2024年10月11日金曜日

第234号

                  次回更新 10/25



現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 2 筑紫磐井 》読む

澤田和弥句文集告知  》読む

■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和六年夏興帖
第一(10/11)小野裕三・曾根毅・大井恒行・仙田洋子・辻村麻乃

令和六年春興帖
第一(6/21)辻村麻乃・豊里友行・川崎果連・仲寒蟬・仙田洋子
第二(6/28)小野裕三・水岩瞳・中西夕紀・神谷波・坂間恒子・山本敏倖・加藤知子
第三(7/12)岸本尚毅・浜脇不如帰・冨岡和秀・杉山久子・松下カロ・木村オサム
第四(7/19)小林かんな・ふけとしこ・眞矢ひろみ・望月士郎・鷲津誠次・曾根毅
第五(7/26)花尻万博・早瀬恵子・大井恒行・竹岡一郎
第六(8/23)高橋比呂子・なつはづき
第七(9/13)青木百舌鳥・小沢麻結・渡邉美保・前北かおる
第八(9/27)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・筑紫磐井・佐藤りえ


令和六年歳旦帖
第一(5/25)辻村麻乃・豊里友行・川崎果連・仲寒蟬・仙田洋子
第二(5/31)小野裕三・水岩瞳・神谷波
第三(6/8)山本敏倖・岸本尚毅・浜脇不如帰・冨岡和秀
第四(6/14)杉山久子・木村オサム・小林かんな・ふけとしこ
第五(6/21)眞矢ひろみ・望月士郎・曾根毅
第六(6/28)花尻万博・早瀬恵子・大井恒行
第七(7/12)竹岡一郎
補遺(8/23)青木百舌鳥・小沢麻結・渡邉美保・前北かおる
補遺(9/13)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
補遺(9/27)筑紫磐井・佐藤りえ

■ 俳句評論講座  》目次を読む

■ 第49回皐月句会(5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第19号 発行※NEW!

■連載

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り[in Japan](49) 小野裕三 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり16 斎藤信義『光る雪』 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】➀ エロスとタナトスとの狂想曲 藤田踏青 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】 3 現代川柳に通じる三句 佐藤文香 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(50) ふけとしこ 》読む

【連載】大井恒行『水月伝』評(2) 田中信克 》読む

【新連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

句集歌集逍遙 筑紫磐井『戦後俳句史nouveau1945-2023——三協会統合論』/佐藤りえ 》読む

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を読む⑥ 一人の俳句の書き手・読み手として 黒岩徳将 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む
インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

10月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …

■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子




筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

■連載【抜粋】〈俳句四季8月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む 筑紫磐井

 鷹羽狩行の29年以降

 鷹羽狩行が5月27日逝去した。享年93であった。この2~3年表舞台に姿を現さなかったから、正に不意打ちのような報せであった。念のために鷹羽狩行の略歴を掲げておく。


【略歴】昭和5年10月5日 、山形県出身。本名・髙橋行雄。山口誓子と秋元不死男に師事。第1句集「誕生」で俳人協会賞、その後芸術選奨文部大臣新人賞、毎日芸術賞、蛇笏賞、詩歌文学館賞、日本藝術院賞等を受賞。毎日俳壇選者、日本芸術院会員。平成14年年、俳人協会の会長に就任、29年に俳人協会名誉会長に。30年には「狩」を終刊し、31年に「香雨」の名誉主宰に就任した。


 正に眩いばかりの俳歴だ。恐らく総合誌が今後一斉に追悼特集を組むであろうが、このコラムでは晩年の鷹羽狩行について語ってみたい。

 鷹羽狩行が40年続けた「狩」を終刊する決意を決めたのは平成29年のことである。29年3月俳人協会会長を退任し、名誉会長に就任する。29年12月号で、「狩」の終刊を告げ、後継雑誌に片山由美子の「香雨」が創刊され、狩行はその名誉主宰となる旨を述べる。

