尻抱影との共著『星戀』もあり、「オリオンが枯木にひかる宵のほど」「ペガサスの大方形や露の上」「木星や娼婦泳ぎし海の上」「スバルけぶらせて寒星すべて揃ふ」など、星、星座の名前を直接詠み込んだ句も多い。星を単に夜空にちり輝く舞台装置としてでなく、動かぬ遠いものながら、「名を知りて後星の春立ちにけり」などとも詠み、愛着を感じ、心を寄せていた。

 「氷海」はそもそも「天狼」東京句会の機関誌として発足した。創刊号は誓子の俳話「単一化について」にはじまる。俳句は素材となる情熱、感情を技術によって単一化してこそ成り立つものである、という主旨で、若い作家の「単一化されざる情熱」「複雑極まりなき生への情熱」こそが俳句である、という考えへの苦言を呈している。会員林屋清次郎、径子の弟・清水野笛とが「誓子俳句研究」の連載を開始、「凍港」から作品を繙いている。「氷海」会員たちはそれぞれ誓子の影響下にあり、誓子から学び、摂取しようと出立したことが明らかである。

 そうした中で、径子は誓子の療養以降の叙情性を受け取りつつあったのではないか、と思う。「鶸」はかなしみ、嘆きといった点が注目され、実際そういう作品が大勢を占めてはいるが、掲句のような視線を上へ投じる明るさ、少し強く言えば楽天的な要素が出ている句もあることは見逃せない。

 *

 昭和28年「俳句研究」7月号に径子は「西片町」というエッセイを寄せている。本郷西片町の下宿に暮らした数年のことが現在進行形で綴られている。終戦後、失職して家賃にも行き詰まった径子はふらりと夜汽車に飛び乗り、軽井沢へ向かった。辿り着いたその地の八百屋の店先でとあるドイツ人の老婦人と知り合い、彼女の家に仮寓し、世話を焼きつつ一夏を共に暮らしたのだという。にわかには信じがたいエピソードだが、清水径子全句集年譜の昭和22年の項にはたしかに「旅先で岸シェルチェ夫人の知遇を得て、この夏秋を碓氷峠周辺の自然と遊ぶ」とある。

 年譜に短く添えられた文章の優雅さとは裏腹に、いきあたりばったりな逃避行はほろ苦く終わり、径子は西片町の下宿に舞い戻る。また懐が空き、横浜の兄(義兄・秋元不死男)の元へ身を寄せるが、二ヶ月ほどでふたたび西片町へ戻ってしまう。

就職のあてはなかつたけれど、「どうにかなるさ」と言う妙な気持はいつの間にか、わたしに出来あがつてしまつた。実際、ふりかへつてみると、みんなどうにかなつてきたのであつた。(清水径子「西片町」)

 突然見知らぬ人、それも異国の人の家に転がり込み、あわよくば外国語とタイプライターを教わろうなどとは、天衣無縫にすぎる行動だが、径子は本気だったようなのだ。そこで多少なりとも身につけたタイピングが後年仕事の糧となった。こうした行動はやぶれかぶれという見方もできる。身ひとつであればこそのあやうさと身軽さが径子のなかに同居している。「どうにかなるさ」と嘯く径子の向日性はこの後徐々に発揮されていく。


●―15中尾寿美子の句/横井理恵

 梅雨深きわが手に赤きねぢまはし      『天沼』

 寿美子の第一句集『天沼』に見られる「色」と言えば、第一に「赤」である。

 手の中にある「ねぢまはし」の把手は赤い。梅雨の最中、家の中にこもりがちな日々にあって、手にとった「ねぢまはし」で寿美子は何を締めようとしたのか。

 鳥が逃げても飛べない女赤い芥子      『天沼』

 椿あまりに紅くて心許されぬ

 これらの「赤」は、「焦燥」の「赤」かもしれない。思うに任せぬいらだちに握りしめる手。逃げた鳥を追えない瞋恚、鮮やかすぎる色彩に身構える心、それらを抱きながら掴んだ「ねぢまはし」である。もしかしたら、何を締めるあてもないのかもしれない。見えない何かを引き締めようとしているのかもしれない。正面を見据え、唇を引き結ぶ寿美子の姿が思い浮かぶ。

 第三句集『草の花』の「赤」の句からは、うつむき加減の寿美子の姿が見えてくる。

 囀らず飛べずぽつんと落椿        『草の花』

 紅梅の映りて痛き水ならむ

 うつし身の足許の花赤のまま

 ぽつんと落ちた赤い椿は私自身だ。だって、囀ることも飛ぶこともできないところが同じだから。あの水ったら、あんなに紅くて心許せぬ梅を映して、きっと痛みを感じているにちがいない。そして、「うつし身の足許」には小さく赤い花がある。これらの「赤」はもう、寿美子の手の中にはなく、こぼれ落ちて足許に点っている。

 そんな寿美子が顔を上げると、その視線の先には、この世の色ではない「白」が映る。

 婆の死後野の涯にさく白菫        『草の花』

 晩年の思ひちらつく白桔梗

 「赤」を手からこぼしてしまった寿美子は、白から目を離さず、我が身を「白」に重ねていく。そして、最後には、未来を予祝する色として、晴々と「白」をうたうようになる。それが、前にも取り上げた

 霞草わたくしの忌は晴れてゐよ      『老虎灘』

 白髪の種花種に混ぜておく

の二句である。「焦燥」の「赤」を離れ、(「畏れ」の「白」を経て、)「予祝」の「白」へ。

 この変遷は、寿美子が悩みつつ、苦しみから目をそらさず、全てを歓びをもって受け止めるに至る道のりを映している。

 振り返ってみれば、「紅」と「白」。寿ぐ色を、寿美子は生きたのだろう。


【連載】現代評論研究:第11回各論―テーマ:「秋」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

 2011年09月09日

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 小さな秋が来たあんたもブラックでいいか

 掲句は平成20年作の「層雲」所載の圭之介96歳の作品である。圭之介はコーヒーの抽出方法や豆にこだわりがあり、居宅を訪れた客に対しても常に自らコーヒーを選択、抽出をしてもてなしていた。私も圭之介居を訪問した際にそのような供応を受け、ブラックをお願いした記憶がある。小さな秋とブラックコーヒー、その対置は少し甘いが、なんとも散文詩的に軽やかに問いかけているではないか。そしてその口語自由律の表現の自在さがその最晩年(翌年に97歳で逝去)の融通無碍の境地にピッタリとはまっているように思える。文語定型ではその情景に接近しえない方法であろう。尚、圭之介の好きな画家はブラック、佐伯祐三、三岸節子などで、好きな音楽家はショパン、マーラー、ベートーベンなどであったそうである。安楽椅子に腰かけてレコードを聞きながら画集をひもといている姿が目に浮かぶ。因みに砂糖を加えないもののみをブラックとするのは、日本の用法であり、英語のblackとは単に乳製品を加えないことをいい、砂糖の有無は問わない由。

 熟れた木の実の中は克明に書いた手帖に似ている   昭和52

 黄色い並木に私が紛るそれだけのこと       昭和56年

 画家でもある圭之介が対象を観照しその本質を描けばこの様になるのであろう。デッサン風の前句からは、自然界の木の実の溢れるような生の緻密さと、克明に書いた手帖から人間の複雑な社会生活へと思いを至らせる事によって、生きるというある種の哀しさが導き出されているように思われる。後句は公孫樹並木であろうが、その眩いばかりの黄葉の輝きの中に埋没する自己、そして舞い散る木の葉にも隠されてしまうであろう存在の微小さ危うさからの自己省察が垣間見られる。

 きれいな肺が月を呼吸する            昭和42年

 食器重ね秋肺まで明るい             昭和53年

 篠原鳳作は「しんしんと肺碧きまで海の旅」と真昼の南の大海原を詠んだが、前句は夜の下関海峡での感慨であろう。鳳作の句に於いては海の青でも蒼でもない、碧が肺いっぱいに満ちてくる青春性に富んだ拡大する光景だが、圭之介の句に於いては老年に至った心身が月の微かな輝きに照らし合う如く、静かに肺が呼吸をし、焦点が絞られた点景となっている。そして「きれいな肺」とは健康であると共に、しみじみとした夜気に満たされていることでもあろう。後句は真っ白な食器が洗いあげられ、重ねられる時の爽やかな明るい響きが肺の中まで明るくするという印象派風の様相であり、真ん中に置かれた「秋」の一字が上句と下句の次元の転換点として上手く機能している。圭之介に於いては肺はものを見、ものを聞くものでもあったのだ。

 みちがなくて月ばかり              昭和50年

 山頭火ばりの六・五の短律句である。「て」は活用語の連用形につく助詞で、「ばかり」は体言の終止形につく助詞である。この様な一呼吸置いた二句一章的な手法は嘗ての「層雲」自由律俳句に頻出しており、所謂「層雲調」と呼ばれていた。それが良い意味でも悪い意味でも自由律俳句に辺境性をもたらした事は間違いない。

 圭之介にはこの他にも「月」の句が多くあり、抄出してみよう。

 月から顔をはなして承知してくれてゐる      昭和8年

 暮れずに壁 月になる              昭和19年

 月をかおに別れとうない             昭和22年

 砂丘、非具象の月が出ている           昭和37年

 呆然 砂丘あまねく月となる           昭和38年

 演技に体温なし 月浮かぶ            平成17年

 「月」はいつの時代もドラマ性を伴なってくるものらしい。

 

●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 まぼろしの狐あそべる花野かな 『冬濤』

 振向けば花野の虚空うしろにも 『冬濤』

 少女等の円陣花野より華麗 『冬濤』

 花野きてけものの如く耳を立つ 『冬濤』

 日と見しは月花野にて刻失ふ 『冬濤以後』

 霧が溶く花野の色の流れだす 『冬濤以後』

 死場所のなき身と思ふ花野きて 『冬濤以後』

 壺の花に花野の風の通ふらし 『花野』

 花野の日負ふさみしさは口にせず 『花野』

 きくのには花野の句が多い。

  生前最後の句集『冬濤以後』から没年までの19年間の作品をまとめた『花野』の編者西嶋あさ子氏によれば、「集名については『冬濤以後』の章名にも取られ、その後の特別作品にも使われていて、きくのさんに似つかわしいと思ってきめた」(編者あとがき)とある。続けて「きくのさんは、華やかで、さびしげで、かわいい面もお持ちであることは、作品が物語る」と続き、まさに光りと影の交錯する花野の人の像が結ばれる。

  掲句のまぼろしの狐は昭和38年、きくの57歳の作品である。

  きくのが疎開のため身を寄せていたのは、信州の小諸から一里半ばかりはいった浅間山麓の農村であった。信州には古くから「管狐(くだぎつね)」の伝承がある。広辞苑によると「通力を具え、これを使う一種の祈祷師がいて、竹管の中に入れて運ぶ」という。また、関東まで害が及ばなかったのは戸田川を越えられないためともいわれる。竹筒に収まるハツカネズミほどの小ささと、水を嫌うあまり勢力を広げない習性などを考えあわせると、なんとも可愛らしい狐の姿が浮かび上がる。もちろん、土地の者にしてみれば、「管持ち」「狐憑き」など、なにかにつけ身近に怖れられてきたのだろうが、おそらく他所から来ているきくのには、どこか可愛らしい狐の話しとして耳にしていたのではないかと思う。

 きらきらと日が射し、風にそよぐ一面の花野のなかでは、ものの影が自在に踊る。ざわめく風のなかで、ふと伝承の狐がきくのの胸に降りてきたのではないだろうか。

 管狐はたちまち75匹に増えるという。忌み嫌われている小さな狐たちを、せめてこの花野で遊ばせてあげたいというきくのの心が見せたファンタジーかもしれない。

 多く花野を詠んできたきくのの最後の花野は、昭和54年73歳の作品である。

 花野見にゆくだけの旅支度して 『花野』

 もう一度、まぼろしの狐に会うための旅でもあったのかもしれない。

 

●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 空は散るものに満ちたり菊膾

 掲句は、昭和49年作、句集『狩眼』(*1)所収。

  下五の〈菊膾〉が秋の季語。「菊膾(きくなます)」は、菊の花びらをさっと茹でて、三杯酢や芥子酢であえたものをいう。苦味の中のほんのりとした甘みとシャキシャキした歯ざわりを楽しむ料理である。食用菊には2品種があり、刺身のツマなどに用いられる黄色の「阿房宮」と、酢の物などに用いられる赤紫色の「延命楽(もってのほか、かきのもと)」が一般的である。料理の「菊膾」に用いられるのは後者で、「もってのほか」は山形県の特産である。

  筆者も以前、羽黒山の斎館を訪れた際に「もってのほか」を食したことがある。その時に居合わせた方の説明によると、芭蕉も食べた料理ということであったが、芭蕉が出羽三山を訪れたのは元禄2年(1689)の6月4日で、季節があわない。後で調べてみると、芭蕉が菊膾を食べたのは事実だが、場所は羽黒山ではなく、近江国(滋賀県)の堅田。時期は羽黒山を訪れた翌年の元禄3年9月のことであった。聞きようによっては、芭蕉が『おくのほそ道』の旅で、羽黒山を訪れた際に「菊膾」を食べたと思い込まないとも限らない。ものがものだけに、「もってのほか」と憤慨される方もいるかもしれないが、そこは観光客相手の営業トークと笑って済ませたい。

  芭蕉が堅田で詠んだ問題の菊膾の句は、〈蝶も来て酢を吸ふ菊の酢和(すあへ)哉〉である。「菊膾」の文字は詠み込まれていないのだが、『蕉翁句集草稿』には〈蝶も来て酢を吸ふ菊の膾哉〉という別案が収録されている。また、「酢和(すあへ)哉」の句の前書きには、「湖上堅田の何某木沅(ぼくげん)医師の兄の亭に招かれて、みづから茶を立て、酒をもてなされける。野菜八珍の中に菊花の鱠(なます)なほ香ばしければ」(*2)とあり、確かに芭蕉が「菊膾」を酒のさかなにして食したことが分かる。

  さて、ここまで、くどくどと「菊膾」の話をしたのには理由がある。歳時記の「菊膾」の項目をみるとたいてい芭蕉の〈蝶も来て〉の句が掲載されている。前書とあわせて考えれば、菊膾は酒とともに食膳にのぼるものであることが分かるだろう。菊と酒、すなわち九月九日の重陽の日に、菊の花を酒に浮かべて飲むと邪気を払い長寿になると信じられてきた慣習を下敷きにしているのだ。芭蕉の〈蝶も来て酢を吸ふ〉という句は、たまたま蝶がやってきて、菊膾の酢を吸ったという事柄を写しただけのものではない。余命いくばくもない秋の蝶が、延命を願って「菊の酒」を吸いに来たが、それは菊膾の酢だったよ、という哀れさと可笑しみがこの句の底に潜んでいるのである。そこを汲み取らなければ、この句の面白さは半減してしまう。「菊膾」の本意本情は、芭蕉のこの句が原型になっているのだ。

  そこで、あらためて玄の句をみていこう。

  〈散るもの〉に満ち溢れているのは、秋の空である。秋の空に〈散るもの〉といえば、真っ先に思い浮かぶのは、木の葉だが、言の葉、いのち、なども〈散るもの〉としてとらえられるだろう。ひとつのものが、ばらばらになって四方に飛び散る、あるいは、あたりにひろがって消えてゆくイメージが〈散るもの〉という語から感受できないだろうか。それは、まさに、いのちのかけらが秋の空に満ち溢れ、やがて消えてゆく情景でもある。そして、菊の花びらが湯の中に落ちて、身を翻らせて茹でられている光景にも重なる。長寿を願って食膳に出される〈菊膾〉を下五にすえたことで、〈空は散るものに満ちたり〉との取り合わせが鮮やかに見えてくる。命を終えて〈散るもの〉と命を永らえると信じられてきた〈菊膾〉との対比が秀抜である。いかに自己の思いを季語に託して象徴性をもたせられるか、との試みがうかがえて興味深い。〈菊膾〉には、ひとつのいのちは姿を変えて別のいのちにつながってゆく、という玄の生命観が象徴的に込められている。この句は季語の変革を志した玄のひとつの到達点といえる。芭蕉以来の「菊膾」という季語のもつ本意本情をみごとに更新させた秀句である。

