2013年8月16日金曜日

近木圭之介の句【テーマ:「黒」】/藤田踏青

黒く見えるのは咽喉に軍歌がねじれたまま

第3回の折に、「圭之介にとって『黒』は氏の芸術の源泉であり、詩的認識の根源でもある。」、「形象化された『黒』の切断面は、氏自身をも傷つけているのだが、結局は真の『黒』そのものに収斂されてゆく。つまり、氏の意識の統一こそは『黒』なのである。」と述べたが、それはそのまま掲句(昭和60年作・注①)にも当てはまるであろう。

掲句は懐旧としての軍歌であろうが、門司港で兵士を満載にした輸送船を見送る際に岸壁から旗を振りながら唄った軍歌と、船上から聞こえて来る軍歌が今もねじれた存在として圭之介の中に蟠っているのであろう。時代というものと夜の海と記憶とが内視鏡によって再確認されたかのように「黒」に収斂されるような感覚が伴なってくる。

闇ノ方カラ舌タラシコツコツ砲車ガ        平成6年作     注②
この句では現在と過去とが交叉した時空間に不吉な時代の響きを感じ取ったものであろう。そして闇からヌッと出現した舌は貪欲な拡がりつつある支配思想を暗喩しているのかもしれない。更に漢字とカタカナの表現のみが鋭くチクチクと痛みを伴って来る感覚をもたらしてもいる。

黒い手袋黒く置いてある 月           昭和31年作    注① 
蝶の黒い落ちている事実             昭和32年作    注①
画家としての圭之介がそのデッサン力を詩的認識へと導いた作品。「黒い手袋」も「黒い落ちている事実」も共に死を暗示させており、月と事実とは現実への凝視でもあろう。それらをもとに次の様な詩も残している。少し長いが引用してみよう。

<黒の装い>                  昭和35年作     注③ 
庭の椅子の少年の不幸な過去/庭の椅子の神父の白いカラー/神父のメガネのつるはやや朱い 
黒の手袋/記号/秋の秩序 
神父の黒の装い/白の陶器の太陽/園丁(えんてい)がその周りの枝を切り払った 
落葉/黒ノデッサン/黙って神父が通りすぎる 
白の花べん 凝視/更に凝視/更に――― 
太陽の背後(うしろ)は黒い/花や木や 山や川や 犬 鳥/あらゆるものが停っている
海の日影の黒/黒の日影の海/小さく白の汽船
 
月から落ちて来てかがやく砂/砂が消した朱い絵の絵硝子/不在の神父の白の食器 
赤の/黒の/白の/紫の/懺悔/その間を梨色の風が吹きぬける 
ガラスの手袋/ガラスの手袋の破片/ガラスの手袋の破片で書く詩(うた)
やはり圭之介は黒に拘りつつ傷つきながら詩(うた)を書いていたのだ。

注① 「ケイノスケ句抄」  層雲社 昭和61年刊
注② 「層雲自由律90年作品史」 層雲自由律の会 平成16年刊
注③ 「近木圭之介詩抄」  私家版 昭和60年刊

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