2014年8月29日金曜日

こもろ・日盛り俳句祭 シンポジウム・レポート「字余り・字足らず」 / 瀬越 悠矢 


今年で第6回を数える「こもろ・日盛俳句祭」。2日目にあたる8月2日に催されたシンポジウム「字余り・字足らず」について、ここではその概要を記したい。

登壇は筑紫磐井を司会に、井上泰至、櫂美知子、岸本尚毅、島田牙城の五氏。まずパネリスト四氏が自身のレジュメをもとにそれぞれの意見を述べ、次いで筑紫氏が主張の相違を論点ごとに各氏に問い、最後に会場からの質問に登壇者が応じるという構成である。


登壇者:井上泰至、櫂未知子、岸本尚毅、島田牙城
司会:筑紫磐井


なおこのような進行の形式上、司会である筑紫氏の見解が壇上において述べ尽くされたとは言い難いが、これについては2014年6月27日の記事に詳しいので、合わせて参照されたい。それでは以下、当日の発言順にパネリスト各氏の主張を見ることにする。

島田氏はまず韻文と律文を区別し、律文としての俳句を重視する(ここで「韻」とは〈類似する音の反復〉、「律」とは〈生起する音のリズム〉と解されよう)。そしてこの前提に立った上で、「五七五」が定型、「六八六」が字余り、「四六四」が字足らずといった概念自体が疑問に付される。たとえば、

招かざる薄に帰り来る人ぞ  夏目漱石
という句を披講する際に、〈招かざる/薄に帰り/来る人ぞ〉と「五七五」を意識したのでは句意が不明瞭となるため、これはむしろ〈招かざる/薄に帰り来る/人ぞ〉と読むべきであるという。〈一月の川一月の谷の中〉(飯田龍太)など、同種の例は枚挙にいとまがない。

脱いで丸めて捨てて行くなり更衣  夏目漱石
あるいはこの句の場合、「七七五」を〈脱ぎ丸め捨てて行くなり更衣〉と「五七五」に改作(改悪)することはたやすいが、「脱いで丸めて」の七音を五音分の時間に短縮することで生じる、「捨てて行く」という慌ただしい動作のより鮮明な印象を優先すべきである。

俳句の律文としての性格が「字余り・字足らず」に先立つ(ただし、これは俳句の韻文としての性格を否定することを意味しない)という主張から、島田氏の議論はさらに俳句の朗読にいたる。「句調はずんば舌頭に千轉/千囀せよ」(『去来抄』)という記述を「千轉」よりはむしろ「千囀」、すなわち〈千回まろばせる〉よりはむしろ〈千回さえずる〉という意に解する可能性に言及した上で、俳句を声に出すことの重要性を説く。俳句の朗読会「朗読火山俳」を主催した氏の卓見と言えるだろう。

  日は永し三十三間堂長し  夏目漱石
この句にも実際には一音分の字余りが生じているが、朗読するとさほど気にはならないという氏の言にも頷ける。「舌三寸のさえづりを以て、現世は安穏にして後生善所に到り候ふもみな舌頭のわざなり」(『伊曾保物語』)や、波多野爽波が弟子に「舌に載せて口ずさんで読む」ことを説いた例などを紹介しつつ、「字余り・字足らず」に不可避的に関わる朗読という問題を提起した。

岸本氏は、高浜虚子の句から「改作後に字余りになった例」および「改作で字余りが解消した(字余りの程度が減じた)例」を取り出し、仔細な分析を加えた。前者の例としては、

○雨にうたれて落る火もある螢かな
 雨にうたれ落る火もある螢かな 
○秋の何のといふことなしに東向く
 秋などといふこともなく東向く 
○古家のキヽキヽと鳴るにや籐椅子鳴るにや
 古家のぎゝと鳴るかや籐椅子かな

などがある(いずれも○を付した方が改作後と考えられる)。第一句では動詞のやや性急な連続が「うたれて落る」と一呼吸置くことで解消し、第二句では「秋の何の」とあえて音数を増すことでくつろいだ気分が生じている。第三句は大胆な字余りによって、一句が大きな説得力を獲得していることが明白であろう。一方、後者の例については、

 ○これよりは恋や事業や水温む
  これより後恋や事業や水温む 
○まつしぐら爐にとび込みし如くなり
 まつしぐらに爐に飛込みし如くなり 
○梅を持ち破魔矢を持ちて往来かな
 梅を持ちて破魔矢を持ちて往来かな

