2021年6月11日金曜日

【抜粋】〈俳句四季6月号〉俳壇観測221 遠藤若狭男と澤田和弥――寺山修司に憧れる者たち  筑紫磐井

   少し季節は遅れたが、五月は寺山修司の忌(昭和五八年五月四日)である。それだけではなく、寺山の代表句や代表句集は五月と切っても切り離せない。

  目つむりていつも吾を統ぶ五月の鷹 『われに五月を』

寺山の俳句はもちろん個性的であるが、寺山の強い影響を受けた作家も忘れがたい。特に、寺山は早稲田大学の出身である。早稲田大学俳句研究会と呼ばれるサークルがあり、指導者に高橋悦夫、遠藤若狭男、学生会員に村上鞆彦、日下野由季、高柳克弘、澤田和弥、松本てふ子、佐藤文香などいたが、しかし寺山の影響を最も強く受けていた作家は、遠藤若狭男と澤田和弥の二人であった(我が「豈」の同人山崎十生も若き日寺山の強い影響を受けた一人であるがまた改めて書こう)。

    *      *

 遠藤若狭男は鷹羽狩行の「狩」の出身であるが、早大の先輩である寺山修司の心酔者でもあった。若くから、寺山同様、詩や小説など多角的な活動をしていたせいもあったろう。

  五月もの憂しなかんづく修司の忌 『神話』

  修司忌や使者のごとくに揚羽蝶  『青年』

  すでに夏かもめに乗りて修司来よ 『船長』

  海の声聴かむと海へ修司の忌   『去来』

  風に吹かれて旅に出て修司の忌  『旅鞄』


 五冊の句集に寺山修司の名が満載されているだけでなく、寺山の章を設けている句集もあるくらいである。また、こんな言葉で結んでいる句集もある。

 「――今は五月、折しも寺山修司忌。風に逆らうようにして、雑木林の奥へ駆けぬけていったのは、寺山修司が詠った揚羽蝶ではなかったではなかったでしょうか。鏡の破片の反射だったかもしれません。」

 五冊目の句集の後、遠藤は平成二七年一月に俳誌「若狭」を創刊したが、この遠藤に師事したのが澤田和弥である。澤田は、すでに「天為」に入会し天為新人賞も取っているが、澤田が俳壇で知られるようになったのは同年の七月に上梓した第一句集『革命前夜』であった。『革命前夜』の章構成は「青龍」「修司忌」「朱雀」「白虎」「玄武」となっており、遠藤同様、寺山へのオマージュを隠さなかった。だからこそ、遠藤は「天為」で『革命前夜』読後感「言葉のダンディズム」を書いたのである。結社の関係を離れて、寺山とつながり合う者が書くのが最も相応しかったからだ。

  革命が死語となりゆく修司の忌

  海色のインクで記す修司の忌

  男娼の錆びたる毛抜き修司の忌

  船長の遺品は義眼修司の忌

  五月芳し修司忌の扉を叩く

 前述のように「若狭」が創刊されると、澤田は創刊同人として参加したのだが、これは寺山への共感者ということが大きな動機となったのであろう。だから澤田のライフワークになると思われた寺山修司研究(「俳句実験室 寺山修司」)を「若狭」に連載したとき、これが完成したら、寺山と澤田の関係はもっと濃密に見えるだろうと思えたものだ。また第二句集以降では、遠藤に匹敵する寺山忌の句を詠んでいたかもしれない。しかし澤田はいくばくもなく亡くなる。平成二七年五月九日、寺山の忌日を追うように澤田はなくなっている。   

 「若狭」に入会してわずか五か月である。澤田に最も熱い思いを寄せている「天晴」主宰の津久井紀代は「和弥は「眞の革命とは何か」をつきつめた最後に「死」という結論を自らに出した」と述べている(「こころが折れた日――澤田和弥を悼む」(「天為」二八年五月号)。こうした事情があったのだ。

 しかし、残された遠藤自身も三〇年十二月に亡くなり、雑誌「若狭」は終刊した。すべての人々はこうして去ってゆくのだ。

 もちろん彼らの修司忌の句が卓越しているというわけではないが、こうした強い思いがなければそもそも文学は生まれないのである。

(下略)

※詳しくは「俳句四季」6月号をお読み下さい。

【補足】
遠藤若狭男の句集『若狭』が出た(角川書店2021年5月25日刊)。第5句集『旅鞄』以後の「狩」、主宰誌「若狭」に発表した作品を中心に、さらに諸雑誌に掲載した句文を遠藤和子氏がまとめられたものであり、1,285句を収録する。最後のものは「俳壇」2018年12月号に発表したものであり、若狭男は12月16日に急逝しているから、まさに亡くなる直前までの活動がうかがえる。

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