2023年11月10日金曜日

【抜粋】〈俳句四季10月号〉俳壇観測249 前衛の軌跡と終焉——澤好摩と岸本マチ子  筑紫磐井

(今回は1回飛ばして、249号を紹介する。別に澤好摩追悼記事を掲載するためである。)

澤好摩と前衛論争

 澤好摩氏が7月7日に亡くなった。東北への旅行の途次に遭遇した事故によるものであり、七九歳はまだまだ活躍が期待される年齢であった。

 略歴によれば、昭和19年東京生まれ。38年に東洋大学の俳句研究会に入り、「いたどり」「青玄」「草苑」に所属、昭和44年に坪内稔典、攝津幸彦らと同人誌「日時計」を創刊した。昭和46年に「俳句評論」に同人参加し、高柳重信に師事。高柳重信編集の総合誌「俳句研究」の編集事務に長く携わる。重信没後、昭和60年「俳句研究」が角川書店系の富士見書房に転売後、伝説の名雑誌「俳句空間」(書肆麒麟)を創刊する(5号で終了。その後大井恒行の弘栄堂書店に発行を譲っている)。句集には『最後の走者』『印象』『風影』『光源』『返照』があり、『光源』では芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。その他に『高柳重信の一〇〇句を読む』がある。

 私が澤氏と知り合ったのは、攝津幸彦や大井恒行と「豈」の活動に参加してからだった。従ってそれ以前の澤氏のことは攝津幸彦から聞き伝えるところが多かった。しかし、それはまさにいわゆる前衛派の若手作家たちの大爆発であり、その中心に常に澤氏がいたのだった。前述の同人誌「日時計」はやがて、澤好摩の「天敵」、大本義幸・坪内稔典・攝津幸彦の「黄金海岸」に分かれ、さらに「天敵」は「未定」に、「黄金海岸」は攝津幸彦の「豈」と坪内稔典の「現代俳句」となった。特に「未定」は澤好摩、夏石番矢、池田澄子、糸大八、今泉康弘、宇多喜代子、江里昭彦、志賀康、高橋龍、高原耕治、高屋窓秋、豊口陽子、仁平勝、林桂、山田耕司という錚々たる顔ぶれを擁していた(「未定」は2016年に終刊している)。同人誌によりこうした顔ぶれをそろえたことこそ、澤氏の戦後俳壇における大きな貢献であったと思う。ただ澤好摩自身はその後「未定」から離れ、1991年「円錐」を創刊した。近く創刊一〇〇号を迎えると聞いていただけに澤氏の逝去が惜しまれるのである。

 澤氏とは親しくしていただいたが、一度猛烈な批判を受けたことがある。時評風な発言の中で、「円錐」「未定」「豈」などを前衛系と評したことに対して、「円錐」の時評で前衛など存在していない、自分たちは俳句のあるべき姿を模索しているだけだと批判している。伝統と前衛を超克している立場の澤氏の考え方は理解できるが、それでも「未定」「豈」「鬣」「LOTUS」「円錐」がしばしば前衛の現状を語るときにグルーピングされる現象が存在してしまうことも否めないのだろう(「俳句四季」令和4年4月号「前衛俳句とは何か」で堀田季何氏が同じグルーピングをして揶揄的に語られている)。

 そして何より事実、芸術選奨文部科学大臣賞では澤氏の受賞理由に「伝統を踏襲する姿勢とは一線を画し、新興俳句と前衛俳句の流れを汲む作風は、ここへ来て伝統でも前衛でもない、誰も踏み込んだことのない境地へ突き抜けた」と掲げられたことによりこの問題を再考する必要が生まれた。

 その後氏が発行人を務める「円錐」64号・65号(26年1月・5月)で、「今さらながら前衛を語る」を特集し、澤氏自身が「前衛俳句運動」と「前衛」の違い、高柳重信、攝津幸彦、「新撰21」の若手たちの違いを論じている。澤氏の俳句に対する真摯さをよくうかがわせるものであった。この特集は今でもぜひ読み返す必要があると思っている。

 以後あまり澤氏と論じてはいないが、このことを今でも強烈に思い出すのである。


やがて死ぬ景色に青きみづゑのぐ『風影』

鯨ゐてこその海なれ夏遍路   『光源』

花篝嵩減るたびに散る火の粉

水葬や花より淡く日が落ちて

想ふとき故人はありぬ遠白波

猪鍋は丹波にかぎる月夜かな『返照』

(以下略)