2016年5月6日金曜日

 【時壇】 登頂回望その百十四一~百十五 /  網野月を

その百十四(朝日俳壇平成28年4月18日から)
                          
◆九条の平和に遊び鳥帰る (福岡市)中山堯

金子兜太の選である。戦後七十年という長い年月、鳥たちは平和に守られて、遊び、帰って行ったのである。憲法解釈の改悪以降は、来る鳥たちは平和の内に遊べなくなる可能性が出て来た。肯定形で叙しながら、現実は否定の意味に変化したことを喩えている手法である。

◆晩学や惑ふことなき余花の人 (立川市)須崎武尚

長谷川櫂の選である。評には「三席。余花は夏にまで咲き残っている桜。晩学の自分をみずからそっとほめてやっている一句。」と記されている。「晩学」の主語と「惑ふことな」い人と「余花」と形容される人はすべてイコールで結ばれるのであろう。評のようにその人物は即ち作者自身なのかも知れない。ただ、桜の散り様は将に「惑ふことな」いものであって、潔さの代名詞である。が、「余花」は反対に何時迄も未練の咲きっぷりを示している様である。

◆清貧と云ふには遠し目刺焼く (神戸市)池田雅かず

稲畑汀子の選である。評には「一句目。目刺しを焼いて熱々を食べるおいしさ。案外ご馳走だと思って食べる作者の世代。」と記されている。清貧の対語は何であろうか?濁富などという単語があるか知らないが、・・とすれば、清富も濁貧もあるのだろうか?評のように、句意は「目刺焼」を馳走と思い「清貧」との距離感は「遠し」と言っている。昨今は「目刺」も高級品の部類に属するものがあるのである。中七は「・・し」と切れるので「清貧」云々と「目刺焼」は直結しないのかも知れない。ただ日常の行為をしつつ、作者の思いを上五中七に叙したのかも知れない。が層だとすれば、一句の中に収める必然性が無くなってしますが。

◆フルコースなだめる茶粥花菜漬 (尼崎市)橋本絹子

稲畑汀子の選である。食べ過ぎた翌朝か?飲み過ぎ食べ過ぎによく耐えた胃腸を「なだめ」て、労わる「茶粥」なのである。座五の季題「花菜漬」の斡旋もスムーズで秀逸である。



その百十五(朝日俳壇平成28年4月25日から)
                       
◆働いてきた顔ばかり花見酒 (名古屋市)山口耕太郎

長谷川櫂の選である。「ばかり」の措辞は句作りではなかなか効果を持たないが、掲句の場合は好く機能しているように読める。開花のニュースを聞く頃には、平日の宵の口から処処で花見の催しがある。宵から夕にかけての花見には酒は付きものだ。花見のOLやサラリーマンはお酒を過ごして、今日一日の働きの充実感が顔に出る。そして疲れも顔に浮きやすくなる。そんな光景だろうと筆者は想像する。休日の花見での家族の和気藹々とした風情や、昼間の土手道を歩く道連れの雰囲気とは一味違ったものである。

◆アカペラで唄ひ出したる蛙かな (南足柄市)海野優

大串章の選である。評には「第一句。春になると蛙が鳴き始める。「アカペラで」が面白い。」と記されている。a cappella は「礼拝堂風に」という意味である。ヨーロッパの中世からルネサンスの時期に教会音楽は伴奏楽器なしに声楽のみで歌われていたジャンルがある。そして今でも歌い継がれている。その様式を「アカペラ」と形容したのである。掲句の場合は蛙の鳴き声が、伴奏なしの大合唱に聞こえた、ということであろう。座五の切れ字「・・かな」と対になって、カタカナ書きの音楽用語が効果的に俳味を醸し出している。

◆見るだけがいつか求めて苗木市 (千葉市)笹倉童心

稲畑汀子の選である。評には「一句目。毎年覗いてみたい苗木市。見るだけの楽しみがついに買ってしまった。植える場所の心配、後の世話など心の推移が想像される。」と記されている。中七の「いつか求めて」が評の言う通り、「ついに買ってしまった」感を現している。事後のあれこれも考えずに、いわゆる衝動買いになってしまった事に若干の後悔があるのかも知れない。苗木が育って実を付けたりすれば、後悔も一掃されるだろう。

◆花咲けど子よ戦には征くなかれ (長崎市)松尾信太郎

金子兜太の選である。俳句的な叙法とは遠いところにある句なのでないだろうか?直截的な言い回しや、句意の在り様はストレートに過ぎないか。辛うじて上五の季題「花咲けど」が俳句的な雰囲気を演出しているが、この季題でまとめ切れる程に中七座五の句意は軽くない。むしろ無季俳句にして表現する工夫が欲しいと愚考する。




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