2022年9月23日金曜日

英国Haiku便り [in Japan] (33)  小野裕三


haiku、最初の百年

 『英語俳句〜最初の百年(Haiku in English —The First Hundred Years)』という本に最近出会った。英語でhaikuが書かれ始めて現在に至る百年間の主要作家を紹介する充実した一冊だ。自身もhaikuを書く米国の高名な詩人ビリー・コリンズが序文を書き、エズラ・パウンドの有名な地下鉄の詩(俳句)を最初に掲げ、あとは時系列でギンズバーグやケルアックらのビート詩人から最近の世代まで網羅する。巻末にある編者のジム・ケイシアンの通史解説も示唆に富む。

 ケイシアンは、「真の俳句は日本人以外には書けないと思う保守的な日本のhaijinは今でもいる」とも記す。その保守的な見方が真実なら、英語haikuの世界はどうやっても日本語俳句の亜流でしかありえない。だが英語のhaiku史は、多くの日本人が想像するより遥かに豊穣で奥が深い。

 haikuの百年間は、ずっと日本の俳句だけの影響下にあったわけではない。英語でhaikuを作る人が増えれば、そのhaikuの影響でhaikuを作る次の世代が英語圏に現れる。例えば、ケルアックらのビート詩人のhaikuに影響されてhaikuを始めた人は少なくない。そういう世代の登場により、haikuは日本の亜流を離れて自立し始めた。また、英語の俳誌の登場で、英語圏のhaiku作家同士が刺激しあえるようになったのも大きい。そこには、日本の俳句史に対する、まるでパラレルワールドのようなhaiku史がある。

 興味深いことに、英語haikuの百年の歴史もまた日本と同様に、伝統と前衛の間を揺れ続けた。ただひとつ決定的な違いがある。ケイシアンはこう記す。「(haikuという)単語はそれ自体で、前衛につながる文化的なオーラを持つ」。日本の俳人が、俳句の持つ形式性に否定的に向き合うことで前衛を追究したのに対し、haiku史の冒頭を飾るのがエズラ・パウンドという前衛詩人であったように、言語文化としての英語においてはhaikuという形式はそもそも一貫して前衛的であった。一方でもちろん、日本の俳句が持つ古い歴史的背景も英語圏に伝わる。そんな両面を根源的に抱えるhaikuは、日本の俳句史よりもより先鋭的に「伝統と前衛の対立」というテーマに向き合ってきたとも言える。加えて英語詩やアートの影響もあり、haikuの前衛活動は日本のそれよりも多彩に見える。

 英語のhaikuのもう一つの重要な特徴は、英語常用者を超えた広がりをもつことだ。「二十世紀末までには、haikuは地球上におけるほぼすべての詩文化に結びついていった」とケイシアンは指摘するが、英語が事実上の世界共通語である現在、異なる言語文化を超えて伝えるために選択されるのはもっぱら英語だ。英語haikuの次の百年は、もはや地球全体の文化史になっていくのだろう。

(『海原』2022年4月号より転載)

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