*1  第4句集『狩眼』 昭和50年牧羊社刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2 今榮蔵 『芭蕉年譜大成 新装版』 平成17年 角川学芸出版刊 所引

 

●―5堀葦男の句/堺谷真人

 今生を柿のはらから照り合える

 『山姿水情』(1981年)所収の句。(ちなみにこの句は『朝空』(1984年)に再録の際、「今生を柿のはらから照り合へる」という風に表記が歴史的仮名づかいに改められている)

  農家の庭先であろうか。高く枝を張った柿の大木に実が鈴なりに成っている。はち切れんばかりに熟した柿の実はどれもつやつやと美しい。折から落日の光を受けて何十何百という柿が一斉に照り輝くさまは、さながら今生の中の今という一瞬をともに懸命に生きている兄弟姉妹のようだ。

  葦男は不幸にして兄弟との縁が薄かった。自身が26歳のときに兄・進の病歿に逢い、28歳のときには弟・治がサイパン島で戦死を遂げている。特に、太平洋戦争屈指の激戦地で落命した治に対しては、晩年に至るまで、生き残った者としての後ろめたさや自責の念を抱えていた形跡がある。現代の精神医学の立場からすれば、葦男こそがグリーフ・ケアの対象者たるべきであった。が、戦中派の常識ではそうではなかったのである。

 いくさ経て愚兄われのみ盆の酒 『山姿水情』

  この句には「戦後三十四年」という前書きがある。1979年の作である。気がつけば、戦後まるまる一世代に相当する時間を「生き延びてしまった」との感慨、その時間を余命・余生と観ずる姿勢は、1980年に上梓された『残山剰水』の集名からも看守できる。

  ビールで別れ弟は神サイパン忌 『過客』

  1944年7月7日、サイパン島の日本軍守備隊は全滅した。出征の壮行会でビールを注ぎあったのが今生の別れとなり、弟は若くして靖国神社に祀られる存在となってしまった。弟よ、どうして神になどなった。倶に白頭を戴き、美酒を酌み交わしながら来し方のあれこれを語り合うような人生もあり得たのではないのか。

  かつぎ出す案山子や誰の学生帽 『過客』

  新たに作った案山子が稲田にかつぎ出される。見ると学生帽を被っている。一体誰の帽子であろう。『一粒句集』第30集(1993年)所収の葦男自選作品にも見える句であるが、前年の秋、一粒(いちりゅう)句会の席上で葦男がこの句の名のりをした時のことを筆者ははっきりと憶えている。

  詠まれているのは秋の収穫シーズンの他愛ない悪戯である。現に作者である葦男本人も簡単にそのようなコメントをした。だが、そのとき筆者はこの学生帽がなぜか葦男の戦死した弟の遺品のような気がしてならなかったのである。そして、学生帽を案山子に被らせるという行為に度を越えた悪ふざけを感じ、これは戦死者への冒瀆ではあるまいかとまで思ったのであった。

  しかし、葦男逝去の後、時間を置いてこの句を読み返しているうちに、思いがけなくも全く異なる読みが浮かんで来た。つまり案山子は憑り代であり、学生帽を被らせることで特定の死者の霊魂をそこに呼び下ろすことができる招魂の装置なのかもしれないと。もしそうだとしたら、はるか故国を離れた地で非命に斃れた人々の霊魂は、年年歳歳、実りの秋に懐かしい祖国に帰って来ることができることになる。

  冒頭の句にもどろう。「柿のはらから」というフレーズがすっと出てくる背景には葦男と亡き兄弟たちとの数十年に亘る対話の蓄積がしっかりと活かされているのだ。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 落日にケロケロ笑ふ曼珠沙華   日野晏子

 「日野晏子遺句集」(平成7年10月刊、以下『遺句集』と表記)昭和三十一年~昭和三十九年の章に所収、初出は今のところ未確認。

  「落日」から放たれるオレンジ色の眩しさと一群の「曼珠沙華」が連ねる花びらの赤の鮮やかさ、この取り合わせが一句にもたらすのは過剰なまでにまばゆい光と鮮やかな色彩とが激しくぶつかり合う空間である。このぶつかり合いを目の当たりにするとき、「落日」と「曼珠沙華」の間にあるはずの余白は、光と色彩の前に塗りつぶされてしまったかのごとく存在を消されてしまっている、まるで他の命あるものすべての存在を消し去ってしまうかのように。この空間に響きわたる「ケロケロ」という笑い声、「曼珠沙華」の一群から次々と放たれる笑い声は「落日」の眩しさを浴びることでますます響きは鋭さを増し、その切っ先はこの空間すべてのあらゆる存在に向けられる、もちろんこのような生きとし生けるもののたたずめる余白のない空間を呼び出してしまった己の存在に対しても、である。だからいくら耳を塞いだところで、自らの生をあざ笑っているかのように「ケロケロ」との響きはこの一句の空間に響きわたっているのである。だが「ケロケロ」の嘲笑の響きなくして「落日」と「曼珠沙華」がもたらす空間は、生死のはかなさへ対する漠然たる叙情に包まれたものにとどまっていただろうことも間違いない。作者である晏子はこの一句の空間に「ケロケロ」という響きを取り込むことを決してためらわなかった、そうすることによって「落日」の眩しい光と「曼珠沙華」の鮮やかな色彩に塗りつぶされた空間にひとりたたずまねばならない自らをあざ笑うかのように。

  さて、わたなべじゅんこ氏は著書「俳句の森の迷子かな 俳句史再発見」(2009年11月 創風社出版)の晏子を取り上げた一文の中で、掲出句について「さすがの私もついていけない。どうしてこんな句ができたのだろう。気になる。」と戸惑いを露わにしているが、その戸惑いについては、ここまでなんとか鑑賞してきた私自身も大いに頷かされた点で、なにしろただでさえオノマトペを一句に取り扱うのは難しい上に現れたのが普段でもめったに登場しない「ケロケロ」なのだから、戸惑いが生じるのも無理からぬところであろうか。その上でわたなべ氏は晏子の作品への印象について(ここでは掲出句を含めたアンソロジーを読んでのもの)、「夫の楽しみのためという、どちらかと言えば消極的な理由で始めた俳句であったせいか、あまり上達しようとの意志を感じられないように思う」と述べているが、この点については晏子俳句のウィークポイントとして頷ける部分がある一方で、「上達しようとの意志を感じられない」という指摘にはどこか頷けないものも感じられる。「上達しよう」との意志は草城の死後に夫への思慕をモチーフとして作り続けた晏子にとっては欠かせないものであったはずだし、「草城の妻」としての誇りもあったであろうからだ。ただ俳句を作り続けようとする彼女の前に広がっているのは、自分の俳句の「上達」を認めてくれる存在であった夫、日野草城がいない日々なのである。

  掲出の一句に戻ると、一句の全体に高らかに響きわたる「ケロケロ」という笑い声は確かにわたなべ氏ならずとも大いに「気になる」のだが、この戸惑いはもしかしたら一句を作った晏子本人にもずっと存在していたのかもしれない、もし草城ならはっきりと読み解いてくれたかもしれないとの思いとともに。でも当然のことながらこの一句が出来たときに晏子の前に草城はいない。「落日」の眩しい光と「曼珠沙華」の鮮やかな色彩を共に喜んでくれる者の不在を思い知らされるとき、「ケロケロ」という響きは曼珠沙華からの笑い声ではなく、自分自身の嘆きの響きとして現れてきたのかもしれない。果たして「ケロケロ」「ケロケロ」と響いているのは、時を経てもなおも続く晏子の慟哭なのだろうか。その問いに応えようにも、この一句の空間は眩しすぎる光と鮮やかすぎる色彩と、耳障りにも程のある不思議な響きとに包まれて、あまりにも余白が少なすぎるのである。

 

●―9上田五千石の句/しなだしん

 これ以上澄みなば水の傷つかむ    五千石

  第三句集『風景』所収。昭和五十五年作。

 『風景』(*1 )は、昭和五十三年より昭和五十七年まで、四十五歳から四十九歳までの作品326句を収録する第三句集。

     *

  前回、五千石は俳人協会新人賞受賞後スランプに陥り、その後山歩きをはじめ、徐々にスランプを克服してゆき、昭和五十年には主宰誌「畦」を創刊したことは書いた。

  第二句集『森林』の収録句数が254であるのに対し、第三句集『風景』は326句を収録しており、「畦」の発表句を含め、落ちついた作句活動を安定的にしていた時期といえるかもしれない。

     *

  掲句は「澄みなば水の」と季語を崩して使っており、順接の仮定条件の形で「水澄む」が出来あがっている。いかにも五千石らしい、ナイーブな感情をものに託してストレートに詠った、五千石の代表句のひとつである。

     *

  ところで、『風景』のこの句の前に置かれた句は

 紅葉照る双つ泉を姉妹とも      五千石

 であり、この句には「北軽井沢 二句」と前書きがある。つまり、掲出の「これ以上」の句も、北軽井沢で詠まれたものということになる。

  また「畦」昭和五十五年十一月号には、同じく「北軽井沢」と前書きの、次の句が残る。

  水の脉闇にひびかし冬そこに      五千石

  これらのことから、北軽井沢の紅葉の頃、おそらくは十月後半頃の、双子の泉か沼や池での作と推察できる。「水澄む」の季語の季感は九月というのが一般的かと思うが、十月の、冬を間近に感じる頃の写生と思うと、「これ以上」澄めば、という措辞も大いに頷けるところである。

     *

  なお、北軽井沢付近の双子の泉、または池や沼を探してみたがどうも見つからない。佐久市の西側、八ヶ岳湖沼群に「双子池」というのが見つかったが、北軽井沢からは離れすぎというのは否めない。やはり北軽井沢辺りに姉妹のような、名も無い小さな泉が存在するのかもしれない。

  ともかくも、「水澄む」の句として口ずさみ続けたい一句である。

 *1 『風景』 昭和五十七年十月二十五日 牧羊社刊

 

●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 黄落や滅び行くものみな美し

  類想句がいくらでもありそうな気がしたが、思い出せなかった。むしろ短歌にその1つのフレーズが似ているものがあったが。類想句がありそうというのは、普通は作家の独創性を否定することになるのだが、しかし、世界で初めてこの句に出会ったときの感動は計り知れないものがあるような気がする。短いフレーズの中で、自分の思いを120パーセント言い切ってくれたら、それが独創であろうと、類想があろうと構いはしないのだ。だからそれはちょっと宗教の言葉に似ている。最も古い「モットー」とされる「祈りかつ働け」(Ora et labora)はベネディクト会のものだが、この言葉の荘重さは独創から来ているのではなくて、普遍性によるものであろう。英王室の紋章にある「思い邪なるものに災いあれ」(Honi soit qui mal y pense)もそうだ。憲吉のこの句もそうした荘重さを伴っているようである。

  『方壺集』、昭和59年11月の作品から抜いた。憲吉晩年の作品といってよいから、憲吉の気分の中にこうした思いが生まれていたとしてもおかしくない。軽佻浮薄な人間が吐く、意外に重い言葉に我々は感動する、文学は宗教でないからである。いや、真の宗教は、宗教に反するところから生まれるべきだからであろうか。

     *

  詩歌の中で、「美し」などという主情的言葉を使うのは初心者のすることだという批判もあるようだが、「美し」を乱用してまさに成功を収めたのは、客観写生を唱えていたホトトギス派であった。

 手毬唄かなしきことをうつくしく 高濱虚子

 炎上の美しかりしことを思ふ   高野素十

 人の世にかく美しかりし月ありし 星野立子

  美しいものを素直に美しいといって美しく感じさせるには、かなり逆説的処方を駆使しなければならない。ホトトギス派は「客観写生」という主情を排するドグマを持っていたから、こうした逆説を十分駆使することが出来た。憲吉はどうであったろう。ホトトギス派とは違って、意外に爛れたような生活から神を求めるような信仰心がほんの一瞬、刹那のようにわいたと思えなくもない。日本で愛されていて本国では忘れかけているフランスの小説家シャルル・ルイ・フィリップ(『朝のコント』の著者)は臨終にこういった。「ちくしょう、なんて美しいんだ!」。極めて俗ぽい言い方だが、上の句の心情に通じるであろう。

 

●―12三橋敏雄/北川美美

 淋しさに二通りあり秋の暮

 秋は夕暮れ。「秋の暮」は、日本人の美意識の根源ともいえる壮大な季題である。

  格調高い三夕(さんせき)といわれる「秋の夕暮れ」の歌(*1)が収められた『古今集』(平安初期)では、時間とともに物がうつろう「悲しさ」を秋の夕暮れに詠んだ。そして『後拾遺集』(平安中期)以降には、

さびしさに宿を立ちいでてながむればいづくも同じ秋の夕暮れ 良暹『後拾遺集・秋上』

秋はただ今日ばかりぞとながむれば夕暮れにさへなりにけるかな 源賢『後拾遺集・秋下』

 と、秋に淋しさを強く感じる歌がみられるようになる。そこに「無常」「幽玄」という美意識が後に加わっていき、日本人はなんと高貴な民族であることかと、千年もの昔がありがたい。

  「わびしい」「さびしい」という感傷から発展した「侘(わび)」「寂(さび)」は利休・紹鷗により美意識に。さらに江戸・蕉風俳諧では創作理念の骨格となり、貧窮・失意に精神的余情美の深まりを求めたのである。ちっぽけでみすぼらしいものに美しさを詠んだ。

 此道や行く人なしに秋の暮 芭蕉

 去年より又淋しいぞ秋の暮 蕪村

  ちなみに「淋」に「さびしさ」の意があるのは独特の用法で常用漢字は「寂」のみ。俳句では「淋しい」という表記が好まれるようだ。

  とにかく「秋の暮」は古くから悲しく淋しい伝承の季題である。

  此頃はどうやら悲し秋のくれ 子規

  新興俳句弾圧以降、敏雄は、師である白泉、そして青鞋とともに古俳句研究に興じた。白泉を顧みて敏雄は「常に俳句形式の成果を歴史的に見通してみずからの表現力の進展をはかろうとする、かねてよりの思いに従ったまでであったと思う。」(「俳句とエッセイ」昭和58年)と語っている。

  白泉の「秋の暮」を引いてみよう。

 向ひ合ふ二つの坂や秋の暮 白泉

 谷底の空なき水の秋の暮

 そして敏雄自身も先人へ挑むような「秋の暮」の句を詠んだ。

 木の下に下駄脱いである秋の暮 『青の中』

 縄と縄つなぎ持ち去る秋の暮  『まぼろしの鱶』

 秋の暮柱時計の内部まで

 石塀を三度曲がれば秋の暮  『眞神』

 先人みな近隣に存す秋の暮  『疊の上

 あやまちはくりかへします秋の暮  『疊の上』

 上掲句、「淋しさに二通り」の句が作られたのは、1982(昭和57)年。『疊の上』に収録。同年に『淋しいのはお前だけじゃない』(西田敏行主演)という人情ドラマが人気だった。戦後の復興を遂げ、物が溢れ、豊かになったはず国が、どこか「淋しい」。人は我武者羅に生きながら、「淋しい」という言葉に、あぁ淋しいと気が付かされた。

