2024年6月28日金曜日

第228号

               次回更新 7/12



【急告】竹岡一郎氏の死 》読む

【新刊紹介】『相馬遷子の百句』を読んで 筑紫磐井 》読む

【広告】『語りたい龍太 伝えたい龍太——20人の証言』 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和六年春興帖
第一(6/21)辻村麻乃・豊里友行・川崎果連・仲寒蟬・仙田洋子
第二(6/28)小野裕三・水岩瞳・中西夕紀・神谷波・坂間恒子・山本敏倖・加藤知子


令和六年歳旦帖
第一(5/25)辻村麻乃・豊里友行・川崎果連・仲寒蟬・仙田洋子
第二(5/31)小野裕三・水岩瞳・神谷波
第三(6/8)山本敏倖・岸本尚毅・浜脇不如帰・冨岡和秀
第四(6/14)杉山久子・木村オサム・小林かんな・ふけとしこ
第五(6/21)眞矢ひろみ・望月士郎・曾根毅
第六(6/28)花尻万博・早瀬恵子・大井恒行


令和五年秋興帖
第一(2/16)竹岡一郎・山本敏倖・杉山久子・仲寒蟬・関根誠子
第二(2/23)瀬戸優理子・大井恒行・神谷波・ふけとしこ
第三(3/8)冨岡和秀・鷲津誠次・浅沼 璞・仙田洋子・水岩瞳
第四(3/16)曾根毅・小沢麻結・木村オサム
第五(3/22)岸本尚毅・前北かおる・豊里友行・辻村麻乃
第六(3/26)網野月を・渡邉美保・望月士郎・川崎果連
第七(4/12)花尻万博・眞矢ひろみ・なつはづき・五島高資
第八(5/17)小野裕三・佐藤りえ・筑紫磐井
補遺(5/31)早瀬恵子・浜脇不如帰
(6/8)下坂速穂・岬光世・依光正樹 ・依光陽子

令和五年冬興帖
第一(2/23)竹岡一郎・山本敏倖・杉山久子
第二(3/8)仲寒蟬・関根誠子・瀬戸優理子
第三(3/16)大井恒行・神谷 波・ふけとしこ・冨岡和秀・鷲津誠次
第四(3/22)浅沼 璞・仙田洋子・水岩瞳・曾根毅・松下カロ
第五(3/26)小沢麻結・木村オサム・岸本尚毅・前北かおる・豊里友行
第六(4/12)辻村麻乃・網野月を・渡邉美保・望月士郎
第七(4/26)川崎果連・花尻万博・眞矢ひろみ・なつはづき・五島高資
第八(5/17)小野裕三・佐藤りえ・筑紫磐井
補遺(6/14)早瀬恵子・浜脇不如帰・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子

■ 俳句評論講座  》目次を読む

■ 第47回皐月句会(3月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第19号 発行※NEW!

■連載

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(47) ふけとしこ 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり10 中西夕紀句集『くれなゐ』 》読む

【抜粋】〈俳句四季3月号〉俳壇観測254 終刊と新刊と――「青麗」・「あかり」・「いぶき」と「窓」

筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り[in Japan](46) 小野裕三 》読む

【新連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

句集歌集逍遙 筑紫磐井『戦後俳句史nouveau1945-2023——三協会統合論』/佐藤りえ 》読む

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を読む⑥ 一人の俳句の書き手・読み手として 黒岩徳将 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む
インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
6月の執筆者(渡邉美保)

■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子




筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【新刊紹介】『相馬遷子の百句』を読んで  筑紫磐井

  仲寒蝉の『相馬遷子の百句』がふらんす堂から6月25日に刊行された。表紙の元気のある鯉の絵もいい、遷子の生地佐久の名物が鯉だからである。ただ相馬遷子と言ってどれだけの人が思い出すであろうか。

 相馬遷子(明治41年~昭和59年)は長野県佐久市の出身で、東大医学部を出て、陸軍から応召を受けて大陸に渡ったが病気となり除隊、その後函館で病院勤務をした後、郷里の佐久にもどり医院を開業した。俳句は医学部在学中に、同学部の先輩である水原秋櫻子の指導を受け「馬酔木」に参加した。戦後堀内星眠、大島民郎らと高原派と称される耽美な作品で一世を風靡したが、その後は開業医としての地元の風景と人々を詠み続けた。晩年は、癌との闘病を続け、医師として自らの病を見る句作を続けた。地味な作風であったが、「馬酔木」での水原秋櫻子の信頼は厚く、石田波郷に次ぐ葛飾賞を受賞、地元の寺には秋櫻子・遷子師弟連袂句碑が建立されているほどである。

 相馬遷子の作品については、本書の執筆者仲寒蝉と中西夕紀、原雅子、深谷義紀、そして私(この他に初期には窪田英治氏が参加)によりBLOG「ー俳句空間ー豈weekly」で平成21年3月29日から22年7月18日まで作品研究を行った。都合64回の連載、あいだに2回の現地調査を踏まえたものである。その後これらを踏まえて、『相馬遷子ーー佐久の星』(邑書林23年5月)を刊行し好評を得た。地元の信濃毎日新聞でも大きく紹介され、新装版までだされた。

 5人がこれほど遷子に惹かれた理由は、『相馬遷子100句』を読めば分るように、相馬遷子という作家の誠実な態度によることが多い。「俳句は楽しい」だけで済まないものを参加者が感じ取っていたからであると思う。

 こうした研究が一段落したところでふらんす堂が「●●の百句」シリーズで相馬遷子を取り上げたいと聞き、仲寒蟬氏がうってつけだと感じ推薦した。相馬遷子の共同研究としては様々な視点からの分析があった方がいいが、いったん相馬遷子をまとまった視点から書く時はばらばらな見方ではなく、筋の通った視点が必要である。そしてその筋の通った視点とは、単なる俳句の鑑賞にとどまらす、相馬遷子の生き方を見通す方向であった。連載途中に自ら書きながらいつも感じていたのは医療の視点が不足してしまうことだ。特に佐久という特殊な医療環境、開業医としての不本意さ等は他の4人(4人には医療関係者は1人もいないし、みな東京在住である)ではどうしても描ききれないものがあったように思う。

 その意味で仲氏は、総合病院勤務と開業医という違いはあれ、全く同じ佐久という地域にあって、佐久特有の生活環境(脳卒中死亡率は日本で最悪)・医療環境にあって、時代感覚はずれるものの医師としての悩みに共感を示しながら描いていけることが最大の強みだ。例えばこの本を読み終わっても、今もって頭では理解できても心情として理解がむずかしいものに、国民皆保険制度による地域医療の変質がある。これは当事者でなければ分らない環境だ。それは、仲氏の解説によっておぼろげながら伝わってくる。相馬遷子の俳句は、馬酔木高原派とか、抒情性とか、医師俳句とか言われているが、むしろ社会性俳句そのものではないかと感じている。いわゆる社会性俳句が登場する前から地方医療を現場とした社会性俳句を詠み始め(昭和22年頃)、社会性俳句が完全に終焉した後(46年頃)まで続く真生の社会性俳句であったと私は感じている。

 もちろん仲氏と私の感じるところは少しずれているかも知れない。それでも次の句はお互い無制限に語り合える作品だと思う。


寒うらら税を納めて何残りし

農婦病むまはり夏蠶が桑はむも    

星たちの深夜のうたげ道凍り     

山に雪けふ患者らにわれやさし     

春の町他郷のごとしわが病めば    

汗の往診幾千なさば業(ごふ)果てむ 

筒鳥に涙あふれて失語症       

母病めり祭の中に若き母       

隙間風殺さぬのみの老婆あり     

秋風よ人に媚びたるわが言よ     

とある家におそろしかりし古雛    

田を植ゑてわが佐久郡水ゆたか    

病者とわれ惱みを異にして暑し    

凍る夜の死者を診て来し顔洗ふ    

薫風に人死す忘れらるゝため     

患者来ず四周稲刈る音きこゆ     


 少し蛇足を加えさせていただければ、ふらんす堂の「●●の百句」シリーズは多くの著名作家を満載した誠によい企画だが、ここに登場するもっともマイナーな作家が相馬遷子ではないかと思う。これは遷子を貶めているのではない。遷子を取り上げた冒険心につくづく感心したと言うことを言いたいのである。ちなみに、戦後の名著として常に掲げられるのが山本健吉の『現代俳句』であるが、実はこの名著は何回か改訂が続けられている。その最後の改訂版、健吉がなくなる寸前、最後に手を入れた版に加えられたのが相馬遷子であった、この時追加された龍太、澄雄、節子と並んで遷子は健吉の俳句史の中で燦然と輝いているのである。そうした意味で、当代を代表する作家の飯田龍太もその最後の句集『山河』について縷々述べた後で、「私にとっては、いつまでも忘れがたい俳人の一人である」と述べているし、森澄雄も不自由な体でわざわざ遷子ゆかりの地を訪れて「遷子は友人だった」と語っている。こうした背景を踏まえてこその『相馬遷子の百句』であった。