などが挙げられる(同じく○を付した方が改作後)。第一句における「後」の字は確かに余計であり、ほぼ異論のない推敲と言えよう。また第二句は、「まつしぐら」とした方が動作の勢いを表現するのに適している。これらに対して第三句は、「持ちて」という響きの連続も捨てがたく、句のリズムに配慮するならば、あるいは改作前の方が優れていると言えるかも知れない。

一連の指摘から、岸本氏は次の二点について注意を促す。一つは、律文が必ずしも「五七五」の音数とは限らず、むしろ俳句のリズムとは(とりわけ声に出して)読むことにおいて知覚されるものではないかということ。もう一つは、「字余り•字足らず」はあくまでも関連する問題系の一部であり、季題や切れなど他の要素も考慮した上で最適の字数を判断すべきゆえ、「字余り•字足らず」を単独で考察することには限界があるのではないかということである。いずれも正鵠を射たものであり、とりわけ後者は今回のシンポジウムの主題にかかわることからも看過することはできない。

櫂氏は主に自作の句を題材に、「字余り・字足らず」の可否を論じる。氏の基本的な立場は、上五および下五における音数の変化には(それがやむを得ない場合には)比較的寛容である一方で、中七においては相当の根拠がない限り認められないというものである。

水鉄砲をゆづりたくない夜もあり 
鯛焼のまんまんなかをください 
推敲の過程において、「五七五」を優先した助詞の省略は常套手段と言えるが、音数に固執するよりは助詞を維持する方が賢明な場合もあり、第一句はその一例である。初句末の「を」は不可欠であろう。また六音の「水鉄砲」は、それ自体が初句では字余りをもたらすものであり、字余りの問題が季題の扱いにも関連していることが確認される。一方、第二句は今回のシンポジウムにおいて数少ない字足らずである。仮に終助詞を加えて「くださいな」などと調整すれば、句の魅力は半減するだろう。

このように、状況に応じた判断が求められることをひとまず認めた上で、より自由度が低いとされる中七についてはどうだろうか。櫂氏によれば、中七における字余りが許容されるのは、それを違和感なく読むことができる場合であるという。

麦秋の中なるが悲し聖廃虚  水原秋櫻子 
春ひとり槍投げて槍に歩み寄る  能村登四朗

第一句では巧みに用いられた中八が、荘重な景を生みだす効果を生んでいる。第二句では「槍投げて」の「て」は必要であり、この一音が動作の締まりのなさ、和やかさを描出している。違和感のない中八については次に示す氏の句も同様であろう。上五および中七の字余りも不自然でなく、特徴的なリズムを獲得している。

春は曙そろそろ帰つてくれないか

さらに氏は句またがりについても言及し、意味上のまとまりを強く意識する披講は、ややもすると定型という俳句のアイデンティティを逸し得、また句またがりの効果はむしろ違和感を創出する点に存することから、「五七五」の切れ目が一定程度認識できるように読むべきではないかと問うた。

井上氏は、別宮貞徳『日本語のリズム 四拍子文化論』(ちくま学芸文庫, 2005)をもとに、「五七五」の「八音四拍子」性を指摘する。一音につき八分音符一つ(○)を割り当て、二音で四分の四拍子の一拍と数えた場合、たとえば、〈ナツ・クサ・ヤ/ツハ・モノ・ドモ・ガ/ユメ・ノ・アト〉は〈○○・○○・○●・●●/○○・○○・○○・○●/○○・○●・○○●●〉と表される。七五調が四拍子であることを認めるならば、八音までの字余りは破格ではないと言えるのではないか(なお、字足らずは拍数の大幅な不足ゆえ破格である)。

上記〈ナツ・クサ・ヤ〉において、上五と下五で八分休符(●)の位置が異なるように、ここには「音数のリズム」と「意味のリズム」の二種類が共在している。同じ六音の字余りでも、〈ナニ・シ・オハ・バ〉は〈○○・○●・○○・○●〉の四拍でやや圧迫感があるのに対し、〈ワガ・オオ・キミ〉は〈○○・○○・○○・●●〉で実質的に三拍(五音の場合と同じ)なので、押し込められた感はいくぶん緩和されるといった具合である。

「八音四拍子」性に加えて氏のもう一つの興味深い指摘は、和歌や漢詩の引用が上五で字余りを生じ、緊張感のある下五がそれを受けつつ締めるという形が散見されるというものである。その一例として、〈月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして〉(在原業平)に通じる次の句が挙げられる。

