2021年2月26日金曜日

英国Haiku便り[in Japan]【改題】(18) 小野裕三


谷川俊太郎と俳句の重力


 この五月に、BBCラジオで詩人の谷川俊太郎氏を特集した番組が放送された。番組では、谷川氏自身の他に翻訳者たちも出演した。
 その一人、ウィリアム・エリオットは、米国生まれだが、日本に長く暮らし、谷川氏の詩を多く翻訳してきた。そんな彼が番組で谷川氏の詩を紹介するのに、まっさきに俳句のことに言及したのには驚いた。彼曰く、谷川氏は俳句のグループにも参加したことがあり、そんな彼の詩は「静かに俳句の重力(gravity)の影響を受けていた」というのだ。
 確かに、谷川氏は俳句も作らないわけではないようだ。小学生の時には授業で俳句を作ったし、その時以来の「俊水」という俳号まで持つらしい。だが、それは事実だとしても、少なくとも彼の詩を論じる時に「俳句の影響」をまっさきに論じる日本人はおそらく皆無だろう。
 しかしここで僕が論じたいのは、谷川氏の詩歴の検証ではない。むしろ注目したいのは、ある英語圏の翻訳者が、日本の口語詩の先駆者であり続けた詩人の作品に接して、「俳句の重力」という観念にまず行き当たったという事実だ。五七調の呪縛と対峙することで日本の口語詩は成立してきたとも言えるし、だとすればこの事実はなんとも逆説的だ。
 そして日本人の目から見た時、「俳句の重力」があるとすれば、それはむしろこの五七調の呪縛と近しい。西洋のダンスを踊ろうとしてもどこか盆踊りみたいになってしまう、みたいな悲哀に似て、五七調は絶望的なほどに日本語を話す人の肉体を呪縛する。
 ところが、このような呪縛のない西洋人の目に映る「俳句の重力」は、俳句のもっと本質的な可能性だ。先述の翻訳者はこうも語る。日本語の詩は多くのものを開かれたままに残すが、英語の詩はある種の完結性にこだわる、と。簡潔な断片性を旨とする俳句に象徴的に見られるこの「開かれた」特性は、それが谷川氏であろうが誰であろうが、日本語の詩全般にも通底するのだろう。五七調の呪縛を知らず、かつ英語詩との比較もできる西洋人には、逆にこの意味での「俳句の重力」が明瞭に感じられるのだろうか。
 そもそも、たった十七文字で詩を作るという発想自体がラディカルで実験的であり、つまり俳句という形式自体こそが前衛的だというのが僕の持論なのだが、そんな話をあるイギリス人女性にしたところ、あっさり同意してくれた。
「そう思うわ。だって、Haikuのシンプルさってモダンアートにも通じるし」
 西洋人の目には、五七調の肉体的呪縛というフィルタを経ない分、クリアに俳句の本質が映っている気がする。前衛的で「開かれた」言葉としての俳句の持つ「重力」が、彼らには純粋に感知できるのかも知れない。

(『海原』2020年9月号より転載)

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