2021年2月12日金曜日

【篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい】7 次のステージのための「火」へ 篠崎央子『火の貌』を読む  なつはづき

 初めてその人に会った時、一番印象に残るのが「顔」だ。
 アメリカで活動する心理学者のアルバート・メラビアン氏によると、人の第一印象は見た目が55%、なのだそうである。いや、9割だ、という意見もあり、とにかく人の印象は見た目による。わたしが篠崎央子さんを見た印象は「おだやか」だった。柔和な表情を浮かべた方だなあ、と思った。しかし、届いた句集のタイトルを見て、どきっとしたのだ。一瞬、ご本人とタイトルが重なり合わなかった。もちろん、第一印象だけで本人を決めつけてはいけない。きっとどこかに「火」を隠しているに違いない。そう思いながら、ページを捲り始めた。

 火の貌のにはとりの鳴く淑気かな  央子

 タイトルはこの句から取ったものだ。鶏であったか…。
 「朝という刻を告げる鶏は、火のような形相を持つ。」とあとがきで篠崎さんは言う。でも、どうしてもこのタイトルが「鶏の貌」だけではない、そんな気がしていたのである。同あとがきで「『万葉集』が沢山の恋の歌を残しているように、あの頃の私もまた、果敢に恋の句に挑戦していた」とある。そう、恋こそが人の顔を「火の貌」にするに違いない。

 逃水や恋の悩みを聞くラジオ
 雁渡しノートの隅の三行詩
 ばい独楽の弾けて恋の始まりぬ
 恋の数問はれ銀杏踏みにけり
 葉牡丹の紫締まる逢瀬かな
 貝殻のやうな耳ありひめ始


 これらの句は「恋」という文字が出てきたり、一読して恋の句だろうな、という察しが付く句である。ここに彼女の「恋の貌」がある。笑っていたり、泣きべそだったり。しかし恋とは古来隠すものである。隠すからこそ燃える恋もある。

 虫の夜の舌荒るるまで飴を舐め

 わたしにはどうしても「恋の句」としか思えなかった。だからご本人に「恋の句では?」と書いて送った。返事に「恋の句と解釈して下さったのは、はづきさんが初めてです。」と・・・。他の方はそうは見えなかったようだ。
 いったいどれだけの飴を舐めたのだろう。飴と言う小さなもの。恐らくそれは短い言葉なのかもしれないし、恋している相手のちょっとした仕草なのかもしれない。そういうものをひとつひとつ思い出し、反芻し、溶けてなくなるまでかみしめる。そしてそれが終わるとまた別の「飴」を取り出し、ああでもないこうでもない、と思いながら味わい尽くす。いくら舐めても何かが足りない、どこかが満たされない。少しの幸せを少しずつかみしめているうちに、だんだんと心が麻痺する。荒れてくる。疑いも生じてくる。そんな秋の夜。そう思ったら、「実物の飴」なんて舐めていない気にすらなる。
 
 肩触るる距離落椿踏まぬやう
 ネックレスの不意に重たし夏の鴨
 ハンカチを出すたび何かこぼれゆく

 
 ハンカチを出す、とは単に手を洗った後だとか汗を拭うため、という現実的な所作の事ではない気がする。デートでの食事の時に膝に広げるために出すハンカチ、相手の頬を拭いてあげるために出したハンカチ…各シチュエーションでハンカチを出す度に、何かがこぼれてしまう。自分の思い、秘めた恋心がぽろりと溢れ出すのである。

 あひづちを少し変へたる野菊かな

 素朴で愛らしい笑顔を持つ篠崎さんが、ふっと相手への相槌を変える。思わせぶりな口調なのかもしれない。そっけないのかもしれないし、妙に艶っぽい口調かもしれない。とまれ、相手に「あれ?」と思わせるテクニックを使う。もう純情なだけの少女の口調ではない。