  歌詞に「淋しい」「不幸」という言葉が多用される、かの阿久悠の1993年のコメントに、「歌が一番大事なのは、こんな不幸な目にあって悲しいということではなくて、不幸のちょっと手前のね、切ない部分がどう書けるかということが、僕は一番大切なことだと思っているんですよ。」というのがある(*2)。「淋しさ」という言葉が、人の心を動かし、豊かで便利な世の中が、少し淋しいこと、ということに人々は気づき始めていた。日本人のDNAの中に「淋しいことは美しいこと」という螺旋が組み込まれているのかもしれない。

  その「淋しさに二通り」とは、相反する二つの「淋しさ」のことと解する。「理由のある淋しさ」「理由のない淋しさ」、「ひとりでいる淋しさ」「人といる淋しさ」、「お金のない淋しさ」「お金のある淋しさ」だろうか。秋の淋しさを突き詰め、うつろいゆく人の心に世の無常観を詠んだと解釈する。

  「あやまちはくりかへします」の句は、掲句の二年後、1984(昭和59)年に作られた。「あやまちはくりかへしませぬから」と論争に発展した原爆慰霊碑の言葉を連想する。うつろいゆく秋に、あやまちはいつか繰り返されるかもしれないという、これも世の無常観がみえる。「秋の暮の淋しさ」を研究し、無常の世を見てきた人の句である。

  現在の日本に「清貧」という言葉が再び価値ある言葉として扱われている。諸行無常。「秋の暮」に凝縮された日本の情緒が伝わる。敏雄の句を通し、無常ということについて想う2011年の秋の夜である。

 

*1)三夕(せんせき)の名歌 『古今集』

  さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮

 心なき身にもあはれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行

 見わたせば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 定家

*2)阿久悠の歌詞には確かに、「さびしく微笑み…(ラストシーン)」「私はなぜかブルーさびしい…(ギャル)」「おまえさん雨だよ、さびしいよ…(おまえさん)」など、「さびしい」が頻繁に登場する。

  

●ー13成田千空の句/深谷義紀

 新藁を焼くはふるさと焼くごとし  『忘年』

 多かれ少なかれ、どの俳人についても言えることだろうが、千空の句集を紐解くと採り上げる季題が時代とともに変化していくのが分る。なかでも顕著な変化を示すのが農業関連の季題であり、時代が下るにつれて急速に減少していく。これは、終戦後の一時期帰農生活を送っていた千空がその後離農したという個人的事情に加え、季語となっていた田園風景あるいは農作業が消滅していったという社会的環境の変化も影響しているのであろう。

  それでも晩年に至るまで千空の創作意欲を刺激した、農業関連の季題がいくつかある。掲出句もそうした作品のひとつであり、収穫後の藁焼きが作品の対象となっている。

  農作業の目的は、なんと言っても対象作物の収穫にある。とりわけ米の場合は主食であり、その実りが多ければ豊作を祝い、少なければ凶作、すなわち生存の危機に直面することになる。一方、藁自体はあくまで副産物に過ぎない。もちろん、かつてはそれなりの用途があり、俵の材料にしたり、馬小屋や牛舎に敷き詰めたりもしたが、所詮主役にはなりえない。しかし、そうした即物的あるいは経済的観点を超えて、新藁には一年間の農作業にまつわる様々な思いが凝縮されている。こう記すと、如何にも季題趣味だとの叱責が聞こえてきそうだが、それが実際の職業体験や生活感覚を結実させたものであれば、風雅を愛でるだけの季題趣味とは一線を画したものになる筈である。

  新藁を焼くのは、千空の居住する五所川原近辺でよく見られる風景だ。かつては稲刈りを終えた後に急いで藁を焼き、男たちは出稼ぎに旅立っていった。本来ならば新藁は田に漉き込んで地味を整えるのがよいが、手間もかかるため専ら焼かれて処分されていたと聞く(現在では煙害として各地で条例による規制が行われている)。一年を通した農作業を終えて藁を焼く農家の男たち(そして女たち)の胸には、どのような感慨が去来しているのだろうか。

 かつて千空は次のような作品をものしている。

 藁焼きの胸のうつろを思ふべし  『人日』

  一つの仕事を終えた安堵感と裏腹の寂寥あるいは虚無感だろう。

  さらに千空は、その煙の中に家族や仲間の姿を認めた。

 焚き添へてふくらむ藁火遠い母   『地霊』

  千空にとって新藁は、こうした思いを包含する故郷の象徴であり、その存在の一部なのである。


●ー14中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】23.24./吉村毬子

2014年3月7日

23 羽が降る嘆きつつ樹に登るとき

 何の羽であろう。翅ではなく羽であるから、鳥の羽であろうか。羽を持つ神のものだろうか。人は嘆きつつ天を仰ぐ。嘆きつつそれでも上昇しようと、天へ近付こうと樹を登る。平坦な地を緩やかに歩いて行く幸せに浸ることよりも、譬え険しい道であっても登りつめたいと喘ぐ時がある。

 しかし、もうすでに地が温かく安らかな道でなくなった時、人は樹に登ろうとするのかも知れない。誰も助けてはくれない、たった一人のその痛みに耐え続け、荒地を踏みしめ幾度も転倒しながら、「嘆きつつ樹に登るとき」、柔らかく静かに「羽が降る」のである。

 真っ青な空から羽の降りくるその静謐な時。その羽は嘆いている者を労わるように、優しく包むように肌に触れる。長い旅路の渡り鳥たちの苦悩と戦いに抜け落ちた羽を、痛みを知る者へ風が運び来ることもあろう。

 抜け落ちた羽であっても、羽は飛ぶ為のものである。嘆きつつも樹に登る者へ、昇り、飛翔する為の羽を与える。それは、樹の天辺へ登りつめたなら、自由な空の世界を羽撃きなさいという暗示とも理解できる。しかし、空への上昇、羽撃きは、昇天にも価する。苦しみから解き放たれた、嘆かなくともよい自由な空間へと救われるという意味も包含する。

 富澤赤黄男に次の句がある。

  羽が降る 春の半島 羽が降る   赤黄男『蛇の笛』

 苑子の句は、「嘆きつつ」と率直な表現で詠っているが、困頓とした終戦後の闇の中の赤黄男は、「嘆く」ことも、「樹に登る」こともせず、もはや降り続く「羽」を遥かな春の半島で見詰めているしかなかったのかも知れない。

 だが、羽、樹木の色彩感溢れる瑞々しさと清々しさは「嘆きつつ」がなければ、その存在感が迫ってはこないのである。

 第1章【遠景】とはまた異なる第2章【回帰】も美しき寂寞の句より始まるのである。


24 落鳥やのちの思いに手が見えて

 「落鳥」とは、鳥が死ぬことである。鳥は、飛ぶことが生を意味するのであるから、落ちる=死ぬとは頷ける。1970年代のベストセラー小説の『かもめのジョナサン』(リチャード・バック)を思い出す。少女時代に父の愛読書の中から盗み読みしてから今でも好きな物語である。主人公の鷗、ジョナサンは、飛ぶ行為自体、即ち速く飛ぶことだけに価値を見出し、餌を採るために飛ぶ他の鷗たちから異端扱いされ、群れを追放されてしまう。それでもジョナサンは、飛び続け、もはや飛行とは違うより高い次元へと向かって行くのである。

 揚句の中七下五「のちの思ひに手が見えて」とは如何なる解釈ができるのか。「や」の切れ字を置いても鳥が死んだことへの「のちの思ひ」なのであろう。推理小説のように後から落鳥の原因を探っていけば、その手法が(例えば、誰かが括ったとか・・・)明らかになったということにもなる。が、死後の思考の内に死ぬこと自体が手法であったのか、と思いあたったとも取れる。自死という手法である。その場合、「落鳥」は、鳥の自死というよりも、隠喩になるのであるが・・・。

 しかし、一句目「羽が降る嘆きつつ樹に登るとき」とこの句との並列には、仏教の六道、(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)を想起させるものがある。嘆きつつ樹に登った人間が羽を得て、鳥(天)に姿を変えた後、地(地獄)に落ち、餓鬼・畜生・修羅を経て、また人となったのではないかと私には思えてくるのだ。

 果たして、前掲のジョナサンは落鳥に至ったのか、否や、永遠に違う空(天)を飛び続けているのではないか。

 この面妖な句も『水妖詩館』第2章の始まりを飾るに相応しい一句である。


【連載】現代評論研究:第11回総論・攝津幸彦2 執筆者:北村虻曳・北川美美

(2011年09月23日)

●―3攝津幸彦一句鑑賞/北村 虻曳

 戸締まりの亡父の脛より花ふぶく  『鳥子』

 「戸締まり」という語、最近はあまり用いない。使われるとすれば、国防論や排外主義の文脈で比喩としてだ。掲出句の戸締まり、様式は錠と言うより「締まり」で、昔普通の家では「捻子締まり錠」や、「落とし」、「かんぬき」、あるいは簡便な「心張り棒」で行った。「戸締まり用心火の用心」などと聞かされたように主として寝る前に家を見回って行ったものである。しかし今は、外部に面する戸は出入りのたびに錠を下ろすことが決まりであるから就寝前に限ったことではない。行き交う人の殆どが「他所者」であるからだ。

 この句の亡父は自ら見回るのだからふんぞり返っている亭主ではない。そこで昭和前半の景としよう。この場面の「亡父」には、洋服よりもパジャマよりも寝間着を纏わせたい。やや腰の曲がりかけた亡父が戸締まりを行っているのである。その頃は五十代でもりっぱなおじいさんであった。亡父は、かってこうであったという像というより、今まぼろしとして顕ち現れる父の像であろう。攝津の父が何時亡くなられたか、あるいはご存命かは存ぜぬが、句の中は自由の王国であるから彼自身がこうした考証や辻褄合わせに拘(かかず)りあっているわけではない。

 さてその父の細いすねから桜の花吹雪が発っている。翁と花吹雪と来れば、我々の記憶の蓄積が指すものは能・芝居である。そんなものを実際に見たことがほとんど無い私でさえどこかでならい覚えている。亡父のわびしい姿が一挙に舞台に立つ。戸による姿は杖による旅姿とかさなり、住まいは野面となって風にさらされる。やがて脛も身も風にちぎられて飛びさり消えて行くだろう。

 幽玄であり、耽美的である。攝津の句には、おっとりとしたはぐらかし・アイロニー・ちゃかしなどが含まれていて揺らぎがあり、この句のようにまともに古典美に通じるものは少ない。しかしそれが半ばリアルな「戸締まりの亡父」に担われるというところが、俳味でありひねりである。(作句の手順から言えば「脛より花ふぶく」の方がひねりであるが。)そしてこのひねりがなければ、脛が花となって吹雪いても、当代のCG、VFXとなり、幽玄の幽が消えてしまうのである。


●―12ジョン&メリー  北川美美

 国境の西にジョン&メリー没る

 「ケンとメリー」ではない。ジョン&メリーである。

 「現代俳句」9号(1980年)に寄せられた幸彦のアンケート回答に以下がある。

問:俳句における課題、執筆・出版予定など

答:自分なりの俳句の完成期をどこまでおくらせることが出来るか。「豈」に精力的に作品発表する予定。来春、書き下ろし句集「John & Mary」を上梓の予定(千句くらい)。

 ジョン&メリーがお気に入りだったようである。

 『ジョン&メリー』。1969年のアメリカ映画。ダスティンホフマンとミアファロー主演によるニューヨークを舞台とした24時間のラブストーリー。メリーは、自由奔放だが知的で自然体な女性。嫌味がなく、上品な可愛さがある。ふとバーで知り合ったジョンとメリーは一夜を過ごすMid Centuryな白を基調とするジョンの部屋。朝を迎え朝食、そして昼食までも共にし、他愛無い話を二人は続ける…。

 暗さのない映画である。会話、衣装、インテリア、NYという街、“おしゃれ映画”の部類として今後も残っていくだろう。

 掲句、青春を葬る儀式を『ジョン&メリー』に託しているように読める。ブレッド&バターの『あの頃のまま』(1979年・作詞作曲/呉田軽穂:ユーミンのペンネーム)は「サイモン&ガーファンクル」が出てくるけれど。

 その後の幸彦句は、『赤ちょうちん』『妹』『バージンブルース』(藤田敏八監督)の秋吉久美子風な女性の影がたびたび登場する。そのような幸彦の脳裏に描かれた女性を「金魚」に置き換えているという説もある(@金魚論争)。日本のヒッピー文化の洗礼を学生時代に受けている幸彦世代は、西洋のそれと違い、通称フーテンともいわれアンダーグラウンド文化の基礎を作ったといってもよいかもしれない。文化は暗闇から生れる。

 「没る」は、「いる」と読むと予想するが、「ぼつる」の業界用語のように読むこともできようか。(山口誓子の句に「郭公や韃靼の日の没るなべにとは」「太陽の出でて没るまで青岬とは」がある。誓子を踏んでいるとすれば、「いる」だろう。)また「国境の西」とは…。「国境の南」であれば、ナット・キング・コール『国境の南』ジャズのタイトルがあり、村上春樹(*1)の長編小説のタイトル『国境の南、太陽の西』(1995年)はそれからきているらしい。オリバーストーンの映画のタイトルにも”South of border”がある。ヒントはその辺から得たとしても、どうも違う。青春を葬るのであれば、「国境の西」とは、日本の西、幸彦が青春時代を過ごした箕面、枚方あたりかもしれない。

 秋出水「カルメン故郷に帰る」頃

 掲句と比較してみるとどうだろう。「ジョン&メリー」には鍵かっこ(「 」)がない。「カルメン…」の句は、映画『カルメン故郷に帰る』(高峰秀子主演/1951年日本映画)のストリッパーの二人が珍道中を繰り広げるあの時代の頃という郷愁がある。「ジョン&メリー」は、「ジョンとヨーコ」「ケンとメリー」「ジャック&ベティ」「ヒデとロザンナ」等々に置き換えることのできない、幸彦の中の永遠におしゃれな二人、ジョンとメリーを葬るのだろう。好きだった彼女と行った映画のパンフレットを破り捨てる、回想の恋を葬るのだ。

 幸彦は、『ジョン&メリー』に別れを告げ、デイビット・リンチの『マルホランド・ドライブ』(2001年米仏合作映画)的な現実・夢・空想・回想に読者を行き来させる。読者はどこかで起こったようなデジャブな自己体験を重ねあわせ、時に郷愁に浸ったり、映画を観ているように笑ったり、それぞれの人の脳裏に描かれるさまざまな映像を楽しむのである。


*1)村上春樹の2003年翻訳本の中にサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』がある。野崎孝訳が白水社から上梓されたのは1964年である。村上と同世代の幸彦も『ライ麦…』影響は多分に受けたであろう。『ライ麦…』冒頭箇所に主人公の兄の処女出版の書籍名が『秘密の金魚』であることにも驚いた。


●―12ショートショート風に 幸彦句の「淋しさ」  北川美美

 淋しさの涙で辺りが海になった。なまぬるい羊水の中に戻ったようだ。涙の海で泳いでいると太海(千葉県鴨川市)に辿りついた。立ち泳ぎをしながら陸をみると、つげ義春の漫画の原風景が見えた。『ねじ式』の男もいる。その海は唱えると鯛がでてくるという。鯛がそこらじゅうにいる。30年も生きた老鯛も。遠慮なく、(鯛が)体(タイ)当たり…。あぁ泣きながら可笑しさがこみ上げてきた。

 淋しさを許せばからだに当る鯛 『鳥屋』

 涙の海でぷかぷか浮いていた浮き輪。出てきた空気もそのまま涙になった。俺のあん子は煙草が好きでいつもぷかぷかぷか。西岡恭蔵は何故死んでしまったのだろう。やっぱりひとりが淋しかったのか。輪となれば淋しい、笑っていてもギターを弾いてもやっぱり淋しい。いつもぷかぷかぷか。

 輪となりし空気淋しも浮袋 『陸々集』

 淋しいという感情はいつから人間に備わったのだろう。夕餉の支度をしながらふと嫌われ松子は考える。ひとりものの女がつくる一人分の筑前煮。ひとは、いずれひとりで死んでいく。