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(47)  ふけとしこ

    金魚

玉虫を納めて祖母のお針箱

風騒ぐ鏡が青葉映すとき

島へ行く金魚フェリーへ案内す

甌穴へ閉じ込めらるる水も夏

床磨く老鶯のこゑ映るまで

      ・・・

 最近訪れた菖蒲園で小さな花を見つけた。庭石菖の花に混じって、それを一回り小さくしたような真白の花が星を撒いたように咲いているのだった。初めて見たのだが、とても印象的だった。

帰宅後に調べてみたら、どうやらセッカニワゼキショウ(雪花庭石菖)というらしい。帰化植物だという。

 イヌフグリにも、とても小さくて白い花をつける種がある。これはコゴメイヌフグリ(小米犬陰嚢)という。これも外来種。今、多くの場合イヌフグリといえば外来種のオオイヌノフグリを指すが、早春に咲く空色の花はとても可憐で、帰化種だからと言って憎む人はいないように思う。俳句に詠まれているのも大方はこの花ではないだろうか。

 日本古来のイヌフグリはもっと小振りの桃色に近い花を咲かせる。滅多に見かけなくなってしまったが、生える場所を2か所知っていた。   

偶然にも吟行の時に見かけて、ささやかな秘密の場所になっていたのである。

ところが、その場所が2か所とも工事により失われてしまった。どこかで生き延びていて欲しいと願っているのだが……。

セッカニワゼキショウの方はこれからどんどん増えてゆきそうな気がする。

 話は変わるが、おまけに季節外れでもあるが

  

風ふわりチューリップ丼のある食堂  赤石忍


という句がある。

 以前頂いていた写真と俳句と短文とで構成された美しい本『風猫』。これを見直していて再発見した1句である。文を読めば解るのだが、実際に「チューリップ丼」なる食べ物があるわけでは無い。……のではあるが、もしや~と検索してみた。出てきたのはチューリップ柄の器あれこれだった。

 昔、チューリップを栽培していたという人に会ったことがあった。

 花よりも球根を育てる方が仕事だったようで、そのことを色々と聞かされた。話の流れで「球根を食べたことがありますか?」と聞いてみたら、あるとの返事だった。やや認知症気味の方だったので、調理方法までは聞くことができなかったのだが。

 丁度数年間植えっぱなしのチューリップがあったので、球根を掘り出してみた。皮を剥くと白っぽくて綺麗。茹でて食べてみたけれど、特に美味しいということでもなかった(ように記憶している)。1人でちょっと食べてみただけで、家族の食卓へ出すことはしなかった。

 市販の植栽用の球根には農薬が残っているだろうから、これは迂闊に食べたりするべきではない。が、もしも調理するとなればどうする? 素揚げにする? 卵とじにして丼にする?

 春風の吹く日にこの句に登場する食堂を訪れてみたい。

「はーい、お待たせしました! チューリップ丼!」

って運ばれてきたら楽しいだろうな。

 (2024・6)


【急告】竹岡一郎氏の死  筑紫磐井

  WEP及び冊子の「俳句新空間」に協力いただいていた竹岡一郎氏が、6月21日に急逝されたとの知らせを、日頃親交のある加藤知子氏から頂いた。お嬢様からの連絡で、通夜は6/25(火曜)、葬儀は6/26(水曜)に行われたと聞いている。加藤知子氏は21日の午後7時前まで、メールやり取りしていたというのでほんとうに急逝であり、未だに信じられないと言われている。死因は急性大動脈解離のようだ。まだまだいろいろな仕事ができた人であり、心からご冥福を祈りたい。

 竹岡氏は「鷹」同人で、私自身6月29日に「鷹創刊60周年記念祝賀会」があるので久しぶりにお会いできると思っていたが叶わぬこととなって心折れている。

 竹岡氏は昭和38年8月生まれ、平成4年に「鷹」入会、エッセイ賞や新人賞を受賞後、鷹月光集同人となる。第一句集『蜂の巣マシンガン』(23年ふらんす堂)で一躍注目を浴び、その後『ふるさとのはつこひ』(27年ふらんす堂)、『けものの笛』(30年ふらんす堂)を上梓している。平成26年に第34回現代俳句評論賞を「攝津幸彦、その戦争詠の二重性」で受賞した。このいきさつについては『ふるさとのはつこひ』で、攝津幸彦の俳句と出会いについて「『比良坂変』には思い出がある。この年(24年)の1月に、私は初めて攝津幸彦を知ったのだ。《幾千代も散るは美し明日は三越 攝津幸彦》この句を読んだとき、こんな天才がいたのかと驚愕した。同時代に生きていたにも拘わらず、生前ついに、知ることもまみえることもできなかった悔恨に、私は逆上した。逆上のままに書きつづったのが『比良坂変』である。」と語っている。この逆上を受けて、竹岡氏は「鷹」の俳句時評で攝津幸彦を取り上げ、加筆して現代俳句評論賞の応募に至ったらしい。


 「俳句新空間」との関係では、第6号(2016年夏)以来特別作品(20句)に参加、評論では第18号(2023年処暑)で「『無辺』鑑賞」を執筆している。BLOG「俳句新空間」では、「芸術論の出来?」(2023年7月14日金曜日)、「パンデミック下における筑紫磐井の奇妙な追想」(2023年2月24日金曜日)、「アルゴンたらむと関悦史」(2023年2月3日金曜日)等がある。字数制限のないBLOGの方が竹岡氏の本領を発揮できているようだ。

 しかしそうした記事執筆以上に、竹岡氏は「俳句新空間」自身に関心を持っていただいたようで、個別の意見や批判を私に送っていただいていた。竹岡氏の激しさはこうしたメールでのやりとりによく表れていた。時々そのハイテンションに疲れたこともあったが、逆に「俳句新空間」や私への批判者に我々以上に逆上して激励していただいたこともあり、ありがたい味方であった。いくつかの提案も採用させていただいた。

 竹岡氏から最後に頂いた原稿は『歳旦帖』『春興帖』の投稿であった。紹介しておこう(2024/05/10 金)。BLOGでは7月に紹介する予定であったのだが。


   歳旦帖七句  竹岡一郎

女礼者とアンモナイトを論じ合ふ

人に化け杓子定規の礼者なり

賭博場へ向かふ礼者に嘆息す

寒声や流謫の嘆き高くうねり

欠けざる歯誇りて漁翁ごまめ嚙む

人日や祟る理由もまた恋と

怨霊の行く方を観る七日かな


   春興帖七句  竹岡一郎

一夜官女治水の成りし静けさを

要らぬ子は無けれど一夜官女かな

流木の逞しく立つ俊寛忌

名画座おぼろ十五で死んだはずの僕

死後四十五年の吾がいま花人

来し方を照らすが如き春障子

甘南備の谺まろやか木の根明く


 さて『蜂の巣マシンガン』の小川軽舟氏の序文を読み直してみたら、冒頭に竹岡氏から貰った水晶のことが書かれていた。そういえば私も竹岡氏から水晶を送られたことがある。竹岡氏には親しい人にそうした石を送る趣味があったのかも知れない。ただ、小川氏が送られたのは六面体の一本の結晶だったようで、透明なその姿から小川氏は竹岡俳句について言及している。言ってみれば攝津幸彦を知る以前の端正な姿かも知れない。しかし私が貰ったのは、いくつかの結晶が複合して天を地を、東を西を勝手に向いている。渾沌とした世界だ。これは攝津幸彦を知ったあとの竹岡氏の後半生に近いかも知れない。



【追悼句集のお知らせ】

竹岡一郎氏と縁の深い加藤知子氏から、竹岡一郎追悼句集を、俳句短歌誌「We」18号に掲載したいと申入れをいただきました。志のおありの方はご協力いただければ幸いです。

句数:1~3句

締切:7月10日

宛先:haiku_tanka_we@yahoo.co.jp

※加藤知子氏の近々刊行予定の句集『情死一擲』に竹岡一郎氏が跋文を寄せられています。お読みになりたい方は加藤知子氏にご連絡ください。


【広告】『語りたい龍太 伝えたい龍太——20人の証言』

 監修者の一人として   橋本 榮治

 本書『語りたい龍太 伝えたい龍太―20人の証言』は2022年12月にコールサック社から出版された『語りたい兜太 伝えたい兜太―13人の証言』の姉妹版である。編者の董振華氏が「まえがき」にお書きなので詳細は避けるが、当初は兜太本の場合と同様に黒田杏子さんの企画であったが、杏子さんの急逝によりその企画は一旦は跡絶えた。それを残念に思った振華氏が杏子さんの遺志を継いで内容を補い、出版社に当たったが、杏子さんを失っての出版は幾つかの困難が生じた。先ずは相談相手になる監修者を付けること、新たな論者や龍太俳句を語るに欠かせぬ方を加えるように横澤放川氏や私が助言をした。その後の振華氏の粘り強い交渉と誠実かつ謙虚な仕事ぶりによって無事に出版にまで漕ぎつけた。

