2021年1月29日金曜日

連載【抜粋】〈俳句四季2月号〉俳壇観測217 有馬朗人氏の突然の逝去——若き日にアメリカの大学図書館にかよって見つけた大発見  筑紫磐井

 三つの顔を持つ男
 有馬朗人氏の突然の訃報が入ってきた。十二月六日、享年九十。主宰誌「天為」では新年号から新しい連載「全ての人に教育を」を始めているし、大半の総合誌の一月号には新春詠を寄せている。誰にとっても予想外の逝去だったのである。
 あまたいる俳人の中でも、有馬氏は世間的には取り分けて知名度が高かった。それは俳人としてのみならず、科学者として、文部大臣として、東大総長として多面な顔をもっていたからだ。文化人として最大の名誉である文化勲章も受賞している。もちろんこれは科学者としての受賞であり、俳句の面ではないのは本人としては残念だったらしいが。
(中略)私は一九九八年にインタビューをしている(「俳句界」一九九八年八月「いま俳句に思うこと」)。ここで面白い話を聞いている。それまでの人生を回顧して、自分(有馬)の第一の立志は十五歳の時でそこで物理学に志し、これは成功した。五十歳の時に第二の立志をし、六十歳までに更に学問に新しいものを加えようとしたがこれは完全に失敗した。

有馬 (略)なぜかというと、十年は短か過ぎる。十年のうちに学んで十年のうちにその成果を出して刈り取ろうなんて無理でした。そこへもってきて理学部長だとか、いろんなものをやるようになったから、ますます駄目でした。そこで六十になった時に、どうしたかというと、九十歳まで生きることにする、というのが第一次の志(笑)。三十年を与えてくれ!天よ、我を三十年、生かしめよ(笑)。」

 その理由は十年間仕込むことに使えば何とかなる、あとの十年でそれを実現する方向にもって行く、最後の十年で楽しもうと。その約束通り、九十歳で人生を全うされた。本望であったと言えるのではないか。

有馬朗人氏の原点
 有馬氏は東京大学に入られて、山口青邨に師事し「夏草」に投稿していた。青邨門では古舘曹人との交友が長く、曹人との関係から、結社を超えた雑誌「子午線」に参加、さらに俳人協会若手の句会「塔の会」に参加して視野を広げていった。しかし、これだけでは有馬氏の世界は生まれてこない。

有馬 (略)私は率直に言って、前衛も伝統もそんなに差はないという認識を持っています。ご質問から逸脱してしまうけれど、私自身は西東三鬼にいちばん影響を受けたんです。少なくとも精神的な影響はね。
筑紫 それは初めて伺います。
有馬 ご存じないかた多いと思う。もちろん虚子とか青邨、それから草田男、誓子からも常識通り影響を受けましたけれど、中でも感覚的な鋭さという点で、西東三鬼だったんですね。詩の方は完全に西脇順三郎たった。西脇順三郎の感覚が、私に一番ぴしゃっとくるところでしたね。そういう意味で考えてみると必ずしも、「ホトトギス」あるいは「夏草」という伝統の中に浸っていたからといって、そういう伝統的な手法で俳句を作っていたとは言えないと思うんですね。例えば「水中花誰か死ぬかも知れぬ夜も」とか、よく青邨、採ってくれたと思いますよ。あるいは「砂丘ひろがる女の黒き手袋より」なんていうのもあります。こういうのは、一方で西脇的なもの、一方で三鬼的な世界に憧れていたわけですね。そうしてみると私は、必ずしも伝統と前衛とが、ぴしゃっと分かれてしまうものじゃなくて、どこかで詩というものを媒体にしてつながっているだろうと思っていたわけですね。ただ、ある時期からそれを反省しだした。『天為』よりちょっと前ですが、「鶴」の連中に影響を受けてね。」


 成功したかどうかは別として、あらゆる方面に関心を持つと言うことは、ホトトギスにはない特色である。指導した東大俳句会や「天為」で育った若手達は決して型にはまらなかったのもうなずけるのである。

※詳しくは「俳句四季」2月号をお読み下さい。

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