2016年1月22日金曜日

『天使の涎』を捏ねてみた (びーぐる29号より転載)  / 竹岡一郎



四月に面白い句集が出た。北大路翼の「天使の涎」。新宿歌舞伎町という、いわば日本の九龍城の一角にて、バー「砂の城」を営みながら二〇一二年から二〇一四年の三年間に作り続けた二千句を、それこそ味噌も糞も一緒に叩きつけたような句集である。

帯文は、画家の会田誠。「ジュースミキサー」という巨大な絵を描いている。高さは三メートル位もあったろうか、巨大なミキサーの中で微笑みながら血泥になってゆく少女の群。展覧会場で、いつまでも仰いでいた記憶がある。つまるところ、どんなに取り繕おうとも現実の世界とはまさにこのように、美しい初々しいものが見る間に血泥と化してゆくではないか。

装画は、漫画家の新井英樹。「ザ・ワールド・イズ・マイン」という漫画で、賛否を巻き起こした。殺人鬼と郵便局員の二人行脚の物語で、途中からヒグマドンというヒグマに似た怪獣が暴れまくる。物語の最後、世界中の核兵器が地球を吹っ飛ばす直前に、太平洋上に島と膨れ上がったヒグマドンが慟哭する。私が一番感情移入したのは、その時のヒグマドンだった。

当代最も過激な二人の絵師が推す句集は、勿論面白い筈だが、或る中堅の伝統俳人に感想を聞いたところ、「雑すぎる」の一言であった。成程、雑であるか。「俗すぎる」。成程、俗情であるか。では、句集中のこんな句は。

蛇口から今朝の始まる花の冷え 
夏を待つ生き物にある湿りかな 
ぶかぶかの靴履くやうな風邪心地 
古着屋の雪の匂ひと火の匂ひ

見事なものではないか。伝統俳人が唸るような、しかも上品な俳句だって、その気になれば作者は幾らでも作れる筈だ。しかし、どうも作者は喧嘩を売りたいのだろう。何に対してか。伝統に対して? いやいや、そんな、人間の作った小さな器に対してではない。

啓蟄のなかなか始まらない喧嘩
街における喧嘩には、ある一定の儀式がある。先ず眼を合わせ、次に睨み合い、低い呟きの応酬があり、それは互いの力量と緩みを窺っている。突然、バネが弾けて拳が飛ぶ、または蹴りが入る。野次馬は漸く安心する。物事があるべきところに収まった安心感だ。啓蟄が利いている。虫たちは地上に出て直ぐに食らい合うわけではない。機会を窺っているのである。

へらへらとして花の夜の命乞ひ
「へらへら」が、或る種のチンピラの絶妙な描写となっている。つまんない男だな、と思わせる命乞いがあるものだが、そんな男にも夢はあり希望はあるのだろう。それが花なのだ。「花の夜」と置いたのは作者の、命乞いする者への優しさである。

かくも寡黙花を殺めてきし人は
花、即ち桜を何と観るか、恋と観るか、夢と観るか、希望と観るか。幸せとも理想とも観えようが、要するに人が明日を思うために必要な美しいもの。桜が日本人の美意識である事を考えると、この花は動かない。雪の冷たさや月の遙かさでは困るのだ。花を殺めてこそ、この寡黙の裏の無音の慟哭が響く。
  さつきまで遺体が乗つてゐたタンポポ 
  炎天や家なきものは常に寝て
タンポポは作者自身であろう。さっきまで遺体に圧されていた事を思いつつ、無言で咲いているのは、どこの誰ともわからぬ死者を悼むからだ。一方で、何の為ともわからぬ体力を誰の為ともわからぬ明日へ温存させるために出来るだけ寝ている浮浪者を容赦なく灼き、晴れ渡っているのも作者である。灼熱の惨たらしい天でありたく願うのは、世界の惨状に対抗せねばならぬからだ。

秋天の青は俺には要らぬ色
「要らぬ」は反語であり、痩我慢だろう。本当は欲しくてたまらぬからこそ、要らぬ、と言わねばならぬ。それとも、秋天の青など自分には勿体ないと、健気にも思いつめているのか。欲しい、と素直な少女のように言ってみたくはないか。