 以後、終刊に向けての準備は着々と進む。明けて30年1月には歌会始の召人として出席、俳人協会総会で功労賞を受賞。第18句集である『十八公』も刊行した。後継者の片山由美子は30年4月に毎日俳壇の選者に就任する。しかし、狩行が毎日俳壇の選者を辞退した訳ではない。師弟が同時に同一新聞俳壇の選者を勤めるのは、朝日俳壇の加藤楸邨、金子兜太以来の珍しいことだ。そして9月「狩」40周年大会を生地山形県で開催。そして30年12月、「狩」を終刊させ、別冊『狩の歩み40年』を刊行。この間、新しい俳句シリーズ「十九路」を発表し続ける。

 31年1月に片山由美子主宰雑誌「香雨」が創刊され、鷹羽は名誉主宰に就任する。「香雨」の選や運営は当然片山由美子が行うが、鷹羽は「香雨」に席を置いてかなり自由な活動を始める。

 「香雨」の創刊時の鷹羽狩行の活動は次の通り予告されていた。

①「二十山」の連載開始

②「甘露集・白雨集・清雨集抄」(香雨同人作品)の抽出

③地方句会の指導

   (中略)

 しかし令和2年となるとコロナの感染が拡大し、地方句会の指導のみならず「香雨」の句会さえ開けない状態が続く。狩行の活動が定かに見えなくなり、「香雨」10月号で「鷹羽狩行名誉主宰の90歳を祝して」と言う特集で、片山・橋本美代子・有馬朗人・高橋睦郎の祝辞が掲載されているくらいである。そして、12月には四十年務めてきた毎日俳壇選者を辞退することとなった。

 令和3年1月から、「二十山」の作品は新作でなく、「俳句」令和2年12月発表作品を分載することとなり、それも8月号から休載することとなった。「甘露集・白雨集・清雨集抄」も12月号で連載を休止することとなった。4年1月号で片山由美子は「名誉主宰による「甘露集・白雨集・清雨集抄」は、先生のご負担が大きいため終了といたしました」と結んでいる。「休載」ではなくて「終了」と言うところに少しくらい雰囲気が漂う。

 6年1月号で鷹羽狩行名誉主宰が参加する本部句会そのものを(コロナ以来休止となっていたが)廃止することとなった。

 こんな中で6年5月を迎えることになった。死因が老衰と聞いて、これほど狩行に相応しくない病名はないように思った。いつまで経っても狩行は永遠の青年の明るさで生きているように思ったからだ。

   

鷹羽狩行最終句集

 ここで、鷹羽狩行の最晩年の作品を紹介しておこう。狩行は『誕生』『遠岸』『平遠』『月歩抄』以後の句集の題名に『五行』のように数字をいれたナンバリング句集として刊行しており、『十六夜』までを『鷹羽狩行俳句集成』(29年6月ふらんす堂刊)に収録して刊行した。『俳句集成』刊行以後も『十七恩』『十八公』を刊行している。従って、「狩」に掲載したままとなっている、『十九路』『二十山』となるべき残余作品は未だ刊行されていない。ここでは他誌に先がけて幻の「十九路」「二十山」を紹介しておこう(△は「俳句」令和2年12月発表作品を転載)。


「十九路」

散りやすく固まりやすき初雀(28.1)

ものの芽やもの書きはもの書いてこそ(28.4)

この世の香かの世の香とも黴の花(28.7)

麦秋へ降下はじまるわが機影(28.9)

鶏闘のすたれたる世に戦なほ(29.3)

富士といふ大三角や茶摘唄(29.4)

「かなかなの声も入れて」とカメラマン(29.8)

世に別れ蚊帳の別れもその一つ(29.10)

はじめ終りをあいまいに春の風邪(30.1)

滴りとしたたりの間のかくしづか(30.6)

走馬灯止まるとみせてより止まる(30.7)

縁談のととのふけはひ青すだれ(30.8)

もういちど開く扇をたたむため(30.9)

賀状書き終へかるくなる住所録(30.12)

「二十山」

数にわれ入れ忘れたる笹粽(令和元.5)

