2012年12月27日木曜日

三橋敏雄『真神』を誤読する 1. / 北川美美

1. 昭和衰へ馬の音する夕かな

無季句である。
逆に有季とは何か。
それは有季すなわち四季の移ろい、四季様々の天候があり、いろいろな事象が起こり、人はさまざまなことを感じ、地球の自転とともに歳をとる。それが有季の原点。敏雄の無季句にはその有季の季語と同様に読者との共通認識を詠み込ませる錬金術が潜んでいる。

「昭和衰へ」と唐突に時代の移ろいの嘆きと思える上五で始まる冒頭句。時代を表現する「昭和」と「夕」という具体的な日没の景の狭間に「馬の音」が聴こえる。『眞神』の時間軸の提起である。

「古今集」に代表される三夕の名歌。
さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮心なき身にもあはれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行見わたせば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 定家
これは、季節の移ろい、そして「夕」という刻が「寂しい」とした日本の歌のルーツである。

時代も夕刻も時の移ろいが寂しい。

「昭和」と「夕」の二つの時を示す言葉が織りなすものは、読者の立ち位置を四次元的「時空」へといざなう。歴代元号として最長(64年、実質62年と14日)の「昭和」に何を感じるのかは読者により様々である。平成もすでに24年となった。「降る雪や明治は遠くなりにけり」の草田男と対極に、「昭和」が衰えながら今も時代の息づかいが近く感じられる。



自作ノート(『現代俳句全集四』1977)に因れば、「万葉集・巻十一」の「馬の音のとどともすれば松陰に出でてそ見つるけだし君かと」を遠望しているとある。そして敏雄の敬愛する渡辺白泉に「あゝ夜の松かと見れば馬の影」「遠い馬僕みてないた僕も泣いた」がある。朔太郎の『青猫』には死を象徴する「蒼ざめた馬」が登場し「私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!」と叫んでいる。過去と現在を行き来させる使者として馬の音。時代に取り残された望郷へと読者を誘う。『眞神』プロローグにふさわしい「馬の音」である。

私の中にある昭和の風俗的風景…「秀和(しゅうわ)レジデンス」という1964年東京オリンピックの頃の高度成長期に分譲開始されたマンションが今も港区・目黒区周辺に点在する。「昭和(しょうわ)」を彷彿するビンテージ・マンションだ。そこに血の色のムスタング(Ford Mustang 1964アメリカ車。ムスタング=「野生馬」)がアイドリングをしながら夕日を浴びて停まっている。そのエンジン音をアイアン・バルコニー越しに聴きながら化粧を急ぐ女…。これも昭和に対する風俗的オマージュの風景でもある。

昭和暦で数え今年は昭和87年。五感を張り巡らせ『眞神』の旅をはじめたい。

(2012年1月20日「詩客」掲載に加筆)

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