2022年9月2日金曜日

北川美美俳句全集22

(今回は美美の書いたエッセイをあげて見る)

風と光と桐生の安吾と(『安吾と桐生』2016年2月より)

                               北川 美美

 「子宮の入口のようなところ」――これは私が知人たちに伝える鳥瞰図的な桐生の地形表現である。桐生は関東平野の北端、足尾山地の裾野に位置する。私は安吾の没年齢である四十八、の直前に出生地である桐生に戻ってきた。戦後景気の活気に満ち満ちた安吾が過ごした頃の桐生と、その華ぎから一転した荒涼感漂う現在の桐生の姿とはいささか舞台が異なり過ぎる。しかし、山々は変わらず鎮座し、この町を見続ける。 

 安吾がいた頃の面影をわずかに残す本町通り(@田舎のメインストリートから「桐生通信」)の奥に天満宮の社がある。その社の後ろに初夏には新樹が沸き上がり、晩秋には霧が昇っていく山の姿が見える。冬には前へ進むことも困難な乾いた痛い風が、そして夏には炎天の矢が、本町通りを外れた路地裏に、美和神社(@存在しない神社のお祭り「桐生通信」)の参道に、そしてだだっ広い学校の校庭(@いつも大投手がいない町「桐生通信」)にと、吹き荒れ、降り注ぐ。昭和二十六年に「安吾・新日本地理」に着手した安吾が二年後に越して来た桐生の地形を満身で受け止めない筈はない。 

 安吾があちこちと日本を旅したことを『伊勢物語』の男に投影することができる。特に以下の歌は「文学のふるさと」にも引用され興味深い。 


ぬばたまのなにかと人の問いしとき

          露と答えてけなましものを


――草の葉の露を見てあれはなにと女がきいたとき、露だと答えて、一緒に消えてしまえばよかった(「文学のふるさと」中の安吾訳)――後の言葉となる幽玄美を体感するために安吾は日本各地に赴いたと思え、最後に桐生に辿り着いた。霧が生まれやすい桐生の地で、安吾は子宮の人口にうごめくナマの人間に接し、その曳に濳む以外を表現していく。桐生へ越した四か月後に飛騨での取材を筋立てしたといわれる「夜長姫と耳男」(昭和二十七年六月『新潮』として発表する 


 向うの高い山をこえ、その向うのミズウミをこえ、そのまた向うひろい野をこえると、石と岩だけでできた高い山がある。その山を泣いてこえると、またひろい野があってそのまた向うに霧の深い山がある。              「夜長姫と耳男」


 桐生を三方囲む山夊をみていると、安吾が山に吸い寄せられ、モノノケに自ら逢いにいこうとする好奇心がよくわかる。安吾の物語には、モノノケが潜む山に敢えて入っていく男女が登場するのである。

 「夜長姫と耳男」は「桜の森の満開の下」とともに 幻想的かつ怪奇的な傑作と評される。残酷で気高い女王気質の女と、その歓心を買うべく命をすりへらす下賤の男。二つの物語は どちらも男が女を殺すという結末で幕を下ろす。そこにいきつく男の心理はいずれも複雑で捻じ曲がった構造だ。<このヒメを殺さなければ チャチな人間世界は持たないのだ。>――最後に男がたったひとり残る孤独と虚無の傑作は「堕ちるところまで堕ちる」安吾の思想と確かに通じる。戦後の自我を模索する時代に寵児として登場した安吾は、何故男が女を殺すことに執着したのか。安吾が本当に殺したい対象は別にいるのではないか。 

 近代以降の文学は自我とは何かを問い続けてきた。文学という「父」、そして、家・国家・社会を支えてきた「父」、その存在を超えることが近代の思想の典型であった。登場する男を「父系」に、女を「母系」として考えるならば、女を殺すということは、本来、自分を産むはずの「母」を殺すことになる。それは生れてくるはずの自分、すなわち文学上の「我」の抹殺であり、自分を生まれてこなかったことにする「空」の世界がある。安吾が近代以降の自我である「父を超える」というテーマから掛け離れた着想を持ち、特異な点だろう。 


つひにゆく道とはかねて聞きしかど

         きのふけふとは思はざりしを


――誰もが逝く死の道とはかねてから聞いていたが まさか昨日今日のこととは思わなかった――『伊勢物語』の男は死を予感して物語が終る。安吾は多分、死の予感すらもなく、この子宮の入口のような町で死んでしまう。露のしずくが消える一瞬の景を求めた安吾が、この地に消えてしまった。 

 桐生の「桐(キリ)」と音韻が被る「錐(キリ)」に男陰の意がある?(「隠語辞典」束京堂)。確かに桐生は子宮のようでもあり男陰の紡錘のような地形でもある。男陰と子宮はある意味一体の形を成す。安吾と桐生の因果が魑魅魍魎と脳内にスパイラルしながら安吾の後世が私の中で過ぎてゆく。 

(「俳句新空間」編集長 俳誌「面」「豈」同人)

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