2024年4月26日金曜日

【抜粋】〈俳句四季2月号〉俳壇観測253 昭和99年の視点で見た歴史 ――昭和俳句史・平成俳句史・令和俳句史をたどる(続) 筑紫磐井

 (前略)

平成・令和俳句史

 平成俳句史・令和俳句史(つまりリアルタイムな現在史)を書こうとする試みはないわけではない。長期間にわたる歴史観察は長くさえあれば、時評をつなげていっても見ることは可能だ。例えば、普通の俳句時評は1年ないし半年交代で様々な論者に執筆させているが、これを長い視点で続ければ自ずと俳句史が出来上がる可能性があるわけである。例を挙げて見よう。

 ➀「詩学」・俳壇時評:林桂1989-2003(15年間) これは『俳句・彼方への現在』(詩学社)として抜粋刊行している。

 ➁「俳句四季」・俳壇観測:筑紫磐井2003-2023(21年間) これは『21世紀俳句時評』(東京四季出版)として2013年までのものを抜粋刊行している。

 抽象的ではわからないから、それぞれの本で掲げられている面白い事件・事象・著書を眺めてみよう。(年数表示は原著に従う)


●林桂『俳句・彼方への現在』

乾裕幸「俳句の現在と占典」(1989.1)

小林恭二「俳句という遊び」の問い(1991.1)

飯田龍太「雲母」終刊の意味(1992.10)

「雷帝」創刊終刊号(1994.2)

筑紫磐井「飯田龍太の彼方へ」(1994.8)

復本一郎「俳句と川柳」(2000.3)

金子兜太「東国抄」(2001.6)

黒田杏子「証言・昭和の俳句」(2002.7)

川名大「モダン都市と現代俳句」(2003.1)

坂本宮尾「杉田久女」(2003.8)


●筑紫磐井『21世紀俳句時評』

七十代の冒険[星野麦丘人・吉田汀史](平成15・1)

新興俳句を読んでみよう![高屋窓秋・加藤郁乎](15・3)

鎌倉虚子記念館に行く[高浜虚子](15・4)

中岡毅雄よ、もっと有季を語れ[中岡毅雄](17・3) 

俳句は囗承詩である[鈴木六林男・桂信子](17・5)

俳句時評の書き方[林桂・田中裕明](17・6)

結社誌の時代は終わった?(18・2) 

『新撰21』新世代大いに語る(22・3)

東日本大震災を考える(23・6)

「俳句研究」の終刊(23・11)

俳句甲子園の定着(24・12)


 林桂『俳句・彼方への現在』は川名の本と同様新興俳句系の作家の動向に詳しい。筑紫磐井『21世紀俳句時評』は雑多で、伝統俳句や俳人協会系の事項、風俗的な事件まで含まれている。よって立つ俳句史観が異なることが大きいが、これらの時評が真理である必要はない、それは読者が自らまとめ上げるべきことだからだ。読者が考えるための心覚えのための年表であるからそれぞれの時代が浮かび上がることが大事だが、史観の違いはそれほど大きな問題ではない。少なくとも何の手がかりもない状況で、戦後や昭和を考えるわけにいかないから、その補助手段である。

 一例をあげれば、冒頭、青木亮人氏の発言を引用した中で、「現代俳句協会、俳人協会、日本伝統俳句協会に分裂したが、これらを「三派鼎立時代」と見なすようなーーあるいは見なすべきではない」と断定するためには、矢張り多くのディテールの詰まった、何らかの資料集が必要であろう。特にそれが、血湧き肉躍るような面白いエピソードが語られることは嬉しいものである。実は冒頭かかげた、楠本憲吉編『戦後の俳句 : 〈現代〉はどう詠まれたか』はこうしたことから見ても傑出した名著であった。文章練達の士が書いた歴史はこんなにも面白くわかりやすくなるのかと感心するほどである。