2015年5月1日金曜日

【うたうことを読む】サウンド・オブ・ミュージックを肛門科クリニックで歌う難しさについて、或いはきょうパイロットになる夢をめぐって / 柳本々々



俳句は、何にも似ていないし、すべてに似ているともいえる。
  (ロラン・バルト、石川美子訳「このような」『ロラン・バルト著作集7 記号の国』みすず書房、2004年、p.129)

烏山肛門科クリニックああ俳句のようだ  上野葉月
  (『豆の木』第10号、2006年)

〈俳句〉が〈俳句〉になるしゅんかんというのは、どういったしゅんかんなのか。


この葉月さんの句において、「烏山肛門科クリニック」にであった語り手はその「烏山肛門科クリニック」に対して「ああ俳句のようだ」といっています。そしてそのこと自体が〈俳句〉化されている。

これはそのような俳句をめぐる俳句といってもいいと思うんですが、おそらくここで問われているのは〈俳句とは何か〉という問いではないようにおもうんです。むしろ〈それを問わない〉やり方で俳句をめぐる俳句として立ち上げられているのではないかと。

ここには実は〈俳句〉はなく、〈俳句をめぐる真空〉があるのではないか。

それでもなんらかの〈俳句とは何か〉という補助線が必要だと思うので、たとえばロラン・バルトが俳句について語っている次のようなことばを引き、そこから肛門科クリニックへのささやかな旅を始めてみたいと思います。

俳句とは、小さな子供が「これ!」とだけ言って、なんでも(俳句は主題の選り好みをしないから)ゆびさすときの、あの指示する身ぶりである。その動作はきわめて直接的になされるので(いかなる媒介も――知識や名前や所有さえも――ないので)、指示されるのは、対象を分類することいっさいの空しさとなる。
  (ロラン・バルト、石川美子訳「このような」『ロラン・バルト著作集7 記号の国』みすず書房、2004年、p.132-3)

ここでロラン・バルトが語っているのは、実は葉月さんの句と非常に似ているのではないかと思うんですね。俳句とは、知識や名前や所有や分類に関わるなにかではなく、ただたんに「これ!」と名指ししたときにたちあがってくる〈なにか〉だと。

たとえば葉月さんの句の語り手ならば、「烏山肛門科クリニック」をみたしゅんかん、小さな子供が指さすように、「これ!」といってしまったわけです。そこにはなんらかの考えや知識や主題があるわけではなく、ただたんに「これ!」と名指しした。そしてその〈名指し〉によってこれは〈俳句〉になったのです。

実はこの葉月さんの句というのは、そうした〈未俳句〉が、〈命がけの意味の飛躍〉によってとつぜん〈俳句〉になる過程をあらわしている、俳句と飛躍(大きくいえば肛門的飛躍)をめぐる句なのではないかとおもうんですね。

いま〈命がけの意味の飛躍〉といいましたが、柄谷行人がこんなことをいっています。すこし長いんですが飛躍=飛翔する意味のパイロットになるためには大事な部分なのでちょっと引いてみます。

なぜいかにして「意味している」ことが成立するかは、ついにわからない。だが、成立した《あと》では、なぜいかにしてかを説明することができる――規則、コード、差異体系などによって。いいかえれば、哲学であれ、言語学であれ、経済学であれ、それらが出立するのは、この「暗闇の中での跳躍」(クリプキ)または「命がけの飛躍」(マルクス)の《あと》にすぎない。規則は《あと》から見出されるのだ。

この跳躍はそのつど盲目的であって、そこにこそ“神秘”がある。
  (柄谷行人「命がけの飛躍」『探究Ⅰ』講談社学術文庫、1992年、p.50)

〈意味〉が成立するということについて柄谷は、グラデーションのような地続きの結果としてではなく、「命がけの飛躍」があるからこそ〈意味〉が生まれるんだとんだというふうにいっています。理屈はあとからついてくるんだと。

これは私は葉月さんの句や、バルトのいっていた「これ!」に近いのではないかと思います。あるしゅんかんに、ふいに、〈飛躍〉して、とつぜんのふいうちのパイロットとしてある地点にたどりついてしまう。そして、〈これ〉が、〈それ〉が〈俳句〉だとおもってしまう、いいえてしまう。どうしてそれが俳句だったかは、それが俳句だったからとしかいうしかない。そういった〈命がけの飛躍〉をとおしてあらわれるのが〈俳句〉なのではないかと。だから俳句とは、烏山肛門科クリニックではなくて、烏山肛門科クリニックと名指しした語り手の〈命がけの飛躍〉にある。

