2015年6月26日金曜日

 【時壇】 登頂回望その七十・七十一/ 網野 月を

その七十(朝日俳壇平成27年6月8日から)
                         
◆あだ名呼ぶいるかと泳ぐ離島の子 (埼玉県宮代町)酒井忠正

金子兜太の選である。上五の「あだ名呼ぶ」の主語は中七座五の「子」ということであろうか?子が呼び合っているのだ。子がいるかを「あだ名で呼ぶ」ならば、共に泳いでいるいるかに愛称を付けていると思えるのだが、やはり子同士があだ名で呼び合っているのだ。ということは、「子」とあるが複数を表している。

◆夏霧や猫の体のをとがする (神戸市)豊原清明

金子兜太の選である。評には「十句目豊原氏。虚しく鋭い。」と記されている。不思議な句である。筆者は不勉強で猫の体からどのような音がするか知らないが、作者の体の何処からか猫と同じ音がするのだろう。作者の内に猫に変化した感覚があるのかも知れない。そうした雰囲気を上五の「夏霧や」で括っている。

◆藻の花に振り込みし浮子動きけり (朝倉市)浅川走帆

長谷川櫂と大串章の共選である。大串章の評には「第一句。ひと揺らぎした浮子が水中に沈みだしたら釣竿を上げる。そのタイミングが難しい。」と記されている。繁茂する「藻の花」の内にも釣りの獲物が潜んでいたのだ。その驚きに気をとられた作者がいる。「浮子動きけり」はこの作者が見入ってしまって動けずにいる様子だ。獲物はその隙に逃げてしまって釣果は無かったろう。浮子は「動きけり」と言いながら、作者の固まって身じろぎできないでいる景を暗示している。

◆人なくて夜の噴水音高し (長崎市)田中正和

長谷川櫂の選である。「人なくて」ということは、作者は何処にいるのだろう?上五の「人なくて」は作者以外の他人が何処にもいない、という句意であろうか。それとも「夜の噴水」を想望しての作句だろうか。

◆草色を出てあぢさゐの始まりし (福知山市)宮本幸子

稲畑汀子の選である。紫陽花の花と思われるところは額であるという。額に囲まれて僅かに中心に咲いているのが花であるそうだ。その花と思われている額の部分が色づいてから、花が咲いたという意識が出てくるのが一般的だ。が作者はその額の部分が未だ色づく前の色合いへ思いを馳せている。「草色を出て」が新味である。



その七十一(朝日俳壇平成27年6月14日から)
                          
◆七十になつても末つ子金魚玉 (飯塚市)古野道子

長谷川櫂の選である。評には「一席。こればかりは仕方ない。弟さんをよんだ句らしいが、甘えん坊の感じ躍如。」と記されている。金魚玉を見ると弟さんを想い出すということなのか?弟さんは幼い頃に金魚を愛玩して金魚玉を欲しがったのかも知れない。評にある「甘えん坊」はそうした姉から弟さんへの視線を評した言葉である。筆者は大学時代の先輩へ「何時まで経っても後輩は後輩なんですよね!」と言ったことがある。先輩から見ればさぞ「甘えん坊」に見えたであろう。

中七には「なっても」「末っ子」と音的には二つの促音が連なっているが、掲句のような文字の表記を使用して文字的にはそれほど気にならなくなっている。

◆サラリーマン劇画のやうにビール飲む (東京都)竹内宗一郎

大串章の選である。座五「ビール飲む」の述語に対して、上五の「サラリーマン」が主語なのであろうか。それとも作者自身が主語であり、「サラリーマン劇画」の主人公の島耕作のような飲み方を真似る、と言うことなのであろうか。つまり上五の後に切れが生じているかどうかが問題なのである。ハンフリー・ボガードを真似てシガレットを咥え喫煙することが流行した時代があった。憧れのスターを真似た仕草は流行ったのだ。一方でサラリーマンを主人公とした所謂「サラリーマン劇画」が存在する。

誰かがビールを飲んでいるのであって、然程、景が異なるわけではないのだが、主語が確定された方が俳句の場合には重要な気がする。

◆夏が来ておつぱいの大きい子ニヤニヤ (新潟市) 駒形豊

金子兜太の選である。評には「十句目駒形氏。「ニヤニヤ」がよい。笑うでは野暮。」と記されている。将に「ニヤニヤ」なのだ。「おつぱいの大きい子」の心境は一言では言い尽くせないからである。「おつぱいの大きい」ことを自分のチャーミングポイントと思っていたり、逆に恥ずかしく思っていたりする場合がある。服の選択に迷っていたり、買って準備万端用意している服を着るチャンスが来たと喜んだりする。「ニヤニヤ」は、そうした曖昧な表情を表現する擬態語である。また幾つかの感情が混然としている表情を表現してもいる。「おつぱいの大き」さの基準こそ曖昧な気がするのだが。



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