【終戦】
戦争終わりただ雷鳴の日なりけり 来し方行方 20 中村草田男
寸前や法師蝉ふゆるばかりなり 雨覆 20 石田波郷
忍べとのらす御声のくらし蝉しぐれ 亜浪句集 20 臼田亜浪
二日月神州せまくなりにけり 俳句研究 21・9 渡辺水巴
カーキ色の世は過ぎにけり夏の蝶 俳句研究 21・9 中村草田男
ながい戦争がすんだ簾をかけた 現代俳句 21・10 栗林一石路
玉音のまぎれがちなり汗冷ゆる 太陽系 創刊号 日野草城
一本の鶏頭燃えて戦終わる 野哭 加藤楸邨
※掲載しているすべての句を選んでしまった。多くの句が今日でも十分鑑賞に堪えうる内容となっているからである。「終戦」(「敗戦」ではない)という言葉が戦後の日本人の心の中に重い意味を持ち、文芸上のキーワードともなっていることを示す例である。
【敗戦】
寒燈の一つ一つよ国敗れ 現代俳句 22・3 西東三鬼
足袋褪せぬ敗戦国の一病者 俳句研究 25・4 石田波郷
敗戦を信ぜぬ嫗味噌搗ける ホトトギス 26・11 (ブラジル)増田恒河
山茶花やいくさに敗れたる国の 旦暮 日野草城
【抑留[捕虜]】
残留や迎春花など活けもして ホトトギス 22・8 三井典子
【復員船[帰還船]】
梅花手に復員船のどん底へ 現代俳句 22・5 平畑静塔
【復員】
蚊帳の果ふたたび母と子となりし 俳句研究 21・4 長谷川かな女
復員の一歩忽ち春泥に 現代俳句 22/5 平畑静塔
プラタナス芽おそし復員服は憂し 石楠 23・6 石原沙人※戦争に人材を投入する「動員」に対立する、元の状態に戻すことを意味するのが「復員」。陸軍省、海軍省は終戦直後、第一復員省、第二復員省に名前を変えた。
【引揚げ】
露寒や引揚げてより何殖えし 俳句 28・10 千代田葛彦
【帰還】
船上ぬくしペンキ塗られつつ故国(くに)へ 万緑 21・10 川内清明
炎天の爆音孤なり還りたり 寒雷 22・4 桑田善一郎
黒南風にのりてぞひとの還りける 野哭 加藤楸邨
【帰還者】
落花激し戦後北京に在りし女(ひと)に 浜 28・6 野沢節子
【未帰還】
蝉を聞く戦傷にても子が還らば 曲水 28・6 鈴木頑石
【遺骨―遺影―遺品】
帰り来し遺骨に白き蝶のとぶ 俳句研究 21・2 矢野蓬矢
遺骨もどる炎天高く高く鳶 浜 22・10 齋藤春楓
【戦没碑】
戦没碑未だ古びず青芒 歩行者 23 松崎鉄之介
【独立】
向日葵立つ吾等独立全からず 浜 27・11 松崎鉄之介
国独立金魚ペカペカ游ぎ居り 曲水 27・11 大塚麓
【講和】
講和遠く冬にんじんの色あたたかし 氷原帯 25・7 佐々木母星
五月片面講和発効して皆敵と味方の如し 俳句 27・10 佐々木夢道※昭和26年9月に署名、翌年4月に発行した、日本国との平和条約(Treaty of Peace with Japan)であり、サンフランシスコ講和条約ともいう。この条約によって連合国は日本国の主権を承認し、戦争が終結した。「朝鮮動乱」参照。
【朝鮮動乱―戦火】
蝉鳴くやすでに好戦めく新聞 浜 25・9 細見三郎
戦雲よそに妄執夏雲の句を作る 俳句研究 26・1 中村草田男※朝鮮戦争(昭和25年6月~28年7月の韓国(李承晩大統領)と北朝鮮(金日成主席)の間で行われた戦争)のこと。米国、中国、ソ連の兵員や資材が大量に投入された代理戦争であった。
【休戦―停戦[朝鮮動乱]】
庶民には氷旗はためき休戦成る 俳句 28・9 加藤かけい
株式課暑し小暗しいくさ憩む 青玄 28・10 榊利明※朝鮮戦争の「休戦」(戦闘の一時休止)であり、60年後の現在も戦争は「継続中」である。
【平和】
戦あるな古鉄を梅雨の貨車運ぶ 氷原帯 26・8 笹村佳都夫