この「命がけの飛躍」というのは実は短詩全般にいえることではないかと思うときがあるんです。そもそもが短詩というモードの発話をめぐって「命がけの飛躍」がなされているのではないか。すなわち、うたうひと、短詩をあらわすひとはすべてパイロットなのではないかと。

たとえば日常生活のなかで、だれか、ともだちや家族や恋人と話をしているときに、とつぜん短歌や俳句や川柳で歌い出したりはしないわけです。日常会話のモードで、日常の形式をつかって話す。短歌や俳句や川柳をふだんの会話にまぜこんでもいいのだけれど、そうすると、あいてが、えっ!? っておもうわけです。なんなの、と。どうしちゃったの、と。

でもひとはときに、ふっと、ぬっと、しらっと、短歌や俳句や川柳を詠み、うたう。そこには「命がけの飛躍」があるのではないかとおもうのです。「命がけの飛躍」ができるからこそ、うたうことができる。そしてそれが〈成立〉するのだとおもえる。

実はこうした状況によく似たジャンル形式があります。

ミュージカルです。

ミュージカルの特徴……。ひとつは、親しみやすい音楽によって予定調和と観客参加の幻想が形づくられ、舞台と客席との距離が無化される傾向があります。ミュージカルのなかでは、しばしば歌によって物語の筋の進行が中断されますが、そのことを観客も受け入れて不自然には思いません。
 
 
 (本橋哲也『深読みミュージカル 歌う家族、愛する身体』青土社、2011年、p.12)

ミュージカルはとつぜん歌い始めるのが意味のダイナミクスをうむ形式です。それは日常会話の地続きとしての歌でもあるけれど、でもその地続きを〈単なる突飛な飛躍〉としか思えなくてミュージカルをいやがったり、違和感をもつひともいます。

このとつぜん歌い始めるミュージカルは、実は短詩を詠むということとどこか似ているのではないかと思うのです。ミュージカルであれば、烏山肛門科クリニックを壮大な歌にして歌い上げることもできるはずです。でも、そこには、「命がけの飛躍」がある。でも、飛躍できさえすれば、パイロットになりさえすれば、できるのです。歌にも、俳句にも、ミュージカルにも。

ただここまで話してはきたものの、葉月さんの句には〈飛躍〉と一括できない〈ためらい〉もあります。「ああ俳句のようだ」と「ああ」と「ようだ」が入っています。バルトのように「これ!」と振り切って〈俳句〉化しているわけではない。「烏山肛門科クリニック」と「俳句」は「ようだ」によって同一化せず、ぎりぎり分離されたままです。

ここに私は〈無邪気〉なバルトに対する〈穴〉からの「ああ」という〈積極的だるさ〉をもった応答をみてみたいと思います。「これ!」とマッチョに同一化させないための、微分化するような〈穴〉を。俳句が俳句をめぐりながらも俳句に対してためらいをみせた俳句的徘徊を。「烏山肛門科クリニック」を俳句として〈搾取〉せず〈他性〉としての余地をおいた〈穴〉としてのふるえを。

わたしたちがきょうパイロットになれたとしても、忘れてはいけないもの、それは、


穴。     ●


俳句は、細くなってゆき、ただ指示するだけになってしまう。「それはこうだ」、「このようだ」、「そのようなものだ」と俳句は言う。あるいは、「このような!」とだけ言う。……できごとは、いかなる種概念によっても名づけられず、その特殊性は突然にかたちを変えてしまう。俳句は、魅力的な巻き毛のように自分自身にからみついてくる。残されていたはずの記号の航跡は消え去ってゆく。手には何ものこらない。言葉の石は空しく投げられた。意味の波も流れも生じはしない。 
 (ロラン・バルト、石川美子訳「このような」『ロラン・バルト著作集7 記号の国』みすず書房、2004年、p.132-3)


もうすぐミュージカルも終わりを迎えようとしています。この2時間半に起こったいくつかの出来事は、ここにいる人々にほんの少しずつ、変化をもたらせました。僕を除いて。誰もが、幕が開く前より少しだけ成長し、大人になった。僕を除いて。そう、僕は驚くほど変わらない。何の変化もなければ、何の進歩もない。でも、ふと思うんです。人生なんてそんなもんじゃないか。そう簡単に人は変わるものではない。毎日は同じことの繰り返し。僕らは同じフレーズを繰り返し演奏するミュージシャンです。そして後になって振り返った時、驚くほど遠くに来ていることに気が付く。そう、あの『ボレロ』のように。あの曲が好きな理由が分かったような気がします。 

  (三谷幸喜『オケピ!』白水社、2001年、p.299)



【執筆者紹介】

  • 柳本々々(やぎもと・もともと)

かばん、おかじょうき、旬、所属。ブログ『あとがき全集』。共同ブログ『川柳スープレックス』。

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