夕立のいさぎよさこそわれに欲し(元.7)

太陽が遠足の列待つてゐた(2.5)

流灯の数一千として詠みぬ(2.8)

冬耕の二人と見しは一人なり(2.11)

十二月八日の未明かく閑か(2.12)

椿落ちはじめたちまち数しれず(3.2△)

ともし灯をひとつふやして年守る(3.7△)


英国Haiku便り[in Japan](49)  小野裕三

「先生、俳句で比喩を使ってもいいんですか?」


 先日、英国俳句協会で開催されたあるオンラインイベントに参加した。英国各地や英国外の英語圏からも参加者が集まるZoomを使ってのイベントだ。その時の講師への質疑応答で出てきた参加者のある質問に、僕は不意を突かれた。

「俳句で暗喩を使ってもいいですか?」

 実はこの質問を聞いて、僕は「なるほど、やっぱりhaikuの世界ではそういう質問が出るんだ」と妙に納得した。というのも、例えばネットでざっと調べるだけでも、haikuでは比喩(暗喩だけでなく直喩も)は使うべきでない、といった説明は英語圏では容易く見つかる。

 一方、言うまでもなく、日本の俳句界で比喩を使うのはきわめて一般的だ。

 銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく   兜太

 去年今年貫く棒の如きもの   虚子

 このように有名な直喩の句はいくつもあるし、暗喩の句も同様だろう。日本の俳句入門書には比喩の使い方が解説してあるし、俳句総合誌にもそのような特集記事はいくらもある。表題のような質問をする人が日本にいたら、諸先輩から一笑に付されるだろう。

 そもそも英語詩の世界では、直喩・暗喩だけでなく、詩のどの技法を創作で使うのかをかなり意識的に取り組むように見える。比喩以外にも頭韻・脚韻・強勢の置き方、など日本語の詩より駆使される技法もはるかに多様な印象がある。

 だが、さまざまのhaikuの入門解説を読むと、そのような英語詩に馴染みの諸技法とは違い、haikuとは一句内に二つの要素を並置するのが基本、とするものが多い。このイベントでの講師も、「haikuで暗喩を使ってもいいが、使い方には気をつけるべきだし、暗喩が効果的なのはより長い自由詩などだろう」との回答で、基本姿勢は似通っている。

 haikuにあるそのような姿勢は、歴史を遡ればより明快だ。以前の連載で(第24回)、英語圏初のhaikuと目されるエズラ・パウンドの詩を紹介したが、それもまさに要素の単純な並置からなる。

 The apparition of these faces in the crowd;

 Petals on a wet, black bough.  

    群衆の中に現れるこれらの顔 / 濡れた黒い大枝の上に花びら

 そしてパウンドは、単純な並置のみで詩を生み出すこの手法を、西洋詩にはなかったまったく新しい手法と評価し、「重置法(super-position)」と名づけた。

 そしてこの点にこそ西洋詩から見て際立つ俳句の特異性があるとするなら、現在のhaikuもその視座を引き継いでいることは不思議ではないし、ひょっとすると、日本の俳句の古き良き本質を純粋な形で継承しようとしているのがhaikuである、とすらも言えなくもない。

※写真はKate Paulさん提供

(『海原』2023年11月号より転載)

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり16 句集『光る雪』(斎藤信義、令和6年2月刊、文學の森) 豊里友行

  先ずは、斎藤信義第五句集の帯文を記載しておく。


最北の地にちりばめむ光る雪

 『氷塵』『雪晴風』に次ぐ『光る雪』は、著者が目指した『雪』三部作で、北辺の俳人たらむとする意欲溢れる句業の証である。


真つ白く真つ暗くなる雪風巻(しまき)

一切の音消す雪となりにけり

ふかふかの雪ふかふかの北狐

一握の雪もて面をぬぐふかな

雪の上に鷲が狩跡のこしけり


 雪風巻(ゆきしまき)は、雪が降っている時に吹く強い風のこと。「吹雪」とも言う。真っ白くて真っ暗くなる。その荘厳な雪の白と闇の黒のどちらでもある雪風巻の自然の脅威。

