2018年10月12日金曜日

【新連載・辻村麻乃特集】麻乃第2句集『るん』を読みたい1 風の伽藍  中村安伸

 空を眺めていて、この空を吹く全ての風がひとつひとつ色分けされていたなら、どんな光景が見えるだろうかと思うことがある。風の塔をめぐる風の回廊——大伽藍のような景をまのあたりにできるのではないだろうか。
 「るん」とは風を意味する語なのだそうである。その名を冠したこの句集の作者は、もしかしたら私には見ることのできない空と風の構造を、何らかの方法を用いて視認することができるのかもしれない。

  引鶴の白吸はれゆく空の孔

 北へと帰る鶴は自らの意志で風を選び、その風に身を委ねつつ飛び去ってゆくのであるが、この句によれば、空に穿たれた不可視の孔へ吸われてゆくのだという。この句は、知識に基づいて把握した世界の概念を捨て去り、目の前にある現実の世界を改めて把握し直すことによって生まれたのであろう。

  一斉に川に引かるる桜かな
  舳先より展がりゆける花の闇


 これらの句の出発点が自らの目で見た景であったとしても、言葉に変換され俳句作品として再構成される過程で虚構の光沢をまとってゆく。そして、その光沢によって読者を幻惑させ、魅了する。これは俳句形式そのものの特質であり、それを使いこなす作者の力量でもある。

 風は草木の靡く様子などを通して間接的にしかその存在を視ることができない。しかし、風に触れることはできる、というよりも風に「触れられる」ことができると言うべきだろうか。かたちのない風に関心を寄せる作者が、もののかたちを描こうとするとき、ある独特の感覚が働いているように思われる。

  日本地図能登を尖らせ秋麗
  楊貴妃の睫毛の如く曼殊沙華


 「尖らせ」は地図もしくは地形そのものに意志の存在を認めるような表現である。それに比較すると二句めの直喩はわかりやすいが、いづれの句も本来静的なものに、動きを見出そうとする言葉の働きがある。
 静的であるとされるものも、人の認知のスケールを外れるほどの長い期間、あるいは小さな距離においては動きつづけているのである。

 数多く存在する「風」を意味する語のなかで、句集名として「るん」が選ばれたのは、畢竟その音韻に快楽を見出したからではないだろうか。

  雲板のばあいんと鳴りて大根汁
  ちちちゆちゆと声降らしをりかじけ鳥


 「ばあいん」「ちちちゆちゆ」というオノマトペは、定型を少しはみ出しつつ、ひらがな表記で書かれている。これは熟したオノマトペではなく、音が語に変容する途中の段階にあり、新鮮かつ野趣に富むものである。
 風を見ることはできなくても、その音の存在感は確かである。「るん」という語は風を意味する外国語であると同時に、風の音をあらわす斬新なオノマトペでもあるだろう。

 音と語の関係という点では、この句集の中でもすでに代表句とみなされている、

  おお麻乃と言ふ父探す冬の駅

についてであるが、この句の「おお麻乃」は父の発したセリフであり、これがどのような声音と調子で発せられたかは読者に委ねられている。この句集を手に取る読者は、作者の父が故人であることを知っており、作中主体=作者が探すのは父の面影であると読むだろう。そのうえで私は、この「おお」を殊更強い詠嘆の調べに乗せることを好まない。たとえば一日の業を終えて帰宅した父が、出迎える娘に呼びかけるような、なにげなくもあたたかい、なつかしい調子を読み取りたいと思う。
 娘が自らの名を媒介として父への思いを詠んだ句としては、星野立子の「父がつけしわが名立子や月を仰ぐ」という人口に膾炙した先行作があるが、それとは異なる肌合いでありながら、肩を並べ得るものと思う。

 さて、闇とは光がない状態であり、光がなければ色もない、はずである。

  口開けし金魚の中の赤き闇
  鮭割りし中の赤さを鮭知らず


 この二句に書かれている内容は共通している。身体の中の空間は光の入らない闇であり、腹を割かない限り自分自身では視ることができない。しかしその空間は「赤い」のである。それは知識としてそのことを知っているというだけではない。自分自身の中に炎のような色の血が流れていることを実感しているのだろう。

 そして、この句集のなかで私が最も興味深く感じるのは、実は明瞭に解釈することが困難な句である。

  大夕焼ここは私の要らぬ場所


 この句は幾通りかの解釈が可能であるが、どの解釈に沿って読んでみてもその底にある情念の塊のようなものは、同じ感触をともなって伝わってくる。この句の多義性は「省略」によって生み出されたものである。

  着膨れて七人掛けの浮力かな
  立つといふ点と線あり麦の秋


 これらもまた、大胆な省略が施された句である。省略は俳句という短い詩形を成立させるため、必然的に生まれた技法であるが、それとともに他の文芸にはあまりみられない特徴を俳句にもたらしている。一句がひとつの文として成立するかどうかの瀬戸際を、少し超えたところまで省略をすすめることにより、多義性が生じ読者の想像力が喚起されるのである。
 作者の意図した内容を正確に読者に伝達することよりもむしろ、読者の想像力を掻き立て、読みの可能性を最大にすることを優先し、深々と省略の刃を振るう。そのためには誤解などものともしない潔さが必要である。この句集の作者は、俳人にとって最も大切な資質である潔さを十分に備えている。

  竹の秋深き港の音させて
  眠るやう交はるやうに秋の蝶


 季語を確かな柱として据え、詩的感覚をとりあわせたこれらの句は、句集のなかでもとくに高く完成されたものといえる。

 世界の半ばを占めるであろう不可視の領域をこそ描きたいという作者の願望が「るん」という句集のタイトルにあらわれており、句集におさめられた作品を読み終えて、その願いはある程度達せらたのだと思った。

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