2022年9月23日金曜日

澤田和弥論集成(第12回) 続・熱燗讃歌

 続・熱燗讃歌

澤田和弥  


 熱燗は心身にしみじみと沁みわたる。これは飲んだ者にしかわからない。しかし飲まずとも熱燗を詠むことはできるらしい。

 夫に熱燗ありわれに何ありや  下村梅子

 えっ。何って言われても……。食卓で嬉しそうに熱燗を飲む夫を横目に、といったところか。

 熱燗の夫にも捨てし夢あらむ  西村和子

 熱燗や夫にまだあるこころざし  長谷川翠

 熱燗の旨さを詠むのではなく、夫という「庶民」を熱燗に象徴させている。一句目「夫にも」とある。私にも捨てた夢があり、夫にも。そうして今、二人は夫婦としてここにいる。熱燗に庶民性だけではなく、「狭いながらも楽しいわが家」を象徴させているようにも感じられる。二句目は平々凡々たる庶民と思っていた夫の胸の内に、今も志が輝いていることを知った驚きである。「惚れ直した」とまで言ってしまっては夫の肩を持ちすぎか。世の奥様方、あなたの旦那様はいかに。

  熱燗やこの人優しく頼りなく  川合憲子

 いいじゃありませんか。頼りなくとも。優しくて、お給料をちゃんと家に入れてくれる人であれば。食卓を挟み、夫にお酌をしてあげながら、その顔をじっと見ていて句ができた。そんな妄想をしてしまう。店ではなく、家庭での熱燗。

  熱燗のある一灯に帰りけり  皆川光峰

 この「一灯」は赤提灯ではなく、家庭の灯だろう。同僚の誘いに「ごめん。かあちゃんが燗つけて待ってるから」と、いそいそと帰る生真面目亭主が頭に浮かぶ。主人公を新婚ではなく、結婚して十年以上経つ中年と考えると、なんだか微笑ましい。あたたかな夫婦愛。未婚の私にとっては空想上の話であるが。

 家庭とは夫婦だけではない。子もいる。

  熱燗やあぐらの中に子が一人  加藤耕子

 もう、家庭円満、幸せ絶頂である。ホームドラマの一場面のようだ。絵に描いたような仲良し家族。家庭での熱燗はその味、旨さということよりも、家族の幸せを象徴するものとして描かれるようだ。

  熱燗や恐妻家とは愉快なり  高田風人子

 「愉快なり」と言い切られてしまっては「はあ、そうですか」としか言いようがない。一緒に飲んでいる人が恐妻家なのではなく、自身のことだろう。恐妻家というと古代ギリシアの哲人ソクラテスを思い浮かべる。悪いのは奥さんのクサンチッペではなくソクラテスの方だ、あんな世間離れした夫では恐妻にでもならざるを得ない、という意見もある。恐妻家というエピソードがいくつか伝わっているが、どうもソクラテス自身、「恐妻家」である自分を楽しんでいるように思われる。いわゆる自虐ネタとして。今も恐妻家というキャラクターで番組出演しているタレントは何人もいる。しかしその実態はどうなのだろう。実は熱燗をお酌してくれるようなやさしさ、かわいらしさがあるのではないだろうか。自身の奥さんをもっと観察してほしい。じっと見つめてほしい。見つめてみたら殴られたという場合はご安心を。間違いない。あなたは立派な恐妻家である。

 奥さんに負けちゃいけない。ほら、グイと飲み干して。さあ、酒の力を借りて、ビシっと。

  熱燗に酔うていよいよ小心な  高野素十

 いやいや。ダメじゃん。小心になっちゃあ。こういうときは気が大きくならないと。ただ、そんな夫だからこそ家庭として、うまくいっているのかもしれない。それぞれの家庭、それぞれの幸せ。なんて言葉じゃまとまらないか。

  熱燗のいつ身につきし手酌かな  久保田万太郎

 癖とは意識せずとも繰り返すうちにいつの間にか身についているもの。手酌。そういえば最近一人で飲んでばかりだな。気楽。でもさびしい。この場合、熱燗という装置はかなしみを引き出すものとして働いている。なんだか、美空ひばりの「ひとり酒」でも聞こえてきそうな。

  ひとり酔ふ熱燗こぼす胸の内  山口草堂

 こちらもひとり酒。「こぼす」って言ったって、派手にこぼした訳じゃない。なみなみと注いだので、口に持っていくときに少しだけ。ちょいちょいと拭えば済むこと。ただしその胸の内はちょいちょいぐらいでは拭いきれない。そういう酒もある。

  熱燗もほど〱〱にしてさて飯と  高濱年尾

 このあっけらかんぶり。これが今の日本には必要なのではないか。現在、年間自殺者数は長きにわたり三万人を下回らない。長期にわたる不況。なかなか明るい話題がない。「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」とは何十年も前のこと。サラリーマンはみな必死の形相である。どこもかしこも、あっけらかんが足りていない。これは単なるつぶやきじゃないのか。俳句なのか。詩なのか。そうです。これが俳句という短詩です。熱燗はほどほどにして、さてみんなで飯を食おうか。和気あいあいとした家族が見えてくる。真実は難解と混迷の奥に隠れた単純にこそ宿るのかもしれない。難しく考えてはならない。幸せはすぐそばにある。そんなことをこの句は語っているように思う。考えすぎか。

