2019年2月22日金曜日

【抜粋】〈「俳句四季」3月号〉俳壇観測194 同世代はなくなるもの――七十代がしたこと、果たせなかったこと  筑紫磐井

(遠藤若狭男の節は略)

●大本義幸(「豈」創刊同人)
 遠藤氏を溯る二か月前、十月十八日に大本義幸がなくなった。七十三歳である。大本義幸といっても現在では余り知る人は多くない。しかし、大本氏なかりせば、攝津幸彦や坪内稔典などの登場はずいぶん変わったものになっていたかも知れない。その意味では現代俳句の恩人である。堀本吟氏は「一九七〇年代ニューウェイブを作った一人」だという。
 一九七〇年代俳句がどのように形成されたかは実は必ずしも明らかでない。一番分かりにくいのが「現代史」であるからだ。長谷川櫂や小澤實がまだドングリの背比べであった時代に、新しい俳句の波が起きかかっていた。ただ歴史には全てそうだが、前史というものがある。大阪、東京、札幌と点々とした後、東京に出てきた大本氏は東中野でバー「八甲田」のバーテンを務め、月一回の閉店日にこの店を開放して若い俳人を集めた。攝津幸彦、澤好摩、大屋達治、藤原龍一郎、長岡裕一郎、石寒太、折笠美秋、石井辰彦、桑原三郎、永島靖子、夏石番矢、林桂、山崎十生、しょうり大、沖山隆久、大井恒行・・「俳句研究」の五〇句競作に参加した作家たちが多い。大本氏が、東京にいた一九七〇年代前半こそ新しい俳句の発酵時期だったのだ。
 その後、坪内稔典の「日時計」に参加。それが分裂した後、大本氏は自ら「黄金海岸」を創刊する(もうひとつは澤好摩「天敵」であり、後「未定」に発展)。同人は攝津幸彦、坪内稔典と言う豪華な顔ぶれだ。その雑誌が四号で自爆終刊し、攝津の「豈」、坪内の「現代俳句」に別れると大本氏はそれらに参加、協力している。特に坪内の「現代俳句」には積極的に協力し、その発行、イベントに尽力する。俳句のジャーナリズムとしては今では「俳句」「俳句研究」の二つが語られることが多いのだが、「現代俳句」はニューウェイブの大きな中心だった。また一方で妹尾健と、「戦後俳句史研究会」を発足させている。だから、ニューウェイブの現場にいたという言葉はあながち嘘ではない。
 しかし平成一五年以後ほとんど前身に癌を転移させ手術や放射線治療、化学治療を受けていた。咽頭も切除され、声の出ない俳人としてそれでも句会に出席していた。壮絶な後半生であった。句集は『非』『硝子器に春の影みち』と少ないが、「おおもっちゃんの骨は俺が拾う」と言っていた攝津幸彦が夭折した後は、作品はもっぱら「豈」に発表していた。「豈」の行く末を看取るつもりであったかも知れない。それでも生き抜く意志があったことは最近の句からも分かる。

われも死ぬいまではないが花みづき 大本義幸

  ※詳しくは「俳句四季」3月号をお読み下さい。

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