これに対して、「春興帖」は(歳末はなく)歳旦・春興が中心である。近世以来、歳旦帖より春興帖が一般化した(歳旦帖と春興帖を併せて春帖という)。
蕪村には春興帖、春帖が多く、特に歳旦吟を含まぬ純粋な春季帖を発案した。明和8年(1771)に『明和辛卯春』、安永3年(1774)に『安永三年春帖』、安永4年(1775)に『安永四年春帖(安永俳句集・内題安永乙未歳旦)』、やがて安永6年(1777)に『夜半楽』と名づけられた俳壇史上著名な春興帖が刊行される。『夜半楽』は、蕪村発句による歌仙1巻、蕪村門による春興雑題43句、蕪村作の「春風馬堤曲」「澱河歌」「老鶯児」からなる。日本における自由詩の源流として多くの詩人たちの注目を浴びた、春気駘蕩たる「春風馬堤曲」もこの中に収められているのである。あまり論じられることがないが、春興帖という環境がなければ「春風馬堤曲」は生まれなかったのかもしれない。
○やぶ入りや浪花を出て長柄川
○春風や堤長うして家遠し
○堤ヨリ下リテ芳草ヲ摘メバ荊ト棘ト路ヲ塞グ
荊ト棘ト何ゾ無情ナル 裙(くん)ヲ裂キ且ツ股(こ)ヲ傷ツク
○渓流石点々 石ヲ踏ンデ香芹ヲ撮ル
多謝ス水上ノ石 儂(われ)ヲシテ裙(くん)ヲ沾(ぬ)ラサザラシム
○一軒の茶店の柳老いにけり
○茶店の老婆子(ろうばす)儂(われ)を見て慇懃に
無恙(ぶよう)を賀し且(かつ)儂(わ)が春衣を美(ほ)ム
(以下略)この春興帖を刊行するにあたり、蕪村はただならぬ努力をしている。それをうかがわせる手紙があるので、要旨を抜粋して示すことにしよう。
<私(蕪村)は春興帖(『夜半楽』)を準備中です、そこで、梅・鶯・柳・春風・朧月・蛙・霞・凧、その他春季の題いずれでも結構ですので、発句を一、二句ご案じいただき、出句してください、至急お願いします、お出来にならない場合は、お二人の名前で私が代作して加入させますので、その旨ご了承下さい。その理由は、お二人とも名家でいらっしゃるので、お名前を出していただくことにより、我が結社(夜半社)の評判も上がろうというものです。いやでもおうでも、お引き受け下さい。>
宛名は、山脇東洋の孫山脇玄沖と越後屋で有名な三井一族の三井高典とされ(林進氏調査による)、たしかに名士ではある。かなり強引な恫喝であるが(私の歳旦帖、春興帖の依頼状によく似ている)、それだけこの企画に蕪村が熱心であったということである。
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また、天明2年(1782)の『花鳥篇』は春興帖として企画したものだが、時期を失して夏の時鳥の連句を入れて春・夏興帖として刊行したもの【注】。前半の春興帖である「花櫻帖」は文字通り春興を尽くした発句集(85句)だが、特に門人・知友だけではなく歌舞伎役者や芸妓など華やかな職業の者が句を寄せている。後半の夏興帖は宗因の句を発句とする歌仙と歌舞伎役者中村慶子の描いた時鳥の絵である。そして、春興と夏興の間にはさまれたのは大阪の芸妓梅が蕪村の相方小糸に対する恋のさやあてをするという発句に始まる連句(12句)で、脇以後も恋の句、恋の句、恋の句と続く。(表には恋の句を出してはいけないという)式目に反する異常な連句であり、異色の構成となっている。「春風馬堤曲」以上に俳人たちが呆れたにちがいない不埒な句集で、後日、七部集本では俳諧の手本にふさわしくないと削除されてしまっている始末である。
このように見ると、蕪村七部集を構成する『其雪影』『あけ烏』『続あけがらす』『五車反古』などが正統的な蕪村一門の句集(それらは門人たちの編纂)であるのに対し、上の春興帖にかかわる著作が、すべて蕪村自らの企画・編纂、版下まで蕪村直筆で書いたのとあまりにも対照的であることがよく分かる。つまり、蕪村の個性は立派な句集の方ではなく、春興帖にこそうかがわれるのである。
春興こそ蕪村のエネルギーであり、近代俳句の源流であったことに思いをいたし、平成の新風は春興帖に起こるべしと宣言して、この平成25年春興帖を始める次第である。(蕪村の手紙ではないが)諸名士の賛同を乞う由縁である。
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(追加)正岡子規は、明治となって蕪村の『新花摘』を曲解し、「一題十句」という新しい詠法を発見してしまった。この「一題十句」という明治の俳句の新詠法により、
鶏頭の十四五本もありぬべし 子規
帚木に影といふものありにけり 虚子
古き芸術を詠む
行春のただ照り給ふ厨子の中 秋桜子
蟲界変
かりかりと蟷螂蜂の㒵を食む 誓子
等の近代の名句が誕生したのである。私の春興帖の誤解から新しい俳句の流れが生まれればこれに過ぎる喜びはない。
【注】『花鳥篇』は最近の俳文学会において論争が行われ脚光を浴びている句集である(「連歌俳諧研究」116,117,122号の深澤了子、田中道雄、玉城司など)
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