 太古より人淋しくて筑前煮 『鹿々集』

 出張の次いでの日帰り温泉旅行。湯畑の階段で別の男女と眼があった。どこか後ろめたさのある眼差しはあの男女も俺たちと同じということか。神社の境内ではホトトギスが喉を赤くして鳴いている。東京に戻るまでに噎せ返るような硫黄の臭いと情事の怠さを取らなければならない。

 情交や地上に溺るゝ蜀魂(ほとゝぎす) 『鸚母集』

 外はギラギラと太陽が照りつけている、昼間のアパート。知らぬ間に部屋の隅で女が汗をかきながら泣いている。ふと女に手を入れるとすでに濡れていた。これは白日夢なのかと男は考える。自分はこのまま堕ちていくのか。ここを出なければ。

 手を入れて思へば淋し昼の夢 『鸚母集』

 薄暗いアパートから外に出ると、夏燕が忙しく飛び去って行った。雛に餌を与えるために飛び回る夏の燕は忙しい。頬に燕の糞がしたたれた。糞は、燕の涙だろうか。それとも松子の涙なのか。松子から離れるなら今かもしれない。

 肛門をゆるめて淋し夏燕 『鹿々集』

 しばらく連絡のない男の様子に気づき、松子は、男の仕事場である祐天寺のマンションに来た。エレベーターの中に落書きが彫ってあった。「松子のバカ」。ドアの前でベルを鳴らすこともできず、泣きながら非常階段を下りた。見上げると虹がみえた。

 階段を濡らして昼が来てゐたり 『鳥屋』

      ***

 「淋しい」という漢字「淋」には、「そそぐ」「したたる」「長雨」などの意があり、「さびしさ」の別の意味を持たせたのは日本特有の用法である。だから「淋しい」とは濡れている状態になりうること。淋しい→泣く→濡れる→エロティックという構図を描いてみる。淋しくてすぐ寝てしまう、薄幸そうな女についつい惹かれてしまう、男の儚い願望がみえる。


 萬愚節顔を洗ふは手を洗ふ 『鹿々集』

 泉よりはみだす水を身にとほす 『陸々集』

 ぬばたまの夜の人となり舟となる 『鹿々集』

 渡仏して極楽浄土の雨に遭う 『四五一句(未刊句集)』


 幸彦句は水っぽい。だからなにもかも流れてしまう。悲しさ、情念も流れていく。「淋しさ」も、諸行無常のものなの。彼の岸も濡れているのだろう。幸彦のいる岸辺は生温い涅槃の水であることを想像する。

 淋しいは濡れてゐること幸彦忌 美美


【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり 32 句集『夜蟻』(赤野四羽著、2018年刊、邑書林)を再読する。

 赤野四羽さんの怒涛のパッションに圧倒される。

 本書のあとがきから彼の言葉を拾ってみる。


  富澤赤黄男は「針」と言い、寺山修司は「鍵」と呼んだ「俳句」。

  第34回現代俳句新人賞の言葉のなかで、私はそれを「沈黙のつぎに美しい詩型」と呼びました。


 この賞は、孤高に俳句創造し続ける赤野四羽を大いに励ましてくれていたのだろう。

 現代俳句の優れた俳人たちのエールに呼応するように赤野四羽は、俳句創造への試行錯誤、四苦八苦の険しい道を着実に切り拓いてきた。

 赤野さんの言葉をもう少し引用したい。


   もちろん、俳句には「季語」「切れ」「五七五」など、いろいろな特徴がありますし、それぞれに重要な役割があるものと思います。ただ、どれか一つ、というなら、私は俳句の「短さ」にこそ本質があるのではないかと感じています。

   切り裂く「剣」ではなく「針」、打ち破る「棒」ではなく「鍵」、それは小さく短いことが強みだということでもあります。


 前置きがながくなりましたが、俳句の形式は強みにもなり、呪縛のように表現の縛りにもなる。

 俳句とは何かを問いながら俳句創造のいばらの道を切り拓く赤野四羽の俳句の飛翔は、地を這うように地道な俳句実験が果敢に成されている。

 先ずは、その刃の切っ先とでもいおうか、平成28年度第34回現代俳句新人賞受賞作「命を運ぶ」は、この句集の軸を成して現代俳句作品の独楽が、無数に回転しているので御堪能あれ。

 俳人・赤野四羽の飛翔は、この俳句の省略を埋めるだけの強靭なバネを巻き、俳句文学の「何か」を爆発させるように弾く。


 置きどころ困るくじらの処刑台


 水の惑星には、鯨(くじら)の処刑台なるものがある。

 それは、置きどころに困るくらいの大海原にあるのだ。

 鯨の生命の讃歌ともいえる巨大な鯨のブリージングを処刑台と捉えた秀句。

 それを置きどころに困ると捉え直すことでさらに人類の所業によるのか。地球温暖化による地球の異変や人類の埋立や航路などによる海の過密化も暗示されているのかもしれない。


 茄子の馬とうとう姉の夜がきた


 茄子(なす)の馬は、お盆の茄子(なす)と胡瓜(きゅうり)で形作る「精霊馬」(しょうりょううま)のことだろう。日本では、お盆の時期になると、胡瓜や茄子に割りばしなどで足をつけた精霊馬を飾る風習がある。ご先祖様の霊が家に戻ってくるときは、できるだけ早く家に帰ってきてもらいたいので胡瓜で作った足の速い馬を使い、あの世に帰るときは少しでもこの世にいてほしいので茄子で作った足の遅い牛を使うとされている。

 誰しも誕生があるように死へと歩みを進めているのだが、「とうとう姉の夜がきた」とここで暗示している惜別の死とも読める。


 真っ青な海に倫理が滴れり


 真っ青な海がある。そこに倫理が滴るとは、何だろうか。

 倫理とは、人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。「倫理学」の略。

 海の波のひと波ひと波のベクトルは、無数なベクトルを包括する。

 それらの無数のベクトルは、ひと塊の倫理となって滴っている。


 花野蹴って蹴って転ぶそんな昼


 花野を蹴って蹴って駆け抜けたいけれど転んじゃった。

 そんな春の昼の青春讃歌もいいもんだ。


 葱つるししろき怒りを分かちあう


 葱の青々とした葉の部分とは裏腹に吊るされた葱のはっとするような根っ子の白さ。

 その白い怒りとは、何だろうか。その怒りを分かち合える友よ。教えてくれまいか。


 団塊の愛国蛙の目借時


 団塊とは、「団塊の世代」のことを差していて第二次世界大戦後に生まれた人々のこと。

 団塊の世代は、1947年から1949年に生まれた世代のことで、日本の第一次ベビーブームにあたる。

 それらの世代と蛙(かえる)の目借時の春の季語との組み合わせに批評眼が光る。

 団塊世代の愛国心を問えば、蛙の目借時は、春暖に蛙が鳴きたてて眠気をもよおす時期のことだが、此処には団塊世代の愛国心の眠りについたままの批評性のない無風な時代を嘆いているようだ。しかし国家よりも大事な個性の開花も団塊世代には、あった。さまざまな違いを多様な個性の開花と感受する感性のアンテナを磨きたい。単眼の批評性の深化が鍵になるだろう。


 2011年からの591句の赤野四羽の怒涛の俳句パッションに今後も期待を込めて。

私性を軽やかにしなやかに現代俳句として詠ってほしい。

 感性の原石の絶え間ない研磨は、この俳人たちの努力を裏切らない。

 社会的な題材を丸呑みする蛙のような詩的昇華を期待して止まない。

 現代俳句の岩をずるりっと動かす期待の俳人の共鳴句たちをいただきます。


 ホットドッグ頬張り赤い花種蒔く

 鍵かけてともに無言の夏蜜柑

 合歓の花終わりの日にも咲いている

 黒猫の目玉万緑みつけたよ

 サキソホン絶唱夏の五体かな

 人体に無花果ありて愛らしき

 蟋蟀や快楽がなにより大事

 目と目があう秋雨の夜の手術台

 いっせいの曼珠沙華とし戦えり

 缶詰に未来があった春でした


【読み切り】赤野四羽の怒涛の俳句パッション 豊里友行(2020年10月16日金曜日)

https://sengohaiku.blogspot.com/2020/10/146-003.html


2025年6月27日金曜日

第249号

    次回更新 7/11

■新現代評論研究

新現代評論研究(第7回)各論:眞矢ひろみ、後藤よしみ、筑紫磐井、佐藤りえ、横井理恵 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第3回:『天狼』創刊に際し/米田恵子 》読む

現代評論研究:第10回総論・攝津幸彦1 執筆者:関悦史・筑紫磐井・北村虻曳・堺谷真人・北川美美 》読む

現代評論研究:第10回各論―テーマ:「夏」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年歳旦帖・春興帖
第一(4/25)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖
第二(5/9)ふけとしこ・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(5/23)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/27)曾根毅・浅沼 璞・なつはづき

令和六年冬興帖
第一(4/5)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖・ふけとしこ
第二(4/11)鷲津誠次・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(4/25)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/13)曾根毅・浅沼璞・なつはづき・下坂速穂
第五(6/21)岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第六(6/27)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博


令和六年秋興帖 補遺(6/21)中村猛虎

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俳句新空間第20号 発行※NEW!

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【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(59) ふけとしこ 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり31 安田中彦句集『人類』 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』 栗林浩 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

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【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

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…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【新連載】新現代評論研究:『天狼』つれづれ(3)『天狼』創刊に際し/米田恵子

  前回の「『天狼』創刊号の『こほろぎ』」で、主宰山口誓子の「実作者の言葉」は「昭和42年11月まで続く」と書いてしまったが、これは誤りであった。創刊号(昭和23年1月号)から昭和25年12月まで続き、その後一時中断し昭和31年2月号から復活する。これは、ちょうど、編集長が山口誓子から平畑静塔に移った時であり、静塔の配慮により復活したのである。

 とかく雑誌を出版するには、編集長を誰にするかは重要なことであろう。『天狼』の場合、編集長に西東三鬼がなることは、誓子の句帖の昭和22年6月15日に書かれているように、創刊の半年前には決まっていたようである。

  一、山口誓子氏顧問とす(作品並びに文章を書く)

  二、同人を限定し、その力作を選抜発表

  三、西東三鬼氏を編輯者とす 

 創刊に関して西東三鬼が動いたことは確かであり、出版社である養徳社との交渉、用紙の手配に関しては鈴木六林男との折衝など、関西と東京を往復しての活躍は、四日市市で静養している誓子にはできないことであり、三鬼の働きなしでは『天狼』は生まれなかったであろう。

 世間では待ち望まれていた誓子の『天狼』創刊であるが、実際には遅刊や、ついには合併号となる事態に陥っていた。一応、前月の「二十日印刷」その月の「一日発行」となっているが、実際は遅れたり、昭和23年8月と9月は合併号となってしまったりした。この危うい状態は、その後も続き昭和24年7月8月も合併号となってしまった。結局、これではいけないということで、昭和24年11月の編集後記には、三鬼と誓子の共同編輯となり、誓子が運転台に立ち、三鬼が車掌になって『天狼』を運営していくと述べている。しかし、ついに、昭和25年5月、『天狼』の発行所が養徳社から天狼俳句会に変わることを機に、編集も三鬼から誓子へと替わった。また、一般読者の投句も3句から5句へとなった。

 この編集長の交替について、誰も述べていないので、以下は私の推測となる。西東三鬼は、戦後すぐに新俳句人連盟(昭和21年)を結成したことなどから、人を集めたり何かを計画したりというようなことには長けていたと思われる。

 ここに誓子と鼓ヶ浦(当時住んでいた鈴鹿市)で昭和24年に写した写真がある。後ろに手をまわし直立不動に近い和服姿の誓子と、口髭に銀縁の眼鏡、三つ揃いのスーツを着こなし、右手に長めのフィルターパイプをつけた煙草を持ち、左手をズボンのポケットに入れ斜に立つ姿はダンディとしか言いようがない。そんな三鬼の性格は社交的で、おそらく誓子とは正反対と思われる。誓子は真面目で几帳面な性格である。雑誌の編集には、やはり真面目で几帳面な性格が向くのであろう。結局、他の同人たちも本業があり、比較的時間のあるのは療養中の誓子であるため、編集を担当せざるを得なくなったのだと推測する。

 しかし、誓子といえども、療養中であり、病状は順調に快方に向かっているとも断言できない状態なのである。お気づきの方もあると思うが、句帖に書かれている「一、山口誓子氏顧問とす」というメモに引っかかるのではないだろうか。昭和22年6月15日の句帖の同じ頁には、おそらく『天狼』創刊に際し、解決しておかなければならない6つの重要事項と思われるメモがある。それは順に書くと「健康のこと」「対馬馬醉木のこと」「編輯人のこと」「内部融和のこと」「時期のこと」「資金、用紙、印刷のこと」である。1番初めにあるのが「健康のこと」なのである。しかしこれ以外の項目は雑誌創刊に必須のことであろう。

 誓子は、『馬醉木』の同人であり、主宰の水原秋桜子に『天狼』創刊を理解してもらわねばならないであろうし、編集も大事な仕事である。創刊同人は、有季定型の誓子に対し、無季俳句も作っていた『京大俳句』の会員も多く、内部の統一もはからねばならないであろう。また、出版の時期と資金、用紙、印刷所のことなど(私などはこれが先決問題だと思うが)は出版に関しての当然の心配事であるが、誓子にとっては何よりも第一に気にかかることは「健康のこと」だったのである。西東三鬼や平畑静塔には「主宰に」と言われていただろうが、内心誓子は主宰として結社を背負っていくことに対し健康面で自信がなかったようである。だから、自嘲気味に(?)、少しふざけて(?)、ユーモアをこめて(?)、「山口誓子氏顧問とす」と書いたのではないかと私は推測する。

 いずれにしろ、『天狼』は山口誓子主宰で昭和23年1月創刊された。

英国Haiku便り[in Japan](54)  小野裕三

芋づる式に世界へ広がるhaiku生活

 二〇二〇年に英国から帰国して以来、実は一度も日本を出ていない。だが、一歩も日本を出ないこの四年ほどの間に、僕のhaiku生活は驚くほど国際化した。英語とhaikuとインターネット。この三つさえあればどこまでも生活は国際化しうると知った。

 ひとつの大きなきっかけは比較的最近の出来事で、英語haikuの選者を始めたことだ。縁があって、昨年末から日本英語交流連盟のウェブサイトにある毎月の英語haiku投句欄の選者を務めることになった。本当に文字通り世界中の人から投句があることに驚くのだが、もたらされた変化はそれだけではない。おそらくこれのせいだと思うのだが、Facebookを通じて世界中の人から友達申請やメッセージが頻繁に届くようになった。

 二月のある週末には、四人の見知らぬ外国人からメッセージが来た。一人めはイタリア人で、これはあいさつのみ。二人めはニュージーランド人で、子ども等も対象とした俳句コンテストを主催しているらしい。サイトを紹介されたので、それはそれで微笑ましく思いながら見て好意的な返信をした。三人めはウズベキスタン人で、芭蕉や蕪村や一茶や子規の俳句を自分がウズベク語に訳した、といったことを説明してくれる。ウズベキスタンと言われてもどんな土地なのかあまり想像も湧かないのだが、そんな国にさえhaikuが翻訳されて伝わっているのは驚きでもあり嬉しくもある。

 そしてその週にメッセージをくれた四人めの人は、英国のウェールズに住む女性。「私、テレビのドキュメンタリー番組を作る会社で働いているんだけど、今度、日本の文化をテーマにした番組を作る予定なの。あなたはhaikuの世界でいろいろ実績があるみたいだから、ウェールズの詩と俳句の違い、みたいなテーマをあなたに話してもらってもいいかしら?」みたいなことが書いてある。