いくさあるな地底の楽のつづく限り 氷原帯 28・6別 大久保坑人
いくさやめよ胸の弾痕汗を噴く 俳句 28・8 長谷川岳
戦あるかと幼な言葉の息白し 俳句 29・4 佐藤鬼房
いくさよあるな麦生に金貨天降るとも 銀河依然 中村草田男
※「いくさあるな」はほとんど慣用句のように使われていた。
【戦の不安―戦おそる】
閑古鳥わびし戦争玩具殖ゆ 氷原帯 28・9 高橋敦
【反戦―反米】
冬の噴水徴兵反対の嗄声飛ぶ 俳句 29・1 鈴木六林男
【予備隊】
木のない街かすみ予備隊行進す 俳句 27・8 宮田亭三
※昭和25年8月(朝鮮動乱の直後)にポツダム命令(占領軍が必要と認めた場合に制定する法律に匹敵する命令)である「警察予備隊令」により設置された陸上自衛隊の前身の組織。
【保安隊―保安庁】
蟻つぶすや保安隊員汚れ通る 石楠 28・10 石坂春水※警察予備隊等を改編して発足した陸上自衛隊、海上自衛隊、防衛庁の前身の組織。
【再軍備】
蝿生まれ戦車軍艦復た還る 鶴 28・5 石塚友二
誰欲す軍備ぞ蟹の穴無数 浜 29・7 金丸鉄蕉
【武器―武装】
茴香の花がくれゆく警備艦 ホトトギス 24・9 小島静居寒燈に呆け自問す兵器とは 浜 25・3 大野林火
【冷戦―二つの世界】
蝶々の横行コールド・ウォーアの中 銀河依然 24 中村草田男
【原爆忌】
※すでに第1回目の連載で詳説したのでここでは省略する。【ヒロシマ[広島]】
主婦たたら踏むメーデーやヒロシマに 俳句 29・7 沢木欣一
【原爆地】
原子弾の原頭に立てば秋日遠き 石楠 23・2 松田刻積
原爆中心地コスモスの白只一輪 曲水 24・11 菊池麻風
原爆屍かつと口開け妬けつく地 麦 27・8 中島斌雄
被爆ドームを耀らす花火をさへ憎む 青玄 28・11 筒井黙彦
【原爆症――ケロイド】
原爆症の名に麦梅雨を忌みにけり 石楠 22・11/12 阿部布秋
原爆の疵顔にあり卒業す ホトトギス 24・8 土岐対風楼
原爆症診て疲れ濃き秋の暮 俳句28・4 下村ひろし
ケロイド無く聖母美し冬薔薇に 俳句 28・10 阿波野青畝※前項の初めの2句、この項の初めの2句はまだGHQの検閲を受けている時代の、数少ない原爆の俳句である。偶然生き残った作品であったのではなかろうか。その意味では「原子弾」「原爆中心地」「原爆の疵」など言葉として不熟であるのが却って生々しい。
【原爆展――原爆図】
毛糸編む気力なし「原爆展見た」とのみ 銀河依然 27 中村草田男
原爆図絵吾子には見せず蝉遠し 俳句苑 28・2 能村登四郎
原爆図唖々と口あく寒雷 寒雷 加藤楸邨※昭和25年から制作された丸木位里により制作された『原爆の図』。
【原爆記念館】
夏雲の下の原爆記念館にあれ 浜 27・7 目迫秩父※建築家丹下健三の設計により作られた「広島平和会館原爆記念陳列館(現・広島平和記念資料館)」は昭和30年に開館。ここに掲げられているのは、市の中央公民館に設置された「原爆参考資料陳列室」か。
【原子爆弾――原子雲】
原子爆弾蟻も南瓜も焼くるなり 俳句 27・8 徳川無声
兵たりし記憶西瓜と原子雲 曲水 26・10 田口宗吉
【死の灰――原子禍】
死の灰雲春も農婦は小走りに 俳句 29・6 西東三鬼
「死の灰より救え」ビラへ日本の梅雨茫々 寒雷 29・8 古沢太穂
【水爆】
水爆禍ヤロビの麦の緑濃く 風 29・6 山口顕夫
腋に梅雨傘水爆反対署名なす 青玄 29・7 伊丹三樹彦
【放射能――ガイガーカウンター――福竜丸】
禍つ雨季来ぬ間に蟇よ食ひ太れ 俳句 29・8 竹中九十九樹