一切の音を消すのが雪と捉えるのも。ふかふかの雪と北狐のリズミカルな対比も。恐らく伝統行事に使われるだろう面を一握りの雪を溶かしながら拭く所作も。鷲の狩跡が雪の上に見出す慧眼も。最北の地に生きる俳人の誇りが、様々な雪への拘りを俳句に昇華させている。


林立の土筆の浄土さまよへり

合掌の形に芽ぐむものばかり

手の平に沙羅一輪の湿りかな


 この斎藤信義の仏への世界観が、この風土に向き合う感性を内包している。

 林立する土筆の浄土のようにも感じながら彷徨うことも。

 合掌の形で芽吹くものばかりの把握も。

 手の平の沙羅一輪の湿りにも、それぞれに生命の存在感と宗教的世界観の融合が豊かな斎藤信義俳句の世界観を育んでいるようだ。


獣の気配まで消し山ねむる

蠟涙のごとく凍りし飛沫かな

死はかくも身近や遡上鮭の群

夕川原ほつちやれ鮭の頭蓋骨

緑陰のやうなる水族館ありぬ

托卵といふ一芝居打つて鳴く

草毟り過ぎて猫背になりし母


 鳥獣の気配まで消してしまう。そんな感受性が「山ねむる」の冬の季語を輝かす。

 蠟涙とは、蝋燭 (ろうそく)から溶けて流れた蝋を涙に例えた語。蠟涙のようにそこに水の飛沫を凍らせている。その観察眼の表現力に脱帽だ。

 鮭が次の世に生命を繋ぐために遡上鮭の群が天を目指して逆流する滝のようにも昇天するようにも見えてくる。その漲る生命感なのに夕川原に放置されている鮭の頭蓋骨と同じくらい死が身近なのだ。

 緑陰のような水族館の比喩の的確さも。

 托卵の一芝居を打って鳴くという物語性を創造したり。

 草を毟り過ぎて猫背になった母と把握する哀切感も。

 最北の風土を詠む俳人のあるがままの俳句が、人間も含めた大自然の生命や風土を鮮やかに描き出している。


 下記の共鳴句もいただきます。


骨董となるかんじきと馬の鈴

をのこらは薄氷に乗り村離る

足の指ひらき伸びきる春の猫

永劫といふ死後ありや春の闇

ひとひらの詩か草叢の蝶の翅

鞦韆に胎盤乗せて漕がずゐる

赤鬼の泪なるかもさくらんぼ

錆釘のあたまに塩辛蜻蛉かな

銃眼に蓋あり合歓の葉の睡り

立上がりしは闘争の北きつね

運命のとびらが見えぬ蔦紅葉

握りゐる唖蟬の震へ身を廻る

姥百合の群れなす竪穴住居跡

初冬の気圧が脳をゆさぶれり


■現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 2 筑紫磐井

【評論執筆例(初期能村登四郎作品について):筑紫磐井】


――現代俳句協会評論教室のフォローアップについて(2)――


2.「ぬばたま」伝説の拡散(波郷・湘子・健吉)

 能村登四郎が「ぬばたま」伝説を語り始める前に、「ぬばたま」伝説を作った人がいる。石田波郷である前述の通り波郷は「ぬばたま」の句を批判したのだが、具体的な文章はあまり知られていない。


【伝説資料3】

「能村登四郎氏が水谷晴光氏の法隆寺四句を、馬酔木調の綺麗事で現代的な匂ひが乏しいとし、斯かる新古典派的魅力を現代の若い作家が追ふのはどうかといひ乍ら、今後の馬酔木の句は斯くあるべしとして『しらたまの飯に酢をうつ春祭』の句を挙げてゐるのは合点がゆかない【注】。この句や能村氏自身の『ぬばたまの黒飴さわに良寛忌』の方がかへって法隆寺の句よりも非現代的と、僕などには思へる。かういふ考へが新人会あたりで不思議とされないのだったらこれは問題であらう。」「仰臥日記」―「馬酔木」24年3月)


