2017年6月23日金曜日

【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む5】「思ひ出帖」安里琉太



 筑紫磐井氏は、2017年度版の『俳句年鑑』、「年代別二〇一六年の収穫―三〇代」の中で、西村麒麟氏を次の様に評している。

 若くして老成、誰とでもつきあえるがしかし結構シニカル、自分を主張しないが独自の個性、という不思議な作家である。将来の俳壇の法王を虎視眈々と狙っている。(※1)

 「俳壇なんて曖昧模糊とした不可思議なものを、如何に牛耳るのか、大げさだなぁ」と思いはしたのだが、それがどうしてはっきり否定出来ないのである。というのも、俳句賞が作品の優劣以上に、日々いくつも誕生し氾濫する俳句作品の中から「読まれうるべき作品」を掴みださんと作用しているのであれば、麒麟氏の受賞歴は、その「読まれうるべき作品」として何度も読まれてきたことを査証してやまないのである。「第一回石田波郷新人賞」、「第五回田中裕明賞」、そして今回の「第七回北斗賞」という具合で、そのどれもが注目されている賞であることなど言うまでもない。
 早速、今回の受賞作である150句「思ひ出帖」の作品をいくつか鑑賞していきたい。

  鯖鮓や机上をざつと片付けて
  「机上」の落ち着かない感じから「ざつと」が気持ち良い。鯖鮓が食べたくなる。

  鱧食うて昼寝の床に戻るのみ
  ついでに昼風呂、昼酒もついて。こんな暮らしがしてみたい。

  初雀鈴の如きが七八羽
  周りが逆に静かに思えてくる不思議。

  大鯰ぽかりと叩きたき顔の
  大きいと苦労するのね。

  あやめ咲く和服の人と沼を見て
  あやめ、和服。そのあと沼ときて驚く。

  呉れるなら猫の写真と冷の酒
  「冷し酒」じゃなくって「冷の酒」ってのが粋なんですよ、はい。

  草市や早めに夜の来る町に
  そうそう。いつ来ても、やけに早いの。

  盆棚の桃をうすうす見てゐたり
  ずっと見てると怖くなってくる。

  水浅きところに魚や夕焚火
  火に照らされて、ちらちら光る。

  早蕨を映す鏡としてありぬ
  これ好きな句です。

  蛤の水から遠く来たりけり
  あの水も今はどうしているのやら。

  天牛の巨大に見えてきて離す
  字ずらも相まって、くわばらくわばら。

  花鋏いくつもありぬ梅雨の宿
  こんなにあっても使うものは使う。

  少し寝る夏座布団を腹に当て
  ひんやりして気持ちいい。

  扇風機襖を開けて運びしは
  さあ、どいたどいた。なんていうほど人もいない。

 150句のうちの好きな句のいくつかを読んでみたが、あらためて思ったことは、麒麟氏の俳句を長々と論じる難しさと、そのように鑑賞されることの珍しさである。麒麟氏の俳句の読まれ方は一文から三文ほどが多く、webマガジン『スピカ』にて氏が長く連載している「きりんの部屋」さながらであると印象している。私は、こうした氏の俳句の読み方と氏の俳句の読まれ方の一貫した点に、強い特異性を感じる。それは、作品の観点が「上手下手」というより「好き嫌い」にあり、抒情というより情緒の側から呼びかけを行っているからではないかと、今しがた「150句のうちの好きな句を…」と書いたあたりで思い立ったのである。
 だから、どれこれの句を取り上げて突いたところで、一句ずつとその連なりに立ち上がる情緒の前では大した批判にならないし、一方で「批評」らしきものを正面切って行おうとするとヤボに見えるのではないかと、寧ろ手前が危惧することになる。そうしたうえで、氏への俳句は、一度読み手の懐に潜り込むと、好きな俳句とそうでもない句という基準の上で、しかしはっきりとポジティブな印象に近づく力学を働かせているのではないか、などと陰謀論に憑りつかれたように書くこの批判めいた文章も、やはり氏の俳句にまで到達しないのであった。
 ただ、そうした一句一句の単位と違い、句集全体となるところで、仙境的な世界の色を強めている点も着目すべき点だろう。以下は、第一句集『鶉』が発刊されたときの特集で書かれたものだ。

・【西村麒麟『鶉』を読む8】へうたんの国は、ありません/久留島元
https://sengohaiku.blogspot.jp/2014/02/kirin4kurusima.html

・【西村麒麟『鶉』を読む16】理想郷と原風景/冨田拓也
https://sengohaiku.blogspot.jp/2014/03/kirin8.1.html

 こうした文章になされた「ユートピア的な場所」からは、師の長谷川櫂氏を彷彿とせざるを得ない。それは、『震災句集』(中央公論新社.2012)への批判によって顕在化した印象のあるそれである。

 長谷川櫂は俗とリアルとの最終的な和睦を信じて疑わず、それこそが『震災歌集』『震災句集』を生み出した。しかし、それらが結果として行き着くのは、むしろリアルから遠い場所にある俗っぽい楽園に他ならない。それどころか、俗とリアルとの根源的な親和性が最後まで疑われなかったからこそ、まさしくその幻想から、作品は完全なファンタジーとしてかたちを得たのだ。(※2)