紫蘇の実青し「福竜丸」に漁夫癒えよ 俳句 29・8 飯島草炎※昭和29年3月1日に、ビキニ環礁での米軍による水爆実験で放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴び、14日に焼津港に帰還したマグロ漁船第5福竜丸。無線長だった久保山愛吉氏がこの半年後に死亡した。
「揺れる日本」の第2章にあたる「戦争・平和」は、<「揺れる日本」より①>で取り上げた句をふくめて問題が多い。特に、25~26年を境にそれ以前と、それ以後ではこと「戦争・平和」に関しては、我々の見るべき点が全く異なるべきなのである。それは社会の問題と言うより、作者の問題、作者のおかれた環境の問題と言うべきである。われわれは自由に活動しているように思えても、実は大きな枠組みの中でしか活動や思索は出来ないものなのである。後世になって初めてそれが分かるのであるが、その当時は精一杯に考えた結果であると思っている。実はわれわれには敵が見えていないのであるから、敵の思った通りのことをやっていた可能性が高い。何が敵で、何がわれわれの限界であったかは、いささか長い文章になりそうなので以下に譲ることにする。
* *
戦後の言論と自由の関係については、現在一つの支配的な見方がある。一例を挙げてみる。
「戦後、日本の新聞人は焦土の中から戦前・戦中への深い反省と、民主日本の建設に向かって再スタートを切りました。「戦争のためにペンを執らない」との固い決意と同時に、言論の自由を高く掲げ、権力のチェック機能を果たす歩みでした。このことは、国民自身が国家の主人公であり、民主主義の根幹をなすものであります。1948年の第1回新聞大会での新聞週間代表標語「あなたは自由を守れ、新聞はあなたを守る」、翌年の第2回「自由な新聞と独裁者は共存しない」―は、国民が期待する新聞の役割と使命をズバリと表現しています。」(第52回新聞大会/新聞大会を迎えて・「地方、世界、未来へ意見」下野新聞社社長 早川仁朗、平成11年10月)
ここに出てくる「自由」については疑義がある。これら戦後における新聞週間の実施と自由は密接な関係を持つものであり、新聞週間標語をつくったのは誰か、と、標語に「自由」の語を用いさせたのは誰か、を調べれば、こうした標語が自然に発生したものではなく、意図的に生まれたものであることが分かってくる。
さてその前に、占領下の日本において新聞の置かれていた環境についてながめておきたい。個別の新聞の状況はここではおいておき、占領軍最高司令部の様々な指令により動かされた具体的な事実について以下に記してみる。
昭和20年8月15日、日本政府はポツダム宣言を受諾、28日連合国は日GHQを横浜に設置した。30日にはマッカーサー元帥が厚木飛行場に到着し、9月2日軍艦ミズリー号上で降伏文書にサインし、9日マッカーサー元帥の対日管理方針の声明、という慌ただしい状態の中であった。この直後には、11日には東条英機以下戦犯の逮捕、15日GHQの日比谷第一生命ビルへの移転などがあった。
さてその間、昭和20年9月10日最高司令官指令第16号「言論及び新聞の自由」が出される。GHQによって出された最初の新聞報道に関する指令で、ここでは、日本帝国政府は、真実に符合せず又は公安を害するニュースを頒布しないよう必要な命令を発しなければならない(第1項)、公式に発表されない聯合国軍隊の動静、聯合国に対する虚偽又は破壊的批評風説は論議してはならない(第3項)、最高司令官は真実に符合せず又は公安を害するような報道をする出版物・放送局に対しては発行禁止又は業務停止を命ずる(第5項)、等の内容の5項目の指示を行っている。さらにGHQは、つぎつぎと速やかな具体的な事件の取締や、指令の追加を行った。
