2019年2月22日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~⑥  のどか

Ⅲ.シベリア抑留語り部の体験談(2)

(9)伐採作業

 マイナス40度までの日は、午前8時に営門前に集合して点呼を受ける。カンボーイ(監視兵)は、五列縦隊に並ばせて、5・10・15と数える。カンボーイは掛け算ができないので、誰かが途中で「小便がしたい。」というと数を忘れてしまい、最初からやり直す。多少の時間稼ぎにはなるが、その分現場のノルマがきつくなる。
 関東軍の冬服に綿入れの上着とズボン、帽子は関東軍支給の物、靴はネルで作ったカートンキ、斧(タポール)は1人1丁、二人引きの鋸(ピラー)は担ぎ、作業現場に向かって雪の広野を歩く。体力の限界で一緒に歩けず、隊列から少しでも離れるとカンボーイから蹴飛ばされたり銃床で殴られたり、馬に乗ったカマンジール(監督)が鞭を振り回す。抑留者の労働が、彼らのノルマになるからだ。
 伐採は、斧(タポール)で木の幹に3分の1切込を入れ、反対側から鋸(ピーラー)で3分の2ほど切ったところで山の方に向けて倒される。 もし、倒れる側の真後ろに人がいたならば、死人がでる。
 1947(昭和22)年12月2日、中島さんは自分の切った木の下敷きになり、右足首骨折頭部打撲で、第3病院(3370病院)に入院した。病院では、足にギブスを巻いていたが看護婦の仕事の手伝いをさせられたそうである。
 盲腸の患者の6~7割は、死んだ。他の病棟の看護婦が、発疹チフスになったので世話を代わってくれと頼まれて、4週間手伝った。医師の赤ちゃんの世話もした。元の病棟に戻ると日本の医師が担当になり、盲腸で死ぬ人がいなくなった。

(10)自動車積載作業
 
 中島さんの「我が青春の軌跡 絵画集」から

 土場に積まれた丸太をトラックに積込む作業であるが、機械類は一切なく全部手作業。何百キロも何トンもある丸太を台車の上にロープとバールだけを使い5人1組で行う。土場と台車を繋ぐ細丸太を渡すときに不安定なので事故が起きる。ロープ操作のできで成功か失敗かの分かれ道になる。

(11)埋葬

 マイナス40度以下に下がる酷寒期の1945(昭和20)年12月頃から翌年3月まで、食料事情が悪化し栄養失調のために、毎日のように宿舎から死者がでた。初めの頃は通夜もしたが、毎日となるとすぐ裸にして衣類は皆の取り合いになる。凍土は硬く大量の焚火をして溶かしても15~20センチの深さしか掘れないので、3~4回繰り返して掘って、3~4人をまとめて置いて、雪混じりの掘り起こした土で埋め戻した。死者の名前も知らず埋葬が日常生活の一部となり次第に無感情になっていった。
 シベリアでの死亡数について、『シベリア抑留スターリン独裁下の「収容所群島」の実像』富田武著P.108~109を参照すると、

  1945-46年冬に酷寒と飢え、重労働で多数の死者がでた。全抑留期間の死亡者約6万人のうち約80%がこの時期だったという。この時期に限定された死者データは存在せず、1947年2月20日時点までのソ連及びモンゴルの収容所での死者3万728人に、満州野戦収容所での死者1万5986人を加えると全死亡者6万1855人の75.5%になる。(『シベリア抑留スターリン独裁下の「収容所群島」の実像』富田武著 2016年12月25日)

(12)政治教育

 抑留一年を過ぎた頃から、それぞれの収容所で、民主化運動が始まった。中島さんが、病院に入院した頃から、政治教育が盛んになったという。
  また、帰還前に移動したナホトカの収容所での政治教育は凄まじく、「ソ連共産党史」「唯物史観」を毎晩暗記した。不徹底な人は、強制労働に逆戻りすると信じられていたという。
 「政治教育・反動・吊し上げ」について中島さんの体験談から詳しく伺うことができなかったので、『シベリア抑留スターリン独裁下の「収容所群島」の実像』富田武著(P124~128)を引用する。
  
 日本人捕虜収容所における政治教育は、以下の手順で進められた。
①『日本新聞』が配布され、(1945年9月15日創刊)
②その読書会が「日本新聞友の会」として組織された。(46年5月25日号が呼びかけ)
③そこからアクチブが育成され、講習を受けて民主グループを各分所に創設し(47年春)、
④これを基盤に収容所ごとに反ファシスト委員会が選挙された(48年2‐3月)。(略)

「日本新聞」について、
 1945年9月ハバロフスクで、イワン・コワレンコ内務少佐の指導のもと『日本新聞』が発行された。欄外には「新聞は日本人捕虜のためにソ連で発行される」とロシア語で記され、(略)第1号には、スターリンの対日戦勝利を記念する9月2日の国民へのアピールが掲載された。しかし『日本新聞』は当初、反発した将校らの配布妨害もあってあまり読まれず、多くの回想記が伝えるように、マホルカ(巻きタバコ)の巻き紙や大便用チリ紙になっていた。
 転機は1945‐46年冬、大量の病者と死者を生んだ時期である。兵士が飢えと衰弱のなかで重労働に喘いでいたとき、将校が労働を免除され、給食もまた質量とも兵士以上だった。さらに、兵士を旧軍隊さながらに乱暴に扱っていたこともあり、不満が爆発したのである。(略)まもなく『日本新聞』5月25日に「日本新聞友の会」結成の呼びかけが掲載された。反軍闘争、民主運動を進める母体を輪読会という形で文書ごとに組織したのである。『日本新聞』は徐々に読まれるようになり、分所では壁新聞も作成、掲示された。(略)多くの初等教育の機会にさえ恵まれなかった農村出身兵士にとっては、初めての識字教育の場であり、学びの機会でもあった。(『シベリア抑留スターリン独裁下の「収容所群島」の実像』富田武著中公新書 2016年12月25日)

参考文献
『我が青春の軌跡 絵画集』〝陸軍航空兵科特別幹部候補生第1期生のシベリア抑留記“中島裕著(戦場体験放映保存の会収蔵)
 ※この本は、中島裕さんの手作りの本で、1冊は中島さんご本人が持ち、1冊は戦場体験放映保存の会収蔵である。

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