 じっさいは、能村登四郎が書いた水谷晴光氏の句評にふれながら、登四郎の「ぬばたま」の句を批判しているのである。いきさつはこのようであったが確かに「ぬばたま」の句は批判的に取り上げられている。

 そして「ぬばたま」の句が取り上げられる次の機会が、登四郎の第1句集『咀嚼音』の跋文であった。


【伝説資料4】

「私が清瀬村で療養の日を送ってゐた頃、馬酔木には、能村登四郎、林翔、藤田湘子の三新人が登場して、戦後馬酔木俳句のになひ手として活躍してゐた。然し馬酔木に復帰して間もなかった私は能村氏の

  ぬば玉の黒飴さはに良寛忌

の句が、馬酔木で高く認められ、新人達の間でも刺戟的な評価を得てゐるのを見て奇異の感にうたれた。

 「黒酳さはに」の語句に、戦後の窮乏を裏書する生活的現実がとりあげられてゐる。それだけに、これらの句の情趣や繊麗な叙法は、趣味的にすぎて戦後の俳句をうち樹てるべき新人の仕事とは思へなかった。私は手術をしても排菌が止らず絶望の底に沈んでゐたが、これらの句を馬酔木の新人達が肯定し追随する危険を、馬酔木誌上に書き送らずにはゐられなかった。

 その頃の句はこの句集には収められてゐない。私が、今これらの句に触れたのは能村氏には快くないかもしれない。が、たとへその句は埋没しても、その中を通ってきた事実は、能村氏の俳句の内的体験として、後の俳句に何らかの彫響(反作川であっても)をのこしてゐると思ふ。

 能村登四郎といふ人は、物の理解のはやく深い人である。私などに指摘されるまでもなく、そのことはすでに承知してゐたのである。すでに壮年に達した氏は、理解し、納得してからじっくりと仕事にかゝる人であった。

 「長靴に腰埋め」一連の句を、氏は馬酔木誌Lで募集した新樹賞コンクールに提出した。作句の為の素材を生活の場に関りなく探し求める態度を放擲して、勤務先の学校での生活、職員室の同僚や、教室での生徒との人間的接触、家庭妻子、家庭にまでもち込んでゐる教師の体臭、翳、それらをもはや素材としてゞなく、それらの中から生れ出るものとして、氏らしい目と手で描き出してくる。「艮靴に腰埋め」から突然さうなったのではないが、この時を境に顕著にさうなったといへるであらう。」(『咀嚼音』跋文)


 前回書いた登四郎の「ぬばたま」伝説——秋櫻子に賞賛され波郷に批判された「ぬばたま」の句から、波郷に賞賛された「野分の句」へ——という道筋は、この波郷の跋文の中で明確となっている。

 跋文を注意深く読めばわかるように、初版本『咀嚼音』では「ぬばたま」の句は収められていない。普通序文・跋文は句集に掲載された句を取り上げるのが常識だし礼儀であるが、ここではことさら句集に収められていない「ぬばたま」の句が言及されている。ここから以下に述べる「ぬばたま」伝説の重層化した伝説が生まれることになる。

      *

 さてこうしたいったん成立した登四郎の「ぬばたま」伝説が俳壇に拡散するのは、登四郎自らが語るだけでなく、それを受容する人々がいたことを知らねばならない。それを証拠づける文献資料はたくさんあるが、特に藤田湘子の文章は大きい影響力があった。全く同時期に登四郎が馬酔木で競い合ったライバルであったし、波郷を引き継いで馬酔木編集長を勤めた湘子は馬酔木の戦後俳句史を語るにはうってつけの人であったからである。誰もその言葉を疑わない。

