高山れおなから、俳句雑誌を出すという電話が入ってきた。「ku+」(クプラス)と言う名前で、れおな、山田耕司、上田信治、佐藤文香の4人が中心になって、年内に第1号を出すと言う。その話を聞いて、今から4年ほど前に、れおなから電話がかかってきて、ウエッブサイトを立ち上げる、れおな、中村安伸、生野毅の3人が中心となって評論中心のサイトにするので協力してくれと言ったのを思い出した。
これは「俳句空間―豈weekly―」と題してほぼ2年ほど続き、100号に達したところで終刊した。この間、『新撰21』『超新撰21』を刊行して、俳句界に少なからず激震を与えたから、存在意義は大いにあったと言うことになろう。創刊号の、批評の重要性を叫んだ「俳句なんて誰も読んでいない」というれおなのキャッチフレーズも大いに湧かせたものだ。
こんな記憶があるから二つの事件を比較して、今や電脳の時代から紙の時代へ、世は移って行くのかと感慨深かった。私も「俳句空間―豈weekly―」の終刊号で、ウエッブサイトはその時盛り上がっても何も残らない、消え去るのみだ、と書いたところ、「週刊俳句」のさいばら天気から批判を受けたのだが、今やれおなが消え去らない紙の雑誌を出すことにより、私の主張を実行しているようで愉快だった。
こんなことが頭にある内に次の事件が起きた。「群青」と言う雑誌がこの月曜日(9月16日)に届いたのだ。指導者は、櫂未知子と佐藤郁良、俳句甲子園出身者を中心とした季刊同人誌であるらしい。「らしい」というのは、俳句甲子園出身者というのを憚るレンキストの御大浅沼璞や、国手仲寒蟬、角川俳句賞受賞の永瀬十悟が同人に混じっているからだ。
しかし、その一方で谷雄介、酒井俊祐のみならず、昨年俳句甲子園で涙を呑んだ宇野究までがいることからも――彼については、「詩客」2012年08月24日号「第15回松山俳句甲子園に出て」でも触れておいた――、俳句甲子園出身者を中心としたものであることは間違いないらしい。のみならずもっと限定すれば、開成高校OBの会と言ってもよいようだ。「天為」が東大俳句会の別名であるごとく、「群青」が開成高校俳句会でも別に異存はないが、それが極めて分かりやすい属性であることは覚えておいた方がいい。属性で語られる人は、一流となるのにしばしば苦労するからである。
「群青」の中身について言えば、堅実ではあるが、肝を潰すような変な企画はなかった。この雑誌を出すという噂を聞いたときに、良い意味でもわるい意味でも、若干期待していた俳句雑誌離れをした記事はなかったように思う。創刊の言葉、俳句時評、俳句月評、江戸俳諧研究、写生論、とまことに真面目である。この「BLOG俳句空間」の方がよほど変わっている。
作品を見てみよう。
射的こそ夜店の華と申すべく 櫂未知子
夏つばめ海の群青定まれる 佐藤郁良
鼻ひとつ穴ふたつあり扇風機 浅沼璞
南風や馬の眼に野のぐるりぐるり 宇野究
夏服の間をすり抜けてゆく子かな 小野あらた
碑になれば過去のことなり蝸牛 酒井俊祐
妹の寝顔のごとき山椒魚 高橋里波
処世術・ビーチサンダル・あとは髭 谷雄介
水虫を飼ひつくづくと大き足 仲寒蟬
口をつく防人の歌花うばら 永瀬十悟
隣人を愛せよ私有せよダリア 福田若之
なるほど「群青」の領域がこれで分かるようである。もちろん結社誌ではないから、主宰の選により特定の色彩に染まる必要もないはずだが、同人として結集することによる求心力が一つの傾向を作りだしてゆくのだろう。
* *
余計なことを一つ。「群青」には開成高校のOBが多く集まるにもかかわらず、そこに山口優夢の顔が見えない。松山東高校がこうした雑誌を出したとしたら、神野紗希と佐藤文香は必須だろう。開成にとってそれくらい山口の存在は大きいはずだがこの雑誌には山口の作品を見ることが出来ない。そもそも角川俳句賞を受賞して以後、滅多に彼の俳句作品を見ることが無くなった。同じ読売新聞に入社しながら、長谷川櫂が法王のように現在の俳壇に君臨するようになったにもかかわらず(これは冗談である)、山口優夢が俳句から遠ざかってしまうとしたら、それは俳句に対する若い世代の言葉にならない絶望を物語っているような気がしないでもない。
「群青」がこうした危惧を払拭することを期待している。
※「山口優夢」さんの御名前の誤字がありました。訂正しお詫び申し上げます。(2013.09.27.管理人)
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