先月末、安倍首相が花見の際に披露したという俳句が新聞やテレビで紹介された。「賃上げの花が舞い散る春の風」という句がそれである。安倍首相が俳句を披露したのはこれが初めてではない。昨年四月にも「給料の上がりし春は八重桜」と詠んでおり、また同じく昨年一〇月のイタリア訪問の際もEUのバローゾ欧州委員長らに俳句を贈っている。
僕はこれらの俳句について、その表現としての未熟さを指摘しようとは思わない。僕にとって何より興味深いのは、僕たちがこれらをごく自然に「俳句」として読んでしまったという事態そのものである。これらの句を「俳句」として読んだのは、もちろん、これらの句が安倍首相の「俳句」として報道されたからであろう。だがこのような報道が可能であったのは僕たちに「俳句」という表現形式についての共通理解が成立しているからである。一方で僕たちは、「俳句」とは何か、という問いを少なからず目にしてきた。幾度も繰り返され懐かしい気配さえ漂うこの問いは、たとえば竹岡一郎が今月上梓した『ふるさとのはつこひ』(ふらんす堂、二〇一五)にも見られるように、今なお問い直されていることだ。にもかかわらず僕たちは「俳句」の何たるかをすでに理解しているようなのである。僕はこれらのどちらが間違っているとも思わないが、いまの僕は、「俳句」とは何かと問う誠実さにどことなく気後れがし、むしろ、わかっているような顔で「俳句」について語る身ぶりのほうこそが信じられる気がするのである。
芥川龍之介の「侏儒の言葉」に次の一節がある。
我我は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論游泳を学ばないものは満足に泳げる理窟はない。同様にランニングを学ばないものは大抵人後に落ちそうである。すると我我も創痍を負わずに人生の競技場を出られる筈はない。(略)
人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。こう云うゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得ないものはさっさと埒外に歩み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは創痍を恐れずに闘わなければならぬ。
試みに芥川のこの言葉に倣うなら、僕たちにはたしかに、俳句を学ばないうちに俳句を詠み・読むということがある。「俳句」とは何かという問いが今なお繰り返される所以である。「我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ」という一文の「人生」を「俳句」に置き換えたとき、そこにいくばくかのリアリティを感受するということはたしかにある。ただその一方で、こうした誠実な姿勢を嗤わずにいられないのははたして僕だけであろうか。芥川は「こう云うゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得ないものはさっさと埒外に歩み去るが好い」と言い、「人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは創痍を恐れずに闘わなければならぬ」と言う。だが、いったい芥川のいう「ゲエム」「競技場」にとどまるほどの切実な理由が本当に僕たちにあるのだろうか。
そういえば安井浩司が俳句の現在について書いた一文のなかに、俳句を競技に見立てた次の言葉があった。
いつからか、俳人は、こまめに近距離のものをのみ撃つようになることであった。たとえば、彼にとって、近距離のものしか見えないせいだろうか。いや、私は、それを素材主義というほど狭量ではないつもりだ。ただ、近距離において、はやばやと安い魂を射てしまう空しさだけが目立つのである。小公園の狭い場の中で、さかんに撃ちあうから、命中率は高いだろう。命中弾を撃つことは、遠いものへの至近弾を撃つことよりも簡単なのである。私の観察するところ、近代俳句史のなれの果ては、ひたすら〝命中〟を楽しむ射的の場だけがひらけているようであり、そういう〝名手〟だけが要請されているようである。
(「渇仰のはて」『海辺のアポリア』邑書林、二〇〇九)