  春や昔十五万石の城下哉  正岡子規
一連の議論を整理しつつ、氏は以下に列挙するようないくつかの仮説を提示する。①拍数の多い上五の字余りには、切迫した情が溢れる(〈君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く〉(正岡子規))、②四拍の下五の字余りには、情の余韻がにじみ出る(〈茄子汁主人好めば今日も今日も〉(高浜虚子))、③中七の字余りは、上五の字余りを受けたり、下五の字余りを予告したりする(〈春や昔十五万石の城下哉〉)、④字余りは拍や切れを微妙にずらす効果がある、⑤字余りが引用に由来する場合がある。

以上のように、それぞれに説得力のある主張が展開されるなか、聴衆も自然と「字余り・字足らず」の孕む問題に引き込まれていったように思われる。シンポジウム全体を通じて繰り返された論点を挙げれば、俳句を声に出して読むことの必要性、感知されるリズムにおける違和感の有無、(とくに句またがりが生じている場合に)「五七五」の切れ目を意識するか否か、上五・中七・下五のどの位置にどの程度までの字余りを許容するかなどであろう。「字」が「余る」あるいは「足りない」という事態は、単に「字」の次元で解決するわけではなく、少なくとも律文あるいはリズムという要素を考慮に入れる必要があるのである(なお、字余りについてはその認識や表現効果などが盛んに論じられたのに対して、字足らずについては井上氏がその認識の妥当性を述べ、櫂氏が例句を挙げた他は、あまり言及されていない印象を受けた。またシンポジウムにおいては話が及ばなかったが、冒頭に紹介した筑紫氏の記事に述べられている、字余りにおける文語と口語という問題も重要な論点であるに相違ない)。

壇上の刺激的な議論に触発され、会場から積極的にあがったいくつかの質問とそれに対する応答についても触れておきたい。まず律文あるいはリズムに関するものとしては、〈茄子汁主人好めば今日も今日も〉の上五が〈○○・○●・○○・●●〉とされているが、「茄子」と「汁」の間に八分休符を置くには無理があるのではないか、という指摘がある(同種の疑問は『日本語のリズム 四拍子文化論』の「文庫版あとがき」で安西徹雄によっても呈されている)。これに対する応答は、八分音符・八分休符による図を絶対的な基準と見做すのではなく、あくまでも実作において字余りが生じ得る場合にこれを一つの指針とすべきではないか、というものであった。もとより韻律論の困難はその立証の困難に由来する側面があり、〈ナス・ビジ・ル〉も〈ナス・ビ・ジル〉も事実上不可能ではないだろう。であるとすれば、リズムなるものはそれを感知する各人に一定程度依存するのだろうか。


会場 ほぼ満席です。

会場からの質問

また〈浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねえやい」〉などの句を残す中村草田男が積極的に論じられることを期待していたという声もあった。確かに壇上においてほとんど言及されなかったことは事実である。これに対しては、草田男における字余りの価値が他の俳人のそれと同等であるのかという応答が印象的であった。たとえば、高浜虚子は〈怒涛岩を噛む我を神かと朧の夜〉や〈凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり〉など破格の句を残してはいるが、虚子における字余りの句の割合と、草田男におけるそれとは大きく異なる。草田男の場合は、表現されるべき世界がすでに「五七五」を上回っている可能性もあり、岸本氏の表現を借りるならば、虚子の「瞬間最大風速」を草田男の「平均風速」と比較することには慎重であるべきだろう。

このほか、句集においては字余りの句の連続を避けるべきではないかとの意見や、虚子に〈怒涛岩を噛む〉のような句があることを踏まえるならば、むしろ「五七五」に対してより保守的なのは現代の我々の方ではないかという主張、あるいは正岡子規が「試みに字余りと云ふ文字の代りに三十二字の和歌三十三字の和歌十八字の俳句十九字の俳句と云ふが如き文字を用ゐなば字余りは是れ字余りにあらずして一種新調の韻文なる事を知るに足らん」(『字余りの和歌俳句』)と、字余りを定型の概念との関わりで論じているものをどう捉えるかなど、会場との対話は後に予定されている懇親会まで尽きなかった。客席からシンポジウムを締めくくった本井英氏による、語群を形成するためのやむを得ない字余り(〈鴨の中の一つの鴨を見てゐたり〉(高浜虚子))という視点も示唆に富む。今後さらなる議論が俟たれるところである。

虚子記念館前ののぼり


虚子旧居(虚子庵)


【執筆者紹介】



  • 瀬越 悠矢(せごし・ゆうや)

1988年兵庫県生まれ。関西俳句会「ふらここ」所属。現在、大学院にてフランス文学を専攻。







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