 藤田湘子は「沖」55年10月の「『咀嚼音』私記」で語り始める。長い物語なので適宜抜粋しながら見て行こう。


【伝説資料5】

「私は昭和十八年八月号から「馬酔木」を購読し、投句を始めた。その時分、新樹集二句欄の地名市川のところに、能村登四郎、林翔の名がいつも並んでいたという記憶がある。いまでこそ「馬酔木」も選がゆるくなったけれど、当時は入選率六、七〇パーセント、つまり投句者の三割から四割が落選(没)の憂き目を見ていたし、入選しても二句以上となると寥々たるものであった。だから、二句欄に載る人の名はすぐ覚えたのである。私はと言えば、投句を始めて一年間は、没と一句を繰り返していたのだから、能村さんの名は眩しくてしようがなかった。私に言わせれば、能村さんが一句十年を称するのは言葉のアヤであって、これは、上位の巻頭近くに進出しなければ一句も二句も同じという、きっぱりした気持に発していると思うのだ。」


 湘子は登四郎の「一句十年」の伝説も当時の状況では少し意味が違うことを指摘する。自身が感じていたことと周囲の人の見た眼は違うのである。

 さて、湘子がこの文章を書いたとき、初版の『咀嚼音』は改訂されて『定本咀嚼音』(49年5月)として世に広まったのである。そしてここで、「ぬばたま」の句は20年をへだてて復活しているのである。


「『定本・咀嚼音』が出たとき、私が興味を持ったことが一つある。それは、能村さんがどんな句を捨てどの句を再生させたかということである。定本の「後記」にはこう書いてある。

 「改版にあたって気に染まない句を二十句ばかり捨て、初版に洩らした句を三十八句ほど加えた。その中には「ぬば玉の黒飴さはに良寛忌」のような私の思い出ふかいものも載せた。二十年という歳月が私にそうしたものを許容させたのかも知れない」

 この部分を読んだとき、私には「ああ『ぬばたま」の句を入れたか」という強い感慨があった。この句を改めて加えたということで、能村さんの『定本・咀嚼音』を編集した姿勢や決意がわかるような気がした。初版から恰度二十年たった俳人能村登四郎の姿を、これほど端的に示すものはないと思った。」


 ここから藤田湘子の戦後馬酔木の懐かしい回想が始まる。我々にはうかがい知れない、その時その場にいた人にしかわからない雰囲気である。


「その頃の私たちの幸せは、なんといっても水原秋桜子、石田波郷という二つの巨星に、じかに接しられることであったろう。雑誌や句会での謂わば公式の場での批評、感想のほかに、酒席、雑談の席における両星の呟きや警句、そういったものをたっぷりと吸収できた。いま憶っても、贅沢で恵まれた作句環境と言うほかない。そのような環境下にあって処女句集を上梓できたことも忘れられないことであるが、当時相ついで出版された新人会メンバーの句集は、ほとんどが序文・水原秋桜子、跋文・石田波郷という豪華な二頭立てであった。余談になるが、亡くなった相馬遷子はこの二頭立ての姿を、碓氷峠の急坂を登る列車に譬えた。前部後部に強力な機関車を連結して、その力で高みへ押し上げてもらっている。」


 こうして当時の新人たちの句集(登四郎『咀嚼音』と湘子『途上』)の生成過程が語られ、或いは推測されるわけである。


 「『咀嚼音』も私の『途上』もそういう形をとった。そして、石田波郷の跋文は、『咀嚼音』と『途上』については、他の馬酔木作家の句集のそれより何故か厳しいように思われた。そのへんの詮索・解明は後日にゆずるとして、『咀嚼音』跋文の厳しさを感じさせる原因が、実はこの「ぬばたま」の句に対する批判に発しているのである。波郷は、清瀬病院に入院中の昭和二十四年にも、「馬酔木」に寄せた随筆「仰臥日記」の中で「ぬばたま」批判をやっている。その後『咀嚼音』発行の二十九年に、再び跋文の冒頭で、かなり強い調子で繰り返しているわけだから、この句がよほど気になっていたのだろう。波郷の言うところをここに詳しく紹介する余裕がないが、要するに、戦後の「馬酔木」の興隆を担うべき新人が、このような趣味的・非現代的な句をつくることは合点がゆかぬ、というものである。

