2013年12月27日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む25~社会性俳句総括③~最終回】/筑紫磐井

社会性俳句は、機会詠であることが多い。まさに前々回で掲げた句は、人が死んだり事件があったりしたことによって生まれた機会詠だ。機会詠として今もって記憶され残っている作品は昭和36年10月に日本社会党の浅沼稲次郎委員長が刺殺された時の作品、

十代の愛国とは何銀杏散る 長野 松井冬彦

ではないか。刺殺犯は山口二矢(おとや)、当時17歳(高校中退)で、今もってつかわれる浅沼刺殺の衝撃的な写真では、犯人が学生服を着ている。だからこそ「十代の愛国とは何」の言葉がよく共感を持って伝えられたのではないか。

この作品は、朝日俳壇の中村草田男選に選ばれたものであるが、この句が記録ではなく伝承によって伝えられていったがために、多くの本がこの句を中村草田男自身の句であると記述している、しかしそうではなく無名俳人の句なのである。機会詠は無名俳人にこそふさわしい。当時の朝日俳壇を眺めてみると、機会詠を選んでいるのは上の句をはじめとしてすべて中村草田男選ばかりである。「十代の愛国」ほどの句はほかにあったかどうかは別にしても、機会詠の問題は作者の問題である以上に、選者の問題であるような気がする。選者が積極的にこれを取る意欲がないところに機会詠は生まれない。

草田男は新聞での選評にあたり、「テーマそのものには恒常性があるが、ケースを通しての訴えであるだけに時間的に感銘がある程度薄まって行く可能性がある」と述べたが、草田男の予想に反して、どの機会詠よりもこの句は普遍性を保ち得たように思う。また、だからこそ草田男は現在の新聞俳壇では信じられないほどの長文の評言をこの句に寄せている。伝説が出来て当然の扱いであったのである。

それにしても「十代の愛国とは何」というフレーズは、当時の時代の憤る様な気持をよく表している言葉であると思われる、社会性俳句らしい言葉である。容易に類想が生まれそうではあるが、作者としては1回限りの思いをもっていたことは間違いない。そうした思いと表現の乖離、――むしろそこにこそ時代を語る文体があるのだと言うことである。

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以上述べて来たことで、「文体の変化」が述べられたとは思わないが、少なくとも、俳句は姿勢や態度であり、その故にそれが文体を作りだすと言うことを述べたいと思ったのである。これに形容詞をつければ多少分かりやすくなるかもしれない。社会的姿勢や態度を持つがゆえに社会的文体を作りだす、裏返せば古典的姿勢や態度を持つがゆえに古典的文体を作りだす、ということなのだ。現代の俳句が、停滞し、沈滞し、類想にあふれているとしたら、それは作者の姿勢や態度が問われるべきであろう。

例えば簡単なことがある。類想が現代俳句の最大の問題であれば、絶対類想だけは排除すると言う意志を持って俳句を詠み始めれば、それは不可能ではない。しかし、そうした動機は、作者の俳句詠出の態度に、そして文体に影響を与えずにはおかない。ことによると、文芸的には痩せてしまった、彩のない、事実報告のような俳句になるかもしれない。多分そうなるであろうと予想されるのである。そしてそれは、作者が何を大事と考えたかによるのである。俳句が姿勢や態度であると言う所以である。


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