2020年10月16日金曜日

【抜粋】〈俳句四季10月号〉俳壇観測213 鈴木花蓑を遠く思う――伊藤敬子と高浜虚子の鑑賞  筑紫磐井

 ●伊藤敬子の鈴木花蓑
 俳壇のパーティーなどでよく会っていた「笹」主宰の伊藤敬子氏が六月二五日になくなったと聞いてびっくりした。それまでも元気だったし、特にその少し前に『鈴木花蓑の百句』(令和二年ふらんす堂刊)を戴き、礼状を書く矢先のことだったからだ。
 (中略)
 『鈴木花蓑の百句』はふらんす堂のシリーズの1冊で、後藤夜半、藤田湘子、飯島晴子、綾部仁喜、清崎敏郎、右城暮石、山口青邨、鷹羽狩行と続いているが、いずれも師系にかかわる人の著述である。直接の縁がないと言うだけでなく、現代俳句の歴史からはほとんど忘れかけられている作家(これはホトトギス系の人から見れば噴飯ものだろうが、現代の俳人にアンケートを採っても決して名前があがってこないというのは間違いない)ということでも貴重な本である。
 伊藤氏の掲げた句を眺めてみる。

蓮の風立ちて炎天醒めて来し
コスモスの影ばかり見え月明し
押し廻り押し戻り風の浮氷
スケートや連れ廻りをりいもせどち
いみぢくも漁火の夜景や避暑の宿
薔薇色の暈し日のあり浮氷
稲妻のはらはらかかる翠微かな
昼顔や浅間の煙とこしなへ
悲しくも美し松の秋時雨


●虚子の眺めた鈴木花蓑
 ここで少し私の積み残した仕事を思いだしてみたい。戦後虚子の最晩年に、「玉藻」で清崎敏郎、深見けん二らの新人と戦後俳句の批評を行った座談記録が残っている(二九年四月~三四年八月)。「研究座談会」であるが、蛇笏、4S,人間探求派、新興俳句、龍太・兜太らの戦後俳人、そして素十・立子・杞陽らのホトトギスの個性派を取り上げて自在に論評している。この記録を私は『虚子は戦後俳句をどう読んだか』(平成三〇年深夜叢書社刊)として出版したが、実はこの座談会には、最終回で、戦後作家ではない鈴木花蓑・西山泊雲・田中王城が載っているのである。虚子の八五年の人生最後の俳句評である。
 伊藤氏に、虚子の評と合わせて話を伺ってみたかったとつくづく思う。

 夕焼や生きてある身のさびしさに (昭和十六年)

虚子「(いかにも生涯を恵まれなかった作者晩年の心境がよく出てゐるという意見に対し)この頃は御説の通り、夕焼を見た為に特に淋しいとか思ったのではなくて、何を見ても淋しさを感じた晩年だったでせう。夕焼を見ても……。一時華やかで直ぐ褪めるといふ夕焼を見ても、さう感じたんだらう。晩年の花蓑は淋しさうだったね。国へ帰る時、発行所まで来たことがあった。」
虚子「非常に淋しさうであつたですね。エレベーターまで見送ってやったんだがその時の淋しさうな顔がまだ目に残ってゐる。」

 子心は親心なり水中花 (昭和十六年)

虚子「これは子供が側にをるのではないと思ひます。子供が側にをる景色を想像するより、水中花を眺めてをつて面白いものだなと思ったんでせうね。子供が喜ぶものだなと感じた時の気持だらう。親子が互に結びつく親しい感じはあるかも知れないけれど、この表現は水中花を見た時の感じぢやないか。」

 蹴ちらしてまばゆき銀杏落葉かな (大正十三年)

虚子「『まばゆき』がうまいですね。誰でも感じることを『まばゆき』と感じたのは写生が鋭いといふか、兎に角その心がさう受け取った、花蓑の心がさういふ風に受けとったのだから、花蓑その人の心持を受取るわけで、あの銀杏落葉をまばゆく、と言ったのは写生の妙味といひますか、面白いと思ひます。」

 来る客もなくて餅切などしつゝ (昭和十二年)

虚子「この句に『など』といふ二字が働いてゐると思ひます。いかにも淋しい、することが無いといふさういふ事柄、淋しいといふ感じが『餅切など』といふ『など』によく表はれてゐると思ひます。なんでもないことだけれども、写生の力のある処でせう。」
 さて最後に問題の句を挙げよう。

 大いなる春日の翼垂れてあり (大正十一年)

虚子「これは面白い句ですね。」
虚子「(かうぃふ表現は珍しかったか、の質問に対し)さうですね。珍しかったですね。」
 これは山本健吉に酷評された花蓑が再評価される名句であるが、虚子の評は余り熱がないように思う。まるで他人ごとのようだ。
 座談会の中では、誓子が当時の詩の影響があると言ったことに触れ、その時代の俳句の表現といふものは現在の俳句の表現と違ふといふ感じがするという意見が出るが、虚子は素っ気ない。虚子は現代詩が嫌いなのだ。
虚子「別に詩の表現がどうといふことはないでせう。『垂れてあり』といひ切った処が手腕だと思ひます。」
 敬子は「春日の翼」に感嘆するのだが、虚子は「垂れてあり」に眼目があるとする。

※詳しくは「俳句四季」10月号をお読み下さい。







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