誤訳は創作である?
僕のある句を、海外の俳句団体に掲載用に渡した際の話。原句はこちら。
炉明かりに再び開く手紙かな
これを自分なりに英訳し、日本語が読めない先方にも参考として原句も併記して送った。しばらくして、「英訳をこう修正してもいいか?」と返信が来る。
in the fireplace light
is it a letter
opening again
英語圏の人に英語を修正されて反論することもないかと思い、OKと答える。
だが、あとになって気づいた。it isではなくis itと表記されていて、これだと疑問形のニュアンスになる。なぜこう修正されたのか、と訝り、思い当たったのがネットの自動翻訳。試しに原句を自動翻訳にかけると「Is it a letter that opens again in the furnace light?」となる。
なるほど、渡した原句からのこんな具合の自動翻訳を元に、先方で修正案を考えたのだろう、と納得。自動翻訳は、その日本語が俳句であって俳句には「や」「かな」の切れ字がある、とは認識しないので、「かな」は日本語の会話で使う「かな?」の疑問の意味と誤訳された。
最終的に、この英訳を再度日本語に自動翻訳してみると、「暖炉の灯りの中で / 手紙なのか / 再び開く」となり、なにやら原句よりドラマ性が出る気がする。
翻訳全般をめぐる一説として、誤訳は創作である、と言われることがある。そしてそのことは、俳句では程度の差はあれ、かなりの頻度で起きている気がする。一般に長文の中であれば、翻訳者にわかりにくい箇所があっても、前後の文脈から推察が利くのでうまく補足修正できる。ところが俳句は短さゆえに、文脈からのそのような推察が働かない。
以前に、芭蕉のある句について西洋人と話した時もそのことを感じた。それは日本のある慣習に基づいた句で、明示はないものの、日本の俳人ならその文脈は推察が働く。しかし西洋人の彼にはその推察は働きようもなく、彼の解釈ではどこか壮大な物語ができあがっていた。
芭蕉の英訳本などを読むと、ドラマティックに意味が広がって訳された句も少なくないと感じる。例えばこの句。
Sparrows in eaves,
mice in ceiling —
celestial music.
庇に雀 / 天井に鼠 / 天界の音楽
おそらく原句は芭蕉の「雀子と声鳴きかはす鼠の巣」で、かなり印象が違う。
そしてこの話は、決して翻訳だけの話でもないと思う。俳句は短いので、日本人であっても、その文脈を自分の想像力で大なり小なり補いドラマ化する。俳句のその隠れた基本機能が、誤訳というか「拡訳」とも言える翻訳行為を通じて増幅して可視化される、とも思える。
※写真はKate Paulさん提供
(『海原』2025年5月号より転載)
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