 面白そうなので、さっそくFacebookのビデオ機能を使って数日後に会話してみた。haikuは自然にも文化にも繋がっていて面白いわよね、といったことを画面の向こうから言われ、しばしhaikuの話をした後にこう言われる。「来月、私たち取材で日本に行くのよ。東京と姫路と福岡。あなた、東京までは近いの? 東京で会って話せる?」もちろんイエスと答える。最終的に僕がそのドキュメンタリー番組に登場するのかは不明だが、ウェールズの人と直接会ってhaikuの話ができるなんて、興味津々の機会だ。

 かくして僕の先入観など遥かに超えるペースと変化で、芋づる式に僕のhaiku生活は海外へと広がってきた。果たしてこれからさらにどんなめくるめく展開を見せてくれるのか、もはや予測すらもつかないのが、ワクワクもドキドキもする。

  ※写真は2019年にWalesにて撮影

(『海原』2024年5月号より転載)

【新連載】新現代評論研究:各論(第7回):眞矢ひろみ、後藤よしみ、筑紫磐井、佐藤りえ、横井理恵

 ★―2橋閒石の句 6/眞矢ひろみ

 陰干しにせよ魂もぜんまいも  「虚」昭60年

  「和栲」以降には、揚句のように「も」を使った反復のほか、多様なレベルの反復(リフレイン)、畳語、オノマトペを用いる句も目に付くようになる。「荒栲」以前にあった破調は逆に減少し、音とリズムが織り成す不思議な世界に分け入る。

 雁帰る幕を揚げてもおろしても      「和栲」昭58年

 てのひらのひらひら濡れて雁わたる    

 すずなすずしろ子等よとくとく起き出でよ 「虚」

 反復は、古今東西の詩に用いられる基本的な技巧であり、閒石の専門である俳諧や西洋詩、更に近現代俳句においても重用される。句の音感やリズム等を司り、意味内容とは違う次元から、また相互に作用しながら句を演出する。

 律とは音節の量と強弱をめぐる規則性である。俳句や短歌の場合、もちろん音数律が基本だが、反復の連続性をもって形成するのが韻だとしても、あまりに短すぎて次の三句のような反復を韻と認めない見方もある(*1)。一方、俳句のもつ「口誦性」という特徴を念頭に、同様の効果を認めて「頭韻」と名付けているものもある。この場合、「陰干し」の句のように、閒石句に見かける「も」や「か」を体言等の語尾に付ける並列・反復形は、「脚韻」と呼べるだろう。分類・名称に拘っても、反復の機能に関する理解や認知が深まるとは思えないが、多くの俳句に見られる技巧であり、句全体を覆うリズムの生成や強調等に効果がある証左だろう。

 

 雨の日は雨こそよけれ柏餅  「虚」

   「雨」・母音(a)の反復

 春浅き渡り廊下をわたりけり

   「は」「わ」・母音(a)の反復

 梟の目の節穴の冬がすみ  「橋閒石俳句選集」昭62

    「ふ」・母音(u)の反復


 次の句は、音の技巧をさらに駆使する。

 お手あげの手をおろしたるところてん 「虚」

 揚句においては、「お」と「て」の反復や「頭韻」など、音の技巧を凝らすほか、「お手上げ」の意味をずらしたり、「あげるーおろす」の言葉回しなど、言葉の持つ音・リズムと意味の両面から遊びの粋を極めるような句作りである。ローマ字にすると、音の特徴も浮かび上がる。


 oteage no te wo orositaru tokoroten  

母音を抜き出すと  o-e-a-e o e o o-o-i-a-u o-o-o-e-(n)


 お(o)音の反復―母音韻を中心に組み立て、あ(a)音は句の前半後半に各々一つ、え(e)音を音節の後部に置く。一般的に、お(o)音の音感は「おごそか、荘重、おおらかで線が太い」というもので(*2)、音象徴性として「大きい」「奥深い」イメージを喚起することが指摘されている(*3)。

 閒石最晩年の句には「悠然」「飄々」「大人の風格」といった評がよくなされるが、その源泉には音感、韻律も一役買っており、これもまた閒石の中で、俳諧と英文学の素養が混然となった基盤に立つ成果と言えるかもしれない。


 以下は余談である。

 視覚では伝わらないものの、音読すると反復は魔術・呪術的な気配を呈することは往々にしてある。また日本語の場合、促音等の例外を除き、音節にはすべて母音を伴うため、音の面から母音の果たす機能は大きい。昨今の句においても、音の特徴に気付くことが多々ある。例えば次の句。

   あたたかなたぶららさなり雨のふる 小津夜景 「フラワーズ・カンフー」平28年

   atatakana taburarasa nari ame no furu

        母音を抜き出すと a-a-a-a-a a-u-a-a-a a-i a-e o u-u

 明るく、広がるイメージを喚起するあ(a)音を、母音韻また「頭韻」にも用い、う(u)音を最後に置き、ストンと落ち着かせて余韻を持たせる構造である。この構造は現代俳句にも例が多い。中七には「たぶららさ」という聞き慣れない、読みにくい体言をひらがなで記すなど、言葉の視覚や意味内容との絡みにも留意する。口中で言葉を転がせて、その音感を確かめたに違いない。閒石の「お手上げ」の句と構造はよく似ている。


*1 韻と認められるのは旋頭歌、長歌が限度となろう。

*2「俳句技法入門」 同編集委員会 飯塚書店 平4年

  秋元不死男、江湖山恒男の見解(出典不明)

*3 「音象徴の言語普遍性」篠原和子・川原繁人 『オノマトペ研究の射程―近づく音と意味―』ひつじ書房 平25年   

 音と意味との関係についてはS・ウルマン(「言語と意味」)、母音の音象徴性についてはR・ヤコブソン(「言語学と詩学」)等の研究を古典として、現在においても多くの実証分析がなされる。また、日本では、木通隆行が「音相学」を提唱し、イメージと音の構造の関係を「音相基」という階層で捉えようとしている。(「日本語の音相」 木通隆行 小学館スクエア 平16年)


★―3「高柳重信の風景」3/後藤よしみ

三 原風景の喪失と風景の仮構

1 原風景

 重信はその誕生の年に関東大震災に遭遇している。関東大震災の影響は重信にも及んでおり、そして震災については、「いきなり襲って来た関東大震災の混乱の中を、祖父の腕に抱かれて、まず大塚仲町から氷川下の方角に坂を下って行った」と人込みのなかの避難行がはじまる。さらに「それ以来、人混みに出ると大声をあげて泣くという性癖が数年続いたのが、その時の僕の顕著な反応である」と記す(「大塚仲町」『高柳重信全集Ⅱ』)。重信自身、当時のことを追想した文章を残している。 

〈いわゆる人間の言葉を、まだ一つも知らなかったころ、暗闇の中で理由のない恐怖におびえながら、ただ必死に泣き声をあげていた嬰児時代の、しんそこ切ない事実を忘れてしまってから、どれくらいの歳月が経ったというのであろうか〉。(「私にとって俳句とは」『全集Ⅲ』) 

 大震災後の東京を重信と同い年の池波正太郎は「情緒を失った町は〔廃墟〕にすぎない」とし、「東京の変貌は下町の人々の暮らしをすべて奪い取ってしまった」と述べている(『私が生まれた日』)。重信にとっても最初の重大な体験が一つの原風景の喪失となっている。 

 重信の記憶にある次の風景の思いでは以下のようなものである。自宅から南に坂を下りていくと護国寺があったが、その境内の一角には池があり、いつ頃からか食用蛙が住み着き、牛のような恐ろし気な声を上げていたという。子供心にも異様な魔物が闇のなかに潜んでいると記されている。

 そして、重信は幼年の頃より川に親しんでいる。 

〈草いきれの中の荒川に白い帆を張った舟が絶え間なく往来するのを眺めるのも、(略)都会育ちの僕には珍しい経験であった。更に、僕には大叔母にあたる霽月夫人が作ってくれる醤油味のカレーライスも珍しかったし、ときには「常見の栄ちゃん」が器用に櫓を操る舟遊びも、実に楽しかった〉。(「霽月句集あとがき」『高柳重信散文集成第七冊』) 

 また、荒川以外にも小石川の川でもよく遊んでいる。

  智慧もなく行く水もなき川の景 

 ざぶざぶと子供が歩く川の中     『山川蟬夫句集』 

   これらの句に永田耕衣は、次のような評を寄せている。 

〈高柳重信の幼年期ないし少年期に、間隙なく嬉々として食いこんだ小川風景かと思う。高柳重信なる少年が、純真無垢に佇っている愛すべき絶景的小品である。(略)ここには少年が生誕し成長しつつあった無心の原郷、その活潑々地が、むしろ酷烈にさえ親しめる境位がある〉。(「童心即高柳重信」『全集Ⅰ』) 

 耕衣が指摘するように川は重信の原風景の一部となっており、耕衣が現代古典風な完成感という多行形式にも水・川の句と共に河口・海の句がみられる。そして、俳句作品にも影響があらわれていると言えよう。 

 海へ       枯木らよ    暗かりし 

 夜へ    *  これは   * 母を 

 河がほろびる   河口の     泳ぎて 

 河口のピストル  楔形喪章    盲ひのまま 

 『蕗子』      『罪囚植民地』      『遠耳父母』 

 安井浩司は、これらの句から重信を「詩人としてその憧憬的位置が河口的である」句と指摘し、「そういう〈水〉と〈遊泳〉への憧憬といった潜在感覚が一貫している」と語っている(『海辺のアポリア』)。このようにして、川という存在が重信の内部に深く食い込んで流れていることが感じられる。 

 この川の存在は、誕生時の関東大震災の影響とともに重信の奥深いところにとどまりつづけ、後年の作品群へとつながっていったと言えるかもしれない。その一つの証としては、『山海集』の散文に「不思議な川」という重信の脳裏にしばしばあらわれた川の存在を指摘することができるだろう。 『山海集』は、一九七六年に発刊。八十四句とともに二十六ページにもおよぶ散文「不思議な川」を収める。 

〈しばしば僕の脳裏に出現した不思議な川は、あるいは小石川の名残りの流れであったかもしれないし、また、あるいは、如何なる具体的な川でもなく、まさに小石川という地名そのものの幻の流域であったかもしれないのである〉。 

 ここには、幼年・少年時代の川の体験が流れ込んできており、川の原風景と言うべきものであろう。 次の『日本海軍』においては、国名、山・川名など地霊を喚起する言葉があらわれるが、それを巡るものとしての川の流れがここに見られている。この川は夢のなかにもあらわれてきており、言葉に対する水平のアプローチにとどまらず、重信はこれを意識の深層にまで掘り下げてゆくという垂直のアプローチをとっているようだ。


2 喪失体験

 幼年期・少年期における死の体験は、自然への感受性や風景の感覚の形成に深く関わることがあるといわれる。喪失体験のある子どもは、感情的・行動的・身体的・スピリチュアル的な反応を示し、それが成長過程での自然と風景の関わり方に影響を与えることがある。例えば、幼少期に身近な大切な人やを失った経験がある子どもは、自然の中でその存在を感じたり、風景に特別な意味を見出したりする。

 重信の場合、死との最初の出会いは三歳の時であった。 

〈それは、軒を接して立つ隣家の二階の硝子窓を通して眺められた薄暗い部屋の光景で、そこには、中央に蒲団が敷かれていて、ひっそりと一人の女が臥ている。なお、よく眺めるとその女の顔には白い小さな布が掛けられ、また、蒲団の裾のあたりに脇差し風の刀が置かれているのが、何とも異様であった〉。(「不思議な川」『全集Ⅰ』) 

 亡くなったのは、重信の祖母の姉の一人娘で、女学校卒業を待たずに望まぬ結婚を強いられ、猫いらずを呑んだのであった。この話を重信は母から度々聞かされたという。 

 また小学校時代の遊び仲間も後年、幾人も亡くなったが、重信は「密書ごっこ」(『全集Ⅱ』)などのエッセイのなかで友人の死について書き残している。 

 A君。「密書ごっこ」の密書を懐中にして逃げる役で、A君の家の禅寺で追いかけまわっていた。鞍馬天狗の時代である。寺を継ぐべく禅坊主の名前に変わった翌年、中学五年の時に数日病んで急逝する。B君。重信と一緒に小学校で剣道をやり、勉強も良くでき、重信と六年間、首席を争っていた。大学ではフィールドホッケーの選手となったが、わずか一夜で急死した。C君。「水雷艇」は「間諜」に勝ち、「駆逐艦」に負けるという三すくみの遊びがあった。彼は「駆逐艦」の代りに「大砲」を入れての遊びをはやらせた。C君は、学徒出陣で戦艦大和に乗り、特別攻撃により遂に帰らなかった。D君。「ダルマサンガコロンダ」では、D君の見解で「ヒトツ・フタツ・ミッツ」と正確に数えるようにして遊び、横丁ではひそかな誇りとしていた。D君は、医学生となり、そして長崎で原子爆弾の犠牲となっている。 

 重信に対して弟は従順でまた無口であったが、誤診の結果、一週間ほど病んでわずか六歳で亡くなってしまう。重信が八歳の時であった。 

〈その夏のある一日、私は群馬県の母の実家にいた。そこは真言宗の小さな寺で、(略)いたるところに凄まじいばかりの蟬の声があった。(略)そのつもりになって眼をこらすと、八歳の少年の手のとどく高さにも、実に多くの蟬の姿があった。草刈り鎌を発止と打つと、いとも簡単に、次から次へ蟬は死んでいった。「お前ばかりを死なせないぞ」と声に出して言いながら、私の殺戮は続いた。(略) 

   いま、私は、山川蟬夫という別の筆名を持っている。(略) 

     六つで死んでいまも押入に泣く弟 山川蟬夫〉(「蟬」『全集Ⅱ』) 

 これらの身近かな死の体験がその悲しみや喪失感を埋め、そして表現する手段として重信を文学・詩歌に導いていったとは言えないだろうか。そして、重信の青年時代の宿痾発症と闘病生活のなかで醸造され、鋭敏な感受性として研ぎすまされ俳句作品に反映していったと思われるが、そのことは次の文章からも伝わる。「かつて重信に会ったとき、重信は時々死者が背中を触ってゆくことがあると、こともなげに言った」(林 桂『船長の行方』)。その一端は、『蕗子』以降の作品群のなかに見ることができる。 


3 風景眺望

 重信の小学校の三階建ての屋上からは、校歌の一節、「富士の高根に筑波嶺に」と歌われているように、富士山も筑波山も見えたという。そして、 重信は度々屋上に上り、そこからの風景を眺め、後年の詩心を育てていたようである。 

〈日々、その姿を眺めてくらすことは、やがては、その間近にあって、それを仰ぎたいという心を養い続けることであり、そしてまた、いつかは、その山に登ってみようとする思いを、具体的に確実につのらせ続けることでもあった。その山には、それにふさわしい霊魂がひそんでいると信じられていた時代であれば、それはすなはち、人間の精神と直接つながる思いであったわけである。(略)それは、ある一つのものが喚起する人間の精神や感情に、相互に共通した普遍的な感情を、あらかじめ期待することが出来る基礎でもあった。そして、この俳句表現の一つの特徴である即物的な発想も、そのような感受性の基礎がなければ、とても成立する余地はなかったろう〉。(「俳句の廃墟」『全集Ⅲ』) 

 屋上からの眺望の体験は、重信にとって貴重なものとなった。宿痾となった病気のために長期入院した際にもこの風景眺望の体験が再生され、重信の句業の後期の再出発とも言える「風景の発見」へとつながってゆくことになるのである。 


