2016年5月6日金曜日

抜粋「俳誌要覧2016」(東京四季出版・2016.3刊)〈俳誌回顧2015〉より ③ 「澤」評抄録


(鼎談: 中西夕紀×筑紫磐井×田島健一 )


▲澤――選と聖性

田島:(前略)「澤」は小澤實さんが、結社とは何かというのを意識的に考えてつくっているという気がします。毎年特集を組まれているんですけど、今年(2015年)は創刊15周年というとことで7月号で「選とは何か」という特集をやられてて、もはや総合誌じゃないかっていうぐらいの内容なんです。大勢の方が書かれれてるんですけどその入選を見ても総合誌的な日配りがされている。結社誌としては特異な感じがします。「注目の評論」でもこの特集の関さんの記事を挙げたんですが、関さんに限らず他の執筆者も錚々たる方々で、選についての壮観な議論になっているという感想をもちました。若手も多く、非常に注日している雑誌です。

(中略)

筑紫: 今回の関さんの文章、おもしろいにはおもしろいけど、このなかでいちばん選に無関係なひとが選について書いてますよね。だから外国人から日本文化論聞いてるような気がしなくはない(笑)書き方おもしろいんだけれど、彼の骨身に選が染みてるわけではない。(中略)
今回の特集で私かおもしろかったのは、岸本尚毅さんと今井聖さんで、なんでおもしろかったかというと、本心のどっかで選をばかにしてるんじゃないかという気がしたんですよ(笑)その他の人のを見てるとなんかだんだんかなしくなってきた、選について語るというのはどこか退娶的でエネルギーが消耗してっちゃうんじゃないかという気が読んでみてしたんですね、本来作家は自分がなにをつくるか語るほうがいいんで、選というテーマ設定は別のかたちにしたほうがいいんじやないかなと。
 福永耕二という人がいて、「馬醉木」の座談会のなかでみなが秋桜子の選が厳しいとか話してたんですが、彼は理解できないという感じで「だってそんなの気にしないで、いい俳句だったら選者はとるんだろ」と、福永耕二は思い込んでいたんですね。これはやっぱりすごいことで、選者なんて関係ないのかもしれない。よく虚子が「選は削作なり」と言うけれど、じゃあ草田男の〈金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴を吊り〉は「選は創作」のうえでとられたのかというと、よくわからないですね。とらざるえないからとったのかもしれない。だから私は「選は創作なり」というのは都市伝説で、やっぱり作家が渾身の力をふるってつくった作品が残るんじゃないかと思う。もし選者が理解できないんだったら結社かえちゃえばいいんだし。

田島:「選は創作なり」というのはちょうど特集のなかで岸本さんも触れているんですけど、読むことと選ぶことというふたつに分けて分析されているんです。虚子のいう「選は創作なり」つていうのは、俳句を読むということが創作だという意味合いが大きい。それと選っていうのを岸本さんはいっしょに語ろうとしているんですけど、そこは別々に分けたほうがいいんじゃないかなと思って。たしかに、読みは創作だっていう議論をしちゃうと深くなるんで別にして――句を評価するときに個人的に、主観的に評価する場合と主観的にはいいとは思わないんだけれど客観的、相対的にみるといいですねというふたつのあいたで揺れ動いてる部分があるじゃないですか。そこが選というものはなにかと考えたときのポイントになるんじやないか。そういう意味では、この特集の最初に小澤さんが「選における幸運」という文章で、選をする側の揺れ動きについて書かれていて、これがかなり選ぶ側の実感に近いんだろうなと感じたんです。おもしろいのは選者の揺らぎそのものを弟子たち、選ばれる側というのはそれすらをもありがたいと思っちゃう仕組みが選のなかにはあって、それをありがたいと思う人たちの文章も載っている。磐井さんがおっしやられた、でもそれってほんとにありがたいんだろうかっていう疑問は、現代的な感覚のなかでみんな考えていかなきゃいけないし、考えたいところなんじゃないかなと思うんです。

(中略)

筑紫:このなかで田中槐さんという歌人の人の文章で、互選句会で主宰が点を入れなかったら「澤」に投句できないって書いてますけど、こんな結社があるのって驚いた。私なんて能村登四郎がとらなくても平気で出して(笑)、それでも雑詠欄にあがってたし、能村登四郎も、ぼくも自信ないんですとか平気で言ってたわけで(笑)。

中西:それは「鷹」の伝統なんです。藤田湘子の伝統ですね。先生が絶対だったわけですね。先生が落としたんだから投句できない。だから違う作品を新たに先生にぶつけるしかない。

筑紫:飯田龍太も、ぼくが選をした句であっても一年問保存しといてくださいって言ったという(笑)。

中西:そうそう。だけど藤田湘子の場合はそうじゃなかったんですね。師の選を信じて学ぶというスタイルを小澤さんは踏襲しているんですよ(笑)。

田島:でも小澤さんも弟子の若い人たちも選っていうのは絶対じゃないとわかっているんじゃないですか。わかったうえであえて選の意味を問いなおしているというところに現代的な意味がある。

中西:せっかく「澤」に集まったんだから、選者である主宰者にどっぷり浸かりたいってとこがあるかもしれませんね。たとえ主宰者の選に疑問があっても、それは自分が未熟だからなのだと。現代は希薄になっているかもしれないですけど、主宰者と弟子っていうのは師弟愛で繋がってるものだと思うんですね。それを「澤」の選ではほんとに感じさせられます。私たちが「鷹」にいたときは、結局先生の愛情が深かったから反発が起きたといまは思うでんすけど、先生に従えなくなったときにはしょうがないからやめるという。そういう不思議な愛情で繋がってたと思うんですけど、「澤」の若手の人たちが小澤さんを語るときのあの熱い眼(笑)、あれはほんとにすばらしいなと思ってます。

筑紫:「選は創作」というのは伝説だと言いましたが、100パーセントそうだというわけじゃなくて、50パーセントぐらいはあると思うんだけど、非常に実用的に言えば、加藤楸邨のような一流の選者に言われるんだったら納得するけれどいまの二流の選者に「選は創作です」と言われたくないな(笑)。私は正直、能村登四郎は1.5流じゃないかと思いますね。ようするに、手直しきく選でしたよね。逆に言えばそれだけ正直ですよね。それが超一流じゃない選者のあり方としてはひとつあるのかなという気もします。いちばんいけないのは絶対視することで、今回の特集は総論はおもしろかっだけど、各論の部分でかなり絶対視してる論調が多かったですよね。

田島:論調としてどうなの、と思う部分はぼくもありました。そっちに寄り過ぎちゃってるから。

筑紫:だからそれを教材にして議論する方がおもしろい。





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