 ところで、飯田龍太とその作品を理解しようとするとき、どうしても伝統と前衛という在来の基準にぶつかる。龍太はそれをどう乗り越えようとしたのかは宇多喜代子氏を始め数人の論者が言及しているように、龍太と金子兜太の行動と作品を比較理解することから始めるとよいだろう。「写生」を軸にして伝統と前衛に分かれる二人の俳句は水と油のように言われてきたが、横澤放川氏の発言を読むと二人の作品の根は意外と複雑に絡み合っていて、常に互いを近くに意識していたようだ。

 また、髙柳克弘氏は龍太は意外に前衛的なところはあったし、もしかしたら真の前衛派と言ってもいいのかなと言うが、見方によっては一歩進んで、龍太は伝統前衛の壁を乗り超えた、もしくは在来の伝統前衛の壁を崩した俳句作家かもしれない。その視点から考察するとき、井口時男、坂口昌弘各氏の語る今回の内容がとても役に立つ。著名な句〈一月の川一月の谷の中〉について言えば、何と言っても長谷川櫂氏の発言が纏まっている。そして、龍太の代表句と認められれば認められるほど、「伝統だ前衛だ云々ではなく、『いいものはいい』という桂信子氏(宇多喜代子氏の項)の言葉、また、「写生」と「描写」の違いを前提にしつつ、「五七五では完全な描写なんかできないんです」という井口氏の発言は重い。

 話は飛ぶが、法律学の分野の刑法学に「開かれた構成要件」という概念がある。犯罪はまず「形式的」に構成要件の行為に該当するかどうかを判断するが、開かれた構成要件に当たる場合は裁判官らがまず行為の「実質的」な違法性を判断する。刑法の条文が違法行為の内容を示していないからだ。同じように「一月の川」の句も実際には雪の谷だか寒波の谷だか、井口氏の言う通り何も内容を描写していない。それを筑紫磐井氏は「決して巷間で言われているように龍太の周辺の自然描写の卓越性を特徴としているものではないのです。(略)その意味では、内容から言えば、むしろ無内容に近いと言ってもよいのです」と結論付ける。そこに至る理由は磐井氏の発言を読み、各自で確かめて欲しい。伝統派からは完璧な表現であり、足りないところはそれぞれの想像に任せればよいこと、前衛派からはこれこそ伝統派の写生の至るところが無内容であることの証明と称されてもおかしくない。しかし、自己の立場を固執し、そんなに頭をひねくり回して考えることもない。「いわゆる伝統俳句に属する作家の代表句であるが、前衛の領域に踏み込んだ表現内容によって、従来の伝統前衛の定義をなし崩しに否定してしまった作品」と端的に言えばよい。月名「一月」は描写ではない。と言っても季語なのだから、観念として使っているわけでもない。伝統派を装いつつ、視覚派を装いつつ、視覚よりも聴覚に訴える要素の強い作品という点からも写生俳句と言い切れるかどうか。井口氏は「倫理的道徳的な自然」は蛇笏・龍太に共通していると言われるが、その表現世界が現実から独立し、自立すると抽象化・観念化に向かうのは容易に諾えることだ。飯田龍太が俳句の発表を止めて三十余年、このこと一つにしてもそろそろ句の賛否を超えて、一人ひとりの俳句作家が真剣に龍太俳句の存在の意味を考えなければいけない時にたっているのではなかろうか。

 本書に登場する語り手は基本的には杏子さんの考えの上に立っての人選が行われている。生前の杏子さんに信頼されて用いられた杏子組と称される方々も加わって、この企画を間違いないものにしている。この際、多くの方々に兜太本と共にご愛読願いたいと思ってのことである。十七年前に亡くなった飯田龍太を偲ぶ、単なるノスタルジックな内容でないのは一読すればわかっていただけよう。

 最後になったが、この一冊の為に貴重な写真を多々ご提供下さった飯田秀實さんに特別の感謝を捧げたい。

  2024年夏

(『語りたい龍太 伝えたい龍太―20人の証言』より転載)


【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり10 句集『くれなゐ』(中西夕紀・2020年刊・本阿弥書店)豊里友行

  その中西夕紀さんは、「都市」創刊主宰されている。

 俳誌「都市」で中西さんの日々の旺盛な俳句道の研鑽ぶりを目の当たりにする。

 特に私が共鳴句を選ぶというよりは、果実の断面の切り口を持って私なりの俳句鑑賞をしてみたい。

 それは優れた俳人の日々の精進を垣間見れば見るほど、どの俳句も良さがあって選びあぐねる。

 中西夕紀さんは、昭和55年、宮坂静生氏の指導のもと「岳」に参加して20年余在籍。宮坂氏の勧めで「鷹」に入会して藤田湘子氏に15年間師事。平成8年に「晨」に同人参加にて宇佐美魚目氏に師事。そして平成20年に「都市」創刊主宰されている。

 中西友紀さんの俳句造詣の深さは、この句集の随所に沢山の俳句を読み込んで沢山の俳句刺激を受けながら切磋琢磨してきたことがうかがえる。

 その中で新たな俳句の道を切り拓こうと人生を費やしていることが、ひしひしと伝わる。

 旺盛果敢な俳句の詠みっぷりは、沢山の秀句を成す。


ばらばらにゐてみんなゐる大花野


 花野へ花を愛でにいくのが常人ですが、俳人は人間模様までも愛でる。花の飛花落花の吹雪も見事ですが、花を愛でる人間模様のばらばらに蠢くユーモラスさを盛り込む。俯瞰したカメラの超広角な視界の魚眼レンズで見据えたような大花野の人間模様は愉快である。


魴鮄の多恨の顔に揚がりけり


 ホウボウは、カサゴ目ホウボウ科に属する魚類で風変わりな外見と動作が特徴の海水魚。美味な食用魚でもある。それを唐揚げにしたら多くの恨み辛みが魴鮄の顔に表出したと感受する。私たち命は、万物の沢山の死を喰らって生きている。このような美味しい魴鮄の唐揚げの顔にさまざまな諸行無常の現世をこの俳人は表出してみせている。


皿のもの透けて京なる端午かな


 皿に盛られた京料理は透けて見えるほどの料理職人の技があでやかで見応えもある。ここでの端午(たんご)は、五節句のひとつ。端午の節句のこと。菖蒲の節句とも呼ばれる。日本では端午の節句に男子の健やかな成長を祈願し各種の行事を行う風習があり、現在では新暦の5月5日に行う。国民の祝日「こどもの日」を指す。そんなめでたい日。この句集の俳句の中に詠まれている子への眼差しは、私にはちょっと厳し過ぎないいかなっと思えたりもしたが、これら子どもへの眼差しは子が親になり、孫にあたるくらいの子への視座だろう。眼に入れても痛くないくらいの子を厳しく見据えているようだ。そんな俳句模様には、中西さんのあたたかな人間ドラマを見るようだ。伝統というのは、生と死の中でこの世にしっかりと繋ぎとめる統べでもある。いにしえから伝わる形には、親は子の成長を季節の織り成す節目節目の節句に子の成長を祈願する。その伝統行事には、親が子の健やかな成長を、子が親に成長の過程を形にして示すことの意義がある。そんな大切な成長の過程を織り成す日々の俳句の中にふっと「強くあれっ」と厳しく育ててあげたい気持ちが解けてぱっと歓喜として表出して愛が開花する。


 「手話の子の手も笑ひをり花木槿」の木槿の読みは、むくげ。「海の日を車中に入れて帰省かな」「ひろげたる紙に数式蕗の薹」の蕗の薹の読みは、ふきのとう。「つきあぐる笑ひなるべし田の蛙」「暗がりを子のよろこべる月見かな」など他にも沢山たくさん中西夕紀の眼に入れても痛くない愛燦燦と降り注ぐ日々が俳句に織り成される。


