2013年3月8日金曜日

戦後俳句とはいかなる時空だったのか?【テーマ―書き留める、ということ】/堀本 吟

【五】津田清子、最初の句「毛糸編む吾が眼差はやさしからむ」

(承前)
「虹二重」の句について、どのような批評がなされたか?ということを、資料に基づいて書きたいのである。(以下のアドレスに、山口誓子の評文を紹介しているので、随時参照していてください)http://sengohaiku.blogspot.jp/2013/01/horimoto1.html

1)しかしその前に,「毛糸編む」の句についてもうすこし。

前回に引用したように、「俳句研究」《津田清子特集》(昭和五十八年四月号)に多佳子の娘、橋本美代子が引用している句はこういう表記である。

毛糸編むわが眼差しはやさしからむ


美代子は回想している。これは昭和二十三年一月一七日に、奈良あやめ池の橋本多佳子自宅で催された新年句会が行われ、清子が隣家の堀内薫に誘われてはじめて多佳子に出会った。この句は、その日の多佳子の特選となった。お茶汲み係の美代子は、「母がやや声を弾ませながら選評をしていたことを、はっきり記憶している。」と書いている。

昭和二十三年四月号から、天狼の[遠星集]が始まり、天口誓子選、全国の読者から寄せられる雑詠欄の中程よりはまだ後ろにこの句が初めて載る。

「天狼」に掲載された時に、この句の表記は、「わが」か「吾が」なのかメモのありかが不明なので確かめられないが、同誌《津田清子特集」》、の平畑靜塔文《津田清子の表情》には、筑摩書房刊の『現代俳句集』の引用である、としてこう書かれてある。

毛糸編む吾が眼差はやさしからむ   津田清子


という表記だったらしい。が、この「吾が」は、清子による初出は「わが」だったかもしれない。ただ、手持ちの筑摩書房『現代日本文学全集91-現代俳句集』では、

毛糸編む吾が眼差はやさしからむ   津田清子


で始まっている。神田秀夫の抄出らしいがこれのもともとは、どこからの抄出だろう。

2) 平畑靜塔の清子論


この「俳句研究」《津田清子特集》(昭和五十八年四月号)で、清子の天狼での活躍を紹介しながら、作家の自画像がどう書かれているか、という視点で彼女を論じている。靜塔は、その当時までの津田清子句集『礼拝』『二人称』『縦走』の三冊からそれぞれ十句づつを清子が自選して送ったものを基礎に、分析している。

彼があげたのはまず次の三句。 

 記憶喪失水母の傘の中の海  『礼拝』昭和三四年近藤書店


 降誕祭讃えて神を二人称    『二人称』昭和四八年牧羊社

③ 捕虫網振るたび休暇減つてゆく  『縦走』昭和五七年牧羊社

その最後に、抜き出しているのがこの「毛糸編む・・」の句。

④ 毛糸編むわが眼差はやさしからむ   『現代俳句集』(昭三二年筑摩書房[現代日本文學全集91])
ここでの表記はしかし、「わが眼差」であり、私も所持している筑摩書房の『現代俳句集』の記述ではない。だから、意味上ではどちららでもいいのにどうも気になる。

(それから今度気がついた、私の所持しているこの本、奥付けが昭和42年となっている。誤植だろうか?)

平畑靜塔は、

①については、ものに感じやすい没入しやすい清子の、いわば心因的な「記憶喪失」を感じ、「理性と情性の二重奏」をみる。

②については、神をあなたと呼ぶ自然さ、一神教の国のものではない多神教の国民性の呼び方だ、とユニークな見方を披露し、これは農家の娘である清子のいわば「日本的受胎告知」の自覚がある、という。

(前略)「大和の富雄といえば、金鵄のとびにゆかりのある古代日本の高地帯である。そこの農家の出である清子は、まさに原日本からまっすぐに生まれた何千年後の女性だ。」「この自画像は、まさに生まれたままのまっすぐなそれであって、この人の一番よい顔の時であろう。」(平畑靜塔《津田清子の表情》「俳句研究」昭和58年4月号(57ー58ページ)

③については、「まさに縦走一筋に職業も俳句もまっすぐ真正面にむき」「先生根性の俳句」だとからかっている。「天狼の長女」と言われた津田清子は、傍目にも肩を張った生真面目さを崩さない俳句一筋の人だったのだろう。

④にいたって、靜塔は言う。


この句では、もはや、俳句も実像も、またはその虚像も、たいして背反するところがなく、その人自身に、いつでも、自らを描ける自像を作り上げて来ているのだろう。(同文結び)


平畑靜塔の見方は、表現論というより人間観に基づく心理的な分析の視点がある。

ところが、この句は先にいったように初出は橋本多佳子の新年初句会。「天狼」昭和23年四月号の《遠星集》であるから、制作年としてはもっとも早い時期のものである。清子の一頭最初のお目見えの時の出句、天狼昭和二十三年四月号に掲載されたものである。靜塔がそれに触れないのは、知らなかったのだろう、としか思えない。それにしても、最初の表情を、最も自在の境地の句だというには、誓子とは違う津田清子についての見方を、ひいては「天狼」での誓子と靜塔の俳句観の違いを吐露したもの、と私には思える。

山口誓子は、清子の卓抜な「比喩」の感覚を引き出そうとして悪戦苦闘したはずである。

 

3) 閑話休題 津田清子さんとの対話。


このあいだのこと、「天狼」の《遠星集》に最初に掲載のクを、先日清子さんのところに、お見舞い旁々、話題にもしようと思い、この句を持って行ってお見せした。以下はその時のとりとめない対話のメモである。

   清子 「こんなん、いつのや、昭和?」と目を細めて、
   清子 「ふーん、こんなん書いてたんか」とみておられる。やや、あって
   清子 「短歌的やな」
   吟  「短歌的・・ですか?」
   清子 「うん」

というようなことだった。(平成二十五年、二月二十一日。奈良らくじ苑清子自室にて。会話は記憶とメモの基づくもの。細部はすこし違うかもしれぬが全体にこう言う話であった。)

その日の会話では、「吾が」と「わが」の書き方の違いには話がゆかなかったものの、七十年後の今から見たいわば処女作を改めて読み直した時に「短歌的」と表現されたことに、私のほうがある感慨を持った。短歌は前川佐美雄に「この短歌は俳句だ」と言われた。「天狼」では誓子の選に入った句は、その後誓子多佳子の薫陶を得た以後では、長年忘れていたこの処女作に出あったときに、今の九十二歳の清子は「短歌的な句」と感じたのである。

この句は、昭和三十四年に出された、第一句集『礼拝』(昭34/ 近藤書店)には収められていない。

『礼拝』の巻頭句は昭和二十三年作として

木をゆさぶる子がゐて夏の家となる

である。

誓子の序文で有名になった津田清子の文体の特異性が、新しさ、として俳人としてのデビューとなった。「毛糸編むわが眼差しのやさしさ」を推測するやわらかな自己凝視とはちがう面が引きだされた。初心のこの「やさしさ」がふたたび現れるのはずっと後年である。

(了)


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