近所の木立からまるでねじでも巻くようなギイイイッという規則的な鳥の声が聞こえた。我々はその鳥を「ねじまき鳥」と呼んでいた。妻がそう名づけたのだ。本当の名前は知らない。どんな姿をしているのかも知らない。でもそれに関係なく《ねじまき鳥》は毎日その近所の木立にやってきて、我々の属する静かな世界のねじを巻いた。
(村上春樹「ねじまき鳥と火曜日の女たち」『象の消滅』新潮社、2005年、p.35)
作品を書くとき、常にぼんやりとだけど「読者」を想定しているような気がする。それは川柳や俳句や短歌や詩を読むのが好きなひとであり、川柳という言葉は知ってても実体は知らないひとであり、あるいは本は好きだけど短歌と俳句の区別はつかないひとたちである。…
街を歩いていて、どこかの店から「ホテルカリフォルニア」が聞こえてくれば、
Such a lovely place…
と、音楽にあまり造詣のないわたしでもつい口ずさんでしまうように、ある日、どこかの町角で、だれかの口からふっと自分の句の断片が洩れたりしないだろうかと、夢想する。
(なかはられいこ「れいこさんにもなんか書いてもらいます」『川柳ねじまき』第2号、2015年12月)
今回はつい先日発行されたばかりの川柳誌を取り上げてみたいと思います。なかはられいこさん及びねじまき句会が発行している『川柳ねじまき』第2号(2015年12月)です。
このねじまき句会における〈ねじまき川柳〉は不思議で幻想的な感じの川柳が多いんですが、その不思議さは村上春樹の小説に出てくる〈ねじまき鳥〉の不思議さにも似ています。つまり、どこか日常に、とても身近な場所に息づきながらも、非日常に踏み込まない限り見つけ出せない〈なにか〉なのです。それはまさに現代川柳の不思議さそのものなのではないかとも思います(余談だけれども、思想家のツヴェタン・トドロフもたしか〈幻想〉の定義を《日常と非日常の〈ためらい〉》としていたように思います)。
実際どのような感じの句があるのか『川柳ねじまき』から一句ずつ引用してみたいと思います。
百人の腹筋揺れて冬野原 なかはられいこ
風船の日々ふくらんでゆく住所 二村鉄子
泣いている自然界にはない声で 丸山進
モザイクを一日おきにかけている 三好光明
灯台の8秒毎にくる痛み 八上桐子
罰として「ど」の音だけを聞かされる 米山明日歌
ピリオドを打つとむくむく出てくる無 青砥和子
雫だったことはつららには内緒 安藤なみ
ガチャピンでもムックでもなく鉄仮面 魚澄秋来
あるようで無い蓮根の肋ぼね 北原おさ虫
牛乳寒天わたくしを包囲する 妹尾凛
全方位的に完璧な煮くずれ 瀧村小奈生
風呂の栓抜くとながれる蛍の光 中川喜代子
よく眠る人から鍵を渡される ながたまみ
このような感じの日常と非日常をゆききする不思議な句が並んでいるんですが、今回は句を〈読む〉ということはせずに、〈誌面〉を読むということをしてみたいと思うんですね。それが『川柳ねじまき』の独特の川柳空間構成にもなっていると思うからです。
この『川柳ねじまき』の誌面の特徴として、〈川柳ができあがる現場そのものを見せる〉っていうのが言えるんじゃないかと思うんです。川柳誌だから川柳だけを載せておけばいいんだ、というのではなくて、CDのライナーノートのように連作の下に毎回連作ごとに解説が書いてある。読者は連作を読みながらいつでもその解説に目を移せるようになっています。曲を聴きながら解説を読むように、連作を読みながら解説が読めるようになっている。しかもその解説っていうのは、前のページで連作を語り終えたひとが次のひとの連作の解説をリレー方式で書く形になっているんです。つまり、川柳を語り終えたひとが、次のひとの川柳の解説を語るというそういう構成になっている。これがとても大きな特徴になっている。
このことによってどういう効果が出るのでしょうか。
私は、こう、思うんです。私たち読者はまず〈川柳=詩的形式〉を通してその作者に出会う。その作者のことを川柳連作によって知る。作者の詩にまず触れる。そして次にその作者に解説で出会う。解説というのは非・詩的形式ですから、理屈のとおった文章として再びその作者にであうわけです。〈川柳=詩的形式〉から降りた作者に〈解説=非詩的形式〉として出会う。
川柳を書くあなたと、解説を書くあなたに、出会う。ふたつのレベルでものを語る〈あなた〉と出会う。
そのときそのひとりひとりの作者がどんなふうにふだんの言語のチャンネルから、川柳の詩的チャンネルへと〈詩的跳躍〉を行っているのかが手に取るようにわかるのではないかと思うんです。ああ、川柳ってこんなふうに詩的跳躍するのかと。いわば、ねじまきの彼女ら/彼らが〈詩の跳び箱台〉をジャンプするしゅんかんそのものが〈まざまざ〉とその誌面では語られているのではないかと思うのです。
