2015年6月12日金曜日

 【時壇】 登頂回望その六十九 / 網野 月を


その六十九(朝日俳壇平成27年6月1日から)
                         
◆母の日や母を忘れし母とゐて (高松市)永森ケイ子

稲畑汀子の選である。評には「一句目。自分が母であることを忘れている母である。長寿国日本の一面が描けた。」と記されている。忘れている原因は何なんだろうか。多忙なためか?そうではあるまい。評にもあるように認知症に類することがその因であろうと考える。上五「母の日や」に十分に感情を注入しておいて、中七座五は「ゐて」と客観的な表現に留めて、それ以上の感情表現のないことが、俳としての真髄であろう。

◆若葉もくもく山々深々と (白山市)辰巳葉流

稲畑汀子と長谷川櫂の共選である。「若葉」と「山々」を「もくもく」と「深々」で担保している。「もくもく」も「深々」も活写の逆であり、文学的表現の典型である。「若葉」「山々」は集合体であるから、活写すること=個別的表現の対象を描くことにはならず、つまり活写出来ないのだ。それだけに修飾表現が多少観念的になっているかも知れない。

◆山吹や山へと還る家の跡 (西東京市)中村康孝

長谷川櫂の選である。家が朽ちて跡となり、山の一部となって自然へ還元していくのだ。上五「山吹や」の後の切れが見事に決まって効果抜群である。しっかりと切れを作り出したことで、自然物の「山吹」の花と人工物の「家」の対比が輪郭を以ち、両者の永遠性の有無が鮮明になった。

◆教へ子の棺に白き春の雨 (鹿児島市)青野迦葉

長谷川櫂の選である。教員にとって教え子の死ほど堪えるものはない。手塩にかけ育んだ教え子を見送る時の切なさと無気力感は忘れられないことだろう。卒業生になっても、当然その教員よりは若くてこれから人生で活躍する人ばかりだ。今現在、手元に置いて教えている児童・生徒、学生ならば尚更のこと堪えるだろう。筆者も同業であり、今までに在学中の教え子を三人見送った経験がある。

切れのない十七音に何時までも止まらない雨に喩えた作者の無念が滲んでいる。


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