  熱燗や美男の抜けしちくわの輪  木戸渥子

 熱燗をやりつつ数人での飲み会。カッコイイと思っている美男子が奥さんからの電話で帰ってしまった。あとに残っているのは……。それをテーブル上にある「ちくわの輪」に喩えた。喩えた、じゃないよ。失敬な。あいつは「美男」で、俺たちは「ちくわの輪」かよ。と言いつつ、熱燗を差しつ差されつするほどの仲。気心の知れた仲である。「こいつっ、憎まれ口を叩きやがって」と、場はさらに盛り上がり。と、考えたいのですよ。「ちくわの輪」側にいる私としては。

  熱燗や四十路祝はず祝はれず  根岸善雄

  熱燗や余生躓くばかりなる  石原八束

 どんどんさびしくなる。熱燗に「ビールで乾杯」というような明るさはない。しかし、ともにさびしさを語り合い、肩をポンと叩いてくれるような懐の深さがある。だからこそ、人々は熱燗を手放せない。

  人生のかなしきときの燗熱し  高田風人子

 大学院生の友人が彼女と別れるという。彼女も私の友人で大学院生。彼女は結婚したいという。彼は学究の身であり、結婚しても家計を支えることができない。就職するまでは待ってほしい。その話がこじれ、別れることになったらしい。電話をすると彼女は泣いていた。私は彼女の側に立った。そして居酒屋にて彼と会う。お互いの行きつけであり、知っている顔がちらほら見える。皆、彼女側に立っていた。私は彼を怒ってしまった。今となれば、彼の考えや気持ちは重々わかる。しかしそのときは感情的に責めてしまった。彼はつらい顔をしながら、ただただ熱燗をちびちび飲んでいた。そして彼らは別れた。私には気持ちの悪い罪悪感だけが残った。半年後、彼に謝罪し、赦してもらえた。そしてそのときにはすでに元の鞘におさまっていた。今、彼らは仲良く暮らしている。よかった、よかった。で、私は一体なんだったのだろう。役柄は。道化師という言葉が頭をよぎる。なんだったのか。今の私にこそ熱燗が必要なのかもしれない。

  熱燗をつまみあげ来し女かな  中村汀女

 あっ。ちょうどよく。ありがとう。さて、この「女」。妻と見るべきか。女将と見るべきか。あぁ、わかってる、わかってる。私は未婚なので、想像上の奥さんね。さて、どちらと見るか。私は「女将」と考えたい。休日に夫婦で散歩。「この店、よく行くんだ。入ってみる?」と夫。初めて知った。好奇心。暖簾をくぐると小料理屋という風情。「うちの奥さん」と女将に紹介される。きれいな人。着物がよく似合ってる。私が持っていないものを持ってる、気がする。「いつもの」と夫は注文し、女将と楽しく話しはじめる。なかなか入り込めない。急に話を振られても、愛想笑いしかできない。「はい、いつもの」と熱燗をつまみあげ、持ってきた。そして夫にお酌。えっ。熱燗飲むだなんて知らなかった。家では全く飲んだことないし、そんな話も聞いていない。「いつもの」って。嫉妬心。それが「女」という無感情な言葉につながっているような気がする。そしてその下に配された「かな」という大らかな切れ字を嫉妬の軽さと見るか、反対に恐怖心をいだくか。私は今、独身の気楽さを噛み締めている。もしくは「奥さん」という方々に対して、間違ったイメージを持っている。

  夭折を果たせぬ我ら燗熱し  青山茂根

 「夭折の天才」という常套句がある。若き天才やカリスマが夭折すると、必ず伝説化する。ロックミュージシャン、画家、小説家。天才について、夭折が一つの条件のようになる場合もある。「夭折を果たせぬ我ら」は凡才か。しかし生きている。生きているからこそ先がある。遅咲き、大器晩成という言葉もある。未来がある。生きているからこそ燗酒の旨さも味わえる。「果たせぬ」とあるが、その向こうには笑顔が見える。この、あたたかさ。これが生きているということなのだろう。

 何か大きなことを言いはじめてしまった。さてさて旨い熱燗を。

  竹筒を焦し熱燗山祭  羽部洞然

 酒に竹の香りがうつり、なんとも旨そうだ。田舎の山祭。露店を過ぎて、寺務所か社務所の辺りで火を焚いている。竹のパンと始める音が気持ちいい。村の衆と語り、笑いながら、こんな旨い熱燗を飲んでみたい。都会ではそうそうお目にかかれぬ贅沢である。

  熱燗や放蕩ならず忠実ならず  三村純也

 熱燗をグイと無頼の放蕩息子、という訳でもない。真面目に生きてきた。しかし親に忠実という訳でもなかった。熱燗片手に自らの来し方を思い出しているのだろう。「忠実ならず」という字余りが印象的だ。私も親に対してどうだろう。私も「放蕩ならず忠実ならず」といったところか。

 熱燗には派手な明るさや爽快感、気品などはない。庶民性を物語る。しかしそこには懐の深さがある。その懐に身を委ねる。誰にも疲れる。死を考える夜もある。そんなときに熱燗を友とする。冷えた体があたたまる。傷ついた心も。我々は所詮凡才だ。しかし我々にしか見えない世界がある。そこには徳利とぐい呑みが待っている。夭折を果たす必要はない。生きて今日も熱燗の旨さを噛み締める。それで充分。美人女将のお酌があればなお充分。恋愛と結婚はもう少し先延ばしにしておこう。

0 件のコメント:

コメントを投稿