なかはられいこさんはふだんから〈百人の揺れる腹筋〉について考えているわけではないし(たぶん)、妹尾凛さんはふだんから〈牛乳寒天に包囲されている〉わけでもない(たぶん)。なかはらさんも妹尾さんも〈川柳〉という形式を通してそこまでジャンプしているのです。〈川柳〉という形式を通してはじめて出会うことのできる〈腹筋〉や〈牛乳寒天〉が、ある。そのことをこの『ねじまき川柳』の誌面はあらわしている。誌面が、語っているのです。ギイイイイイイイイイッと。
〈解説〉という詩的跳躍できない言論が、きちんと川柳を語ったすべてのメンバーによって書かれているからこそ、その〈ジャンプ〉の様子がわかる。そうした〈川柳の文法〉がつくられているその〈しゅんかん〉が〈実況〉的にわかる誌面になっているのです。
川柳をつくっている人間はふだんはなにを考えているのか、でもそのふだん考えていることが川柳を通して〈どう〉跳躍するのか、躍動するのか。〈どうやって〉ひとは川柳によって次元の違うチャンネルに向かうのか。そういう〈川柳そのものが湧いてくる根っこ〉に疑問が向くような仕組み=仕掛けになっている。それがこの川柳誌の機械仕掛けのように埋め込まれた〈ねじまき鳥〉の正体なんじゃないかと思うのです。
この『川柳ねじまき』では第1号でもそうだったんですが、「ねじまき句会を実況する」という句会の実況中継が記事になっているものがあるんですね。それもひとつの『川柳ねじまき』の大きな特徴だと思うんですよ。対談でも、鼎談でもない。レポートでもない。句会の実況中継です。多声的なライヴがそのまま誌面化されている。そこでも読み手は、川柳をつくっているめいめいがジャンプしようとしたり、ためらったり、ジャンプのタイミングをうかがったり、勢いよく跳躍していったりするさまを実況というライヴ感覚で知ることができる。現代川柳は非日常的で不可思議ですが、必ずそこには日常と地続きのジャンプがあることを『川柳ねじまき』の誌面は教えてくれる。
以上のように、読者が〈川柳〉がつくられている現場そのものへと立ち会えるような仕掛けがたくさん施されている。それが『川柳ねじまき』だと思うんです。
句がどこか〈よそ〉でつくられているのではなく、〈いま・ここ〉で、こんなにもすてきな場所で、〈Such a lovely place〉でつくられているのだということ〈そのもの〉を誌面にする。それがホテル・カリフォルニアのような、ホテル・ネジマキなのです。
〈川柳〉に出会うってどういうことなんだろう、〈詩〉に出会うってどういうことなんだろう、〈言葉〉に出会うってどういうことなんだろう、とよく考えるのですが、たった一句でひとは〈川柳〉に出会う場合もあるし、なにか・どこかの場所で、ホテル・カリフォルニアのような〈閉じこめられた愛しい場所〉で、ある〈裂け目〉に不意にたちあい、そこから・そのしゅんかんに〈川柳〉に出会う場合も、ある。ひとは句の強度だけでなく、句ができあがる〈現場〉そのものからその〈現場の強度〉とともに句とであうこともある。実況的にひとはその渦中のなかで〈言葉〉とであうこともあるのです。
イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」のホテルは、カフカの「掟の門」のように、出たり入ったりすることは自由だけれど、でもそこから二度と逃げることはできないという奇妙な逆説の空間を紡いでいました。悪夢のような、天国のような二重の空間を。
わたしたちはふだん、自由に何気なく〈ふつう〉の言葉を交わしながら、あるとき、句を、歌を、詩を、つむぎ、つむいでしまい、その一点に〈つかまり〉、二度と出られなくなってしまう〈しゅんかん〉がある。それは語る時にも、読む時にも、そのどちらの時に《も》です。わたしたちは語り手として、読者として、言葉に、つかまる。
でも、そのとき、はじめて、ひとは、〈言葉〉に対して「はじめまして」が言えるようにも、思うのです。つまり、ひとは〈つかまってしまった〉ときにはじめて「はじめまして」が言えるのではないか、「はじめまして」のことを真剣に考えることができるのではないか。
イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」でもたしか最後はこんなふうに歌われていました。もうこの記事の最後まで来ましたので(異例ではありますが)歌いながら今日は時評を終わりにしてみようと思います。「ここではなんだっておまえの好きなようにしていい。いつでもこのホテルから出たいときに出ていいんだ。けれど、おまえはもうここから一生抜け出せない。おまえはつかまってしまったのだ。はじめまして」
「野望は語らないと具現化できないって、むかし、おぎはらさんがゆってたよ」と教えてくれたのだった。
いつか出会うはずのひとたちに、「はじめまして」を言い続けたい。川柳という形式の端っこを、ひっぱったり伸ばしたりして、確かめながら。
(なかはられいこ「れいこさんにもなんか書いてもらいます」『川柳ねじまき』第2号、2015年12月)
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