2015年10月16日金曜日

 【時壇】 登頂回望その八十三 ・八十四 /   網野 月を

その八十三(朝日俳壇平成27年9月7日から)
                          
◆一族の最後の一人生身魂 (熊本市)寺崎久美子

長谷川櫂と大串章の共選である。最近はこういう事態も稀な事ではないように思う。また、どの血族、どの姻族までが一族なのか?判然とせずに、一般的には昔よりは狭い範囲にとどまっているように思われる。お盆から秋彼岸にかけて「一族の」こと、親戚関係やその他の類する事柄について考える機会の多い時期である。

◆ふるさとの手足にもどる盆踊 (茨城県阿見町)鬼形のふゆき

大串章の選である。評には「第一句。帰郷して盆踊を楽しんでいる。「ふるさとの手足」に戻る、と言ったところが巧み。」と記されている。手足がふるさとのそれに戻るということで、体の中も、心の中も慣れ親しんだ、自分を育んだふるさとへ戻って行く感覚を実体験しているのだろう。評にあるように「楽しんでいる」のだ。加えて得も言われぬ安堵感や文字通り手足の伸びた解放感も表現されている。言い回しに何の衒いも無く素直に詠んでいて技巧張らないところが秀れている。

◆ぐちやぐちやの西瓜が拍手されてゐる (東京都)竹内宗一郎
稲畑汀子の選である。評には「二句目。西瓜割の競技であろうか。見事に命中して割れた姿に沸いた拍手。」と記されている。頓智の利いた句意である。本来は西瓜の色艶や大きさ、重さなどが推奨されるところだが、「ぐちやぐちや」の状態が、周囲の人たちの拍手を呼んだのだ。常識を逆手に取っているのだ。それでいて言い回しには逆説が無くて、むしろ肯定表現していて、その点も意表を突いているようだ。

◆老いるとは考へること桐一葉 (いわき市)坂本玄々

金子兜太の選である。上五中七の「老いるとは考へること」は作者独自の箴言であって、何を言うこともないのだが、座五の季題「桐一葉」で全体の句意を受容している点が巧みなのである。秋の季題であり、衰亡の象徴とされる。掲句の場合、枯渇して行く季節ではなくて実りの季節を強調している。

その八十四(朝日俳壇平成27年9月13日から)
                           
◆想ひ切り秋のほほずり富士裾野 (栃木県野木町)小林たけし

金子兜太と長谷川櫂の共選である。長谷川櫂の評には「一席。なお火照る山肌に秋が頬ずりしている。秋風が吹きわたるとも、草木が色づいてゆくともとっていい。富士山の秋満喫。」と記されている。「秋」が主語として捉えられるだろうか。「秋のほほずり」を作者自身が受けているのか?「富士裾野」が受けているのか?は、両の読みが出来るかもしれない。十中八九は後者であろう。評もその前提である。

◆原爆忌アメリカ終に謝らず (前橋市)荻原葉月

金子兜太の選である。評には「十句目荻原氏。とにかく、さっさと廃棄してください。」と記されている。戦勝国の指導者にも戦争責任を問うことによって、最大の抑止力になると思われるのだ。一般市民へ向けての大量殺戮兵器を使用した政治・軍事指導者へ責任を問うことはその使用の抑止力になる。評では「原爆」そのものの廃棄に言及している。「終に」であってよいのであろうか。七十年経っても謝罪を引き出す努力を続けるべきであろう。すくなくともそう考えている人間がいることを表明し続けることが必要である。

◆そこここにガラスの欠片夏去りぬ (刈谷市)石川春子
長谷川櫂の選である。評には「二席。木もれ日のように散らばる、偉大な夏の残骸。」と記されている。実際に「ガラスの欠片」が散らばっていたら危険な状況である。むろん海浜では心無い海水浴客などによって持ち帰られないゴミが山積みになっていることがある。掲句の「ガラスの欠片」は比喩であろう。具象を提示しながら心象を描くのは難しい。掲句の場合、百パーセントに近い成功を収めているようだ。

◆飛ぶといふよりぶつかつて鳴く老の蟬 (静岡市)西川裕通

長谷川櫂の選である。蝉が何か障壁物へ「ぶつかつて」行く現象である。マンションの壁やガラス質のものへである。昨今は蝉だけでなくてマグロなども水槽のガラス壁へぶつかってゆくようである。上五中七の表現が座五の「老の蟬」を遺憾無く表現している。

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