 こうやって恋の句を句集の中から探す作業をしていて、ふと気が付く。ある一定の時期を境に、はたと「いわゆる恋の句」が見当たらなくなる。句順が制作順に並んでいるかどうかは定かではないが、どうやら「夫」が句に登場した頃から少し様相が変わってくる。

 浅利汁星の触れ合ふ音たてて
 風のごと夫に寄り添ひ水芭蕉
 花ミモザ夫ていねいに皿洗ふ


 ミモザの花は明るい花を空いっぱいに咲かせる。それは包容力の表れでもある。夫の事を「お腹を壊す時も歯痛になる時期も一緒。こんなにも馬が合う夫と巡り逢うなんて、私は、前世でかなり良い仕事をしたのだろう。」と述べている。ていねいにお皿を洗うのは夫であり、篠崎さんだ。そこに家族の平和がある。
 すばらしき伴侶を得、身を焦がすような恋心の句はもう作らなくなってしまったのか、否、視点を変えて恋の句は続いていく。

 初雪の裾より濡るる恋の絵馬
 狐啼く春画の唇の燃えてをり
 職業は主婦なり猫の恋はばむ


 当然、この絵馬を書いたのは篠崎さんではない。誰か解らぬ人の絵馬にそっと心を寄せたり、春画の半開きの唇を見て恋の不確かさに眉を顰めたり、貞淑な妻が自由奔放な猫の恋を嗜めたり、形を変えて句の中に恋は残り続ける。恋を傍観するものの貌として。
 傍観者の恋の句が出てきたころから、介護の句が見られるようになる。

 新しき巣箱よ母を引き取る日
 熱帯魚眠らぬ父を歩かせて
 かなかなの風に雨意あり母の鬱
 いくたびも名を問ふ父の夜長かな
 魚の皮残す家族よ秋の虹


 義理の父母の介護である。恐らく自分の家族との違いに戸惑い、苦労もあっただろう。夫をはじめこの血族は魚の皮を残すのである。ああそうか、皮って食べないのだな、皿に残った皮を眺めながら、皮を残さない自分の皿を見る。ささやかな疎外感。秋の虹のようにすぐに消えてしまうのだけれど。
 
 うなづくも撫づるも介護ちちろ鳴く
 父に似るじやがいも抜かりなく洗ふ
 母がため飯食ふ父よ鷹渡る


 それでも愛情を持ち、ご両親に接していたのだろう。そこには力強く献身的に介護をする篠崎さんの貌が見て取れる。家族に対する湧き上がるような気持ちがあっての事である。望郷の念があったであろう両親の為に、丁寧にじゃがいもを洗う。きっと北海道産のじゃがいもであろう。何を作って差し上げたのか。

 篠崎さんの様々な「貌」を句集から見て取って、タイトルになったあの一句をもう一度ここで読み直してみる。「朝という刻を告げる鶏は、火のような形相を持つ。」朝とは時間的な事のみではなく、次のステージの始まり、とも思える。その時その時の新しい局面、それに向かっていくときの貌、それが「火」なのだろう。恋もそう、夫婦の新しき暮しもそう、夫の親の介護もそう、ひとつひとつのステージに全力で取り組むときのその貌こそが「火」なのだ。体の中から湧き上がるその熱き思いが顔に現れる。
 第一句集を上梓し、次のステップへ向かう篠崎さん。一月の終りにこの『火の貌』で俳人協会新人賞を受賞されたというニュースが飛び込んできた。心から御礼を申し上げたい。
この句集を手にした時に感じた「ただならぬパワー」が確信に変わった瞬間でもあった。この受賞をきっかけに恐らく一段とギアを上げて来るに違いない。次はどんな「火の貌」で俳句を作って行かれるのか、楽しみで仕方ない。

 寒牡丹鬼となるまで生き抜かむ  央子

なつはづき
横浜市在住
「青山俳句工場05」「豈」所属 超結社「朱夏句会」代表
第36回現代俳句新人賞 第5回攝津幸彦記念賞準賞
『ぴったりの箱』朔出版(令和2年6月刊行)

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