2013年7月26日金曜日

ゆく水のひかり――永田耕衣の世界  / 池田瑠那

泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む

舞台はおそらく農村の、沼か、池か。水底から浮かんできた泥鰌が、「鯰も居る」とだけ言ってまた沈んで行く。泥鰌のゆったりした動きが目に浮かび、また泥鰌が人語を話すことを読者に何の違和感もなく受け入れさせる雰囲気を持った句である。

掲句は耕衣俳句の中でも親しみやすい句、ユーモラスな句として知られる。しかし私は、「何故、鯰は出てこないのだろう?」と気になって仕方ない。読者は「鯰も居る」とだけ言われ、いわば思わせぶりをされて、じっと水面を見つめることになるではないか。だが話題の鯰はいっかな姿を現さないのである。

耕衣には、鯰の絵が多い。耕衣の描く鯰は眉と鼻筋を持ち、人間に――いや、はっきり言ってしまえば耕衣自身に、似ている。とすると泥鰌のこの発言は、耕衣に「自分自身も知らない自分が、この水の底に居るよ」と伝えているとは取れないか。しばしば「宇宙的自己解消」への憧憬をいう耕衣の作品に、こうした分析的眼差しを向けるのは不適当であるかも知れないが、今回は敢えて試みてみたい。

深層心理学の世界では、人間の心は意識と無意識に分かれており、意識の中心となっている「自我」のみを通常「自分」と認識しているという。しかし実際には、生存のための本能エネルギーが渦巻く無意識下の領域の方がはるかに広く、自分が自分だと思い込んでいる「自我」は、心の中のほんの僅かな部分に過ぎないのだという。

水面下(何やらこれも、「無意識下」の喩のような響きだが)、に居るという「鯰」はどのようなものか。鯰にまつわる伝承といえば、地下に棲む大鯰が暴れることで大地震が起きるというものが有名だが、一方で琵琶湖の竹生島にある竹生島神社には、鯰が龍に変身して島と神社を守護するという縁起(言い伝え)があるという。いずれにしても人智を超えた莫大なエネルギーを思わせる存在であり、日頃人間が心の底に沈めている、本能エネルギーのイメージとも相通ずる。

「鯰も居る」と一言言い残して泥鰌が沈んでいった、その水輪も忽ち消え、静まり返る池の水。その水面を見つめても、見えるのは水に映った自分自身の影ばかり、だが確かに感じられる――池の底に「居る」鯰の気配、自分も知らない自分の気配。(昭和39年刊『悪霊』より)





《参考ウェブサイト》



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