グレン・グールドの愛した俳句的小説
夏目漱石の作品は英語の翻訳書もいくつもあるし、彼の滞在したロンドンには漱石を記念する小さな施設もある。とは言え率直に言って、漱石は決して西洋では有名ではない。少なくとも僕がイギリス人と会話して、漱石の名前が触れられたことは未だにない。だが、漱石に注目する西洋人がいないわけでもない。
カナダの著名なピアニスト、グレン・グールドは漱石の作品をこよなく愛したらしい。グールドは決して日本文化全般に関心が深かったわけではなく、来日の経験もない。だが、なぜだか漱石のみを彼は好んだ。彼は英訳された漱石の本をすべて持っていただけでなく、読めないのに日本語で書かれた漱石の本も集めていたとか。中でも特に彼は漱石の一冊の本を愛読した。だから彼がこの世を去った時、彼の枕元には二冊の本が置かれていた。その一冊は聖書、そしてもう一冊が漱石の『草枕』。彼は、カナダのラジオ放送局で『草枕』の一章を朗読したというし、『草枕』を元にしたラジオ劇を彼が企画する構想まであったらしい。
こんな『草枕』や漱石をグールドが深く愛した事実がまったく世間に知られていないのは理由があって、グールドを論じる西洋の音楽研究者は誰も漱石についての知識などなく、それゆえにこの事実が注目されることもなかったらしい。
「詩人とは自分の屍骸を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。その方便は色々あるが一番手近なのは何でも蚊でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。」
こんな『草枕』の一節を西洋人の天才ピアニストはどう思って読んだのか。一体、何が彼の心を掴んだのか。『草枕』は、漱石自身が「普通にいふ小説とは全く反対」で「美を生命とする俳句的小説」(「余が『草枕』」)と位置づけた独特な作品だ。作品中にはいくつも俳句が登場し、主人公はしきりと俳句の推敲に頭を巡らせもする。とすれば、グールドは『草枕』を通じて俳句の世界にも深く触れたとも言え、いよいよ謎は深まる。
漱石はこの作品を「唯だ一種の感じ——美くしい感じが読者の頭に残りさへすればよい」として、「この俳句的小説が成立つとすれば、文学界に新らしい境域を拓く訳である。この種の小説は未だ西洋にもないやうだ」とも言う。まさに西洋にない独特の俳句的美学を小説形式に導入した作品が、グールドという西洋の偉大な音楽家を虜にした事実はどれだけ注目してもしすぎることはあるまい。
果たしてグールドの音楽は間接的であれ俳句から何かを学んだのか。そのことは実証が難しいが、彼に限らず、必ずしも自らhaikuを作らずともhaikuの影響を何かの形で受けた、という西洋の芸術家はけっこういるのではないかと思う。
※グールドの漱石への関心のことは、「Glenn Gould and Natsume Soseki」https://dajf.org.uk/event/glenn-gould-and-natsume-sosekiが詳しい。写真も当サイトより引用。
(『海原』2024年3月号より転載)