もう誰のピアノでもなし薔薇の家


 誰にも訪れる死の足音を懸命に詠み込もうとしている中では、この句に私は共鳴した。こういう表現は、なかなか出てこない慧眼だろう。


 下記に共鳴句をいただきます。

 ありがとう。ありがとう。ありがとう。


青嵐鯉一刀に切られけり

かなぶんのまこと愛車にしたき色

曳航のヨットは色を畳みけり

笑ふ顔集まつてゐる五万米(ごまめ)かな

雪掻きに古看板を使ひをる

マスクして葬の遺影と瓜ふたつ

皺きちやな紙幣に兎買はれけり

干鱈しやぶりながら語れる開拓史

初乗のやはり眠つてしまひけり

万歳をしてをり陽炎の中に

鯖〆て平成も暮るるかな


2024年6月14日金曜日

第227号

              次回更新 6/28



【急告】鷹羽狩行氏逝去! 》読む

高橋比呂子句集『風果』を読みたい 田中信克 》読む


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令和六年歳旦帖
第一(5/25)辻村麻乃・豊里友行・川崎果連・仲寒蟬・仙田洋子
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第三(6/8)山本敏倖・岸本尚毅・浜脇不如帰・冨岡和秀
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令和五年秋興帖
第一(2/16)竹岡一郎・山本敏倖・杉山久子・仲寒蟬・関根誠子
第二(2/23)瀬戸優理子・大井恒行・神谷波・ふけとしこ
第三(3/8)冨岡和秀・鷲津誠次・浅沼 璞・仙田洋子・水岩瞳
第四(3/16)曾根毅・小沢麻結・木村オサム
第五(3/22)岸本尚毅・前北かおる・豊里友行・辻村麻乃
第六(3/26)網野月を・渡邉美保・望月士郎・川崎果連
第七(4/12)花尻万博・眞矢ひろみ・なつはづき・五島高資
第八(5/17)小野裕三・佐藤りえ・筑紫磐井
補遺(5/31)早瀬恵子・浜脇不如帰
(6/8)下坂速穂・岬光世・依光正樹 ・依光陽子

令和五年冬興帖
第一(2/23)竹岡一郎・山本敏倖・杉山久子
第二(3/8)仲寒蟬・関根誠子・瀬戸優理子
第三(3/16)大井恒行・神谷 波・ふけとしこ・冨岡和秀・鷲津誠次
第四(3/22)浅沼 璞・仙田洋子・水岩瞳・曾根毅・松下カロ
第五(3/26)小沢麻結・木村オサム・岸本尚毅・前北かおる・豊里友行
第六(4/12)辻村麻乃・網野月を・渡邉美保・望月士郎
第七(4/26)川崎果連・花尻万博・眞矢ひろみ・なつはづき・五島高資
第八(5/17)小野裕三・佐藤りえ・筑紫磐井
補遺(6/14)早瀬恵子・浜脇不如帰・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子

■ 俳句評論講座  》目次を読む

■ 第47回皐月句会(3月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第19号 発行※NEW!

■連載

【抜粋】〈俳句四季3月号〉俳壇観測254 終刊と新刊と――「青麗」・「あかり」・「いぶき」と「窓」

筑紫磐井 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり9 渡辺誠一郎句集『赫赫(かっかく)』 》読む

英国Haiku便り[in Japan](46) 小野裕三 》読む

【新連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(46) ふけとしこ 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

句集歌集逍遙 筑紫磐井『戦後俳句史nouveau1945-2023——三協会統合論』/佐藤りえ 》読む

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を読む⑥ 一人の俳句の書き手・読み手として 黒岩徳将 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む
インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
6月の執筆者(渡邉美保)

■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子




筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 



【急告】鷹羽狩行氏逝去!

5月27日、俳人協会名誉会長の鷹羽狩行氏が逝去されました(93歳)。

謹んで哀悼の意を表します。


(略歴)1930年10月5日 、山形県出身。本名・髙橋行雄。山口誓子と秋元不死男に師事。第1句集「誕生」で俳人協会賞、その後芸術選奨文部大臣新人賞、毎日芸術賞、蛇笏賞、詩歌文学館賞、日本藝術院賞等を受賞。毎日俳壇選者、日本芸術院会員。2002年、俳人協会の会長に就任、17年に俳人協会名誉会長に。18年には「狩」を終刊し、19年に「香雨」の名誉主宰に就任した。


【作風・評価】三省堂『現代俳句大辞典』(筑紫磐井執筆)より(Wikipediaに引用さる)

《作風》社会性俳句の過ぎ去った後の建設的な時代にふさわしい俳人として狩行は登場した。だから、生命力、外光性、自己肯定、ユーモアとウイット等の賛辞が呈せられているように、伝統派ながら占い俳句臭を脱ぎ去った、いかにも戦後俳句らしい世代の代表として期待を受けたのである。この本質は70歳を越えても変わらない。

《評価・研究史》『誕生』に寄せられた山口誓子の序文で「心が優遊し、言葉もそれに伴って優遊してゐる」と的確に述べられているように、狩行俳句の積極性・明解で安定した情緒性への評価は一貫して変わらない。これに対し、理知的側面から見た評価、詩的操作や技法は、ややもすると狩行俳句を機知俳句ととらえようとする方向に向かう。この結果は、狩行には思想がないという主張(古舘曹人「自律の遍歴―鷹羽狩行鑑賞」/平井照敏「鷹羽狩行―幻想派の明と暗部」等)に至ることとなる。しかし近年、狩行のこうした衣現技法にこそ新しい思想性への道筋がみられるという主張(高橋悦郎「狩行俳句の象徴性―句またがりの意味」/片山由美子「鷹羽狩行の軌跡―その作家論を追って」/筑紫磐井「〈狩行の思想〉を読む―言葉の彼方に」等)が強まっている。

《代表句鑑賞》

みちのくの星入り氷柱われに呉れよ(『誕生』)   

◆狩行の若々しさを象徴する句。のちの狩行の設計されたような句に比べると未熟のようにみえるが、むしろそれだけ青存性を訴えている。篠原鳳作の〈しんしんと肺碧きまで海のたび〉が無季だからこそ強く訴えるように。青春には欠落が必要だ。【氷柱・冬】


摩天楼より新緑がパセリほど (『遠岸』)

◆狩行初期俳句の代衣作。ニューヨークの摩天楼からの眺望として見ればまことに的確だが、さらに「摩天楼の中の新緑」と「西料理皿の中のパセリ」が対比されて、狩行独自の構成的な技法がよくうかがえる。【新緑・夏】


一対か一対一か枯野人(『平遠』)

◆「一対」と「一対一」は似た言葉であるが、味方対敵者のようにそのベクトルが向かい合っている。ここにはただイメージだけではなく、物の考え方まで俳句の対象としている狩行独自の方向性がみえる。【枯野・冬】


若き日と同じ明るさ麦の秋 (『第九』)

◆五〇代後半を迎えた作者にとって「若き日と同じ明るさ」ということ自身がものがなしい。余りの明るさにかえって浮かび上がる作者の微妙な気分、それが心理的な対比からき彫りとなる.【麦の秋・夏】


天と地と昼夜のあはひ牡丹焚く(『十二紅』)

◆同句集では《人の世に花を絶やさず返り花》が作者にも読者にも評価が高いが、むしろこの句を挙げたい。人・地・昼・夜という時空の交錯は、狩行俳句を一層深め縹緲たる世界に導く。【牡丹焚く・冬】

《参考文献》角川書店編・『鷹羽狩行の世界』(2003・8/角川書店)は119人の狩行論167編を収める画期的な狩行研究の必見資料。


●最新の鷹羽狩行論

筑紫磐井『戦後俳句の探求』(2015年ウエップ刊)

   ――兜太・龍太・狩行の彼方へ

「鷹羽狩行論・・・狩行の思想」 を収録



【抜粋】〈俳句四季3月号〉俳壇観測254 終刊と新刊と――「青麗」・「あかり」・「いぶき」と「窓」 筑紫磐井

 ●「藍生」の後進雑誌

 黒田杏子の「藍生」が終刊し、1月から二つの後継雑誌が生まれた。高田正子の「青麗」と名取里美の「あかり」である。すでに杏子存命中から、中岡毅雄・今井豊の出していた「いぶき」などもあるが、これらの雑誌が杏子の精神をどう継いでゆくのか興味深い。

 高田は『黒田杏子の俳句』『黒田杏子俳句コレクション1螢』『同2月』(以下続巻予定『同3雛』『同4桜』)と次々杏子関係の著書を刊行しており、杏子精神をまず継承させる主役と言ってよいであろう。その主宰する「青麗」は隔月刊。創刊号は52頁、創刊特別インタビュー、主宰作品、主宰選「青麗」集とその評。さらに「藍生」の伝統を継いでいるのは、会員たちに連載記事を執筆させていることで、「俳句百名山」、「季語と外来植物」、「海の物語」、「お菓子な俳句」等の肩の凝らない読み物を提供している。

 面白かったのは、表紙裏のコラム「高田正子の初学物語」で、自作「凍蝶のはねひからむとしてゐたり」ができた経緯として、句会に出したこの句ははじめは「はねひらかむ」であったのだが、最初の人が誤読してしまい、作者は目から鱗が落ちた思いをしたという。「はねひらかむ」は高田にしてはそれほど目覚ましい表現ではないから、偶然の産物として開眼したというのはわかることだ。そしてそれは誤読の効用としてなくはない話だが、その最初の誤読者が長谷川櫂であったというのが落ちとなっているのだ。

