2013年3月1日金曜日

文体の変化【テーマ:「揺れる日本」より①】/筑紫磐井

角川書店から「俳句」が創刊された27年6月から1年余、角川源義から編集を引き継いだ大野林火が満を持して行った特集は、「俳句と社会性の吟味」(28年11月)であった。ただこの特集はあまり大きな反響を呼ばず(赤城さかえの『戦後俳句論争史』では後年これほど有名となった特集が、当時の論壇では一切批評を受けていないと述べている)、やがて1年経った頃、大野は社会性俳句と密接に関連する特集を再び企画する。それは、「揺れる日本――戦後俳句二千句集」(29年11月)で、戦後の政治社会風俗を項目分けして各誌に掲載された例句2000を集大成したもので、個々の作品の価値はさておき、時代を強烈に写した俳句はインパクトがあった。編纂は、楠本憲吉、松崎鉄之介、森澄雄が行っている。翌月はこれを受けて、三人と石原八束、沢木欣一の座談会「戦後俳句二千句集を前にして」(29年12月)が行われた。

これに呼応し、当時現代俳句協会の若手作家を網羅していた金沢の同人誌「風」が、同年11月号で同人24人にアンケート「俳句と社会性」を行い、特集に参加した金子兜太が「社会性は態度の問題である」と発言して以後、社会性問題は大きく広がっていった。

我々が、戦後の俳句運動を「社会性俳句」とすぐ呼べるようになるのは、こうした経緯があったからである。風の作家たちの社会性俳句がどちらかといえば理論だおれとなっていたのに対し、「揺れる日本――戦後俳句二千句集」は作品だけで社会性を示したものであり、二つを比べ見ることによって社会性の意味もはっきりとしてくる。「揺れる日本――戦後俳句二千句集」を私が「個々の作品の価値はさておき」といったのは、実は社会性俳句そのものが「個々の作品の価値はさておき」というべきであったからであるからかもしれない。

そもそも、「揺れる日本――戦後俳句二千句集」という特集企画そのものが、戦前の改造社で山本健吉が行った、戦争俳句集成の「支那事変三千句」(13年11月)、「支那事変新三千句」(14年4月)、「大東亜戦争俳句集」(17年10月)、「続大東亜戦争俳句集」(18年10月)に倣ったものであったろう。その意味では一種のイデオロギーにとらわれた作品群かもしれない。しかし、マスとしての塊はそれ自身ある価値を生み出すことも間違いない。以下では、この「揺れる日本――戦後俳句二千句集」を項目別に見てゆくことによって、戦後の文体の発見ができるかもしれないと思うのである。

今回はその一例をあげておこう。戦後の特徴といえば、終戦後の経済・社会・文化の混乱と戦争に対する反省ということになるであろうか。既に日本は軍備を持たなくなっていたが、警察予備隊等のきな臭い話題があったし、戦後明かされる戦争の悲惨さは戦中よりはむしろ戦後の方が衝撃的であったかもしれない。

その一つに原爆がある。「揺れる日本――戦後俳句二千句集」では原爆をどのように取り上げているであろうか。

戦後の夏にちなむ季語といえば終戦忌と並んで原爆忌は代表的なものである。追悼集会や慰霊祭等が実施され、今もって原爆忌の句はたくさん詠まれている。

(原爆忌)
原爆忌生きて麦湯の冷えすする 曲水  26・11 田口宗吉
原爆忌無花果天に乳垂るる   同   27・11 加藤夫一
小説は義経ばやり原爆忌    同   27・12 佐野青陽人
原爆忌赤茄子腐れ光りけり   俳句  27・12 新山花
原爆忌根元干割れて向日葵立つ 浜   27・12 三上江雪
原爆忌蝉びつしりと樹の色に  道標  28・8  今井一介
向日葵が花頭捧ぐる原爆忌   俳句   同    榎本冬一郎
炎天一握の骨でありしよ原爆忌 寒雷  28・9  寺坂初子
原爆忌一樹の裏に月育つ    氷原帯 28・10 奥村比余呂
原爆忌たたずみ遺族めきにけり 浜   28・10 吉波曾死
原爆忌母の信も十全ならざりき 俳句  28・10 中村草田男
平和像霊と涼しく原爆忌    雲母  28・10 池田螢都
原爆の日の泉面に顔浸けて   俳句  28・12 平畑静塔
原爆忌我が臍の緒も焼けにけり 曲水  29・1  大塚麓
墓折れしままの九年や原爆忌  青玄  29・8  赤尾山稜

これがすべてである【注】。ほとんどが現在に名前も遺していない作家であるのは、時代の移ろいの激しさであるのだろうか。一方、中村草田男や平畑静塔だからといって決してこの種の俳句は優れているわけではない、むしろこの中では、田口、佐野、寺坂、奥村などの句の方が実感が湧くような気がする。そしてまたこんな内容の句が、「寒雷」や「道標」ならともかく「曲水」や「雲母」「浜」にも見えるのは時代を感じさせる。

ところで今の人にしてみれば、何の違和感もないかもしれないが、注意すべきは、出典に並んだ日付である。何故昭和26年以降なのか、20年から25年までの原爆忌の句は掲げられていないのか。

実は昭和25年サンフランシスコ条約が結ばれ、駐留していた米軍が撤退し、それまでひそかに行われていた新聞・雑誌・ラジオの検閲がなくなってから初めて原爆忌の句は登場するのである。特に、昭和29年、ビキニ沖のアメリカの水爆実験で多量の放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴び久保山愛吉氏が死亡する事件(第五福龍丸事件)は原爆忌の句を噴出させた。

悲惨な事故があり、それを悼む心情があれば俳句は詠めるのか。いやそんなことはない。悲惨な事故を知らしめなければそうした俳句は詠めない。知ったとしても、あらゆる媒体で検閲を行い、新聞・雑誌・ラジオといった場で表現する自由を奪われれば、やはりそうした俳句は詠めないのである。

(あまりにも素朴な質問であるが、なぜアメリカの進駐軍が検閲を行ったのか。それは原爆があまりに非人道的であり、それを日本人やアメリカの国民に知らせたくなく、また日本の周囲の親米国に知らせたくなかったからである。あるいは、アメリカが非人道的であるというソ連や中京の宣伝に材料を与えたくなかったからである。検閲の張本人GHQが日本の新聞協会に勧めた新聞週間の標語は「自由な新聞と独裁者は共存しない」であった。何と滑稽なことであったことか。)
この特集の原爆忌の句を見るたびに、敗戦によって自由を失った国の姿を思い起こさないではいられない。戦争をする(戦争をして負ける)ということは、ものを失ったり命を失ったりすることだけではない、心を失うということでもあることがよくわかる。

以下、心の混乱した時代の文体の変化を眺めて行きたい。



【注】この項目は、以下(ヒロシマ「広島」)(原爆地)(原爆症――ケロイド)(原爆展――原爆図)(原爆記念館)(原子爆弾――原子雲)(死の灰――原子禍)(水爆)(放射能――ガイガーカウンター――福竜丸)と続く。

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