Ⅵ 百瀬石涛子(せきとうし)さんの場合(1)
【シベリア抑留体験(2018・5・2取材)】その1
2016(平成28)年6月から、インターネットによる下調べを始め、長野県上田市にすむ一人の俳人の存命の可能性を信じ、その足跡をたどった。しかしその方は、ご存命ではあるが話をできる状況ではないことが、その記事の発行元への確認で明らかになった。
遅きに失した感を覚え、シベリヤ抑留俳句を辿る道筋が絶たれた思いがした。
そのとき、友人から紹介されたのが、長野県塩尻市に住む百瀬石涛子さんである。
手紙を書き、電話を重ね、句集『俘虜語り』百瀬石涛子著 花神社を送っていただき、インタビューの約束を得る事ができた。
2018(平成30)年5月2日、塩尻駅で迎えてくれた石涛子さんは、背筋がピンとしてとても若く見え、にこにことして一見して温和で誠実な印象であった。
そのまま塩尻駅の喫茶店で石涛子さんからシベリア抑留の話を伺った。
石涛子さんは、次のように語られた。
石涛子さんは、1925(大正14)年生まれで、訳あって乳児期に東京の母の元から、父の実家のある松本の祖父母宅に引き取られ、その後養母のもとで成長したそうである。
1942(昭和17)年。17歳で志願して、少年通信兵としての教育を受けたが、通常より半年早く、1943(昭和18)年に任地に赴くことになり下関へ、下関から釜山を経てソ連と満州の国境東寧地域石門子にて、関東軍国境守備隊の通信兵として、ソ連側を見張る役目等をした。
次の日の作業を班長として班員に伝えるために、毎晩勉強していたが、夜九時が消灯時間で困っていたところ、時間を過ぎても電気のついている部屋があることに気づく。その部屋では、小隊長が月に2回俳句の会をしていた。そこでその会に参加し、いつも俳句を2句出したら、翌日の勉強をしていた。ある日の句会で、
咲く萩の兵は偽装にひた走る
という句で1等になったという。
その時、小隊長から俳号をそろそろ決めてはどうかという話があり、当時の任地の「石門子(せきもんし)」にしようかという話も出たが、その都市の地名を俳号にするなんて立派すぎるので「石頭子(せきとうし)」と名乗ることにした。
1945年8月終戦を知らされ武装解除を受け私物接収をされ、ソ連との国境に流れる松花江・黒竜江が凍るのを待ち、橇でソ連に渡った。その時は、戦争が終わったのだから日本に帰れると思っていた。
インタビュー後のことであるが電話により、終戦の報せを受けた日や武装解除を受けた日について、筆者が確認すると、正確には覚えていないとのことであった。
凍った河をソ連に向かい渡る中で、凍結しきらない河に戦友が落ちても助ける事ができなかったこと、中には行き倒れている人から衣類をはぎ取る者もいたと、電話の向こうで涙ぐんでおられた。
捕虜の生活をウラノデ(現在のブリヤート共和国・ウラン・ウデは、バイカル湖に近く、シベリア鉄道の経由地であり、モンゴル共和国経由で中華人民共和国に至る鉄道の分岐点)では、伐採の仕事を主にした。初めの日にみかんと馬鈴薯を食べたが、その後は黒パンとスープの日々が続いた。日本軍の基地から運んだ食料の中で味噌は、「日本人は糞を食べる」といって野晒しで捨て置かれていたため、夜中に「決死隊」と言って味噌を取りに行った。馬の餌を盗み飯盒で焚いて、味噌で味をつけて食べたが、皆が取りに行くので、あっという間に無くなった。見つかって銃殺される者もいた。
製粉工場や缶詰工場といった国営農場で働く日もあった。
製粉工場では、氷嚢に粉を入れて持ち帰ったりしたが、次第に検査が厳しくなり、営倉(旧日本軍の下士官兵の懲罰施設)送りになる者もでた。
缶詰工場の屠畜場の手伝いでは、肉を口にすることが出来た。ベルトコンベヤーで運ばれた牛頭が真二つにされてスチームで蒸されたものは、食べ応えがあった。山羊肉も頭は、スープになって村民の給食になっていた。
馬鈴薯の皮むきの手伝いでは、ソ連人は薯の皮を厚く剥くので、その皮を貰ってきて、何度も洗い、白樺のスプーンや杵で潰して、バケツの底に溜まった澱粉を取り餅のようにして食べた。塩が無いのが残念だった。各班交代で、週に1~2回缶詰工場や粉の工場に行った。
(つづく)
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