2024年6月28日金曜日

【広告】『語りたい龍太 伝えたい龍太——20人の証言』

 監修者の一人として   橋本 榮治

 本書『語りたい龍太 伝えたい龍太―20人の証言』は2022年12月にコールサック社から出版された『語りたい兜太 伝えたい兜太―13人の証言』の姉妹版である。編者の董振華氏が「まえがき」にお書きなので詳細は避けるが、当初は兜太本の場合と同様に黒田杏子さんの企画であったが、杏子さんの急逝によりその企画は一旦は跡絶えた。それを残念に思った振華氏が杏子さんの遺志を継いで内容を補い、出版社に当たったが、杏子さんを失っての出版は幾つかの困難が生じた。先ずは相談相手になる監修者を付けること、新たな論者や龍太俳句を語るに欠かせぬ方を加えるように横澤放川氏や私が助言をした。その後の振華氏の粘り強い交渉と誠実かつ謙虚な仕事ぶりによって無事に出版にまで漕ぎつけた。

 ところで、飯田龍太とその作品を理解しようとするとき、どうしても伝統と前衛という在来の基準にぶつかる。龍太はそれをどう乗り越えようとしたのかは宇多喜代子氏を始め数人の論者が言及しているように、龍太と金子兜太の行動と作品を比較理解することから始めるとよいだろう。「写生」を軸にして伝統と前衛に分かれる二人の俳句は水と油のように言われてきたが、横澤放川氏の発言を読むと二人の作品の根は意外と複雑に絡み合っていて、常に互いを近くに意識していたようだ。

 また、髙柳克弘氏は龍太は意外に前衛的なところはあったし、もしかしたら真の前衛派と言ってもいいのかなと言うが、見方によっては一歩進んで、龍太は伝統前衛の壁を乗り超えた、もしくは在来の伝統前衛の壁を崩した俳句作家かもしれない。その視点から考察するとき、井口時男、坂口昌弘各氏の語る今回の内容がとても役に立つ。著名な句〈一月の川一月の谷の中〉について言えば、何と言っても長谷川櫂氏の発言が纏まっている。そして、龍太の代表句と認められれば認められるほど、「伝統だ前衛だ云々ではなく、『いいものはいい』という桂信子氏(宇多喜代子氏の項)の言葉、また、「写生」と「描写」の違いを前提にしつつ、「五七五では完全な描写なんかできないんです」という井口氏の発言は重い。

 話は飛ぶが、法律学の分野の刑法学に「開かれた構成要件」という概念がある。犯罪はまず「形式的」に構成要件の行為に該当するかどうかを判断するが、開かれた構成要件に当たる場合は裁判官らがまず行為の「実質的」な違法性を判断する。刑法の条文が違法行為の内容を示していないからだ。同じように「一月の川」の句も実際には雪の谷だか寒波の谷だか、井口氏の言う通り何も内容を描写していない。それを筑紫磐井氏は「決して巷間で言われているように龍太の周辺の自然描写の卓越性を特徴としているものではないのです。(略)その意味では、内容から言えば、むしろ無内容に近いと言ってもよいのです」と結論付ける。そこに至る理由は磐井氏の発言を読み、各自で確かめて欲しい。伝統派からは完璧な表現であり、足りないところはそれぞれの想像に任せればよいこと、前衛派からはこれこそ伝統派の写生の至るところが無内容であることの証明と称されてもおかしくない。しかし、自己の立場を固執し、そんなに頭をひねくり回して考えることもない。「いわゆる伝統俳句に属する作家の代表句であるが、前衛の領域に踏み込んだ表現内容によって、従来の伝統前衛の定義をなし崩しに否定してしまった作品」と端的に言えばよい。月名「一月」は描写ではない。と言っても季語なのだから、観念として使っているわけでもない。伝統派を装いつつ、視覚派を装いつつ、視覚よりも聴覚に訴える要素の強い作品という点からも写生俳句と言い切れるかどうか。井口氏は「倫理的道徳的な自然」は蛇笏・龍太に共通していると言われるが、その表現世界が現実から独立し、自立すると抽象化・観念化に向かうのは容易に諾えることだ。飯田龍太が俳句の発表を止めて三十余年、このこと一つにしてもそろそろ句の賛否を超えて、一人ひとりの俳句作家が真剣に龍太俳句の存在の意味を考えなければいけない時にたっているのではなかろうか。

 本書に登場する語り手は基本的には杏子さんの考えの上に立っての人選が行われている。生前の杏子さんに信頼されて用いられた杏子組と称される方々も加わって、この企画を間違いないものにしている。この際、多くの方々に兜太本と共にご愛読願いたいと思ってのことである。十七年前に亡くなった飯田龍太を偲ぶ、単なるノスタルジックな内容でないのは一読すればわかっていただけよう。

 最後になったが、この一冊の為に貴重な写真を多々ご提供下さった飯田秀實さんに特別の感謝を捧げたい。

  2024年夏

(『語りたい龍太 伝えたい龍太―20人の証言』より転載)