2014年8月8日金曜日

【俳句時評】 俳句を世に出す  堀下翔

山根真矢の第一句集が出た。『折紙』(2014年/角川学芸出版)。個人的には、え、まだ出ていなかったの、という気がした。じっさい「少年の時間の余る夜店かな」など、句集より先に歳時記に収められている句もある(この句は角川の合本俳句歳時記)。「鶴」入会が1997年。同人に加わり、また、第15回俳句研究賞を受賞したのが2000年だから、まさに満を持してという感じ。

その点で対照的なのが鈴木牛後の『暖色』(2014年/マルコボ.コム)である。前句集『根雪と記す』が出たのが2012年だから、2年ペース。かくも短い間隔なのは、収録句集が少ないためである。『根雪と記す』『暖色』ともに80句ほど。廉価な句集作りを企画する「句集スタイル」シリーズからの刊行である。

句集はどれくらいのペースで出せばいいのだろう、と思う。あるいは、俳句はどれくらいのペースで世に出せばいいのだろう、と。別にいまさら筆者が考えることでもないのは分かっている。この手の話はいつの時期にもなされている筈だ。逆に妙な言い方をするならば、これを考えるのは俳人の通過儀礼であるかも分からない。以下、若手俳人の通過儀礼にお付き合いください。

上のところで句集を俳句と言い換えたのは個人の俳句発表の場は句集に限らないからである。

この堂々巡りの話をあえて2014年のいま持ち出す理由があるとすれば、それはさいきんネットプリントの世界に俳句が登場してきていることにある。ネットプリントはコンビニエンスストアのサービスのひとつ。ネット上で文書を登録すると店舗のコピー機で出力することができる。もとは出張先のサラリーマンが書類をプリントアウトする目的などで重宝されていたと聞くが、数年前から文芸関係者がこれに目をつけ、自作を1枚の紙にまとめたものを登録して全国の同好の者に読んでもらうという使い方を編み出した。出力は登録番号を打ち込めばいいだけなので、その番号をSNSでばらまけば日本中の誰もに作品を見てもらうことができる。

短歌のほうで流行ったがその波は俳句にも及んだ。思いつくところで挙げれば、小早川忠義が数人と組んで同人誌として発行した『あすてりずむ』(今月に6号で休刊)、渡辺とうふと松本てふこの『むジナ句会』(第2号には宮本佳世乃がゲストで登場)、石原ユキオとなかやまななの『くまねこ』(ただしこれは俳句エッセイ誌で、本人の新作はない)、「ふらここ」代表・仮屋賢一の『Karly's』、同じく「ふらここ」所属・木田智美の『文通相手』、関東の学生俳人・葛城蓮士の『HATACHIBANA』(ショートストーリーや短歌も掲載されてる)など。いずれも2013年以降のもの。筆者が見落としているものもあるだろう中にこれだけ挙げられるのは流行りといってよい。

ネットプリントのたのしさは、ひとつには「縛られなさ」である。いま並べたなかで小早川、松本、宮本、なかやまは結社所属の身。ネットプリントの発行に主宰の許可を取ったのか(あるいはこういったものに許可はいるのか)は知らないが、結社を介さずに行う表現――自選同人であったとしても、結社誌の句とそうでない句では作る文脈が違うはずだ――はまったく自在である。それは無所属組にとっても同じことで、彼らはふだん紙媒体に発表することがない分、いっそう個性的になろうとしている。学生組の仮屋、木田、葛城のネットプリントで特徴的なのは俳句のほかに別の自分の趣味を盛り込んでいる点である。仮屋なら音楽、木田ならイラスト、葛城はパズル、といったふうに。これらと俳句をたやすく同じ舞台に上げることができるのがネットプリントである。

あるいは擬似的に出版を体験できるのもまたネットプリントの魅力かもしれない。自分の作品を纏めたものが、紙となって、読者を得る。しかも読者がそれを手に取るのは、店頭に行き、お金を払うことによってだ。別にこのお金は作者のものになるわけではなく、単に印刷代としてコンビニエンスストアに入るのであるが、こういうプロセスだけを見るとき、ネットプリントは出版とよく似ている。別に自分の作品を他人に読んでもらいたいだけならば、PDFデータをメールで送れば済む話なのだ。SNSの「拡散」によって存在を知る層もあるにはちがいないが、しかし読者の大部分は作者につながりのある人物なのだから。出版のよろこびの疑似体験がネットプリントにはある。

ついでに言えば、なぜメールで送って済むものをネットプリントにするかといえば、それは間違いなく「紙」になるからである。電子書籍か紙の本か、なんて話はとりとめがないけれど、やはり誰であっても紙への執着は多かれ少なかれある。象徴的なのは田中裕明賞であろう。応募条件の項目には「製本された形式(洋装・和装)の句集以外は認めません」とある。目的は知らないが、文学は紙に定着してからが本式、というイメージを体現しているようではある。