4 原風景喪失

 太平洋戦争末期、1945年3月の東京大空襲では、

〈更に近づくと、眼前の小さなビルが凄まじい勢いで焔を吹きあげており、その後方の家並みは赤赤と燃える熱風の中に蜃気楼のように揺らいで見えた。空を見上げると、雲も真赤に焼けていた。僕たちは、思わず息を吞んで無言のまま立ちつくしていた〉。(「大塚仲町」『全集Ⅱ』) 

と大火災を目撃しているが、重信の実家の小石川も4月・5月の空襲により焼け野原となる。これにより、東京から離れ、重信にとっての母郷小石川という原風景を失うことになる。

 この原風景については、奥野健男が『増補 文学における原風景』のなかで、次のように述べている。原風景はその個人の自己形成空間であり、作家にとっては文学の母胎であり、母なる大地である。それにより、作家の書くものに原風景は色濃く投影され、それは深層意識から作家の文学を決定する。ただし、それは客観描写できぬ風景としている。そして、また中川理は『風景学』おいて、失われた原風景の場所の再生はあくまで代償として生み出され、仮構される場所となるという。


5 新たな国土風景の『伯爵領』

 その失われた原風景の小石川に代わる新たな場所は、『伯爵領』である。重信はこう述べている。「まず『伯爵領』という架空の自治領を生み出し、その領内を巡察しながら次々と架空の地名を与えてゆき、そこから若書きの作品を飛翔させていった」(「新しい歌枕」『全集Ⅲ』)。 この「自治領」は、『伯爵領』に記載されている「伯爵領案内繪圖」を見ると海に面している。そこには、「花火の谷間」「碑銘の丘」「虎の斑の岬」「泯びの河口」などがあり、これを巡る句群になる。これは、後の『日本海軍』での地名、国名などの歌枕の句を巡るスタイルと通底するものがあり、その国見・道行の先取りとも言えるだろう。


  遂に 

    谷間に                      

  見いだされたる 

  桃色花火          「花火の谷間」

    *

  花茨

  碑銘の丘に

  蛇は架けられ      「碑銘の丘」

    *

  虎の

  斑の

  岬の

  青き

  淡き

  祭                 「虎の斑の岬」

    *

  海へ

  夜へ

  河がほろびる

  河口のピストル   「泯びの河口」『伯爵領』


●―10「明治は遠くなりにけり」論争/筑紫磐井

 松田ひろむ氏が、「蠍座」5月号で神保と志ゆき氏の論(東京都区現代俳句協会高田馬場句会2024年10月報告)を引き、草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」(昭和6年3月ホトトギスに掲載)に対し志賀芥子の「獺祭忌明治は遠くなりにけり」が先行したと言われるという説を取り上げてそれが誤りであることを指摘している。「降る雪」の句の先行句が「獺祭忌」であると主張をしたのが嶽墨石(小穴忠美)の「旅と俳句」36年9月号の記事とされている。ところが、神保氏によれば、芥子の句が実は「雲母」系句集に発表した「菊花節明治は遠くなりにけり」という句(出典は2種類あり、昭和9年刊の『続水門』という句集に掲載の句と「雲母」昭和10年1月号「春夏秋冬」に掲載の句)であり、これらは草田男句の後の発表であったことを明らかだと言っている。これによれば、草田男句への盗作の誹謗は根拠ないものとされるし、その一方で「獺祭忌明治は遠くなりにけり」という句も存在しなかったことになる。

 草田男の句の生まれた経緯は非常にミステリアスで私も以前から関心を持っていたので若干論争に一石を投ずる指摘をしたい。実は関西の俳句雑誌「同人」昭和24年12月号「同人俳句」欄に

 獺祭忌明治は遠くなりにけり 岩国 梧葉

として句が発見される。作者梧葉という人物は菅裸馬主宰「同人」に所属する木村梧葉で、山口県岩国の木村梧葉という名の俳人は「若葉」、「同人」、「春燈」などに投稿しているが、多分同一人物と思われる。現在ほんど知られていないが岩国俳壇の重鎮であったようで、岩国俳句協会の会長を務めていた。高橋金窗会長(後に第4代「同人」主宰)の後任にも当たる。

     *

 色々推測できるが、嶽墨石が36年9月号の記事を書く際に、志賀芥子の「菊花節明治は遠くなりにけり」を引用する時に木村梧葉の「獺祭忌明治は遠くなりにけり」に書き誤ったとも考えられる。しかし墨石は芥子と「獺祭忌」の句として議論している(墨石は、芥子から草田男句についての類句取り消し要求の相談を受けた)ことになっているからこれはあり得ないだろう。嶽墨石の発言そのものが、根本から相当信頼性がないと推測すべきだろう(「菊花節」の句のようなきっかけがあったことはたしかだろうが、それ以外の状況はすべて批判的に見直す必要が出て来た)。

 一方で、「「獺祭忌明治は遠くなりにけり」」そのものについては、木村梧葉は時期的に見ても墨石の記事(36年9月号)を読んでいないわけなので、志賀芥子、嶽墨石の影響を受けて「獺祭忌明治は遠くなりにけり」と詠んだわけではないことは明らかである。あり得るとしたら草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」を読んで影響を受けたという方が草田男の句が著名なだけに可能性が高いかもしれない。

     *

 すなわち、草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」(ホトトギス昭和6年3月に掲載)は、東大俳句会欄と雑詠欄の2つに登場しており、東大俳句会欄では6年1月9日の句会(丸ビル集会室/兼題寒紅・鯨と席題雪・宝船)で「虚子先生作句並びに選句」として掲げられ、雑詠欄では松本たかし、星野立子、川端茅舎に次ぐ第4席で掲げられている。

 さらに後のホトトギス5月号「雑詠句評会(第61回)」では、秋櫻子、たけし、虚子がこの句を評しており、ことに秋櫻子は長い評を書いているが、「此の句は全体としても隙がないが、殊に「降る雪や」といふ五字が巧みだと思ふ。これは目の前の飛雪の光景をよく現はし、随つて自然に昔を追懐する心を引き出すもとになつてゐるのである。」と激賞し、虚子は「降る雪に隔てられて明治といふ時代が遠く回想されているといふのである。情と景とが互に助けて居る。」と述べている。「獺祭忌」でも「菊花節」でも成り立たない評であった。「降る雪や」の名作性は、それが詠まれた時点ですでに確定していたのである。花鳥諷詠派(虚子)にあっても、新興俳句派(秋櫻子)にあっても事情は変わらなかった。


★ー5清水径子論5 /佐藤りえ

 飴ふくみ寒の濃き水婆使ふ 昭和40年(54歳)

 引き続き『鶸』より。飴を口に含み、それを食べきらぬうちに寒の水を使う。少々お行儀の悪い行為にも見える、この行動に「婆」を自称する書きぶりはユーモアなのか、自らを蔑む、あえてへりくだってのことなのか。

 『鶸』には自称「婆」の句が散見する。

 花柊動くよカサッとコソッと婆  昭和42年(56歳)

 朝顔・雀・婆がもつとも朝よろこぶ  〃

 八月や奈良に婆きて癇の声  昭和43年(57歳)

 凍る蜜もどしほんとに婆濁る 昭和47年(61歳)

 花柊の句は花の動きに直接「婆」が接続しており、花のみならず「婆」自身もカサコソいっているかのように見えてしまう。「朝顔・雀・婆」は加藤知世子の「婆・嫁・乙女の黙が深まり紙漉きだす」と関連があるだろうか。集中の自称には「われ」が使用されている例もあるがわずかだ。一人称を「婆」とするのはかなり異色な気がする。

 『鶸』出版時、径子は六十代に入っている。昭和四〇年代は一般的な会社員の定年が五五歳の時代である。六十代が自身を老境と自覚するのは社会通念上自然なこととも言える。しかし掲句の作成年次はそれぞれの句の末尾に挙げた通り、径子は五十代からすでに「婆」を使っている。老境を示すには早いのではないか。さらに、実生活上の年次と作品に詠み込むことがイコールである必要はない。自覚、認識がどこにあるか、どのように表すか、どのように見えるかを自覚した上での一人称が「婆」とは、自身を扱う手が厳しいというか、虚飾を払うにしても、少し過剰に感じられる。

 雪を除きて茣蓙一枚の婆の春  加藤知世子

 切れ切れのげんげの路を老婆来る  津田清子

 過去見るかに老婆泉を長眺め  橋本多佳子

 神輿来て戸口をふさぐ婆の腰  桂信子

 跣にて婆が物売る仏生会  阿部みどり女

 「我」でも「女」でもなく「婆」を詠み込む作品はもちろん存在するが、それらは必ずしも自称とはかぎらない。加藤知世子の「婆の春」などはクッション的な使われ方、わずかな幸福感を表す効果を感じるが、津田清子、桂信子、阿部みどり女の「老婆」「婆」は他者を指すものと思われる。なお、男性作家が「婆」を活写した作品は枚挙に暇が無い程に存在する。

 婆殿の忌日忘れそ蓬餅  正岡子規

 金輪際わりこむ婆や迎鐘  川端茅舎

 婆が手の蕨あをしも花曇  石田波郷

 竹藪あり爺婆をりて初雀  山口青邨

 盆芝居婆の投げたる米袋  沢木欣一

 「婆」は能面「姥」がごとく、記号的に老いた女として使用され、固定されていた、とも考えられる。


 藤垂れてこの世のものの老婆佇つ  三橋鷹女

 老婆切株となる枯原にて

 街道に咲く痩カンナ痩老婆

 三橋鷹女も「婆」あるいは「老婆」を多用している。鷹女の用い方では観察の対象としての「婆」もあるが、自身を「老婆」と自称した作品が散見する。どちらかといえば、鷹女の方が「老婆」に対して容赦ない。径子は「氷海」26号に鷹女の『白骨』評を寄せている。鷹女への私信のような形式で、鷹女の自由奔放さ、「ロマン主義を基調とした抒情を知性的な把握によって昇華させている」と賛辞を送ったのち、「老いづまの泳ぐに水着かなしめり」「人の世へ覚めて朝の葱刻む」などを引いて、 

先生はたへず自己と自然の中に青春を見てゐられるといふことを深く深く感じたのでございます。「詩に青春を」といふことは、詩は年寄つてはいけないといふことではないかと思ひます。(清水径子「女のかなしさなど―「白骨」を読みて― 」/「氷海」26号・昭和29年)

と綴っている。「老いづま」という書きぶりの上で、水着を「かなしむ」含羞のあざやかさに打たれている。『白骨』は「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」が収録された鷹女53歳の第三句集。径子より十歳ほど年長の鷹女は、この頃富澤赤黄男の「薔薇」に参加、自由に力強く読み継ぐ鷹女に径子は感化されるものがあったのではないか。鷹女の存在によって、抵抗なく「婆」と自認、自称することができたのではないか――とは、少々強引な思いつきである。

 はじめから年とつて居る婆・瓢 『哀湖』

 雪婆ぐうたら山を昼に発ち 『夢殻』

 老婆うらがへせば春の蚊が鳴けり

 老女うすべに一日暑い日と思ひ

 包んであげる冬老人は花の色 『雨の樹』

 第二句集『哀湖』以降、自称「婆」はほとんど姿を消す。掲句にある通り、自己像というより、総体としての「婆」を包みこみ、慰撫するがごとき詠みぶりへと変化した。「雪婆ぐうたら」「老婆うらがへせば」の鷹揚な詠い口は、後の師・永田耕衣の影響によるものだろうか。ところで男性作家が自らを「爺」と称する作品はあらためて考えるとあまり思いつかない。一句二句はあれど、継続的に自らを「爺」とするのは憚られる、といったところか。永田耕衣は「老い」をふんだんに詠み、自身を「翁」あるいは「老人」と称しているが「爺」ではない。

 きさらぎの風にも覚めぬ翁かな  永田耕衣

 源流に腰かけて居る翁かな

 ぼんやりの素老人行く秋の浜

 日覆してカーテン引くや夢老人

 老人や何食つて裂く椿の枝

 野を穴と思い跳ぶ春純老人

 「粗にして野だが卑ではないつもり」は財界から国鉄総裁に転身した折の石田禮助の言葉。「爺」「婆」は蔑称の一種ではある。野趣あふれつつも卑しからず、永田耕衣の老い放題に老いる句のさまを見ていると、そんな言葉が浮かぶ。


●―15中尾寿美子の句/横井理恵

2011年09月16日

 手をかざす卯波の沖へ晩年へ      『草の花』

 『草の花』は寿美子五十台後半から還暦前後までの句を収めた第三句集である。句集全体の印象を一言で表すなら、「淋しい」であろう。身近な人々の老いや死に寄せる思いと、自らの老いを見つめるまなざしには、淋しさが満ちている。旅行吟などで夏の句はあるのだが、句集全体の印象は「秋から冬」そして「まだ浅い春」といったところである。

 その中で、夏の句を取り上げるとしたら、掲句だろうか。「今も沖には未来あり」といった青春性だけでなく、遥か沖を見はるかすまなざしは、こうして、自らの老いを見据えるものでもあり得るのかと、はっとさせられる。「手をかざす」という行為には、単に目をやるだけではない意志の力がある。「老病死」の哀しみから目をそらさずに、「生」をかみしめていこうという姿勢が示されていると感じる。

 晩年の眉消えかかる青葉寒

 しなやかな脱け髪悼む晩夏かな

 これらは、夏の句といいながら、生命力の衰えを感じさせる句であり、「夏の句」として掲げるには躊躇してしまう。若い時には艶々とした黒髪を誇りにしていたからこその嘆きなのだろう。現代では還暦はまだ現役真っ盛りという気がするのだが、寿美子にとって、人生の夏は、もう過ぎ去ったものとして捉えられていたようだ。

 寿美子は、この句集『草の花』でとことん「哀しみ」や「淋しさ」と向き合う。そして、第四句集『舞童台』以降、何かから抜け出したような「明るさ」と「勁さ」を備え始めるのだ。

 誰がこゑか泰山木にきて咲けり    『舞童台』

 長生は滝より滝へ懸りけり      『老虎灘』

 定型の中に暫く虹立てり       『新座』

 具象とか客観とか、そんな重力から解き放たれた「夏」が、これらの句には輝いている。偏在する寿美子の精神が捉えた「夏」である。この自在さの境地に至る道は、あの時に見据えた、卯波の遥か沖の晩年、そこへの一歩を踏み出した時に始まったのだと思う。(了)

【連載】現代評論研究:第10回総論・攝津幸彦 1 執筆者:関悦史・筑紫磐井・北村虻曳・堺谷真人・北川美美・堀本吟

 2011年09月23日

 今回取り上げているのは、2011年4月から始まった「詩客」の「戦後俳句史を読む」の連載であり、9月までに筑紫磐井・北村虻曳・堀本吟にゲストを加えて戦後俳句や川柳についての座談会を行いその概要をまとめたものである。連載開始して半年ほど経過し話題が一巡した後、もっとホットなイシューを取り上げようと相談し、攝津幸彦をとりあげて連載してみようと考えたものである。攝津幸彦は1996年10月に亡くなっており、没後15年経過している。この間、豈では6回の特集を組んだがちょうどいいタイミングとなったと考えた。


豈28号(1997年6月30日)特集回想の攝津幸彦

豈43号(2006年10月1日)特集攝津幸彦論・特集攝津幸彦の生きた時代

豈44号(2007年3月31日)大南風忌記念講演会

豈49号(2009年11月25日)特集安井浩司と攝津幸彦の彼方に

豈60号(2017年11月25日)特集29歳の攝津幸彦

豈67号(2024年11月15日)特集「攝津幸彦百句」


 今回復刻するものであるが、2025年10月は攝津幸彦の30回忌に当たり、回顧のタイミングとしては相応しい。「俳句四季」では「LEGEND~私の源流~」で10月から3回にわたり攝津幸彦の評伝が掲載される予定であり、それに先立ついいタイミングとなると思う。(筑紫磐井)