安井のいう「ひたすら〝命中〟を楽しむ射的の場」「小公園の狭い場」は、芥川の「ゲエム」「競技場」とおよそ異なるものであろう。安井と芥川のまなざしの先にあるものが必ずしも同じであるとは思わないが、少なくとも両者はその誠実な姿勢においていくらか共通するところを見出せそうである。そしてそれゆえ、僕は安井のこの言葉に同意するとともに、同意するという自らの振る舞いをついに嗤うことなく全うする自信がないのである。さらにいうなら、僕は「ひたすら〝命中〟を楽しむ射的の場」ではなく芥川流の「競技場」にとどまりうると今なお信じることのほうにこそ空々しさを感じるのである。僕たちは本当に「はやばやと安い魂を射てしまう空しさ」に抗うほどの理由を持っているのだろうか。
たとえば摂津幸彦とは、こうした空々しさに自覚的な作家であったように思う。摂津はその空々しさを知っていたからこそ「こまめに近距離のものをのみ撃つ」ことをやめなかったように思うし、また、「こまめに近距離のものをのみ撃つ」ときと同じ姿勢で「遠いものへの至近弾を撃つ」こともできたからこそ摂津は稀有な書き手であったように思う。実際、高柳重信が摂津の『鳥子』の序文に記した「本当にすぐれた俳人は、ただ一人の例外もなく、そのときどきの俳句形式にとって予想外のところから、まさに新しく俳句を発見することによって、いつも突然に登場して来たのである」という言葉は、摂津をこのように理解するときいくらか了解できるようにも思うのである。先にふれた竹岡の句集の巻末には摂津から影響を受けた旨を綴った一文が見られるが、竹岡の句集がどうしてもナンセンスなものに思われてならないのは、いわば「『こまめに近距離のものをのみ撃つ』ときと同じ姿勢で『遠いものへの至近弾を撃つ』」という摂津に倣いつつもその実「こまめに近距離のものをのみ撃」っている、という迂路を辿っていることに対して、竹岡に何の衒いもないように見えるからだ。それを象徴するのが、竹岡が巻末に記した「俳句とは詩の特攻である」という一言であろう。
なぜ俳句を選んだか。「比良坂變」を書いていた頃、漸く形を成してきた思いがある。「俳句とは詩の特攻である」、この答を手にして以来、私は迷わなくなった。
「俳句とは日本のなつかしい山河である」、例えば、こんな答が羨ましくないと言えば嘘になる。だが、如何に羨もうと、それは私のための答ではない。答は恐らく、俳人の数だけあろう。各人が独自の答を見つけられることを祈る。
(「あとがき」前掲『ふるさとのはつこひ』)
僕は「特攻」という言葉を用いた竹岡について倫理的な是非を問おうとは思わない。僕が気になるのは、おそらく摂津は竹岡ほどまっすぐな気分でこうした言葉を用いることはなかったのではないかということのほうである。僕が「俳句とは詩の特攻である」という一言を不思議に思うのは、「摂津幸彦」以後にあってどうして竹岡がこのように素直に書きつけられるのだろうかということにある。
鬼火曰く正義はあたしだけにある
ミサイルに張る蜘蛛の巣を奏でる蝶
聖(ひじり)よ俺は死霊の坩堝かつ子宮
比良坂に植う新しき桃の苗
朝焼のピンヒール「パパ刺して来た」
比良坂や涙のやうに蛆零る
弔銃は無し草笛をただ一度
摂津に「生前ついに、知ることもまみえることも出来なかった悔恨に、逆上」し、「逆上のままに書き綴った」という「比良坂變」から引いた。竹岡の言葉は、その語彙の異様さにもかかわらず、いわば馬脚をあえて晒しているのではないかとさえ思えるようなわかりやすさへと決着していく。摂津が、自分の知っていることを書くことで自分の知らない彼方までを書きえたのに対し、竹岡は自分の知らない言葉で自分の知っていることを書いているのではあるまいか。あるいはまた、次の句の場合はどうだろうか。
巨き脳わたつみへ煮え墜つる夏
安井浩司には「鳥墜ちて青野に伏せり重き脳」があるが、安井の句は「鳥墜ちて青野に伏せり/重き脳」と切れを設けることで「鳥」と「脳」との間に奇妙な歪みを生じさせ、そこに安井独自の存在論さえほのみえる。対して竹岡の句は、たとえるなら「巨き脳」のありようを一枚絵にしたような感じで、そのキャンバスの裏側には何もないがその一枚絵の迫力をもって押し切ったような句である。そして、この押し切りかたがさらなる凄みをもったとき、思いがけない句が現れるようである。竹岡の句に多分に気後れしながらも、しかしいつのまにかそれを忘れてしまう瞬間があったとすれば、それはたとえば次の句に出会ったときだった。
あたしのくしやみで文明畢るけど
鋼鉄の蛹を割つて超てふてふ
おほひなる精子地底湖へ着床
祭あと市電がへんなもの撥ねる
少年が少女に東風をけしかける
螢浴び地獄の覇者になりたくねえ
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