「チチ」である「捨乳(「すてぢち」…と読むと推測)」。
前回鑑賞句「行雁や港港に大地ありき」の「港港」の字面がオッパイに見えてきたのはそう間違ってはいない。ハワイで生まれたココナッツ酒のカクテル「チチ」は、「粋な」という意味を持つらしいが、「すてぢち」にはお国のために死ぬことが美徳だった時代に対するシニカルな嘆きが感じられる。
「戦死ざかり」の「さかり」の用法は肯定的な事象に対して使われ、物事が一番勢いのよい状態にあること、盛んな時期のことである。しかし「戦死」に「さかり」を組み合わせ、さながら「戦死」が男ざかりの祭のようだ。「戦死ざかり」という「戦死」に花の季節があったかのようだ。死にゆく男たちへ白く濁った酒のように乳を振り撒いているようである。それも「捨乳」。やぶれかぶれの「捨て鉢」と掛けているのか、とんでもない句に思える。
「戦死」という死の祭りということから考えて、今までの『眞神』鑑賞句から生死に対する祭のイメージがある関連句を拾ってみる。
母ぐるみ胎児多しや擬砲音(4句目)
晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ(6句目)
上記に母、父をよみつつ、胎児に響く「擬砲音」、空にばら撒かれる「晩鴉」が祭祀の音響、映像として浮かんでくる。
『眞神』には忘れられた日本の風習、つまりは日本の風土に根差す民俗学的視点で鑑賞することもできるのだが、それは敏雄が読者とのある一つ約束事、季語に替わるものとして、読者との同認識の結果にすぎない。例えば掲句でいえば、どこか郷愁の「祭」である。
本来の「祭」は、超自然的存在への様式化された行為である。祈願、感謝、謝罪、崇敬、帰依、服従の意思を伝え、意義を確認するために行われた。日常と深く関わっていた。村という共同体の中での儀式、儀礼として機能していた。「ハレとケ」のハレの部分である。死ぬことは、超自然的存在への帰依なのである。だから乳をふるまうのだ。それも捨乳で。
「戦死」は軍人が戦争や戦闘により死亡すること。婉曲表現として第二次世界大戦終結まで、仏教用語の「散華」が、また戦死者を美化して「英霊」とも呼んだ。ここに敏雄が、直接的な、「戦死」を選んだことには、「戦死」=国家の為に死ぬということに対しての痛烈な疑問が込められていると受け取る。
そして戦死という無惨な死の祭は、タイトルにもなっている句、
草荒す眞神の祭絶えてなし
へと繋がっていくようだ。
生まれることも死ぬことも選べないということを改めて考える。人の生死は自然の中に必然のようにある。だが戦死は必然とは違う。死んでいった男たちを残されたものが忘れない限り人は生き続ける。敏雄の戦後そのものだったのだろう。
どこか自暴自棄の、残されたものの暴力的な心理を感じる。
『望郷―山口晃展』(2012.02.11-05.13 銀座・メゾンエルメス)に於いて「正しい、しかし間違えている/2012」という床の傾いた部屋様の作品があった。
「通常私たちは、建物の垂直軸と重力方向が等しい環境に居る訳ですが、この二つがズレると目眩や、甚だしい場合は転倒を引きおこします。これは経験による体力維持が、知覚に依る体力維持を阻害する為におこるもので、経験上の正しさが不適合につながった訳です。ー山口晃」
わたしたちの経験、知識の何が正しいかなど当てにならないときがある。掲句は、読者の経験上の「俳句」とのズレを敢て生じさせているのだろうか。不思議な魅力がある。
35. 然(さ)る春の藁人形と木の火筒(ほづつ)
犬神と眞神。はじめて『眞神』の存在を知ったとき、どこかおどろおどろしいタイトル名は死国のイメージがあり『犬神家の一族』(横溝正史)を彷彿した。『犬神家・・・』も昭和の傑作であるし、村、復員兵、戦争、言い伝え、血族、などの共通項目は多い。
藁人形が「菊人形」である方がより近いけれど、掲句は特に『犬神家・・・』のイメージに近い。鉄砲を意味する「木の火筒」は猿蔵(犬神家の下男)が護衛のために持っていてもおかしくない。犬神佐清(すけきよ)、青沼静馬がビルマ出征前の軍事訓練ということも考えられるし、藁人形が佐清と静馬の運命を入れ替えた呪術のものとして登場していることも想像できる。
犬神と眞神・・・確かに一文字違い。犬神から点をとって大神(オオカミ)、山の神聖な神であるオオカミとなる。「大口眞神」のオオカミである。狼は犬とも分類されていた。『犬神家の一族』はオオカミを意識しての命名だろう。
作者の手を離れた後の作品は読者に懸ってくる。
藁人形で軍事訓練をしたかつての日本の風景だろうか。文語的な<然(さ)る>がその事実を刻銘に留めているようだ。<かの>に次いでその効果が俳句上にあることを知る。
36. 正午過ぎなほ鶯をきく男