 名取の「あかり」は年2回刊。創刊号は76頁、「創刊に寄せて」を宮坂静生、片山由美子、伊藤玄二郎の文章と真鍋呉夫の書で飾る。「青麗」と違うのは、徹頭徹尾名取里美が全面に出ていることで、主宰作品、主宰選「花あかり集」とその評はもとより、「創刊のことば」、随筆「反戦の俳句」、第1特集〈山口青邨、黒田杏子先生とわたし〉として随想「先生の椅子」、「青邨忌追懐」、書評「黒田杏子『銀河山河』」、さらに第2特集あかり俳句会会員三句集刊行お祝いもそのうちの二冊を名取里美が執筆している。興味深いのは「反戦の俳句」だ。子息がヨーロッパからウクライナを経て帰ってきたが、それを契機にウクライナに関心を持ち、自身反戦の俳句を詠むようになったという。そしてウクライナの地下壕で避難生活をしている女性がSNSで俳句を発表していることを知り、その紹介をするのである。一見しとやかに見える名取だが、東京新聞「平和の俳句」選者を勤めた黒田杏子の継承者らしい文章と行動であった。

 既に創刊してから5年たった中岡・今井の「いぶき」は季刊で、最新号の11月号は92頁、5年もたつと風格が生まれて来る。副編集長の雪花菜は「ゆくゆくは「藍生」に迫るほどの規模や活動ができれば、と思っています」と意気軒高だ。選句欄は中岡の「一碧集」、今井の「齋甕集」であるが、会員は同時に両方に投句できるようであり、面白い仕組みである。特集は、➀「藤岡値衣句集『冬のひかり』を読む」と➁「追悼・黒田杏子」であり、黒田の師系を如実に示している。そういえば、「藍生」は毎号「いぶき」の紹介を連載で行っていた。杏子も後進の行方が気にかかるところがあったのだろう。

(以下略)

 詳しくは〈俳句四季3月号〉参照

英国Haiku便り[in Japan](46)  小野裕三


サイファイ句(SF俳句)の社会性と造形性

  scifaiku(サイファイ句)なる言葉は、けっこう英語圏では定着している新語のようだ。scifi(サイファイ)はサイエンスフィクションの略でSFを示す一般用語だが、それにkuが加わり、SF的なモチーフを詠む俳句を表す造語となった。一九六〇年代頃から動きはあったらしいが、一九九五年にはトム・ブリンクという人物が「サイファイク宣言」を発表した。

 twin moons chase stars

 Mars descends into the cold

 another night alone    Wendy Van Camp

 二つの月が星を追う / 火星は冷えこむ / またひとりぼっちの夜

 サイファイ句は五七五や季語には拘らない一方で、俳句的感性を巧みに活用する。例えば、火星に人が住むようになった時、どんな景色が見えて、人はどのように暮らし、何を感じるのか。そんなことを俳句的な凝縮力を使って探るのだ。

 ひとつ注目すべきことは、英語圏におけるhaikuの包容力・柔軟性や貪欲さだ。SF的素材すらもやすやすと領域内に取り込み、「サイファイ句」なる造語まで作って拡大と多様化を遂げるhaikuの姿には驚嘆する。このようにジャンル名とkuを組み合わせた英語の造語は数多く、「ホラー句(horrorku)」などもある。

 これらの動きを、俳句としては邪道なもの、と異端視するのは容易い。だがサイファイ句は、俳句の想像性や社会との関係といった大きな問題に届く射程を持つとも言え、どこか硬直した日本の俳句よりもよっぽど可能性がありそうだ。

 HEARTBREAK

 she fell in love

 her man was perfect

 the robot with no heart    K. A. Williams

 「失恋」 彼女は恋をした / それは完璧な男 / 心を持たぬロボット

 サイファイ句は、スペキュラティブ・ポエトリーという現代詩の流れに位置づけられる。スペキュラティブは推論や思索を意味する形容詞だが、デザインの世界では「ありうる未来の姿を予測することで社会に問題提起する」手法として注目されてきた。同様のことは詩でも可能だろう。未来の世界では人は何を感じるか。そのことを端的に捉えるために、時空を凝縮して切り取る俳句の力が活きる。

 サイファイ句とは想像の中での吟行だ、と説明する人もいる。詩とは太古から預言者のものだからサイファイ句も未来を語る預言的な詩だ、と説明する人もいる。そう思えば、サイファイ句とは、未来予測という形で社会とも繋がり、かつそれが想像的造形となって詩に昇華したものとも思える。つまり、俳句形式において社会性と造形性を同時に実現したものがサイファイ句だ、と考えると面白い。

 ※写真はKate Paulさん提供

(『海原』2023年7-8月号より転載)


【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり9 句集『赫赫(かっかく)』(渡辺誠一郎、2020年、深夜叢書)

東京を丸ごとたたく夕立かな


 俳句表現の醍醐味であるモノの本質を鷲掴みした的確な言葉たちが、どの句にも魂の弦をしっかりと張られている。

 あとがきに「佐藤鬼房生誕百年が過ぎ」とある。

 弱者の視座で戦後を代表する俳人のひとりの佐藤鬼房俳句の魂は、受け継がれ、ここに健在だ。


底冷えや川の匂いの文学部

桜より淋しき息が出てしまう

魂を隠しきれない水着かな


 現代俳句の題材をストレートに感性の瑞々しく俳句に現れること多々あり。

 「文学部」をこのように瑞々しい感性で捉えた俳句を私は、知らない。

 桜を淋しくさせてしまった時代を私たちは、また造り出しているのか。

 水着で隠すはずの身体からは、生命や魂も隠せないほど命が躍動する。


 渡辺誠一郎さんの東日本大震災から九年の歳月は、並々ならぬ言葉との格闘でもあった。


瓦礫失せ一痕として冬の星


 瓦礫が片づけられて整備されても、ひとつの痕跡は心の闇を照らし出す冬の星であり続けるのかもしれない。


狐火もて見るやメルトダウンの闇


 狐火は、東日本大震災で亡くなられた死者への日々追悼の灯火を燈す渡辺さんの意志なのだろう。


原子炉を遮るたとえば白障子


 原発事故の責任や対策を国は、放置し続け、ないがしろにされ続ける。

 死者の尊厳を生き残った渡辺さんたちは、つねに俳人として東日本大震災を詠い続ける。それは、忘却、忘れたくない一心なのかもしれない。


原子炉はキャベツのごとくそこにある


 日常のキャベツと一緒に共存し始めた原子炉とは何だろうか。

 渡辺誠一郎俳句の社会詠の鋭さは、この日本大震災との俳人としての格闘にある。


小雀の一羽加わる濁世かな

国よりも先に生まれし田螺かな

ミサイルの空は窮屈梅筵

はつきりと見えぬものへと捕虫網

軍装を今だに解かぬいぼむしり


 渡辺さんの社会詠は、時代を焙り出す。

 それらは、徹底した真実への眼差し、観察力を日々磨き続ける中から宿る。

 雀たちが光まみれの砂浴び、子雀も一羽加わって混沌としたこの濁世に呑み込まれていく。

 田螺や人間が国境線を張り巡らせる前の地球に抱かれている。

 ミサイルの緊迫感を窮屈とぴりっと批評眼をノアの箱舟みたいに梅筵に添えてみる。

 捕虫網で不確かな時代を捕獲せよ。

 「いぼむしり」は蟷螂の一名で、その容姿に軍装をいまだに解けない人類を顧みる。


妹の鼻が低くて金魚玉

金柑を握りて友を補足せり

姉の住むやさしき町のリラの花


 家族や周囲への温かな眼差しにも顕著に秀句があった。

 妹の鼻の低さを愛らしくユーモラスに。

 金柑を握り友に会いに、捕獲のユーモアもきらりと光る。

 これら渡辺さんの御人柄だろう。姉にも妹にも友にも通呈する愛がある。


ぬばたまの闇包まんと熊の皮

命などみえては困る万愚節

心臓を欲しがる夜の菊人形

隠沼に魂映すなら花のころ

みちのくのどれも舌なき菊人形

百年の鴨居を揺らす昼の蜘蛛

じゃんがらの手足からまる夏柳

栄螺堂闇ごと捩る余寒かな

静止衛星直下熊の子眠るなり


 風土を鷲掴みする表現力に脱帽である。

 熊の皮の存在感。

 4月1日のエイプリルフールの万愚節とて、命など見えては困ると本音がぽろり。

 夜の菊人形の生き生き存在感があるね。

 隠沼とは、草などに覆われて上から見えない沼のことで魂を映し込む開花時期に。

 百年の鴨居を揺らすほどの昼の蜘蛛の堂々としたさま。

 じゃんがらの名作だね。

 栄螺堂の闇を捩じるほどの寒さ。

 小熊さえ衛星から監視せよ。

 どの俳句にも描写力があり、存在感のあるキャラクターが浮き彫りになる。



 下記の共鳴句も頂きます。

 同時代に俳句魂の共振を得られて光栄です。

 ありがとう。ありがとう。ありがとう。


春暁のますほの小貝賜りぬ

宿縁をたどれば夜の蟬の穴

まつさきにわが眼窩へと秋の風

消えぬなら枯野の沖へ風となり

瞳孔の拡がり見える冬の湖

眼力の一つに春の飛蚊症

心臓に貼りつくことも飛花落花

轟沈を知っているなら水水母

かなぶんに当たれば固き空気かな

木にのぼる猫のしっぽの小春かな

凍滝は全重量でありにけり

鯛焼きのどこかに熱き心の臓

着ぶくれて脳みそ小さくなりいたる

冬深し小さな朱肉見つからぬ

身のどこか置き忘れたる蒲団干す


【初筆】「小熊座」2021年2月号(vol.37)特集 渡辺誠一郎句集『赫赫』「溢れ出る生命賛歌と現代社会詠」(豊里友行)