まず、GHQは、9月14日同盟通信社(当時の日本の代表的な通信社。直後、共同通信社、時事通信社に改組される)に降伏以来のニュースの取扱において誠意を欠くものがあると認定し、業務停止を命じた。翌15日、米軍宣傳対策局民間検閲主任ドナルド・フーヴァー大佐は、同盟通信社長、日本放送協会会長、情報局総裁、日本タイムス理事等を招致(強制連行)し、今後の宣傳に対する厳重なる警告をした上、同盟通信社の活動再開に許可を與える旨通告した(昭和20年9月17日朝日新聞)。
これ以降、同盟通信社の記事は検閲を受けるに至った。また、他の新聞社でも、朝日新聞が9月18日に48時間の発行停止を受けた(指令第34号)。
この通告に際し、マッカーサーは声明を出した。要旨は、日本は敗北した敵であり、最高司令官と日本政府の間においては対等な交渉の余地はなく、命令を受けるだけである、この点について誤った印象を与える報道は許されず、厳しい検閲を受けるべきである、という露骨なものだった。
「聯合國が如何なる点においても日本國連合國を平等であるとは見なさないことを明解に理解するやう希望している。日本は文明諸国家間に位置を占める権利を容認されてゐない、敗北せる敵である。諸君が国民に提供して來た着色されたニュースの調子は恰も最高司令官が日本政府と交渉してゐるやうな印象を與へている。交渉と言うものは存在しない。さうして国民が連合国との関係における日本政府の地位について誤つた観念を持つことは許されるべきでない。最高司令官は日本政府に対して命令する。しかし交渉するのではない。交渉は対等のものの間だけに行はれるのである。しかして、日本人は彼等が既に世界の尊敬や或は最高司令官の命令に関して折衝することが出來る地位を獲得したとは信じさせてはならない。ニュースのこの傾向は即時停止されなければならぬ。
諸君は国民にこの旨を告げないことに依って公衆の不安を招いてゐる。諸君は日本の眞の地位について正しくない描為をしてゐる。諸君が発表した多くの報道は眞実に反している。日本国民に配布される総べてのものは今後一層厳重な検閲を受けるやうになるであらう。」(昭和20年9月17日「朝日新聞」)
誰でも読める新聞にこんなやりとりが載っているというのが驚きである。余りにもあからさまであり唖然とする。連合国は、連合国の都合によって(つまり正義とは関係なく)、天皇にしろ、総理や閣僚にしろ、国民すべての生殺与奪の権(実際処刑したり、失職させたり、逮捕する権限)を超法規的に持っていたことがよくわかる。戦争に負けるということはこういうことを言うのである。負けない戦争をしない限り(そんな戦争は存在しないだろうが)常に、自分自身のみならず、妻や子や親兄弟にこうしたとばっちりが及ぶことを覚悟しておくべきであった。
引き続き、マッカーサーの趣旨を体した報道規制命令が発せられた。これが有名な「プレスコード」(昭和20年9月19日最高司令官指令指令第33号)である(英語名はPRESS CODE FOR JAPAN)。詳細にわたるが翻訳文を引用することとする(江藤淳『閉された言語空間』より)。
第1条 報道は厳に真実に則するを旨とすべし。
第2条 直接又は間接に公安を害するが如きものは之を掲載すべからず。
第3条 聯合国に関し虚偽的又は破壊的批評を加ふべからず。
第4条 聯合国進駐軍に関し破壊的批評を為し又は軍に対し不信又は憤激を招来するが如き記事は一切之を掲載すべからず。
第5条 聯合軍軍隊の動向に関し、公式に記事解禁とならざる限り之を掲載し又は論議すべからず。
第6条 報道記事実に則して之を掲載し、何等筆者の意見を加ふべからず。