秋深む中年の目が少女のやう
秋と共に憂い深むとき、通りすがりの何者でもない中年の目が少女のそれに見えるのであれば、それは秋天の青が欲しいと言っているのと同じことだ。

呼んでくれ俺なら朧にゐる叫べ
呼んで叫んでくれなければ、自分と、朧である世界との境目は、遂に判然としないのだ。救われたく、救いたいのか。救う事により救われたいのか。或いは、遂に救われない諸々をせめて掬い上げたいのか。

饐えかへる家出の臭ひ熱帯夜 
薄氷や十六歳で客を取る 
キャバ嬢と見てゐるライバル店の火事
思春期の体臭は、熱帯夜にこそ満ちるのだ。饐えかへる、とは行き処無いことの暗喩である。どこもみな袋小路のように熱の籠る今夜にこそ、この生きて有る体から発する、行き処の見当らぬ臭いは、不安のように、捨て鉢の遣り切れなさのように積み上がる。

それでも、女なら、年頃ならば、身一つでも稼げるのだ、全く心を捨ててしまえば。只、捨てたと思っても捨てきれぬのが心で、捨てられない心はいつ毀れるか分らず、毀れてからまだ有った、と気付くものだ。この世に最も儚く毀れるのが薄氷であるなら、十六歳という年齢そのものが薄氷とも観えようか。

そんな風に心を壊しつつキャバクラ嬢に成ったりもする。行き処無くともノルマがあるのは、ライバル店は雨後のナメクジの如く殖えるからで、だが、どうせ店に義理なんかない、「あたしの体で食えてる店だもの」。

目の前の燃えている店は昨日までいた店かも知れず、実入りがいいと聞いて明日から移ろうと思っていた店かもしれず、友達のトモちゃんやこの前ラーメン驕ってくれた従業員のジュン君がいた店かも知れず、ライバル店とは云っても燃えて喜ぶ義務なんかなく、それでも冬の火事はとても綺麗、これで雪とか降れば良いのに。きっと清々しいよ。このまま大雪になって何もかも埋め尽くしたその真ん中に、火事だけが永遠に立ち上がり照らしていれば良いのに。

そんな女の気持ちが見えたくないのに見えてしまうのは、作者も似たような体験をしているからで、いや、考えてみれば、子供の頃からそんな思いしかなかった。

新宿公園ぶらんこも砂場もない 
日暮れまで蟬泣く墓地が原風景
ぶらんこや砂場を目で探すとき、作者は子供の自らを探しているのだ。新宿公園に一目瞭然、ぶらんこや砂場が無いように、無邪気な自分など、子供時代にさえどこにも居なかった。覚えているのは、日暮れまで居た墓地だけだ。腰掛けると寂しい冷たい墓石の上は、しかし夏だから何だか心地良くもあった。そんな風景が自分の根っ子で、蟬は鳴くのではなく、泣いていた。幾ら記憶を辿ってみても、そうとしか聞こえなかったことが、無性に腹立たしい。

産道で見たことのある秋夕焼

この寂しさはそもそも生まれ落ちる時からのものだ。胎内の血の色が寂しいなら、出産の際の母の出血は、自分の浮かんでいた寂しさが、そのまま外界へと溢れ出した色だ。それが空に充ち、秋夕焼となるのなら、今仰ぐ空の色は、母と自分の共有する寂しさだ。

それを見ている自分は、果たして何者なのか。いや、そもそも人間なのか。母の股だと信じ込んでいたものは、実は木の股だったりしないか。

悴んで人間になる途中かな

皆、自分が人間だと思ってないか。人間であることに確信は有るか。人間性とか人間愛とかいうだろう。自分がそんな高邁な美しいものだと思うかい。疑い始めると、思わず悴んでしまわないか。地にへたりたくならないか。悴んでへたりたくなるなら、疑うだけの心があれば、実はそれこそが高邁なる美しい人間と謳われるものになる途中で、だから悴む事は良いことだ。