高橋比呂子句集『風果』を読みたい

高橋比呂子『風果』

                              田中信克


 表紙にハイデルベルクの街の一隅が描かれている。教会の尖塔や石畳の路、その向こうに続く広場。中世から変わらぬ街のかたちと、その中で営まれてきた人間の生活や行動。それらを空が見つめ風が見つめ、そして時間が刻まれてゆく。高橋比呂子の第五句集『風果』は、そうした人間の歴史と現在とを世界的な視野に立って見つめ、その時々の感覚や認識の在り方を捉え直す形で表現した希少な句集である。

 まず全体の構成が面白い。「目次」にある章立てを見てみよう。句集は、「国境」、「敦煌」、「現象学」、「破墨」、「COVID-19」、「諸氏」、「くにうみ」という七つの章から成っている。前半二つの「国境」「敦煌」の章では、紀行諷詠のような形で、ユーラシアと中国、東アジアの歴史や文化、現在の社会が捉えられており、後ろの二章、「諸氏」「くにうみ」では、奈良探訪の思索吟に始まって、日本神話の様々なエピソードへと時間が遡ってゆく。その二つに挟まれる形で「現象学」、「破墨」、「COVID-19」の章が置かれるが、「現象学」では人間の感覚と認識の問題が考察され、「破墨」では水墨画や書芸術に眼を転じた形で、そのテーマが再考察される。「COVID-19」は、近年のコロナ流行下の社会現象を詠んだものだが、この『日本の現在』を挟む形で、世界史的な時間が辿られ、日本史的な時間が遡られてゆく。『風果』という句集名は、「旅をして感じた風土と、吹かれたその刻々の風との合成語」と「あとがき」にあるが、作品には「その刻々」における時間と空間、そこにおける人間の感情や思想、詠まれた対象や周囲のものとの関係性が、作者の感覚や経験などに照らされながら、「俳句という濾過器」を通じて提供されてゆく。暦年的に作品が整理される句集が多い中で、こうした鳥瞰的な視野に立って、時間と空間と認識を再考察するような構成の句集は珍しい。まずそのことを述べておきたい。

 もう一つ感じたのは、この句集が、ある意味でこの作家のこれまでの努力の集大成でもあるということである。高橋には、これまでに『アマラント』、『ふらくたる』、『風と楕円』、『つがるからつゆいり』の四句集があるが、その五十年以上におよぶ俳句創作の過程で、言葉や音律、象徴性や断絶性といった俳句の諸要素と、それらが齎す感覚や認識への影響といったものに真摯に向き合い様々に心を砕いてきた。「あとがき」にも言霊と深層心理への言及がある通り、その意識は強いものがある。言葉自体が持つ啓示的な意味。俳句全体が奏でる音韻やリズム。それらは脳や心理に作用しながら、読者の心の中に或る形像を立ち上がらせてゆく。そのプロセスについて作者は熱心に冷静に研究を続けてきた。この句集の作品の幾つかには、どこか阿部完市や加藤郁乎のテイストを感じるかもしれないが、作者には俳句における言葉と音と心理の関係を学ぶべく、それら先達作家達の作品を熱心に研究してきた経緯がある。特に「現象学」の章以降では、この「俳句の言霊性」に対する作者の思いが滲む作品が多い。その意味で、『風果』の『果』は、長年の試行の「結果」であるとともに、現在辿り着いた地点としての「果て」を示すものなのかもしれない。それでは章立てに従って詳細を見てゆこう。


 国境


 ヨーロッパの歴史と社会は実に多くの要素を含む。気候的にも民族的にも多様な要素が詰め込まれ、それらが個々の文化を形成しつつ、争ったり融合したりしながら「ユーラシア」という大きな流れを形成してきた。この章には、実際に作者が訪れた国々や場所における記憶、その歴史や風土への想いが俳句となって語られて行く。そしてその表現技法として、言葉の持つ象徴性や音韻、漢字や仮名(時には英文字やアラビア語表記)の「すがたかたち」、テンポやリズムといった実に多くの要素が試行的に活用されている。同時に作品には、映像絵画的な演出や、季節感、風土感による共感性の訴求といった、ある種伝統的な俳句の要素も活かされており、抒情詩としても格調の高いものに仕上がっている。全体としては、明るく、柔らかいトーンで落ち着いていて、紀行吟として読んでも気持ちの良い一章である。


さんたまりあのあのあたり国境           

数学の太古のゆめをいすらむの           

ミモザ咲くあんだるしあを弄ぶ           

にわとりにいちばんちかいぽるとがる        

風九月信者のように百塔あり            

ざくろからほどけてゆきしあんだるしあ       


 一句目。句集の冒頭句である。上五中七にA音とN音を重ねて伸びやかさを演出し、下五に二重のI音を置くことで音調を引き締めつつ、読者に「国境(くにざかい)」の持つ意味を静かに問いかける。その地点に有名なマリア像があるのかもしれないし、キリスト教文化と異文化の「境目」なのかもしれない。明るさと空間の拡がりの中に、隣接する社会の態様を冷静に見つめる視点が窺える。二句目、三句目は平仮名表記が面白い。「いすらむ」「あんだるしあ」と書くことで、片仮名での通常表記から想像する既存概念を排し、ちょっとお道化て見せつつ、発想の転換を促している。宗教や文化、地域の持つ特色と課題。そうしたものの実態の存在を仄めかしてもいるようだ。四句目には、かの郁乎の有名句を想い出す。「昼顔」と「鶏」。二つの言葉のイメージと、二つの俳句の世界に照らして、平仮名書きの「ぽるとがる」の持つ意味が再考察される。五、六句目は、九月の風、石榴という秋の景物を上品に描きつつ、これも信仰や地域事情の現在を静かに問う作品となっている。明るい陽射しや爽やかな風。秋の光が心地よい。こうした絵画的な演出を施しつつ、先述の様々な工夫や技法を凝らすことで、微笑みと謎掛けを同時に提示しているような姿が印象的である。

 またこの章では、有名画家や芸術思想の名を用いた作品も見受けられた。いかにも美術に造詣が深い作者ならではの作品である。


翡翠(かわせみ)をゴッホのゆめとおもいけり          

きゅぴずむの夏の舞いあり戦あり          

しゃがーるの牛頭ふるや星月夜           

尖塔と私伝ありて青滴らすや            

ロンドン橋おちて星ひとつ消え           

実南天みちかけみるみるゆうらしあ         


 一から三句目までに使われた画家名や美術スタイル。読者側にはそのイメージが鮮明に浮かび、俳句との距離がぐっと近くなる。ヨーロッパ文化が生んだ才能と業績。作品はそれらの「世界を借りる」形で、共感性ともに作品独自の新奇性を訴えてゆく。また四句目から六句目は、映像的な仕掛けが凝らされた作品である。「青」という色彩の持つ意味の問い掛け。ロンドンの街景と天体の消滅と言う壮大な構図の呈示。「み」音の畳みかけによる流動性と空間の拡がり。こうした演出効果にもまたこの作者独特のものがある。

 もうひとつ、この章について、次のような作品の存在を挙げておきたい。作者の歴史への想いが、現代の宗教や戦争、社会問題に通じる作品である。


波斯(ぺるしゃ)まで精神と言う糸はるか

水軍といるとびっきり蒼い日               

十字架もって花もって橋わたるよ             

ロカ岬自殺願望証明書                  

空爆ほどの橋かけてあります               


 西欧文化とイスラム文化との歴史的交雑。地中海やアドリア、イオニアなどの海を舞台に行われた幾多の戦い。アヴィニオン教皇庁の物語や、あの童謡のリズムとテンポ。歴史におけるの「橋」の意味。大陸の「最西端到達証明書」にふと重なる、精神と生活の限界状態。五句目などには、近年のロシア・ウクライナ紛争における橋の破壊行為が思い浮かぶ。こうして歴史と文化に想いを馳せつつ、現在の社会を重ねて考えることで、作品の思想が深まってゆく。その眼差しが、今度は東方に移遷して、次の「敦煌」の章が始まってゆく。

 

