2012年12月27日木曜日

三橋敏雄『真神』を誤読する 18.19.20  / 北川美美

18. 顔古き夏ゆふぐれの人さらひ

「人攫い(ヒトサライ)」という言葉を聞かなくなって久しい。「ヒトサライが来る」と言われていた頃、それは本当のモノノケであると信じていた。それは誘拐犯でもあり、鬼のような形相で私を抱え、別の世界(恐らく黄泉)へ連れて行くのだと思っていた。そうでなくても暗闇と夜のトイレ(御手水、御不浄という方がふさわしい)が怖くて仕方がなかった。その怖さが最高潮になるのは、自宅までの商店街から路地50メートルほどの夜道だ。外灯付の電柱が3本あるが、いまだに心細い灯りである。路地の入口に御稲荷様と庚申塔を備えた機織工場がある。夕方になると小柄で健脚な男性が袈裟と頭巾を着装し太鼓を鳴らながら足早にやってくる。今から思うとそれは日蓮宗(あるいは新宗教)の唱題行脚修行だったようだが、それは別世界の入口でもあった。ソロバン塾の帰りにその闇を通らねばならない。目を固く閉じたまま、ひた走る、ただただ怖くて走る。ヒトサライという神隠し、モノノケが本当に出ると信じていた。

最近になり、シャッター街となった通りから同じ路地を日没後に歩いた。庚申塔は今もあるが、機屋の工場からは何の音も聞こえず、道沿いの子沢山だった牛乳屋さんも顔なじみだったファスナー職人のおじさんも亡くなり、空地になっている土地もある。向こうから外套着の男性らしき人が歩いてくる。街燈の下ですれ違っているのに顔だけが見えない。姿は見えるが、本当に顔だけが何も見えないのだ。暗がりでは人の顔が見えない。都心では考えられない光景だった。この道にはやはりモノノケが潜んでいると改めて確信した。

「ヒトサライ」について調べてみると、人が忽然と消えるような事象を「神隠し」と片付けていたが、戦後、身代金請求や誘拐報道が生々しくテレビ放送されるようになり、具体的に「ヒトサライ」という表現が定着していったという説があるようだ。過疎地域の子供、若者は船乗りや鉱山労働者、農奴、売春婦などに実際に身売りされたという事実もあり、いわゆる人柱といわれた社会問題があった。平成になり一気に表面化した深刻な「ヒトサライ」は、1970年頃から80年頃にかけての北朝鮮による日本人拉致多発だろう。今も未解決問題であることが報道されている。実際に「新潟の海に行くと、ヒトサライに逢う。」と本当に言われていた。モノノケは本当に私たちの生活の中に実在し、『眞神』が生まれた時代には恐ろしい事件が多発していた。そして現代にもある「ヒトサライ」は、社会の暗闇のような恐ろしい事件であることが多い。

人が忽然と姿を消すことは、敏雄の中にある、自分自身のリセット願望とともに敏雄自身の何かの消失からきている言葉なのかもしれない。

ここでキーワードとなるのは「顔古き」という措辞である。顔が古いというのは「年老いている」という意味合いと「顔なじみである」という解釈があるかと思う。幼少経験から解釈すると、「顔古き」は「顔なじみ、知っている人」ということかと解釈できるのだが。「顔新しき」としてみると、「ヒトサライのくせに新顔じゃないか」と攫われる側が想うということになる。

掲句を見ていると、彼の世にいる牛乳屋のおじさん、ファフナー作りのおじさん、そして日蓮修行僧が蘇る。今も暗い路地を通ると、そういうおじさんたちが、今、どこか別の異界へ連れていこうとする姿をふと想像する。怖さの中にどこかファンタジーがある。

『眞神』には当時の事実に裏付けされた事象がありながら、時代に読みづがれてきた神話、童話の世界がある。逆に神話、童話は、歴史の事実を元に語り継がれてきたことであることにも気が付くのである。


19. 鬼やんま長途のはじめ日当れり

前句の「ゆふぐれ」から「鬼やんま」へと句が移る。トンボである。

大方の読者が「負われて(背負われて)見たのはいつの日か」と想像するのが容易いだろう。ヤンマは、大形のトンボの総称で、羽の美しい意で「笑羽(エバ)」からとする説、四枚ある羽が重なっていることから「八重羽(ヤエバ)」が転じた説などの諸説がある。「鬼」がついて「鬼やんま」。巨大トンボの別称だが、鬼のような厳めしい顔つきが特徴であり、黒と黄色の段だら模様を、鬼が履いているトラのパンツに見立てたことに由来している。

三句切れとなっているが、中七の措辞「長途のはじめ」とはなんだろうか。「長途」とは長旅、遠路のことであるが、明治時代にはじまった修学旅行は、「長途遠足」なんていっていたらしい。「鬼やんま」の生体を調べてみると、成虫になるまでの期間が約5年。まさに長旅である。旅のはじまりが、めでたいような、祝福されているような感じだろうか。鬼やんまは、共食いまでもするような肉食(ガ、ハエ、アブ、ハチなどを空中で捕食)であることも、練習船の事務局長として数えきれない長旅を経験した敏雄の船内の経験をふと想像してしまう。

さてここからが本筋の深読みの世界だ。「途」から「冥途の世界」という連想もあるだろう。三途の川の入口に「鬼やんま」が出迎えているのである。冥途には流れの速度が異なる三つの瀬があり、生前の業(ごう)によって「善人は橋」「軽罪の者は浅瀬」「重罪の者は流れの速い深み」を渡ると考えられており、「三瀬川」と呼ばれている。そこに肉食の鬼やんまが日に当たる石にしがみついている光景は、ありえる世界だ。

だいたいタイトルが『眞神』というのが、『里見八犬伝』のような大スペクタクル伝奇をも思わせる。けれど、敏雄はそれを俳句という最短の文芸に収め、総句数130句でまとめている。加えてこれは小説でも連載でもなく、句集というのが畏れ入るのである。

「空想の世界を詠む」ことは俳句の禁じ手であるといわれている。『眞神』は、事実に基づいた景を見せながら人の心にある異世界を引き出すという手法が見える。


20. 蒼白き蝉の子を掘りあてにける

「鬼やんま」の虎の子パンツ柄から一気に「蒼白き蝉の子」へと生のあわいを感じさせる。

蝉の穴の句(7句目)から実際に、蝉穴の幼虫そのものを掘り当てたのである。

数年を地中で過ごした蝉の幼虫はこの世の風景をまだ知らない、蒼白い、無垢な命である。まるで、男子が赤子をはじめて抱き、生命の尊さ驚いたかのようだ。下五の措辞「掘り当てにける」から、井戸を掘り当てたように、幸運な出来事だったのである。

この句以降(21句目~24句目)の言葉に「動き」「運動」がある句が配列される。

蒼白き蝉の子を掘りあてにける (掘る)
草刈に杉苗刈られ薫るなり (刈る)
蛇捕の脇みちに入る頭かな (入る)
蒼然と晩夏のひばりあがりけり (あがる)

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