2014年8月1日金曜日

 【朝日俳壇鑑賞】 時壇  ~登頂回望その二十六~ 網野月を

(朝日俳壇平成26年7月28日から)

◆扇ぐほど近づいてくる夏の月 (明石市)小田和子

長谷川櫂の選である。普通扇げば扇ぐほどにそのものは遠くへ追いやられるのだが、この「夏の月」は「近づいてくる」と言う。当然、扇いだ風が月まで届くことは無いし、扇いだくらいで天体が動くものではないのだ。とすれば、これは心象か?もしくは想像の景であるように考えられる。作者の意図としては何かを叙しているのであろう。がこの表現には読者に対して、勝手にご想像ください、と句を放り出しているようなところがある。その言わば読者の想像の部分=作者が本来の意図するところの読者にとっては不明瞭な部分が掲句の魅力なのかも知れない。掲句の成功は、決してイコールにならなくてもイコールの前後が、そのサイズが同じくらいであったり、同質の質感を有すと考えられるところにある。

他に長谷川櫂の選で次の二句がある。

◆ちいさくてブリキの羽よ夏の蝶 (市川市)井上三七

この句は同じく魅力的ではあるが、筆者には少々舌足らずに思える。この句からは前述の「読者の想像の部分」「作者が本来の意図するところの読者にとっては不明瞭な部分」がイコールまたはイコールに近い関係ではなくてアンバランスな印象を受けるのだ。ただこの句に関しても「勝手にご想像ください」が許されるのであろう。羽を「ブリキ」というところに作者独自の把握がある。生ける蝶の羽がブリキの訳はないので、何か(玩具のヒコーキか何か)を叙しているのであろう。「夏の蝶」は取り合わせということか。

◆陽炎の中に居ること誰も知らず (玉野市)勝村博

この句は、所謂気付き俳句である。陽炎を視ている主体が実は周りから視れば陽炎の中にいるのだ、と言っている。深読みすれば出来そうなところにポエジーが見え隠れする。ただ作者だけは知っている、のだが。

◆地球よりこぼれぬやうに遠泳す (前橋市)荻原葉月

大串章の選である。選者の評には「第二句。地球からこぼれるといけない。水平線の手前で引き返すことにしよう。」と記されている。選評は天動説時代の自然観に基づく感覚である。筆者は高校時代の臨海学校で遠泳の経験があるが、大海原を泳いでいる内に東西南北は分らなくなった。辛うじて陸地がどの方向かは把握していたようだ。和船に先頭されて、二百人もの遠泳でなければ心細くて仕方ない限りだが、そうこうするうちに大空と海原に挟まれて重力の方向性が麻痺するようにも感じた。「こぼれぬやうに」とはそういう感覚なのではないだろうか?筆者の想像である。掲句は、遠泳の最中に地球という人類が拠る惑星に思いを馳せたということであり、その飛躍の拡がりの大きさに詩的世界の可能性を垣間見た思いである。





【執筆者紹介】

  • 網野月を(あみの・つきを)
1960年与野市生まれ。

1983年学習院俳句会入会・同年「水明」入会・1997年「水明」同人・1998年現代俳句協会会員(現在研修部会委員)。

成瀬正俊、京極高忠、山本紫黄各氏に師事。

2009年季音賞(所属結社「水明」の賞)受賞。

現在「水明」「面」「鳥羽谷」所属。「Haiquology」代表。




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