周囲が人間だと言ってるから、疑いも無く人間の振りをしている連中は、せっかく人間と生まれながら遂に人間とは成れないよ。死際に果たして人間だったろうかと疑う破目になるよ。成れなかった後悔の猛吹雪の中でまた乞う次回、ってことになるさ。

真夜中の地下はいつでも吹雪きをり 

かの屋台吹雪く夜だけにあらはるる

真夜中の地下は、どこもいつでも吹雪くように思われる。吹雪くのは、地下の隅に吹き溜っていた、さまよう一念の堆積か。暗冥自体が吹雪いているのか。吹雪は、根の堅洲国から吹くのか。
屋台は救いかもしれぬ。罠かもしれぬ。吹雪く夜だけに現われるところが曲者である。矢も楯もたまらず、立ち寄りたくなるからだ。そもそも何だって、こんな吹雪の夜に、自分は一人で居るのだ。吹雪であり、暗黒が広がる此処が何処で、なぜ此処に居るのかわからない自分とは、何なのか。
吹雪だから屋台が来るのか、本当にそうか。実はあの屋台が現れるから吹雪くのではないのか。屋台が、吹雪を背負って来ているのではないか。

寡黙なること冬を冬だと思ふこと

こんな寡黙さ、こんな当り前すぎる思いを護持する事によってしか立ち向かえない時がある。それが日常の手ごわさで、なぜなら、日常は目立たぬ形で常に死へと続いているからで、ならば、夥しい死を詠おう、立ち向かうために。

この町を出るため寒鴉の餌に 
凍畑を掘れば重なり合ふ骸 
透き通るやうな白さや蛆がわく 
骨壺を抱いてゐさうな日傘かな 
鳥籠を抱く葬列が死火山へ 
短命の虫をうらやましく思ふ 
死にきれぬ分だけ夜が長くなる

 鴉の翼を得る為に、鴉の血肉と成ろうか。凍てが緩むまで、骸は溶けずに形を留めていようか。死を蔵すると意識される時こそ、肉体は美しく見られるだろうか。日傘の下に懐かしく抱かれたいのは、己が遺骨であるか。空の鳥籠に残る死を捧げれば、火山は復活するか。虫よりもなお儚く夕べに白骨となるやもしれず、生きる苦にのたうつ身を、なお覆う夜は、生にも死にも属さないだろうか。

自分の死は、まあ、受け容れられるのだ。こんなもんだろう、と。だが、死んじゃいけない人間もいた。例えば、

  月に怯える猫をかばつてゐるだらう
この句には、「亡き君の誕生日をFacebookが届け続ける。生きてあれば。」の前書きがある。月に怯える猫は最弱の猫であろう。生きてあれば、そんな猫をかばう君であった。死してなお、そんなことを続けるだろう君なのだ。君が生きてあれば、世界はその分柔らかく有ったのだろうか。

霜夜二人死ぬ順番の選べざる

さて、好きな人の為に先に死ぬ事を選ぶか、それとも好きな人を看取るために後に死ぬ事を選ぶか。同時に死ねれば一番良いかもしれぬが、こればっかりはどうにもならぬ。せめて生きている間は柔らかく在りたいのだが、如何せん、霜夜。寒さにかたくなな肉体。

投石に夏のすべてを捧げたわ

こんなことを言ってしまう女を、作者は抱きしめるのだろう。石は、絶対に届かない天に向かって投げられ、その行為に女の夏の全てが在るのなら、全てを捧げて清々しく空っぽな女を、今は作者が充たさんとするか。

絶頂のその先にある蝶の脚 
黙禱もキスも目を閉づ蟬時雨

蝶の脚が見える絶頂は、性愛の絶頂か。その絶頂の先に、女は死を抱き、男は虚無を抱くなら、蝶は魂の暗喩であろう。魂のか細い、糸のような脚が見えている。女の魂か、男である作者自身の魂か、それとも新宿という不夜城が、もし一つの魂を持っているのなら、その脚は意外とこんな風に、折れそうに儚く見えるのか。