     *      *

はじめに

 攝津幸彦(1947~96)がなくなってからもう15年経つ。昨今話題となっているゼロ年代作家たちが登場する前にもう冥界に旅立ってしまった夭折の作家である。しかし、ゼロ年代世代の作品の全てが攝津から始まったと言っても良いような気がする、というと批判を受けるだろうか。

 戦後俳句を総決算するような、虚子と前衛俳句を足して2で割ったような、そして俳句が最後に文学で有り続けようとした証拠であった作品を残した作家は、「戦後俳句を読む」に登場してもおかしくなかったが、あまりにもメンバーにちかすぎた故に手を挙げる人がいなかった。

 今回、亡くなった10月13日に向けていくつかの鑑賞、論考を集めて掲載することとした。集めてみると1回分に相当する大量な分量になったので「戦後俳句を読む」の1回を使って特集する。読者は、この天才に思いを馳せていただきたい。(筑紫磐井)


●関悦史 3編

 外科室の雀わけなく蛤に(鹿々集)

 秋の季語の「雀蛤となる」、空想上の季語なので、ふだんは慣用句のように自動化した言い回し、単にそういうものとして受け流すだけなのだが、ここに「外科室」が介在することで、何か実際に医学的な施術を受けてスズメがハマグリに変身したような妙な印象が生じている。

 さらに曲者なのが「わけなく」で、この語によって、まともに考えれば物理的には到底不可能なはずの、異生物への改造手術という難事があっさり実現されてしまっているように見える。スズメの体内のひとつひとつの器官や細胞、臓器や骨格が内側からCGのように軽やかに分解されては瞬時に新たな組成を生み出し、ハマグリに変貌していくさまを思わせ、静かで軽やかでありながら同時にグロテスク。

 「外科室」で一旦物質化された「雀/蛤」が「わけなく」であっさりと再度非物質へと戻される往還運動により、言語という抽象物のなか以外ではなし得ぬ、言語のなかでのみあらわにされ得る生命現象の無気味さというものを見せられた思いがする。

 そこでもう一度「雀蛤となる」が単に秋の季語であるという地点にまで立ち戻れば、この句において視覚的に残るものは、あっさりと秋を迎えてしまった空漠たる外科室のみとなる。スズメもハマグリも無論いない。

 いのちとは、言語のなかでの扱われかた、分節のされかたひとつで現われたり消えたり、見えたり見えなかったりする、認識と意識の内外を自在に跨ぎ超えてしまう、つかみどころのない現象なのであろうかという不可思議の感も湧く。


 かたつむり常の身を出す空家かな(四五一句)

 普通に読めば「空家」から「かたつむり」が出てきていると、ただそれだけのことに見えるが、「常の身」の「常の」とは一体何か。

 わざわざこう断わられると、「常ならぬ身」を「かたつむり」が出す潜在性というものも考えられ、空家というものが持っている、懐かしくも「常ならぬ」想像を喚起させる詩的な力、その化身として「かたつむり」が「常の身」をのぞかせているような具合にもなってくる。

 あるいはこの「空家」は人家のことではなく、「かたつむり」の殻のことかもしれない。

 「かたつむり」が「常の身」を外に出している間、殻のなかには「かたつむり」の身はないので、それを「空家」と呼べば呼べる。

 しかし殻といえども身と分離することが不可能な「かたつむり」の身体の一部ではあるのであり、そう考えるとこの「空家」は、つねに「かたつむり」にまといつき、その一部をなす、死の影のごとき空虚ともとれる。それは「かたつむり」に限らない全ての生命体が持っているものだ。「常の身」を出すことができるというのは必ずしも恒常的にいつまでも続きうる事態ではなく、その期間は限られている。それでこの「かたつむり」は誰かといえば、いつの間にか読み手であるあなたであり、私になっている。あとには「空家」ばかりが残る。


御子様ランチ白き夏野の中にあり(四五一句)

 高屋窓秋の《頭の中で白い夏野となつている》は、意識そのものが空白にまで近づく、或る極限的な失語と茫然のなかに現われた自然のイメージを掬っているが、この句ではそこに「御子様ランチ」が置かれている。

 失語と茫然のなかに不意に幼年期の記憶や郷愁が介入したというべきか、むしろ失語状態が郷愁へと心を導く通路として用いられているというべきか。

 不意に介入した要素がもうひとつある。色である。ざらついたモノクロームの映像を思わせる「白き夏野」に対し、「御子様ランチ」のカラフルさが介入しているはずなのだが、しかしそれらは一句のなかでは曖昧に馴染みあっているようで、一句全体がとりむすぶ映像としては色があるともないとも見定めがたい。その各部の明晰さと全体の曖昧さの矛盾と両立が、一句を夢の時空に似たものへと仕立てあげている。


●俳句の本源   筑紫磐井

 攝津幸彦が亡くなって15年もすると、攝津が亡くなっていたときにおかれていた環境とずいぶん違った環境が今は生まれているように思う。攝津を愛し、また攝津も愛した、三橋敏雄、鈴木六林男、佐藤鬼房、桂信子、永田耕衣と言った先達もなくなった。攝津が意識せざるを得なかった、飯田龍太、森澄雄といった対極の人たちもいなくなった。一方攝津が想像だにしていなかった、俳句甲子園世代や、芝不器男賞世代が次第に登場してきている。三橋敏雄や飯田龍太の対比で読まれて意味を持つ作品群が、新しい世代の中でどういう意味を持つか、興味深く眺めている。

 というのも最近、虚子について話し合いをしたときに、

 浅草になく鎌倉で買う走馬燈  高濱虚子

という句が取り上げられた。この句は、詠んだ虚子の意図を離れて、これが俳句というものだと現代の若い作家には受け取られているのではないかと議論がされたからである。もちろん詠んだ虚子の意図などは決して分からないのだが、三〇年程前にこの句に出会って否定的に見ていた我々とは違う評価が現代の若い作家の間では生まれているのではなかろうかという気がする。もっとつきつめて言えば、誰も真似などしなかった「走馬燈」型の俳句が現代の若手の作品に現れているような気がすると言うことであった。

 虚子の句の是非を問うわけではないので、あまりこの句について立ち入ることはしないが、攝津の句もこうした理解から、新しい解釈やとんでもない解釈が生まれているような気もする。

 蝉しぐれもはや戦前かも知れぬ 攝津幸彦

 この句は、知らぬ間に戦前が来ているかも知れぬと言う、フラッシュバックしているような現代の逆コースを詠んだものと理解していた。しかし時間を逆転すれば、常に時代は逆行するという恐怖をや不安は普遍的な感情かも知れない。この夏、全国の高校生が競い合う俳句甲子園の審査委員として招かれていったが、今年の最優秀作品に選ばれたのは、神奈川県立厚木東高校の次の句であった。

 未来もう来ているのかも蝸牛 菅千華子

 審査員を代表して高柳克弘が未来のすべてが出きってしまっているかもしれないという思いを詠んだと解説していたが、戦前が現代に到来するのと逆方向に時間の流れが移動して、未来が現代に到来すると見られなくもない。私は入賞決定に当たっては、攝津の句があるなあと若干躊躇したが、他の選者は気にもとめなかった。攝津幸彦自身マイナーであり、この句が知られていなかったせいもあろう。高校生だから盗作のおそれもないしそれほどとがめることではないかも知れない。むしろ気になったのは、尖鋭的と思われた攝津の発想が、現代の高校生の意識の中で自然に発生してきてしまうことだ。習わないでも生まれる言語感覚は、俳句の本源的な本質といえるであろうか。


●攝津幸彦を読む  北村虻曳

 攝津幸彦の作品から立ちのぼってくるものは肯定性である。彼に対するインタビューや「豈」同人に伝わる気風から察してもそれを感じる。ここで言う肯定性、極めつけはジョージ秋山(「ビッグコミックオリジナル」)の名作『浮浪雲(はぐれ雲)』の主人公「雲」の性格である。日常を楽しく受け取ると言うことである。攝津の場合、自分の病を自覚してからも、そのことの作品への反映は極小であるのはその現れだ。また、悲壮な長男ではなく、皆に受けとめられているという「末っ子長男」的心性もあるだろう。

 一方で

 幾千代も散るは美し明日は三越 『鳥子』幻景

 川に落ち山に滑りて戦地とす

 襟立ててハルピン破れて異国かな

に前後する一連のように戦争をネガティヴに描く作品も多いが、批判と言うよりもノスタルジーが主眼である。むろん、ネガティヴであるから、七五三のポスターに見るような空疎な古き良き日本肯定とはかけ離れている。むしろ攝津の学生時代は、「革命的な、あまりに革命的な(絓秀実)」時代であり、あらゆる権威は笑うべきものであった。したがって、詩客『戦後俳句史を読む・第7回』で堀本が挙げているように、初期は5・7・5型式でなにができるかを試している。後期においても、

 文禄元年春以下百字読めずに候 『四五一句』

など、穏健ながら詩形の短さの無責任にも居直ればよいという発見である。

 しかし彼は、観察家や分析家ではなかった。写生とはおよそ異なる方向に向かう。山口誓子のような対極的存在を思い浮かべるとよい。発見を言葉で正確に表現するよりも、ことばを風に流しもっとも豊かと感覚される瞬間を定着するという詠み方である。したがって彼の作品は無意識の方向にふくらみエロスをはらむ。

 踊り子の曲がりて開く彼岸かな 『與野情話』

 ばれているのか。しかしそんな読みでいいのか。この句にはもっと遠くが見えるではないか。この種の惑わしは彼の常套手段である。

 豊かさとは世に言う豊かさではなくて、言葉の組みあわせの機微・文目が多くの妄想をかき立てると言うことである。

 南浦和のダリアを仮のあはれとす 『鳥子』

 殺めては拭きとる京の秋の暮れ 『鳥屋』

 湯畑の小屋をとんぼが押している 『鹿々集』

 解析しても理解が進むわけではない。感得すべきものである。しかし彼の基調音は、反権威性と手を取り合ったおおらかな肯定性にあると言えるだろう。

(作品は『攝津幸彦選集』(邑書林2006年)によった。)


●Haiku from the Ruins~攝津幸彦小論~         堺谷真人

 1945年6月9日、土曜日、午前08時30分。米軍第58爆撃団所属のB-29戦略爆撃機40余機が兵庫県武庫郡鳴尾村に来襲した。任務番号第191号。目標は川西航空機鳴尾製作所。大日本帝国海軍の二式飛行艇や紫電、紫電改などの戦闘機を製造した軍需工場である。

 目標上空の天候は曇り。使用されたのはAN-M65 1000ポンド通常弾。高度2万フィートからの精密爆撃は約30分間続き、投下弾トン数は263.5トンに達した。任務終了後の航空写真では、工場総屋根面積の69%に破壊乃至損傷が見られ、施設の26%は修復不能と推定された。

 2ヵ月後の8月6日、月曜日。米軍第73、第314爆撃団に所属する250余機が阪神間に来襲した。いわゆる「阪神大空襲」である。任務番号314号。目標は西宮から御影にかけての都市部。作戦任務報告書の「目標の重要性」には、この地域が大阪と神戸の大企業に部品を供給する下請中小工場地帯であることが記載されている。写真偵察では市街地の32%の破壊が確認された。西宮に隣接する鳴尾村も罹災。爆弾、焼夷弾の大量投下により村域の大半が灰燼に帰した。

   ◆   ◆   ◆

 攝津幸彦は1947年1月28日に兵庫県養父郡八鹿町に生まれた。2歳のとき鳴尾に移り住み、以後、10余年をこの地で過ごした。筑紫磐井が『攝津幸彦選集』(2006年・邑書林)に寄せた文章「語録・文章・俳句から」には、幸彦自身による鳴尾時代の回想が見える。

戦争が終わって十年にもなるのに海へ続く運河沿いの飛行機工場の後は黒く焼け焦げた瓦礫の山でコンクリート片からニョキニョキと鉄筋がむきだしに伸びていた。あちこちに水溜りがあってその水は廃墟に似つかわしくなくいつも透き通っていて目高が泳いだりしていた。運河の堤防へ続く土手は春には蓬草が一面を覆い秋ともなると堤防の上から黄金の麦畑が一望できた。

(「中烏健二句集<愛のフランケンシュタイン>の思い出」より)

 幸彦に直接の空襲体験はない。が、空襲が残した廃墟こそ彼の遊び場だったのである。焼けただれた瓦礫、銹びた鉄筋、そして爆撃であいた大穴の水溜り。あたりを掘り返せば、高温で溶融した金属やガラスの破片が容易に見つかったことであろう。

 戦争体験者と非体験者。両者にとって同じ廃墟が異なる風景を見せることは想像に難くない。敵の猛攻で完膚なきまで破壊された軍用機工場の廃墟であれば尚更である。鳴尾製作所の跡地に立つとき、戦中派は否応なく戦争の記憶と向かい合わざるを得ない。一方、戦後生まれの少年にとって、そこは物心ついた頃からの生活圏の一部であり、日常生活の先験的与件に過ぎなかった。赤茶けた焦土の中から重厚な歯車やボルトを見つけた少年は、よしんばその造型や質感に即物的な興味を示すことはあっても、それらが本来持っていた意味、あるいは意味の喪失について思いをめぐらすことは稀であったかもしれない。

    ◆   ◆

 ところで、代表作「皇国前衛歌」について、雑誌「太陽」のインタビューに応じ幸彦は次のような発言を残している。小学校三年ぐらいの頃、母親の実家にあった昔のSP盤を電気蓄音機でよく聞いていた。それがほとんど軍歌だったため、「露営の歌」などの歌詞を意味も分からずある種のムードとともに丸暗記してしまった、云々。軍国主義や戦意高揚といった歴史的文脈とは無縁のところで幸彦が「皇国的語彙」に馴れ親しんでいった経緯がよく分かる。

 皇国(みくに)且つ柱時計に真昼来ぬ

 送る万歳死ぬる万歳夜も円舞曲(ワルツ)

 若ざくら濡れつつありぬ八紘(あめのした)

 満蒙や死とかけ解けぬ春の雪

 幾千代も散るは美し明日は三越

 南国に死して御恩のみなみかぜ

 皇国、万歳、八紘、満蒙、散るは美し、御恩・・・。これらいわば「皇国的語彙」に対して多くの日本人は戦後長く気まずい思いをしてきた。それらは戦前・戦中の軍国主義の記憶とあまりにも強く結びついているが故に否定すべき過去の遺物とされる一方、一部の戦中派にとっては根強い郷愁を呼び起こす特別な言葉であり、更に同一個人の中で否定・肯定どちらとも見定めがたい両義性を持つことさえあったからである。

 いずれにせよ、「皇国的語彙」はその濃厚すぎる歴史性・意味性のために、俳句の構成要素としては取り扱いにくい言葉であった。意味の牡蠣殻が厚く付着して詩語としての働きを阻害する惧れもあった。にもかかわらず、あの三島由紀夫が自決してから僅か5年後のタイミングで、幸彦は「皇国的語彙」を実にぬけぬけと苦もなく操ってみせたのである。あたかも練達の手品師のような手ぶりで。

     ◆   ◆   ◆

 廃墟に残る歯車やボルトの重さや手触りに対する即物的関心。熱による変形・変色さえも古陶の耀変のごとく賞玩してやまない孤独な偏愛。「皇国前衛歌」の作者・攝津幸彦が、大文字で書かれた歴史の意味性から遠い場所で「皇国的語彙」に対して持っていた距離感もしくは距離感のなさは、ひょっとするとそのような廃墟あそびの原体験に根ざしていたのではないだろうか。

 向日葵や瓦礫いつともなく消えて 『陸々集』

(2011年9月11日 脱稿)


●幸彦と前衛       北川美美

 「前衛」という言葉に激しさがある。躍動するエネルギー、それまでの流れを変えていこうとするあらゆるものを巻き込む力。幸彦の過ごした60-70年代の青春時代。まさに前衛芸術が盛んだった時代背景がある。時代を変えて行こうとする学生たちの紛争もその背景にある。すべては渦のようだった。