 波郷が、五年前に書いた「ぬばたま」批判を、作者の処女句集の跋文であえて繰り返した理由はなんであったか。それは、

  長靴に腰埋め野分の老教師

という波郷推薦の一句に到るまでの、能村さんの成長過程を語るための行文上の手段であったようにも思える。そう思うほうが当り障りなくて無難である。けれど、私はもっと下賤な推測をはたらかしてしまう。どういう推測か。それは『咀嚼音』の草稿に「ぬばたま」の句も含まれていたからだ、ということである。『咀嚼音』は自選四百五十句を草稿として波郷の閲を乞い、波郷はこれを三百八十余句に削ったと「後記」にある。つまり、波郷が削った七十句足らずの作品の中に「ぬばたま」があった。こんなことは能村さんに訊いてみればすぐ判ることだけれど、私はあえて自分の推理をたのしむ。「ぬばたま」の句を見たからこそ、波郷はカチンときて、これに跋文でまず触れたのではあるまいか。下種の勘ぐりと言われるかも知れないが、私はそう思うのである。

 もっとも、私かそうした推測をする根拠が全く無いわけではない。能村さんの「ぬばたま」対する愛着が、とりわけ深いということを感じとれるからだ。この句の初出は「馬酔木」二十三年三月号、すなわち能村さんが初巻頭を獲ったときのものであり、また、同年末「馬酔木賞」を受賞したときにも、この句が推薦作として入っているのである。自註シリーズの『能村登四郎集』に、「秋桜子に褒められたが波郷に難じられた句。これも後に定本の中に加えたのは、とにかく出世作だったからである」とあるのをまつまでもなく、こうした要の句は作者の溺愛をうけるようになっているのだ。

 『咀嚼音』の草稿に、「ぬばたま」が入っていたことは、ほぼ間違いないと思う。」


 以上「ぬばたま」伝説について、波郷、湘子の考えを述べた。最後に、もう一人重要な人物の見解を聞いておこう。山本健吉である。


【伝説資料6】

「つい先ごろ、私は登四郎氏が、自分は昔から波郷より楸邨に親しみを感じていたとの告白を聞き、やはりそうだったのかと思った。『合掌部落』が発表された時、私も取上げて讃めたことがあるが、言ってみればあれは当時の「社会性」俳句の時代色が濃厚に見られ、波郷より楸邨の句境に近づいていたと言えるのである。波郷と登四郎とは、「馬酔木」の内部でも、暗黙の中での牽引力と反視力とが重なって存在したと思う。それは『合掌部落』以前から、登四郎の出世作ともいうべき

  ぬばたま の黒飴さはに良寛忌

を、厳しく波郷が批判した時から、胚胎していた。その批判の正否は、今になっていろいろに言われているが、理窟以前の問題で、要するに波郷の胸中のムシの問題だったろう。もっと生きていたら、どう言ったか、ただ笑って過ぎたかも知れない。私はこの句を、変らずよい句と思っている。

 登四郎氏は波郷のみならず、師の秋椰子にも、一点自分との隔りを、拒み通す心を持っていた。それを獸邨に惹かれたとか、社会性を目指したとか言ってしまっては、少し間違うだろう。氏の美意識の根は、やはり獸邨より秋椰子や波郷と共通するものが多い。ただその反面に、その二人を拒もうとする潜在下の意識があって、それは相手にも暗黙に伝わるのである。秋椰子と波郷の間にあった黙契が、秋椰子と登四郎氏との間ではマイナスの諒解として作用したようだ。結社内の師弟関係とは、芭蕉と其角・嵐雪、あるいは去来、丈草、あるいは路通、杜国などの関係を見ても、単純に割切ることは出来ない。」(「沖」昭和60年10月「登四郎・翔そして耕二――沖に寄す」)