第7条 報道記事は宣伝の目的を以て之に色彩を施すべからず。
第8条 宣伝を強化拡大せんが為に報道記事中の些末的事項を強調すべからず。
第9条 報道記事は関係事項又は細目の省略に依つて之を歪曲すべからず。
第10条 新聞の編輯に当り、何等かの宣伝方針を確立し、若しくは発展せしめんが為の目的を以て記事を不当に顕著ならしむべからず。
これらの指令に基づき検閲が開始されたが、公式には検閲制度が取れなかったため非公式の覚え書きによっていたといわれている。検閲の実施は民間検閲支隊(略称CCD)が行っていた。この組織は将校88名以下、日本人5000名を含む総員6000名以上という大所帯であったという。
検閲内容は、占領軍の検閲指針としてあげられ(昭和21年11月25日付)、具体的には、SCAP(連合国最高司令官)に対する批判、極東軍事裁判(東京裁判)批判、SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判、検閲制度への言及、合衆国・ロシア・英国・朝鮮人・中国・他の連合国に対する批判、満州における日本人取り扱いについての批判、第三次世界大戦への言及、ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及、戦争犯罪人の正当化および擁護、占領軍兵士と日本女性との交渉、闇市の状況、占領軍軍隊に対する批判、SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及、解禁されていない報道の公表など30項目に及んでいる。
GHQにおいては、このような厳しい検閲や規制にもかかわらず、前述の指令第16号に「日本の将来に関する事項の討論の自由は日本が敗戦より世界の平和愛好国家の仲間入りする資格を有する新なる国家として出発せんとする日本の努力に有害ならざる限り聯合国により励奨せらる」(第2項)とあるように、解放後の日本における新聞の重要性が認識され、後の新聞週間行事の主役となるGHQ民間情報教育局新聞課長インポデン少佐がしばしば地方講演を行ったりして新聞普及行事の関心を徐々に高めつつあった。
このようなGHQの意向に呼応して実施に踏み切ったのは地方紙である愛媛新聞だった。昭和22年12月1日からの1週間を新聞週間と名づけて諸行事を実施した。当時「新聞協会理事会に一緒にやろうと申し出たが、アメリカのいなかの新聞のまねか、と一蹴された」という(「新しい世紀へ」愛媛新聞社社長・今井琉璃男)。しかし、愛媛新聞の週間の反響は大きく、この地方の一新聞の行事に、片山総理大臣の祝電、民間情報教育局長ニュージェント中佐のメッセージの声明などが寄せられ当時の紙面を飾っている。
さらに全国的な新聞週間の動きは、インポデン少佐と全米新聞週間委員会全国委員長カール・A・ジールケ氏により積極的に日米共同の新聞週間を開くことで提案された。前年の愛媛新聞の申し入れと異なり、全米新聞週間委員会とインポデン少佐の申し入れに新聞協会は異議なく賛成し、こうして第1回新聞週間の開催が決定された。この行事は、米国の新聞週間と合わせて10月1日から1週間とされた(現在では10月15日から1週間に改められている)。
このようにして第1回新聞週間は始まり、この年のアメリカの新聞週間に寄せたトルーマン大統領の祝辞が日本の新聞週間の紙面にも掲載される。一方、日本での第1回新聞週間の大会は東京で開かれ、芦田総理大臣祝辞、新聞課長インポデン少佐のメッセージ、民間情報教育局長ニュージェント中佐の祝辞、シーボルト対日理事会議長の祝辞などが寄せられたという。新聞週間が、いかにGHQの深い関心と関与の下に行われていたかがうかがわれる。
