2017年6月9日金曜日

【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む4】「屈折を求める」 宮﨑莉々香



 西村俳句はわかりやすく読みやすい。このわかりやすさこそが多くの人に読まれている理由ではないだろうか。難しいことばを使わずすらっと言いのける点は、俳句ウェブマガジン「スピカ」の西村の連載シリーズ「きりんの部屋(ホントキリン)」において西村が俳句を読む時のスピード感を大切にしているのと結びつくだろう。難しいことなどは考えずすらすらと読んで欲しいという思いが彼の俳句観を形作っているのかもしれない。
 私が彼の一五〇句に目を通した第一印象も圧倒的な読みやすさだった。読み流せるということはどれも一定レベルのうまさがなければならず、いわゆるこれはムリがあるでしょうというものが少ない。だから西村の俳句はうまいのだと言える。しかし、私はただうまい俳句が見たい訳ではない。一五〇句はうまい俳句があることにより一捻りされたものが引き立つ構造で出来ているのだが、その一捻りされたものを私はもっと見たいのだ。だから私は西村の簡単にうまい俳句は評価しないが、考えられたうまい俳句を評価する。私の言う考えられたうまい句とは以下のようなものである。順々に書いていく。

  舌の上にどんどん積もる風邪薬
  紫の一つ一つが鳥兜
  秋の昼石が山河に見えるまで
  冬の雲会社に行かず遠出せず  
  少し渦巻いて大きな春の川

どんどん積もる、というと普通は雪を思うが同じ白でも風邪薬なのだという笑い。紫としてぼんやり認識していた鳥兜が最後に現れる点。遠出せずの裏切り。「少し渦・巻いて」と五七五のリズムで読めるが、文字として見た際に「少し渦巻いて」と見える点。中でも以下に挙げる俳句が面白い。

  小さくて白磁の馬や春を待つ
  春の日や古木の如き鯉を見て
  鳥好きの亡き先生や冬の柿
  早蕨を映す鏡としてありぬ

 白磁の馬と春を待の取り合わせはやや近い気もするが、ただ単に小さき白磁の馬と言っていない点がいい。次句は、ただ単なる鯉でない「古木の如き鯉」だからこそ春の日とうまく関わっている。「冬の」は亡き先生と響き合っており且つ、鳥と柿における秋の感覚をふわりと持ち去っている。先生が亡くなられたこともただ単に深刻な俳句としない点も西村俳句の特徴の一つかもしれない。西村の俳句はどの俳句も基本的にあかるい。最後の句が私は一番いいと感じている。鏡の用途は自分を映すことであるがそうではなく早蕨を映すものとしてあるのだという。景としては見えるのだがどこか違う世界を描いているような点に惹かれる。
 私が言う西村の、考えられたうまい俳句の「考えられた」とは逆説または屈折がある点であり、うまい、というのはきちんと実体としてわかる点である。そうであることをそうであるというのではなく、そうであることとそうであることの間にそうでないことを加えることで見え方を変化させているのだ。私が言う屈折は西村俳句の特徴の一つであるリフレインの使用にも見られる。二つに分けて俳句を挙げる。

① 烏の巣けふは烏がゐたりけり
  一人来てそのまま一人菊供養
  散りやすく散りゆく彼岸桜かな

② ヨット部のヨット何度も倒れをり
  秋の金魚秋の目高とゐたりけり
  烏の巣烏がとんと収まりぬ

 ①における西村のリフレインはかなり効いているだろう。例えば一句目は「けふは」によって昨日もしくはそれ以前は烏ではなかったのだという屈折が生まれる。烏がいなかったと知っていた上で今を書いており、単なる写生に収まっていない面白さがある。二句目においても一人が来ると二人以上の人数になるという常識を「一人来て」からの全体描写に移行するのではなく対象の一人に焦点を絞り続けることで裏切っている。三句目はややわかりやすい点もあるかもしれないが「やすく・ゆく」の音の効果でリフレインを支えている。「散りやすく・散りゆく」と繰り返す中で「散り」の共通点とは異なる「ゆく」の音が少し浮いて聞こえる点が面白い。このような裏切りの一手間によってリフレインは効果的に働いていると言えるだろう。一方②は①とは異なりこれまでのリフレイン俳句の順当な書かれ方に沿っている。だからこそ私はこれらが面白くない。
 きっと西村は〈水出せば水に集まる朧かな〉のようなうまい俳句が書けてしまうのだと思う。けれど私が評価するべきなのはうまさの点ではないと考えている。俳句のルールに純粋に従っている俳句表現をなぞらえただけのただうまい俳句でなく、うまくて面白い俳句を私たちは評価していくべきだと思うし、そのような俳句を西村に求めたい。
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 ここからはあとがき的に、少しだけきりんさんとのご縁について話したい。私は高知出身できりんさんは大学生時代に高知に住まわれていた縁で高校生の時に第一句集の『鶉』を送っていただいた。だから私はきりんさんの句の〈太陽の大きな土佐や遍路笠〉がわかってしまうし、この句を見ると懐かしくなってしまう。ああ、高知って、土佐鶴のCMとかでもこんな感じだよねって言いたくなる。だから私がこの句をいいと思うのはもしかすると私が高知をわかっているからかもしれないのだ。懐かしい気持ちになってしまうのもきっとわかっているせいなのだ。きりんさんの150句に一回だけ使われていた「太陽」という言葉がずっと私の中に残っている。この句は私の不純な読みのためにあとがきとして書かせていただきたい。

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