黙禱は死者の為に沈潜する行為であり、キスは恋人の心に沈潜する行為である。より深く沈むために目は閉じられるのだが、視界無き時に天より降り注ぐ蟬時雨は、それは蟬の命のように儚い永遠が降り注いでいるのだ。死に隣り合う命が、破局に隣り合う恋が、降り注いでいる。見えない滝のように降り注ぐ性愛あるいは死、それは作者が胸底へと沈め続ける、何ものへと向けるかも遂に判然としない糾弾、或いは希求、即ち慟哭。

  灯を消せば彼方より来る滝の音

 滝とは霊的な場であって、この世に有りながらあの世に属するものでもある。それは方円の器に従う水の集まりでありながら、岩をも削るエネルギーでもある。作者が灯を消して闇に浸る時、滝の音が訪れる。音のみであるから、水という物体でさえもない、永遠に流れ続けるエネルギーの響きなのだ。

棄つるべし激しき滝になるために

 もとより棄てるものなどハナから待たぬから、かくも雑にして俗なる二千句の惑乱が成るのだ。上品なる良識の内に住んで、穏便に大人らしく善良に且つこの上なく傲慢に、美と醜、正義と悪徳、カタギなる思いとヤクザなる思いを峻別していれば、もっとマトモな、誰にでも共感できる、「身の丈に合った」、伝統の中に安住する教養ある人々から拍手と同意を得られるような、そんな句集が出来た筈だが、そうする為には冷血に捨てねばならない多くの、今までもこれからも顧みられず捨てられてきた心、多くの、暢気な、捨鉢な、泣いたり笑ったりしながら或る日ふっと消えて行方も分からぬ男たちや女たち、新宿歌舞伎町の六道輪廻を流れゆく魂たち、これらの魂の一つ一つが時折見せる奇跡を、誰が掬い上げるのか。

「棄つるべし」とは、反語である。滝の激しさとは、慟哭である。絶えず入れ代わり立ち代わり現われる数多の惨たらしさに、ただ寄り添って立つ滝なのだ。

私はここで、この句集には収められていない、作者の一句を思い出すのだ。

  毛虫焼く頭の中で蝶にして   《新撰21(邑書林、2009年)所収》
毛虫を焼かねばならぬのは、暮らしの業である。蛾にはなっても絶対に蝶にはならない毛虫を、せめて蝶になったところを思いつつ、焼く。焼くのは人間の都合である。毛虫を蝶にするのは、運命を超えんとする衝動である。この句を読んだとき、作者の苦しい思いは胸を打ったのだ。だから、ずっと憶えていた。毛虫の句に籠められた遣る瀬無さの発展形として、この句集が立ち上がる。毛虫を毛虫と容赦なく認識しつつ、それでも何とか蝶とならぬか、と探し回る過程なのだ。探し物は見つかるか。見つからない嘆きを再び「天使の涎」の中に探すなら、

  星空が硬くて月が自転しない

 月は作者であろう。月はどこかに飛んでゆきたい訳ではない。自転したいだけなのに、それすらも出来ない。星空を、硬い、と感じる心。星空を虚空とも自由とも思えないのは、あまりにも遙かな何か、人間には殆ど不可能な自由を希求しているからだ。

天高し毒持つ魚を叩きつけ

地へ叩きつけるのだろうが、心情としては、到底届かぬ天に対してだ。人間と生まれた限り、いや、仮に天部と生まれたって手の届かない何か、それを自由と呼ぶにはあまりにもおぼろで、だが、人間は思考することが出来るから、その何かを推し測ることが出来、そして毒を持つ。毒、とは届かぬ祈りである。水棲の、低きにしか住めぬ、魚という自分を、考えるだけでも眩暈のする遙かさへ叩きつける、それが俺のやり方だと、作者は言うのだ。雑にして俗と見なされても、それが作者の、身を引きちぎるような全力であり、伝統俳人達の目にどれほど悪趣味に見えようとも、


俺にしか着れない浴衣の柄がある


少し照れつつ開き直りつつ、股が見えるほど浴衣の裾をはだけ、アスファルトをぐわらぐわらと駆けてゆく、あの男が、北大路翼だ。




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