 敦煌


城壁は晩夏にこそわが唇                 

夜光杯みんなちりちりわかれゆく             

敦煌あめすこしさらに繭に                

玄奘の舌となりけり砂嵐                 

邯鄲の夢のひとつや驢馬の肉               


 前章ではユーラシアの西側に向いていた視線が、この章では東側に転じられ、主に中国の「西域」を舞台として展開されてゆく。玉門関を中華文化と異文化との境と見れば、作者はここにも、複数の文化の共通性と相違性や、そこに漂う「感覚の不思議」を見たのかもしれない。実に俳人らしい感性でもある。右例は、名所旧跡や故事によってよく知られた内容を背景にした作品であるが、何よりも「その地点と時刻、状況の現在」が捉えられているようで面白い。例えば一句目では、夏の陽射しを浴びた「城壁」の土や石の経時変化が目前に迫り、また壁の肌が残る水分の様が、「唇」という言葉によって実態的に示されているかのようだ。砂漠化や気候変動の影響がここにも及んでいるのだろうか。二句目の「夜光杯」は、王翰の「涼州詩」を背景とした作品である。「古来征戦 幾人か回る」。この句はウクライナ侵略以前の創作だと思われるが、徴兵され派兵されたロシアの若者達、ひいては満州や南方に駐留を命じられた戦前の日本兵、米国による「世界の警察」統治のことなどを考えると、いかにも「現在」の社会問題が滲んでいる。同様に三句目から五句目の作品にも、対象地域の『現在』が、或る課題感を持って抑えられている。敦煌の句には貿易問題が、流沙河の句には気候問題が、そして邯鄲の句には中国都市の現在の課題が映し出されているようだ。


駱駝ほとほと稜線あまりにも澄んで           

墓標立つゴビに鳥瞰こそよけれ             

夜間飛行平方根のごとねむる              

西夏まで幾千年の馬脚かな               

黄河鯉ならべ黄金ならべ食べ              


 前章で見たように、この章にも絵画的演出の効果が高い作品が多い。砂漠の「稜線」と「ほとほと」歩く「駱駝」隊の間の遠近感。広大な砂漠の鳥瞰と、眼下に点々と散らばる、黒く小さな「墓標」の数々。「夜間飛行」の句には同名のサンテグジュペリの小説を想い出す。乗数意外では少数が延々と続いてしまう平方根。その連続に眠さを感じるという発想が面白い。「馬脚」(の動き)の実像にふと重なる、千年の時間と都からの距離感。鯉も黄金も食べ尽くすような中国俗世のエネルギー。どの句も映像としての共感性が高い。それが実景であれ、心に映る像であれ、具象としての強みは、この句集の特徴の一つでもあろう。だがこの句集には、それとは逆の方向性、抽象性や深層心理的な感覚、あるいは概念性といったものが、もう一つのの大きなテーマとして展開されている。それが次章の『現象学』で示されてゆく。


 現象学


 現代俳句が現代思想の直接的な影響下にあった(一時期があった)とは思いづらい。何人かの著名俳人が著名な哲学論に興味を持っていたとか、幾つかの作品がその思想に触れた形で書かれているということはあっても(例えば記号論やロラン・バルトの著作などは、俳句の側から大いに参考にされたが)、或る俳人のグループが、或る思想を全面的に標榜して、その文芸的体現のために運動を展開したといったことはあまり聞かない。(私が寡聞にして知らないだけで、そのような動きが一部にはあったのかもしれないが、俳壇がまとまって或る種の思想を掲げて活動をしたとは思いづらい。)子規が『俳諧大要』の中で「俳句は終(つい)に何らの思想をも現はすに能(あた)はず(や)」と悩んでいるように、俳句と哲学の間にはある種の隔たりがあったようだ。だが同著が「縦(よ)し複雑なる者なりとも、その中より最(もっとも)文学的俳句的なる一要素を抜き取りて」という可能性を示すように、俳句の短さは、ちょうど禅の言葉のように、深遠な思想を一語で言い切るインパクトを持つ。また人間の感覚・知覚と認識の間の相互作用を考えるにあたっては、両者には関係性の深いものがあると思われる。私は特に、現象学と言語学との関係が再考察されるべきものだと考えている。個別具体的な影響と言うわけではなく、この二つの潮流が二十世紀の社会に与えた影響の下に、現代俳句も位置しており、間接的な(しかしながら重要な)影響を受けていると思うのである。金子兜太の『造型論』における認識作用も、阿部完市の深層意識も、永田耕衣などにおける意識の感得の方法も、これらの思想と無縁だとは言い切れない。フッサールの「ノエシス・ノエマ」も、ソシュールの「価値の体系」も、現代俳句の構造と相通じるところがある。またそれに続く実存の概念やメルロポンティの知覚の現象学といった思想も、当時の社会に影響を及ぼす形で、俳句にも影響を与え続けたと言えるのではないか。その意味で今回、作者が句集の中に『現象学』という章を設け、それをセンターに据えていることは意義深いことだと思うのだ。それでは個々の作品を見てゆこう。


波紋あざやかなりめぐりてかきつばた             

いそいですぎないと錯覚となる夏館              

7月のマトリックスよ沈没船                 

燕とぶには昼月がしろすぎる                 

脳の重さにほうたる点滅していたり              


 まず『現象学』と銘打つように、視覚と認識の作用に関する作品が印象的である。一句目。燕子花の群生を巡る時、一つ一つの花の鮮やかな色彩と、花弁の襞に宿る柔らかな光とが、同時に網膜に映し出され、それがやがて、波が照り返す光の煌めきのように見えてくる。光の干渉縞に近いイメージでもあろうか。ホログラムの制作過程で、左右の違う角度からの異なる映像が一つに重ねられ、そこに立体画像が立ち現れるように、一つの現象から感じられる複数の感覚が、脳内で昇華されて別の(より高度な)知覚となる。そしてそれが自己との関係性の中で認識として定着してゆく。この句には、そうした一連のプロセスが映し出されているようだ。二句目は夏館を詠んだ句だが、視覚に映った映像が、建築物の実態的な姿なのか、それとも脳内に感得された錯覚なのか、異なる二つの像の間で作者の判断が揺れている。しかも「急いで過ぎないと」と言うように、時間とともに現物がどんどん錯覚化するというのである。ここにも実際に感受したものが、脳内で知覚、認識されてゆく過程が描かれている。三句目では、読者にはまず「沈没船」のイメージが浮かぶ。船という大きな塊が、幾重にも重なる水の層の中に青く沈んでいる。上空から光が差し込み、それらの層に様々に屈折してゆらゆらと歪む世界。それを見つめていると。やがてそこに何かの法則のようなものが感じられてくる。光や水の色、明るさや暗さ、深さや位置など、それらをパラメタとした、いわば行列のようなもの。それらの要素や条件に囲まれて「沈没船=自己の現在」の姿が探られてゆく。この過程もいかにも現象学的だと言えようか。四句目、五句目に描かれた視覚と意識の間にも同様のことが指摘できよう。


カノンそのかのまなざしに秋の蛇           

言の葉も蛍も死にいそぐらむ             

花野からくる美しき傀儡かな             

円周率からほどけてゆきぬかぜの秋          

轡虫しずかといえるしずかなり            

脱兎のごとし歳旦といえり              

草石蚕またたましいである田いちまい         


 さらに進んで、右のような句例からは、感得された現象が、人間にとっての普遍的なもの、あるいは意味性に結びついてゆくプロセスを感じる。どの句にも「生」や「死」の在り方が静かに語られているようだ。「まなざし」に宿る様々な現象。それを取り巻く光や風、時間の中で、存在と霊の在り方が探られてゆく。「死にいそぐ」、「美しき」、「円周率」、「しずか」、「歳旦」、「たましい」といった言葉は、みなその帰結点を暗示しているようにも感じられる。存在が変化を重ねてそこに至る時間。ハイデガーではないが、たしかに『現象学』から『実存主義』へといった感がある。ここにもこの章題の持つ確かな意味があるように思えてならない。


破墨 および COVID-19


 先述したように『破墨』の章は、前章の『現象学』における視点を水墨画にテーマを移した形で再確認しているように思える。また『COVID-19』にはコロナ禍を一つの機会として、日本の現在の社会を見つめ直そうとの意思が窺える。ここでは印象深かった作品を挙げるにとどめたいが、まず『破墨』から見てゆこう。


破墨とは眦あつき下弦の月               

海(み)松(る)色(いろ)に海暮れゆけり円月島              

日輪まわしてあすもくるよみそさざい          

神経科の幻月というメロンかな             

すたすたとくるぶしとおく紙つぶて           

  

 「破墨」とは水墨画の技法で、淡い墨で描かれた画面に、さらに濃淡の墨を加えて、その調和を破り、また再び整えることだそうである。『現象学』で見たように、人間は感覚によって外部の対象や現象の様々な要素をキャッチし、それを脳で知覚として整理した上で、自己に関わる認識として捉えなおす。その過程はこの『破墨』という技法にも通じるところがある。そのことはここに挙げた作品を通してもよく分かると思う。また、この章は画や書にテーマを置いただけだけあって、思索的であった前章の作品よりも、映像的で情趣性の高い作品が多い。一つ一つの句が描く調和と破調。その中にしみじみとした旋律が感じられる。


