2013年7月26日金曜日

三橋敏雄『真神』を誤読する 84. 天地や揚羽に乗つていま荒男/ 北川美美


84.天地や揚羽に乗つていま荒男
(『詩客』 2011年09月09日掲載 戦後俳句を読むテーマ「夏」に掲載したものを加筆修正。)


揚羽に乗っているのは誰なのだろうか。一寸法師サイズの男、あるいは、一寸法師サイズの魂になった作者が考えられるのであるが。

まず、御伽話の「一寸法師」を想像してみる。鬼から姫をお守りした一寸法師は小槌の魔法で立派な青年になり姫と夫婦になれた。ところが、倉橋由美子の『大人のための残酷童話』―「一寸法師の恋」ではタイトル通り残酷な続きがあり、昔話の落としどころ、本命という印象がある。その内容とは、姫は夫である一寸法師の肝心な急所が一寸法師であることに満足できず、姫は「一寸法師!」と罵り、小槌で叩きあう夫婦喧嘩に発展する。互いに小槌を振り回し、二人は、またたくまに塵ほどの大きさになったという結末である。

そうなのである。上掲句は、残酷童話の後の一寸法師を詠っているように思えた。姫の支配下から解放され、悠々と空を羽ばたいている一寸法師を想像する。だから「いま荒男」なのである。

揚羽が浮遊する魂を天界に運ぶ役割があることを思う。一寸法師は、『御伽草子』の登場人物であるが、『眞神』には一寸法師サイズ、生を受ける前の作者「僕」の視点で詠まれている句があるのだ。

霧しづく體内暗く赤くして 
産みどめの母より赤く流れ出む 
身の丈や増す水赤く降りしきる 
肉附の匂ひ知らるな春の母

そして、上掲句を含む現世では存在していないと思える謎の「僕」の視点は母への思慕、エロスへとつながる。

秋色や母のみならず前を解く 
夏百夜はだけて白き母の恩 

さて、「天地(あめつち)や」について思うのは、『眞神』の世界観、哲学ともいえる宇宙である。新天地を求めて旅立つ男、どこか虚子の有名句「春風や闘志いだきて丘に立つ」と意を同じくするような印象がある。

そして「荒男(あらお)」は万葉の言葉であり、「荒々しい男。勇猛な男。あらしお。」(デジタル大辞林)という意味。「荒男(あらお)」を駆使できるのはやはり戦前に生を受けた世代の教養の差なのだろうか。

白泉に荒男の句がある。

この子また荒男に育て風五月   渡邊白泉

そして随筆であるが、明治~昭和の登山家・随筆家の小島烏水の『梓川の上流』に「北は焼岳(やけだけ)の峠、つづいては深山生活(ずまい)の荒男(あらしお)の、胸のほむらか、硫烟の絶え間ない硫黄岳が聳えている、…」と荒男(あらしお)が雅やかに登場する。

小島烏水の文章からは、「荒男」が荒々しいというだけでなく、山という神が宿るところに対峙する勇気ある男、神聖な性というものを感じるのである。

蝶に乗るのは女とは限らない。たったいま揚羽に乗った男、「いま荒男」は、一寸法師改め、宇宙に存在する生まれてこなかった赤子のたましい、死児の視点を描いたように思える。『御伽草子』の一寸法師も元々は水子、あるいは死児の話という節もある。古事記にみるような神話的なものがやはり文芸創作の原点なのでは、と妙に納得してしまう。

テレビアニメ「まんが日本昔ばなし」の冒頭の男の子は、龍に乗っていたけれど、揚羽に置き換えて絵を描き変えたい気分になる。上掲句から思う異界の一寸法師的視点はそう間違っていないように思えるのだが、はたしてどうなのだろうか。





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