2013年9月20日金曜日

【俳句時評】ハイクの越境――『現代詩手帖』9月号、Haiku in English: The First Hundred Years / 湊圭史

『現代詩手帖』9月号、読みました。特集は「詩型の越境――新しい時代の詩のために」。俳句と短歌が大きく取り上げられています。巻頭のシンポジウム「越境できるか、詩歌――三詩型横断シンポジウム」では、高橋睦郎、穂村弘、奥坂まや、野村喜和夫の四氏が、日本独自の詩型による分断状況を克服できるかを論じています。

 読んだ後の感想は、詩型のあいだの境界について論じても、あまり生産的ではないなということ。高橋氏は「ですから、ぼくの場合は「越境できるか詩歌」と言われても、そもそも境界というものがないんです。それは消極的に境界がないわけですが、積極的にも境界がないほうがいいという考えです」、奥坂氏は「私は基本的に越境はできないという立場です」とのことで、司会の野村氏が「タイトルを取り下げないといけないという印象さえします(笑)」という展開(まあ、予想は出来なくもない、というか、野村さん、あらかじめ準備してたでしょ、という・・・笑)。

 個人的には、詩型の違いと相互交流を論じるにしても、詩型のあいだの境界を問う以前に、それぞれの詩型と現実のあいだの境界、そして、作品そのものの中でその境界がどのように表れているかを検討しないと、お互いの信仰じみた意見を確認するだけに終わると思っています。この点では、このシンポジウムでは、穂村氏の、短歌はトリビアルなものを重視し、作品もトリビアルなものに留まるように読む、「それはつまり政治的、経済的、社会的フィルターというか、そういう価値体系の外にあるものだからです」との見解は議論のきっかけになるところだったと思われます。

 つまり、ジャンルは音数などの形式的側面のみでアイデンティティをもっているのではなく、その形式でジャンル全体がこれまでにどのように現実と渡り合ってきたかを背景としているので、そうしたことを抜きにして論じれば、高橋氏の見解がいちばん正しい、で議論が終わってしまいます。高橋氏は私の見解では「詩歌原理主義者」で、詩歌のみが屹立すればそれでいいので、詩ジャンルの現実の中での位置などは考えておられない(この視点からの氏の著作『私自身のための俳句入門 (新潮選書)』、『詩心二千年――スサノヲから3・11へ』はとても面白く、ためになります)。だが、ジャンルとしての詩型にこだわる人で、高橋氏と同じ立場を述べる人はいないのではないか。それはジャンルに関わる、という時点で、現実に対する一種の態度決定がたいていの場合は含まれているからではないか、てなことを考えました。

しかし、シンポジウムでの奥坂氏の「俳句の場合は、形而上学は季語が引き受けてくれるんです」といったノーテンキな(?)言葉の後、作品欄で、安井浩司、竹中宏というまったく違った形而上学性を追求する作家たちの作品が、ついで、高山れおな、御中虫、福田若之の形而下にこだわった作品が並ぶのはなかなかに笑えました。セレクトした関悦史氏の言葉では、この五人に「共通するのは、異物、ノイズを果敢に俳句に取り入れていることである」とのこと。「異物、ノイズ」とは上に雑に書いた文章では「現実」のことで、この作品欄に並んだ句では、確かに、俳句と現実の境界のあいだが軋みとして句語となっていると感じます。詩歌における境界は、こういう部分にしか実際はないんでは?

悠々と大地のキャベツ盗む旅人        安井浩司 
ヴエロニカは「ときどき眠る貂の顔」     竹中宏 
香水やかゝる女と何食はむ          高山れおな 
殴られ 蠟 痛い やらかい 蠟 やねえ   御中虫 
麦藁帽子の魔法少女なのだと         福田若之

  * * *

境界ということで言えば、最近、アメリカ・イギリスの大手文芸出版社W.W. Norton & Companyから Jim Kacian, Philip Rowland, and Allan Burns, Haiku in English: The First Hundred Years という書名の英語俳句アンソロジーが出ました。サブタイトルに「最初の百年」とあるのは、エズラ・パウンドのイマジズム期の傑作、

IN A STATION OF THE METRO
The apparition of these faces in the crowd;
Petals on a wet, black bough.

を英語での俳句的実質を備えた最初の作品と見て、その発表年1913年から今年で100年目ということ。

 現在までにも英語俳句アンソロジーとしては、Cor van den Heuvel, ed. The Haiku Anthology (第三版1999)を代表としていろいろありましたが、今回のHaiku in English: The First Hundred Yearsは、英語の俳句表現の豊かさへの貢献度から編年体で作家・作品が選ばれているという点で画期的です。つまり、俳句が英語世界に移入されて以来の表現史がたどれるように構成されているという意味で(編者Jim Kacianの力のこもった解説は、現在までの英語俳句の展開の簡潔な要約、かつ、重要作家紹介となっている。英語俳句に興味がある人は必読)。日本の詩ジャンルでも同じですが、詩歌というのはある程度、ジャンルの参加者にならないと見えてこないことが多い。とくに海外で、外国語で行われている活動については、作品をちら見するだけではピンと来ないことが多いので、この構成は助かります。また、日本語俳句とは別に、「ハイク」と呼ばれる豊かな表現がある、と感じられる点で貴重です。

 アメリカ、イギリスだけではなく、英語で書かれた作品なら(場合によっては翻訳でも)取り上げていること、また、俳句とはされていないものでも、俳句に影響を受けたり、俳句的な要素があったり、俳句と豊かな交流を生みそうな作品も含めているのも面白い。英語詩に興味がある人なら知っている有名作家・詩人、パウンドやウォレス・スティーヴンスからラングストン・ヒューズ、ケルアックらビート詩人、リチャード・ウィルバー、シェイマス・ヒーニー、ポール・マルドゥーン、ビリー・コリンズらの作品が収められています(日本人では、夏石番矢や青柳飛の名も見えます)。アメリカの一般にも知られた人気詩人ビリー・コリンズは序文も寄せて、俳句とのこれまでの付き合いを楽しく書いてくれています。多くの世界の詩人が同じような経験をしてきているのではないでしょうか。

 私のお気に入りの句を何句か。

snow           Cor van den Heuvel
on the saddle-bags
sun in skull

an empty elevator           Jack Cain
opens
closes

thrush song a few days before the thrush      Marlene Mountain

moment of birth new shadow        Ruby Spriggs

razor wire                          Randy M. Brooks
soldiers in the alley
tossing dice

a ladybird              Jörgen Johansson
b5 to c4

leaflight              Allan Burns


英語俳句の短長短の3行だと言われていますが、1行の作品もたくさんありますね。最後のBurnsの句は ”leaf” + “light” の造語一語だけ。コンクリート・ポエトリー(具体詩)の要素が多い実験作も多いので、これも楽しいです。


 

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