このような事情で、昭和23年の第1回の新聞週間は日米共同事業として行われ、米国の新聞週間標語を日本でも採用することとし、それを「日米共同標語」と呼ぶこととし、米国新聞週間標語「YOUR RIGHT TO KNOW IS THE KEY TO ALL YOUR LIBERTIES」(「すべての自由は知る権利から」)が日本の新聞紙上を飾ることとなる。一方これに対応して、日本でも標語「あなたは自由を守れ新聞はあなたを守る」が作成され、「代表標語」と呼ばれている。
この年、アメリカの新聞週間では、マーシャル国務長官が新聞週間へのメッセージを送っており、それを昭和23年10月2日付の朝日新聞がGHQ民間情報局発として「検閲は独裁への道」と見出しを付して次のように掲載している。
「今年の新聞週間のスローガン「あらゆる自由は知る権利から」こそは、まさにアメリカ政府が全世界に力強く唱道しようとしている基本的なもの、すなわち「すべての人が真実を知る自由」を高らかに宣明するものである。現在世界の総人口の半ばまでが、何らかの形で、″検閲″というものゝ下に生活している、検閲と新聞統制は独裁者が人民を屈服させるための最も重要な第一歩なのである。」
日本で検閲が行われていたにもかかわらず、である。
第2回新聞週間の大会は翌24年大阪で開かれ、マッカーサー元帥の声明、吉田総理大臣祝辞、インポデン少佐の祝辞、オモロハンド近畿民事部長の祝辞が行われた。この時の、日米共同標語は、「新聞のゆくところ自由あり」であり、一方代表標語は「自由な新聞と独裁者は共存しない」であった。
ただこれらの「自由」の意味は、全米新聞協会は兎も角、GHQの解釈は特別な意味を持っていたことが推測される。第2回の新聞週間に寄せたインポデン少佐の声明は、この「自由」が何であるかをよく示している。
「読者はまた次のことを知っている。すなわち共産主義者は日本における一切の進歩的計画を阻害し日本の精神的、経済的進歩の崩壊を図り政治的秩序と責任を破壊しようとしていること、また全体主義的独裁のもとに日本国民を奴隷化しようとしていることをよく知っている。」
「勇敢で正直、誠実で有能な教養ある日本の民主的新聞の編集者たちは今後とも日本が自己に目覚めた状態から再び冷笑的で残酷な警察国家の水準に逆行することをたえず防止するものと私は考える、自由な新聞は圧政の大敵である、共産主義へののろいであり、独裁者に対するノミ取粉である。」(昭和23年10月2日「日本経済新聞」)
正しく「自由」とは「反共」であった。もちろん、新聞週間当事者の各種の声明にあらわにそれが語られていることはないが、当時の新聞紙面にはいわゆる赤狩り記事が溢れており、建前のメッセージに対し、それに対するコンテクストは新聞を読めばすぐ分かったと思われる。
昭和25年の米国の新聞週間標語は「自由の国民に真実を告げる米国の新聞」だった。さすがにこれは日米共同標語には採用されなかった。日本の新聞週間推進者はびっくりしたことであろう、まるで米国の枠組みの下で日本の新聞週間ができたことが歴然としているからである。こうして、日米共同標語は再び登場することがなくなり、日本側の新聞週間代表標語だけが掲げられることとなる。因みに、新聞週間そのものも米国では衰退していった。
日米共同標語の終了とともに「自由」の宣伝から新聞は解放されたようだ。そして昭和26年にサンフランシスコ講和条約が締結され、昭和27年4月28日、多くの問題を抱えたポツダム勅令は失効した。
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