2013年6月7日金曜日

三橋敏雄『真神』を誤読する 79.<身の丈や増す水赤く降りしきる> / 北川美美

79.身の丈や増す水赤く降りしきる

<77.産みどめの母より赤く流れ出む><78. 半月(はにわり)や産み怺へ死に怺へつつ>の句を踏まえ、母の身体から出た我に血のような雨が降りしきるように読める。母の身体の中の風景としても父の精子を受け入れた母である。辛い雨である。

この世に生きていることが辛いように読める。赤い水の中にいる我はさぞ辛かろうと。身動きができない状態を想像する。

『眞神』は敏雄の心情の吐露とは無縁であると思っていたが、この句は、辛辣な心情が浮かび上がっているように思える。血とも思える赤い雨の中で心が締め付けられているような状況がこの句から伺えるのである。人がそれほどまでに苦しくなることは、例えば絶望や喪失、敗北などの精神的ダメージが考えられる。その喪失の対象は、<母>というものをアイコンとした敏雄にとっての異性ではないかと思えてくる。

遠山陽子氏の『評伝・三橋敏雄-したたかなダンディズム-』(沖積舎)にもそれに触れる一文が出ている。

 息子というものは、ここまで強烈に母を官能的存在として意識するものなのかと私は驚く。息子にとっての母は、最初に出会う女なのである、母の女性性を強く意識し、その嫌悪を隠せぬまま、引き裂かれるように矛盾する母への思慕。しかしそれが母というものなのだと、敏雄は、女である母の真実を描ききろうとする、父をかなしい存在として描いた敏雄はまた、母をえがくことで、息子である自分の悲しみを描いているもののようだ、敏雄がこれほどまでに母というものを苦しく描いたのは、或いは、最初の妻敏子の存在が遠因しているのではないかと、私は密かに思っている。(第二章 平河会館時代)
敏雄生前に自ら編纂した『三橋敏雄全句集』(沖積舎)の経歴によれば、1942(昭和十七)年二十二歳、「十一月、結婚。」と記されている。1944(昭和19)年二十四歳4月長女言子生まれる。1947(昭和二十二)年二十七歳、八月、次女涼子生まれる。1957(昭和三十二)年、三十七歳、四月協議離婚成立。 

敏雄は、1964(昭和三十九)年に三鬼門下であった庄野孝子氏と再婚し以降他界するまでを孝子夫人とともに過ごすが、孝子夫人以前の婚姻として15年間の婚姻期間がある。その間の敏雄は水兵として召集され、戦後は練習船事務局長として従事し、送還者・引揚者の輸送、戦没日本兵の遺骨収集等々の航海に出ている。そこに家族としての姿を感じられることは全句集巻末の経歴からは伺い知ることができない。

妻なしにわが子の初潮日照雨   『まぼろしの鱶』昭和三十年代

敏雄が家長となった家族は妻、長女、次女ともに女性であったのである。そして妻が出て行った後の女児の父親として我が子の初潮に翻弄されている姿がある。

同時期の俳句上の経歴として敏雄は、作句中止を決意し、作風の転換を試みる。

1948(昭和二十三)年 二十八歳 「天狼」一月号創刊みるも、これに投句者として参加(三鬼はそうしろとすすめた)する気おこらず。三鬼指導誌「激浪」一月創刊号より同人となるが、第四号で廃刊。創刊号に<船乗>九句、第二号に<船に棲む>十句を寄せたものの、以降、作句中止を決意する。

1953(昭和二十八)年 三十三歳 前年六月創刊の三鬼主宰誌「断崖」に本年十月より同人として参加するも、作句再開に至らず、作風の転換を模索。

戦争という荒波に人々が流されていた時期と敏雄の作句中止、そして作風転換の模索時期、15年の婚姻期間が重なる。

家族、女、戦友、すべてが血のように思える。戦後日本の復興をよそ目に敏雄の混沌とした心理状態が創作の基盤となっていることを想う。この混沌とした狂気の時期が『眞神』誕生の影にあることが感じられる。

その狂気を基に積極的に無季句の創作を試みたと思えてならないのである。極限の心理状態であるからこそ動かない、流されない無季句が生まれたというように思える。その極限状態を理解しようとする、分かり合える読者でなければ『眞神』に入っていくことは到底できないだろう。



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