田中裕明賞といえば本年第五回の候補作にあった渡辺とうふの『狼藉・テシカ・カ』 (2013年/私家版)はかなり印象的だった。私家版というか、手作り。俳句をプリントアウトして、ハトメパンチで綴じたもの。高校時代に渡辺に会ったとき、この句集を所属の文芸部宛てで頂いた。その時の彼によれば、一冊ずつ手作りだから渡す人によって巻頭句がすべて異なっている、とのことだった。

余談だが筆者に渡された『狼藉・テシカ・カ』の巻頭は「歳時記よ堀下家の暖房が壊れてをるぞ」だった。それともう一つ、この句集にはポストカードがついていた。俳句が書かれているのだが、その句はなぜか渡辺の句ではなく、「銀化」「群青」の安里琉太の句だった(無断転載ではなく、安里は普段から彼の活動に協力している)。いつの時代にも変な句集はあるものだが、『狼藉・テシカ・カ』もまたその一つである。結果として裕明賞を受賞することはかなわなかったが、それは単に俳句的な視点でのみ判断されたのであろう。間違ってもこれが「句集っぽくない」という理由ではあるまい。

これは賞の選考の話だからそれは当然だけれども、個人の好き嫌いとなると、ちょっと心配になってくる。『俳句』2014年1月号の合評鼎談を読んでいたら、前々号登場の小早川(先述「あすてりずむ」発行人)に関して、ネットプリントを絡ませた評価が出てきた。以下は小早川の作風に関する話の流れである。(引用部、橋本は橋本榮治、横澤は横澤放川)。

橋本 頭で作っている感じがややする。 
横澤 作り方が早いと言えば早い。ものを見て、ウィットとしてのひとつの摑みどころがあるとパッと詠んでしまう。 
橋本 面白さはあるんです。そこからこの作者の味が出てくるんでしょうけれど、私には面白過ぎる。 
横澤 もう少し待って作ればいいのに。ネットプリントの同人誌も出しているそうですが、句の作り方が早過ぎるのはこういう世代のひとつの通弊かもしれませんね。

微妙な言い方ではある。ネットプリントを出しているから句の作り方が早い、ではなくて、ネットプリントを出しているような世代の特徴として、句の作り方が早い、という話だから。しかしこの流れにあえてネットプリントの名前を出す必要はない。それでも出てくるのは、ネットプリントという積極的発表のかたちに対する好き嫌いの現われである。こんなふうに、積極的発表に対する印象は、ときに作品そのものへの印象に直結する。それは、俳句の中身ではなく、俳句がどこに書かれるか、という点が読みに関わっていることに他ならない。

とすれば、同じような体裁の句集であっても、2、3年に一冊出る句集(中原道夫がその代表格であろう)と、10年分の句を溜めて出される句集とでは、読まれ方が違っているかもしれない。ありがたみ、と言ってしまえば卑俗であるが、その句集の成立関係を意識する読者は存在してもおかしくはない。優等生ふうになるのを承知で言えば、ヤだなあ……と思う。

句集はどれくらいのペースで出せばいいのだろう。俳句はどれくらいのペースで世に出せばいいのだろう。その答えが、「満を持した方がいい読まれ方をする」というのではあまりに夢がない。どんな作品が書かれているかがほんらいの問題なのは言うまでもない。「句集スタイル」にせよネットプリントにせよ(あるいは筆者は読んだことがないけれど西原天気・笠井亞子の葉書媒体『はがきハイク』、年に数回出る雪我狂流のホチキス止め句集など、「出し方」はさまざまにある)、自由な場、新しい表現が可能な(結社誌よりは容易な)場に書かれる俳句が、そこに書かれたがために変な読まれ方をする。もったいない。書かれる場はこれからいよいよもって多様になるだろう。その場独特の空気を読むことも重要ではありつつ、それよりもむしろ、作品だけを見る視座を読者が持ちうるかどうかが、場の多様化に対する適切な対峙となってくる。



【執筆者紹介】

  • 堀下翔 (ほりした・かける)

1995年北海道生まれ。「里」「群青」同人。現在、筑波大学に在学中。





※以下は上記原稿を元に参考となるサイトをリンク、ツイッター画像を貼付しました。ネットプリントに関してはほぼ出力期限を過ぎていますが参考としてご覧ください。(編集部)


鈴木牛後 『暖色』 (マルコポ、コム)

●『むジナ句会』に関する情報 (かえってきた渡辺とうふ店 @ おにぎり山




雪我狂流のホチキス止め句集 に関する記事(週刊俳句)

西原天気・笠井亞子の葉書媒体『はがきハイク』に関する記事(週刊俳句)

高井楚良・澤田和弥共同発行の超結社同人誌「のいず」第一号
(編集部宛に第一号が届きました。PDFでの新しい発表媒体として参考に貼付します。)

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