 ここで言われる「リアル」と「現実」という言葉の違いに留意しつつ、句集の上に俗っぽい楽園が創出される点においては、『鶉』は非常に良く似ている。それでも両氏が、決定的に違うのは俗の質であろう。前者の句が、俳句という地点に回帰してゆくのに対し、後者の句は「私」に回帰するところにある。
 冨田氏の指摘する通り『鶉』において、麒麟氏の「ユートピア的な場所」は故郷の「尾道」とよく似たように書かれる。麒麟氏の楽園、言わば「ユートピア的な場所」は、俳句的な美学が保全される閉ざされた空間とは対照的な、故郷やあらゆる土地と地続き、或いはパラレルにある楽園なのである。
 
 満員電車の中では、できるだけ楽しい、愉快な事を考え、空想の世界に遊ぶようにしています。地獄のような環境で、これでもかと地獄の句を作ると言うのは僕には向きません。僕は耐えに耐え、ポッキリ折れるまで我慢するタイプですので、そういう俳句の作り方をしていると、そのうち病気になり、倒れ、不幸になるでしょう。電車の窓から少しだけ外の景色が見えます。空や雲や川が見えます。僕はそこで遊んでいる空想に耽ります。外を見る事すらできず、地獄の亡者のようなおじさんの顔しか見えないときは、目を閉じて空想を広げて遊びます。もし僕が俊寛だったら、清盛が釣りをするとしたら、蕪村の絵と鉄斎とどっちの絵に住みついたら楽しいだろうか。明日遣唐使に任命されたらどうしよう。休日には近所を散歩することが多いので、その時に見た事を思い出すのも僕の遊びの一つです。(※3)

 裕明賞受賞に際した麒麟氏の文章を引用したが、ここで言われる遊びは、受賞作「思ひ出帖」にも顕著であった。

  俊成は好きな翁や夕焚火
  朧夜の敦盛として笛を吹く
  虚子とその仲間のやうに梅探る
  起し絵の清水一角雪を踏み
  丈草と過ごす夜長を楽しみに
  端居して平家の魂と苦労話


 麒麟氏の俳句との向き合い方は、虚子の「極楽の文学」を思う。そういう点で、あくまで地獄を対置した麒麟氏の楽園は、「秋晴や会ひたき人に会ひに行く」、「この人と遊んで楽し走り蕎麦」などの「私」と対象とにおいて関係が紡がれる慈愛に満ちた広がりを持って編まれる。この地平において、今一度『鶉』と「思ひ出帖」とを読み比べたい。まず、楽園と地続き、或いはパラレルにある地名を並べてみたい。

  大久保は鉦叩などゐて楽し     『鶉』
  深空よりあきつの湧ける信濃かな
  いきいきと秋の燕や伊勢うどん
  ユトリロに見せたき夜の銀座かな
  上野には象を残して神の旅
  人知れず冬の淡海を飲み干さん
  鎌倉に来て不確かな夜着の中
  初晴や西国は山愛らしく
  燕来る縦に大きな信濃かな
  かたつむり東京白き雨の中
  若竹の北鎌倉も雨ならん
  東京へ再び青き山抜けて
  夕焼雲尾道は今鐘の中


『鶉』では、地名が一句の中心にある場合が多かった印象だが、「思ひ出帖」では、地名と季語との出会いから句が広がりへ向かう印象がある。以下、「思い出帖」から抜粋。

  賀状書く京の住所をつらつらと    「思ひ出帖」
  涅槃して干物の国の駿河かな
  東京を灯して東をどりかな
  秋風に押されて伊勢へ参らんと
  穭田の千葉が広々ありにけり
  金沢の雪解け水を見て帰る
  太陽の大きな土佐や遍路笠
  遍路笠室戸は月を高く揚げ
  朝鮮の白き山河や冷し酒
  盆唄に絶頂のあり佃島
  金沢の見るべきは見て燗熱し
  栃木かな春の焚火を七つ見て


 改めて『鶉』を読み直してみると「嫁がゐて四月で全く言ふ事無し」のような愛妻句がポジティブな位置にある一方で、「金魚」はすこし寂しく書かれる。ただ、「思ひ出帖」においては、その愛妻句と金魚とが一緒になる句がある。

  なつかざる秋の金魚となりにけり  『鶉』
  いつまでも死なぬ金魚と思ひしが


  妻留守の半日ほどや金魚玉     「思ひ出帖」
  秋の金魚秋の目高とゐたりけり
  少しづつ人を愛する金魚かな
  墓石は金魚の墓に重からん
  金魚死後だらだらとある暑さかな


 ここに、慈愛によって対象との関係が紡がれ広がってゆく麒麟氏の楽園の一抹を見る事が出来る。今後も広がる楽園を楽しみに、私もまた地獄の満員電車のなかで、麒麟氏の楽園を開いて遊ぶのである。

(※1)筑紫磐井「年代別二〇一六年の収穫―三〇代」『俳句年鑑2017年版』、KADOKAWA、2016年108頁。
(※2)福田若之「楽園世界の構築原理 長谷川櫂の一貫性」『クプラス 第一号』、クプラスの会、2014年、102頁。
(※3)西村麒麟「受賞記念特別寄稿 ぼんやりと幸福な」『ふらんす堂通信141』、ふらんす堂、2014年。


0 件のコメント:

コメントを投稿