掲句、至る所で鶯が鳴いている光景が浮かぶ。けれど、この男、鶯を本当に聞いているのであろうか。「正午過ぎなほ」これは、小原庄助さんを兼ね備えつつマニアックでマイペースな男である。午前中からずっと鶯の声を聞き、午後になってもまだ聞いている。「きく」と書いてあるが、この男、実は「聞いていない」と解釈する。それは、「なほ」からくるもので、尋常ではないことを想わせ、想像力が働く。男に焦点を当て、この男が別の事、言うなれば人生について思い巡らしていると想像する。往々にして三橋作品から音が聞こえない気がする。
凩や耳の中なる石の粒 (*1) 『しだらでん』
梟や男はキャーと叫ばざる
すさまじい凩の音よりも耳に入った石粒が気になる。男はキャーと叫ばない。やはり筆者に「音」は聞こえてこない。白泉は、「玉音を理解せし者前に出よ」「マンボでも何でも踊れ豊の秋」「オルガンが響く地上に猫を懲す」「鶯や製茶會社のホッチキス」などの音から起因する句、それも一拍ずれているような音が聞こえる気がするが、敏雄の「音」は消えている。極め付けなのは、下記の句。
長濤を以て音なし夏の海 『長濤』
映画の中でミュートをかけたように意図的に数秒間「音」が消え、映像だけが流れる効果に似ている。敏雄は、唯一、音楽が苦手だったようだ。「やはり」と思ってしまう。それが俳句の上で効果となっている。「音」を読者に届けるのではなく「言葉」による音の想起を促している。ひとつの物音も俳句を通し読者に想像させる力を持つのである。欲しいのは言葉、そして俳句ということか。
「鶯をきく男」、ウィスキーグラスを片手にただ遠く流れた時間そして人生を想っている気がしてならない。
李白の詩がある。
『春日醉起言志(春日 酔より起きて志を言ふ)』
處世若大夢 世に處(を)ること 大夢の若し
胡爲勞其生 胡爲(なんすれ)ぞ 其の生を勞する
所以終日醉 所以(ゆゑ)に終日醉ひ
頽然臥前楹 頽然として前楹に臥す
覺來眄庭前 覺め來りて庭前を眄 (なが)むれば
一鳥花間鳴 一鳥 花間に鳴く
借問此何時 借問す 此(いま)は何の時ぞと
春風語流鶯 春風 流鶯に語る
感之欲歎息 之に感じて歎息せんと欲し
對酒還自傾 酒に對して還(ま)た自ずから傾く
浩歌待明月 浩歌して明月を待ち
曲盡已忘情 曲尽きて已に情を忘る
李白(701-762年)『李白詩選』(松浦知久訳/岩波文庫)
「鶯をきく男」の句は李白の詩そのものである。マーラー(*3)はこの李白の詩を原作とし連作歌曲『大地の歌(Das Lied von der Erde)』を1902年48歳のとき作曲している(*4)。そして敏雄は、1969 (昭和44)年49歳のときに掲句を得た。俳句形式となった17音は読者の脳波に変換され響き渡るのである。李白をもとにマーラー、敏雄と古典は永遠に人を酔わせ新たな名作を生む力がある。
敏雄は、永い船上勤務で、ひとり、遠く陸を想う時間を過ごしたであろう。「なほ鶯をきく男」はやはり酒を呑みながら世をながめている男であったか。鶯の鳴声(「なお鳴く鶯」すなわち「老鶯」であろう)は、敏雄の中で静かに消されている気がする。
*1)白泉に「木枯や目より取出す石の粒」がある。
*2)李白(701-762年)『李白詩選』(松浦知久訳/岩波文庫)
*3)マーラー(Gustav Mahler, 1860 – 1911)
*4) 1986年サントリー・ローヤルのCM(http://www.youtube.com/watch?v=NSlVsnMbZ48)に『大地の歌Mov. 3』(http://www.youtube.com/watch?v=lb9KnrrvDc8)が使われた。
37. 共色の青山草に放(ひ)る子種
「青山草」とは、東京・青山墓地あたりに生えている草、青山・草月会館の隣りの高橋是清公園に生えている草、青山という地に生えている草ということも考えられるが、「青/山草」という切り方で青い山草と読むのがよろしいように思う。山草とは山に生えている草、あるいは裏白(ウラジロ)というシダ科植物の別名である。このウラジロが名前からして妙な雰囲気である。そもそもウラジロとは、正月飾りに使うもので、注連縄、ミカンの下に垂れ下げるのはウラジロと決まっている。その由来は、「裏が白い=共に白髪が生えるまで」という意味だという。そこに子種を放出する。これは、日野草城『ミヤコホテル』に対抗する解釈ができてしまう。
驚くことに、後の敏雄夫人の句に
帯どめと同色の草春の園 庄野孝子 (「断崖」昭和36年6月号)
がある。すでにその縁が俳句上であったのだ。
労働者の句とも読める。ミレーの『種まく人』のように大地に放出する力強い労働する男の姿。「放る」というだけでとても力強いのだが、それを「共色の青山草」として、「萌え」な柔らかい雰囲気にするところなど、本来、バーのコースターの裏にでも書いてポケットに忍ばせるような句だという気がするのだが、『眞神』に収録されているのだ。
チチハハへのセレモニーだけでなく、野を駆けて放出する青年がいるのである。
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