 前衛美術、前衛映画、前衛写真、前衛音楽、前衛小説…前衛芸術とは、「運動」というにふさわしい、あらゆる分野を巻き込んでいく力強いエネルギーだ。わけのわからない、絶叫のような空間に観客あるいは読者を巻き込みながら時間が進行する麻薬性。閉塞の解放、個の開化の実現を目指したのである。その興奮は、幸彦が俳句にのめり込む原動力となった。

 木に泊まる四人にひとり紅葉す 幸彦(第一回五十句競作佳作作品)

 前衛俳句と言えば、金子兜太、高柳重信がその旗手として挙げられ、さらに加藤郁乎氏の前衛活動もエネルギッシュであった。(*1)

 霏々としてあととりはない番外の灰かぐら 加藤郁乎『形而情學』

 そして、前衛芸術を語るとき、「実験」という言葉がしばしば付けられる。すでに幸彦の前にあった前衛俳句も「実験」的な仮のものとして映っていたのだろうか。

 南浦和のダリヤを仮りのあはれとす 幸彦

 前衛俳句について三橋敏雄が語っている。

「(中略)俳句の方は金子兜太とか赤尾兜子、それに高柳重信なんていうのがそっちの方の代表者だけれど、なんとなく否定的に葬られちゃうわけでしょ。どうしてああなっちゃったのかっていう理由をきちんとだれもまだ言っていないんだな。(中略)特にあれはね、六十年安保以降の空気と、どうもどこかで区切りがくっついちゃっているんでね。(中略)やっぱりこれも戦前の新興俳句が反伝統で否定されたように、なにかが働いたような気がしてしょうがないんですよね。(中略)」(恒信風第二号・三橋敏雄インタビュー/1995年)

 敏雄のいう、「どうしてああなっちゃったのか」は、おそらく、『現代俳句ハンドブック』の「前衛俳句」(執筆:川名大)の箇所、「昭和36年現代俳句協会から有季定型派が脱退し俳人協会を設立したのを機に俳壇ジャーナリズムから前衛派の退潮があり、前衛派内部の対立も深まった」その辺の原因ということだろうか。先の敏雄のインタビューは重信没後12年経過時の収録である。「運動」としては確かに終息したという見方が強い。一つには俳句は、師系が強いということが前衛を活動として続ける弱点であったと思える。破壊、自由、自己の解放ということがテーマであるのに、師系は邪魔である。

 幸彦は、『俳句研究』(昭和48年11月号)の「第一回五十句競作」で鮮やかに登場した。高柳重信の選である。前衛俳句の、その「運動」の終息をすでに察知していたかのように、第二回五十句競作の入選以降は重信の懐へ身を委ねることなく、17音の俳句形式を守りつつ、独自の修練と怠惰を繰り返していることが全句集から伺える。なので、前衛作家としては、適格な判断であったのかと思う。作品には、むしろ、当初より西東三鬼、渡邊白泉、三橋敏雄に直観、そして個々の言葉の深層部に読者を引きずり込むところは、特に敏雄に影響を受けているように思える。

 チェルノブイリの無口の人と卵食ふ 幸彦

 広島や卵食ふとき口開く 三鬼


 物干しに美しき知事垂れてをり 幸彦

 ひらひらと大統領がふりきたる 白泉


 はつ夏の折角の血の指ふふむ 幸彦

 はつなつのひとさしゆびをもちいんか 敏雄


前衛芸術作家(*2)の詩をみてみよう。

オノヨーコの詩。


RIDING PIECE

 Ride a coffin car all over the city.

 

1962 winter

* “GRAPEFRUIT” by Yoko Ono


 一行の詩が不思議なメッセージとなる。下記の幸彦の句と涅槃という題材こそ似ているが、幸彦句はメッセージ性を封印し幻影であろうとする。言葉のアクロバット的な駆使により読者をあちこちへ飛ばす。マジョリティではなくマイノリティの読者を誘う。生活の翳を引きずっていないところがヨーコと幸彦との共通点である。

 一月許可のほとけをのせて紙飛行機  幸彦

 そして、かの安部公房は、リルケ、ハイデッカーの傾倒者であり処女詩集『無名詩集』にその失われた青春性をみるようで輝かしい(*3)。「言葉から動く」という印象がある。

 安部公房の詩。

<夜だった>

 

夜だつた

クリームのやうに濡れた

奇妙な風がふいてゐた

部屋の中ではふと天上や壁を

まるで自分の皮膚の延長のやうに

しかし外では

ああ 破風をゆるがし

数々の過ぎ去つた太陽が涙となつて

眼の中に逆流する

そんな風が吹いてゐた

冬はよごれて道端にうづくまり

どこからか春が

まぎれこんでくる

町に出よう

ショーウィンドウの中では

もう人絹の華が咲き出てゐる

影が二つづつ

その中に映つてゐる

ひたひたと風にひたつて

すべての眼が涙をすすり込みながら

唇から早くも散つた赤い花びらが

ほんのちよつぽり煙草のやにを落し込み

ああ 世界が風邪をひいてゐる……三月

 [*1949.3頃制作] 安部公房


 「クリームのように濡れた風」は、アヴァンギャルドの夜明けを詩に託しているようである。そして夜が過ぎ、朝が来て、昼が来て、鏡に幸彦が映っていた。

 階段を濡らして昼が来ていたり 幸彦

    *

 幸彦は、60年70年代の日本の前衛芸術運動に触発され、渦のような時代のエネルギーを言葉に見つけようとした。前衛芸術運動、ひいては前衛俳句の路地裏から幸彦はヌエ的に出てきたのだ。

 路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 幸彦

 昭和の終わりとともに激しさよりも穏やかな精神性を求める平成の流れに変わっていく。前衛は運動として衰え、崩れゆく昭和の幻景に身を委ねるしかない。幸彦が現れそうな店に行ってみたい。ふと新宿の路地裏のどこかでレエン・コオト姿の幸彦が背後にいるような気がする。遭ったこともない俳人でありながらどこか懐かしい。

 雪の日の戦後に生れて以後も戦後 幸彦

 太古よりあゝ背後よりレエン・コオト


*1)加藤郁乎氏の俳句は舞踏とコラボレーションされ「俳句」が前衛芸術という空間で上演された。タイトル:『降霊館死学(1963/出演:土方巽、他/美術:池田満寿夫)』『形而情學(1986)』、いずれも草月ホールで上演。「舞踏とは命がけで突っ立つ死体」(土方巽)という言葉が生々しい。

*2)日本の前衛集団に「世紀の会」(1950年代)があった。安部公房を中心とし、関根弘、高田雄二、瀬木慎一、勅使河原宏らが参加した(岡本太郎、花田清輝は特別会員)。当時の勅使川原宏の父・蒼風がミッシェル・タピエのアンフォルメル運動に参加し、かつ現代美術のパトロン(サム・フランシス、ジョルジュ・マチウなど)ということもあり活動は草月アート・シアターが拠点となった。武満徹、オノヨーコ、一柳彗、ジョンケージも巻き込み、実験的な前衛芸術が展開された。

*3)番外編:安部公房の詩

「別れ」

涙なく泣きたければ

声もなく笑みたりき

夕暮に

君行く日

 白泉の「われは戀ひきみは晩霞を告げわたる」を彷彿させる。白泉1913年生まれ、公房1924年生まれ。かの安部公房も白泉の句に涙しただろうか。


●亡きものは亡き姿なり・・団塊世代俳人の逆説的立ち位置・・・ 堀本 吟      

1・〈極私〉 

 攝津幸彦没後十年、それからさらにもう五年経とうとしている。うれしいことに、この間に、生前の各個人句集を集めて、『攝津幸彦全句集』(沖積舎)や『選集』(邑書林)、散文集『俳句幻景』(沖積舎)、夫人の回想集『幸彦幻景』・・。後世が十分学ぶに必要な資料が刊行された。これらの文献をひらくことは「セッツ」と共にもういちど「セッツ」とこの世界をたのしむことでもある。あるいは果ては忘れさられてしまうのかも知れないが、この作家ののこした俳句の幅や深度を反芻すればそうはならないはずである。

 しかし、そうはいっても、攝津幸彦とは、じつは型どおりには捉えにくいたいへんな俳人である。彼の俳句には(依然として)とらえ方のわからぬ要素が多々埋蔵されているのである。(すぐれたリーダーや先達とはおうおうにしてそういうものだが)

 団塊の世代は、昭和二十年以降つまり第二次世界大戦以後に生まれ、昭和の終焉を見た。戦前に生まれた戦後作家(鈴木六林男、金子兜太、三橋敏雄、安井浩司、阿部完市、加藤郁乎、等を想起してほしい)作家達を父として年の離れて兄として、その背中をみて成熟していった。最近台頭している平成の新人達、昭和という時代を知らないで生まれ育った青年俳人達(いまの『新撰21』の20代〜40代の作家を一応想起してほしい)は弟や息子世代にあたる。攝津幸彦達はそのはざまに活躍した。

 春夜汽車姉から先に浮遊せり 攝津幸彦 

 弟へ恋と湯婆ゆたんぽゆづります   同

 「姉」の句は 『陸々集』(1992・弘栄堂書店 )、「弟」の句は 『鹿々集』は最後の公刊句集である『鹿々集』(1996、ふらんす堂)所収。

等々、なつかしみある句を遺した彼が、前後の世代の人たちと決定的にどこが違うか、ということが私には一つの関心を惹く。(同時代の坪内稔典や江里明彦、夏石番矢等との作風や個性の異同のほうがむしろ言いやすい)。私がここにきた当初には、彼らが昭和後半、二十世紀末の「新人」といわれていたのだが・・・。俳句の流れの中で、その終盤に登場した新しい波、攝津幸彦もその一人であり、現在の平成の新しい波をうむ一つの起点ともなっている。

 たしかに戦争を知らない世代のはしりとなった存在であったが、その時代人の特徴と共に、彼にあっては、発想の場所とりわけ個人的なところにある、とみられる。俳句形式を想定して解読してある程度のことが解る多くの俳人にくらべてやはりそうとう蠱惑的な印象をふりまいている理由かも知れない。

 摂津の句があまりに高度の技術を駆使しているために、そういう彼の俳句の意味の重層性多義性に惹かれて、同時代のわれわれは、多義性のひとつひとつ根拠を明らかにするようなことをあえて等閑視してきたとも言える。攝津幸彦の特異性をしめす表徴は多くの句にも散見するのであるが、それはあとにおくこととして、私はある散文の一節に目を留めた。そこにはこう述懐されている。

 青春が確固たる目的もないままにひたすらに上昇を思考する病いのように、私と俳句とのかかわりも、またひとつの病いであったのだ。しかし、いつの頃からか、血が流れる身体をこすりつけるにふさわしい価値あるものが見いだせない状況がやって来ていて、いまや病いとてけっして近寄ることができないほどの空虚が私の身辺を取り巻いているのであった。

 思想が意匠ではなく、意匠がそのまま思想であるかのような、思わせぶりのみが目立つ俳句形式の逆説的構造から、なんどか徹底的に白けてみようと思ったことがある。

 《俳句と極私的現在》一九八一年三月「俳句研究」。『俳句幻景』所収一九九九年南風の会発行)

 存在と言葉は別次元のものである、と言う命題を認めながら、それでも作品の内容や形式と、一種の絶望感ただよう個人的動機とが不即不離であるということに、あやうく触れてまた離れるている微妙な筆調である。

 表現の動機は人さまざまであるが、伝統詩型の場合は、おおむねその様式性を学ぶことに重点が置かれる。俳句などはとくに形式への帰依のほうが強い。それで、上に書かれた「思想が意匠ではなく、意匠がそのまま思想であるかのような、」という攝津の俳句形式に対する認識は、まさに多くの共通認識でもある。私が十代の少女だった頃、〈思想は一の意匠であるか〉という萩原朔太郎の詩の一節にひどく惹かれたことがあった。それと同じ感慨をあるいは攝津幸彦も抱いてしまったのである。

 だが、その後につづく「思わせぶりのみが目立つ俳句形式の逆説的構造」というところは、攝津特有のレトリックでその時代の文学思想としてともかく納得されている。これを、穏やかに平たく言い直すならば、さしずめ次のような説明がいるだろう。

「俳句形式とは、思想を信条や真情の吐露としてではなく、完璧に詩形のスタイルを完璧に表現することで思いを貫徹する行為である。これは表現の動機からすれば逆説となるが、俳句形式を完成するためにはこの逆説が、まさに正当であり、正統ということの証しであるとされるが、しかしこれは事大主義である。」(筆者翻案)

・・と最低限これぐらいの説明は必要で。このほうが、思わせぶりないちゃもんと受け取られかねない。ともかく、彼はこの「逆説的構造」から「なんどか徹底的に白けてみようと思ったことがある。」のだそうだ。句もわかりにくいが、散文の文脈も散文詩の一節のように、論理がねじれたり曲がったりしている、攝津幸彦の心底もわかりにくい。しかし、このような理念のねじれや錯綜を情緒的な面もふくめて丁寧に書き込むことを、攝津は誠実に果たしているのである。感覚的に私には攝津の懐疑がよくわかる。そして、人口に膾炙する下記のような名句は、このような韜晦に充ちた認識の中から生まれている。

 幾千代も散るは美し明日は三越  『鳥子』

 国家よりワタクシ大事さくらんぼ  『陸陸集』

 韜晦に充ちた日常詠や、太宰治の発言にこと寄せたマニフェストである。


2 無化された〈私〉

 彼の根底にはつよい伝統回帰の心、(いや、回帰ではない。むしろ伝統とは何か、と訊ねる心)、私に執しながらも、自己放棄においつめられるなにかの心理的機制が強烈だといわざるを得ない。言葉もふくめて世界から退こうとする退嬰の心理や自分の生存への危機感や葛藤が、形式破壊をも辞せず形式の本質をきわめようとすすむ現代俳句の形式願望のベクトルとかみ合ってゆく。だれもが抱く葛藤である。その葛藤は、すくなくともその時期までは創作のエネルギー源として効果的に機能していた・・。

 先ず、深みのある諧謔というべき独得な味わいと、それを生み出すための高度な技巧・・が驚きをもって注目されるのであるとしても、それは曰く言い難い生存への懐疑という実存的な動機からあみだされているのだ。攝津幸彦に対しては、(あるいは対しても)、私は表現の思想が成立する重要場面として、そのかかわりのありかたを考えたい。

 私は攝津の俳句を読むたびに、人生いかに行くべきかについて素朴に素直に考えている青臭い青年の像を思い描き、且つ、最後になって、そういう感慨全体を茶化される。このように句が進む経過や段取りが面白くてならない。彼はきっと、晩年執心した永田耕衣や安井浩司の世界のなにかに反応しているのだ。(今回はこのことは述べない)。そして、きわめて人間的でありながら、存在と言うときに、ふと、懐疑におちいる思考のアンビバレンツをみてとる。そこに大きな大事な示唆を受けるのである。

 また。

 俳句的自然、俳句のリアリティ、新しい俳句形式の発見という大義や情緒への回帰そのものにも白けきろうとする時、やがてそこに無化された「私」が発見されるのではないかと思った。(同上エッセイ)

 とつづく文意では、「俳句とは?」と言う「大義への回帰」を捨てたときに、書き得なかった「私」が、書き得ない「無化された」すがたのままあらわれるはずだ、これこそ自分が俳句で語りたかったことなのだ。と言う。

 きりぎりす不在ののちもうつむきぬ 『鳥子』

 亡きものは亡き姿なりあんかう鍋(『輿野情話』)

 これは「無化された私」が、「逆説的」にそこには居ないことを主張しにあらわれている、と読むべきなのである。(ほんとうにそう読むべきであろうか?)

 具体的な解説はこの後に囃したい。