2020年10月16日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい 】3 「くれなゐ」の夕紀  柳生正名

  日ごろの活躍ぶりに比し第4句集とあることに少々の驚きを覚えつつ、200頁ほどの、この集を手にする。350句余りのそれぞれに思い巡らしながら紐解いたのち、決して手に持ち重りするわけではない一巻を机上に置くとき―。さまざまな句集との出合いというものを振り返ってみると、ここで何を想わせてくれるかが、少なくとも自分には決定的な意味を持つ。それは間違いないようである。
 ならば、集名にも採られた「くれなゐ」をたどることでいま一度、あの350句の豊潤な世界に立ち戻りたい。それが今回の率直な思いだったように思う。むろん、巻末の挙句に

 日の没りし後のくれなゐ冬の山

という、いわば「後を引く抒情」に溢れた大きな景の自然詠を据え、巻頭では

 漢ゐて火を作りをる春磧

と、気に満ちた炎の色をぶつけてきた著者の思う壺にはまったと言われれば、それまでだ。しかしその中にこもり、短夜の夢を追うなりゆきも、このコロナの世にはふさわしいものかもしれない。

 赤幟疱瘡の神を送りけり      子規

 赤は魔よけ、疫病除けの色だったというから。

 こほろぎやまつ赤に焼ける鉄五寸
 梅雨深し赤き肉より赤き汁
 紅梅やテントの中の十五席
 ひつぱれる鵜繩へ火の粉降りにけり

 本集の要所要所にくれなゐが点描のように配されているのは、必ずしも事前に意図されたものではないだろう。その強い色合いが日ごろ、著者の目を捉えてやまないものの内におのずと入り込んでいて、著者はそれに鋭敏に反応し続けている。今に相対する際の肌合いの感度の高さをも示している気もする。
 と言うのも、先日某テレビ局が放映した「国民13万人がガチ投票! アニメソング総選挙」なる番組では2位に「紅蓮華」(鬼滅の刃)、7位に「紅蓮の弓矢」(進撃の巨人)、10位に「インフェルノ」(炎炎ノ消防隊)がランクインした。どうも若者を含めた層が今のリアルな空気を感じるアイテムの一つがこの色らしい。
 閑話休題、本集ではまたくれなゐが

 山椿かごぬけ鳥の夕べ群れ
 星見えぬ街となりけり金魚に灯

のように、要所で隠し味のように利かされてもいる。極めつけは

 序の舞といふ絵に戻り涼みけり

 上村松園の作を即座に思い起こす。取り留めなく巡る展覧会で、描かれた振袖の朱の前に立ち戻る。ひとさしの舞を終えた後の火照った頬に寄せる涼気がそこに寄せて来る。やがて読者は、本集もこの句に耐えず立ち戻り、立ち戻りしつつ、幾度も読み返されるにふさわしい豊かな世界をはらんでいることに気付く。
 こう記してきて、どうしても頭を離れないフレーズがある。「くれなゐの茂吉」。今さら斎藤茂吉の第1歌集「赤光」に収められた連作「死にたまふ母」から

 のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて垂乳根の母は死にたまふなり

など持ち出すまでもなかろう。その数々の名歌の中に、決してあせることのない「くれなゐ」の輝きがあることを示す言葉である。
 それをいうのであれば、実は本集にも

 今にして母の豪胆緋のマント

がある。今の平均寿命を考えれば、早く亡くした母親の形見に多少の違和感さえ感じ、箪笥の奥に押し込めていたのかもしれない。ふと片づけの折、改めて目の当たりにして、華やぎと茶目っ気、そして何より思うがままに生きる強い生への意欲に共感できるようになった自分自身に驚く、そんな作者がいる。だからこそ、このマントは炎の色であり、情熱と変化を体現するこの色でなければならない。
 例えばこのようにして、決して動かない色彩が本集の中に一本の杭の如くに強く撃ち込まれている。「くれなゐの夕紀」とつい口にする誘惑にかられることの言い訳には十分なのではないか、とも思う。
 よく見ると、本集の「青嵐」「桐筥」「野守」「緑陰」「墨書」「冬日」という章立てにも、それぞれ固有の色を感じ取れる語が選ばれている。その中で「野守」には「母のマント」の句に加えて

 信号に止まり狐と別れけり
 大鍋に牛乳沸ける虚子忌かな
 花を描き交互に使ふ筆二本
 緑陰の男女のどれも恋に見ゆ
 青大将逃げも隠れもせぬ我と

などの句が見える。額田王の

 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

を思い合わせると、ここでは色彩が氾濫するようである。
 さらに続く「緑陰」に収められた一句

 ばらばらにゐてみんなゐる大花野

もまた秋の涼ろな色たちの饗宴を感じさせる。とりどりでありながら、一つの大きな存在へと連なりもする「いのちの宇宙」とでも呼ぶべき拡がりを感じとれるのだ。

 ばらばらに飛んで向うへ初鴉

 素十にこの句があり、終戦直後に上梓した自身の第1句集は「初鴉」と名付けられた。永田耕衣が所有した初版本を目にしたことがあるが、この句には禅書からの引用など、集中で最も多くの書き込みがなされていた。なるほど水墨絵さながらの世界に「禅の宇宙観」に通じる広漠な奥行きを感じさせる。
 「大花野」の句は色彩から言えば真反対である。それでいて、その17音が織り成す世界の奥行きのある豊かさは素十や耕衣にも連なり得る。それでいて、この大花野の中にはくれなゐの花びらも確かにある。それが風に揺れているだろうあたりが「くれなゐの夕紀」の真骨頂だと感じてもいる。 (敬称略、了)

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