もっともくるしいひといて薔薇星雲 

人を避けコロナを避けて桜蘂

こんぷらいあんす巣ごもりもこすもすも 

雪いろのからだつかれて過ぎて浪費


 「COVID-19」の章はテーマの性格からも時事的な作品が多い。またそれゆえ共感性の高い作品が多くなる。コンテンポラリー性は「俳」が持つ大事な要素の一つでもあると思う。「現在」をどう捉えるか。同時代に生きる人間達の共感性と、時代を越えた普遍性をどう考えるか。そのことについては、ここでの言及は控えるが、もっと議論されてもよいと思っている。右のような作品からはそのことを強く感じた。


 諸氏


 さて、句集も後段に入り、この章からは日本の古代がひとつのテーマとなってゆく。奈良探訪時の思索的な作品から始まって、最終章ではさらに遡り、神話の時代に立ち返って、人間の行動と言葉や音の関係が探られてゆく。


廬舎那仏闇は闇にて発光す

いかるがのうまやのみこのぬばたまの

いそいですぎないといかるがのきげんです

萩のみち爪染めて尼寺へゆく

秋扇ひらけば灯る銀河系   

冬鳶何という橋わたるのか  

踊り場に光ある日栗の花散る   

天窓のロートレアモンいきしちに  

青い釦の諸氏すぎて夏至


 東大寺大仏殿や法隆寺夢殿。古寺や旧跡を辿りつつ、「いにしへ」が現在に重ねられてゆく。抒情性の高い、穏やかな作品が多いが、「いかるがのきげん」や「ロートレアモン」の句のように、愛嬌のある不思議さがアクセントとなっている作品も魅力的である。全体的にはゆるやかに、ノスタルジックな味わいも加えつつ流れてゆく。最後の句などは、「青い釦」の男性達とすれ違った時の嘱目吟であろうが、あたかも彼らが、百官が揃う古代の儀式に出向くために歩んでゆくような錯覚を覚える。こうしたイメージの交錯が面白い。また、この章では特に、全体的な音のやわらかさや、光や空気の感覚と言ったものの表現方法に興味を感じた。例えば。八句目の「踊り場に」の句には、ふと摂津幸彦の「階段を濡らして昼がきてゐたり」が想われたし、二句目、三句目、そして八句目の平仮名表記には、会津八一の「おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ」などを想い出していた。仮名と音の効果は次章のテーマだが、この章はその序奏としての役割も果たしているのかもしれない。


  くにうみ


 最後の章となる。ここでは敢えて句の評釈は止めておく。この章は、ある意味で章全体がひとつの作品となっていて、その全体を感じることに意味があると思うからである。ただ次のような作品を挙げて、全体の雰囲気を感じて頂けたらと思う。


 あめのぬこぼこをろこをろとおのごろじま

 ほとやかれかむさりてよもつひらさか

 あをひとくさちがしらくびりちいほのうぶや

 みめよりのあまてらすうくみくらたな

 ひぜめかなうちはほらほらとはすぶすぶ

 ひきりのうすきねほんだはらすずきたてまつり

 なかつくにかむぬなかはみみすぶかづらき


 作品の一つ一つは、古事記をはじめとした神話を着想としており、それらをかなり忠実になぞっている。従ってそれらにたいする知識があれば解釈不要な作品が多い。むしろ注目したいのは、この章では、八百万の神々の物語が、平仮名の連なりの形状と、それらの示す連続音、旋律としての効果を用いて再構成されているということである。確かに右のような作品の塊を見れば、祝詞を聴く時のような、神々=自然の世界と一体になってゆくような感がある。そうした試みを通じて、作者は次の二つのことを目論んでいると思われる。ひとつは産土やアニミズムという世界に立ち返って、知覚や精神というものを捉え直すということ。もうひとつは、言霊や自然音の世界を見つめ直して、再度、俳句や和歌と言った日本の詩の在り方を考えるということである。こうした試みは、高柳重信の多行書き詩や、金子兜太の「おおかみ」など、現代俳句の金字塔と言われる先達の探求姿勢にも通じるものがある。また、このことは、西洋東洋を問わず、古代歌謡から近現代の思想に共通する意義を持つことなのかもしれない。今回の句集では、『現象学』などの先行する章で、これらの問題を別の視点から提起してきた。それに対する一つの解答を、この「くにうみ」の章は呈示しているのかもしれない。


 以上、八千字を越える句集評になってしまって申し訳ない。が、今回の『風果』は実に様々なことを考えさせてくれる句集だった。今後の世界では今まで以上に、多様性に対する理解と包摂的な調和が必要となる。そうした中、この句集に溢れる諸現象に対する多面的な捉え方と、鳥瞰的・歴史的・空間的視野の構え方は改めて注目されてよいと思う。そのことに付言して、この評を終えたい。ここまで読んで頂いた読者諸賢に敬意を表しつつ、筆を置くことにする。


■ 第47回皐月句会(3月)速報

投句〆切3/11 (月) 

選句〆切3/21 (木) 


(4点句以上)

7点句

木蓮や故人ばかりの映画見て(岸本尚毅)

【評】 イメージを広げる言葉や暗号的言語を含む句より、記憶の中に屹立する言葉の句を選んでしまった(42も含め)。42、八代亜紀さんとは…、20代の頃、大阪SABホールの隣の喫茶店にいた折、彼女の楽屋へコーヒーを出前した、飾らない優しい笑顔が印象的だった。その後付き合った人(娘の母親だが)八代さんと山本陽子を足して割った…、今年お二人とも不帰の客に…、そして40、マグノリアと映画がドラマだが…、この歳になると知人・友人が少ない私でも、色々なご逝去を考えてしまう…──夏木久

   42. 裏道を雨過ぎるべし舟歌忌 3点 小林かんな

   40. 木蓮や故人ばかりの映画見て 7点 岸本尚毅

【評】 出演者がみんな昔の、つまりは古い映画。木蓮の清楚で気品のあるところが往年の日本の俳優・女優のようだ。──仲寒蟬


5点句

街の人きらきらとして花の冷え(依光正樹)


人の世をあきらめ顔の雛かな(仙田洋子)


4点

蘖す古代円形競技場(内村恭子)

【評】 切った草木の根株から萌え出た芽のこと、蘖すと、古代円形競技場の字面とその景との衝撃によるイメージにより、ひこばゆのさまざまな萌え競うドラマが浮かぶ。──山本敏倖


出口より入る玄室ヒヤシンス(松下カロ)

【評】 あの玄室の口は出口なのか入口なのか。死者にとっては前者だろう。ヒヤシンスの付け方が絶妙。──仲寒蟬


(選評若干)

アラレ降るキーンと両手広げゆく 2点 千寿関屋

【評】 鳥山明さんの訃報を受けての句。アラレちゃんが流行っていた頃だけ父親と仲が良かった眼鏡の私は「アラレ」と時々呼ばれていたことを思い出す。──辻村麻乃


肉強くなつて囀りゐたるかな 3点 依光陽子

【評】 囀りに対して「肉強く」とは、こんな発想は初めて。──仲寒蟬


歳とつて桜草には水を遣る 2点 依光陽子

【評】 一見何でもない日常の行為も人それぞれ流儀やジンクスに則っていて、歳をとるにつれこだわりが顕著になるものかも。そうとは知らず眺めるうちにふと気づくと不可解に思えたりする。すぐ傍のムスカリにはなぜ水あげないの?とかとか──妹尾健太郎


風車筆立にあり風が来る 3点 岸本尚毅

【評】 風車が存在して風が来る、言われてみるとなるほどと思います。この捉え方に風を感じました。──小沢麻結


希釈して混ぜるカルピス風光る 3点 内村恭子

【評】 淡い乳白色、グラスに当たるマドラーの音、「カルピス」の語感が心を明るくしてゆき下五の季題に着地します。一読眩いそよ風が心地よいです。──小沢麻結

【評】 昔は少し暖かくなってくるとこのカルピスが楽しみだった。いまは最初から出来合いのものも売られているが。──仲寒蟬


二度と会えぬことになるとは卒業歌 1点 水岩瞳

【評】 人の一生は通奏低音のように卒業歌が響いているものなのかもしれない。卒業歌を歌っていた頃には深く考えもしなかった二度と会えぬことになる“今”を、だんだん強く意識するようになる。──依光陽子


人形も逢瀬も包み春ショール 3点 松下カロ

【評】 全く性質の異なるものを包んでしまう春ショールは素敵だ。──仲寒蟬


産まぬ世や鬱々として鳥雲に 2点 真矢ひろみ

【評】 人間の3大欲望と言われるものの一つの性欲は生命そのものの本質のように思われるが、意外にそれは社会の影響を受けてしまう。もう一つの食欲との大きな違いだ。食欲の句は天真爛漫として楽天的なのに対し、性欲の句はいじいじとして陰湿だ。──筑紫磐井


兜太忌を数へ小指の立つ寒さ 3点 飯田冬眞

【評】 寒そうだし座布団2枚あげたい──真矢ひろみ