 湘子、健吉の文章は、「ぬばたま」伝説だけでなく、この句を踏まえた登四郎の本質にまでさかのぼる優れた批評であろう。

 しかしそれはそれとして、一句十年をへて、やっと秋櫻子の賞賛を得て巻頭を得た「ぬばたま」の句が、直ちに波郷の批判する所となり方向の変化を強いられた。その後、第1句集『咀嚼音』でも波郷に落とされ跋文でも批判された「ぬばたま」の句を、登四郎自身の判断で20年後の定本で復活させる。こんな壮大な伝説はなかなか見る事が出来るものでは無い。なるほど、美しい伝説ではある。しかし、本当にそれは正しい歴史なのであろうか。以下それを考察してみたい。


【注】波郷のこの批判を受けるに当たって登四郎が書いた言葉を眺めておこう。


【伝説資料7】

「この「法隆寺」の連作の一聯は、月明の法隆寺の参篭と言ふアトモスフェアに凭れかかつてゐるだけで、この恵まれたモチーフを十分生かしてゐない。私はこの種の作品は昭和十二、三年頃にこそ魅力も価値もあったが今の苛烈な世相の中ではそれがうすれっつあり、やがては全く過去のものとなるであらうと考へる。

 関西から「天狼」が生まれ複雑な戦後の俳壇の溯は又一つのうねりを加へて来てゐる。馬酔木の若い私たちはそれらを一種の昂奮に似た気持で眺めてゐるのであるが、そのうねりを私達よりも近くに見てゐる名古屋の若い作者諸君に、私はもっと現代色の濃い作品を詠んでもらひたいのである。

 俳壇で言はれる馬酔木調と言ふものは、根強いものに欠けた綺麗事の句を指摘したものであるが、この作品は遺憾ながらその譏りを受けさうな気がする。

  しらたまの飯に酢をうつ春祭

 私はこの句のもつ豊饒さに敬服し、今後の馬酔木の句はかくあるべきだと思ってゐるほどで、晴光君にはこの作よりも遙かに佳いものを期待してやまない。」(馬酔木24年1月「前進のために」)


 「前進のために」は秋櫻子が設けた若手のための相互批評欄であり、この回は、水谷晴光の特別作品「法隆寺」を登四郎が批評している。この時の特別作品には「松籟にこころかたむけ月を待つ」「十六夜の脇戸くぐるや苔匂ふ」「坊更けてはばかり歩む月の縁」等が含まれていて、いかにも古臭い作品であった。当時の馬酔木は誓子が創刊した「天狼」への恐怖心が大きく支配しており、「もっと現代色の濃い作品を」は頭で十分理解できるのであるが、しかし「しらたま」の句が美しくはあっても「今後の馬酔木の句はかくあるべきだ」とはとても思えない。波郷が反感を抱いてももっともなのである。

(続く)

澤田和弥句文集告知

 このたび、『澤田和弥句文集』(2024年10月 東京四季出版刊 3,520円)が刊行された。

 澤田は早稲田大学に入学し、早大俳句研究会で高橋悦男、遠藤若狭男の指導を受け、その後有馬朗人主宰の「天為」により活躍した。句集は唯一の『革命前夜』を刊行したのち、2015年5月9日に亡くなった。享年35であった。

 本句文集は澤田の知己たちが協力してまとめたものであり、忘れられないための記念記録だが、「豈」「俳句新空間」にもしばしば寄稿していただいた協力者であることから読者に広くお勧めしたいと思う。「俳句新空間」でも「豈」「俳句新空間」投稿記事を中心に『澤田和弥句文集』の補完文集を特集してみたいと思う。

<主な内容>

【俳句作品】

第1句集『革命前夜』

「早大俳研」・「天為」・「週刊俳句」・「第4回芝不器男俳句新人賞」・「のいず」・「若狭」掲載作品


【随筆評論】

寺山修司における俳句の位置について(「早大俳研」)

或る男・序詞(「天為」)

鉛筆(「天為」)

有馬朗人第一句集『母国』書誌学的小論(「天為」)

結論は俳句です(「のいず」)

俳句実験室(「若狭」)

寺山修司「五月の鷹」(「週刊俳句」)