この連載を始めてみたが、あまり読んでくれる人もいないのではないかという思いもしないではなかった。それくらい林翔に対する関心は、馬酔木ではともかく、俳壇では大きくないように思われたからである。ところが「コールサック」117号(2024年3月号)で津久井紀代氏が、『林翔全句集』の書評の中でこのBLOGのコラムを取り上げてくれていた。読者がいるということは非常に励みになるものである
「伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句」と題して連載を始めてみたが、実はあまり準備をして始めたものでは無かったため、連載としてどのように進めるか少し悩んでしまった。いくつか思いついたことを1回、2回で書いてみたのだが、長い構想までは準備できていなかった。実は、『林翔全句集』の刊行が余り順調に進み過ぎたために、私の連載構想が追い付いていなかったことになるのだ。それくらい『全句集』には出版社や編集者の精力的な努力が集中されたのだということなのである。
こんな中で考えてみると、「林翔を通してみる戦後伝統俳句」と言っても林翔の俳句を見ないで林翔を論ずることは少し誤解を招かないとも限らない。どのような作家だったかを知らないでその主張を取り上げてもうまく理解してもらえるか少し心もとない。そこで、順番が逆となるが正攻法から林翔の俳句への取り組みを取り上げてみることとしたいと考えた。そういえば全句集で代表的な評論を取り上げさせて頂いたが、私自身の作家論は披歴していなかった。そこら辺を全句集を補う意味で少し書き加えたい。
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『和紙』の上梓された当時、「それにしても『和紙』の処女句集は遅すぎた。……もう十年前に出してもよかった。」(草間時彦)と言われたことがある。これは多くの人の実感でもあったろう。事実『和紙』はもう十年早く生まれることは可能であったかもしれない。昭和三十年頃馬酔木の編集に従事していた石田波郷は新人達の巣立ちのためさかんに句集出版の機会を考えていた。『咀嚼音』上梓直後、林翔にも再三句集上梓を奨めていたのである。ところが 「私も一度はまとめ始めたのであるが、自分の句がひどく貧しく思われて途中で投げ出してしまった」というのが真相であった。
その後波郷の期待を裏切りながら、ようやく句集をまとめる準備に入ったのは四十四年の春のことであったらしい。既に波郷は再起不能の病床につき清瀬に再入院していたが、そのころ病院を見舞った客とこんな話をしている。
「林さんの句集はいつ出るんだい。」
「来年だそうです。」
「来年か。来年では遅いな。」
何が一体遅かったのか。今日ではもう波郷の真意は判らない。それから十日程で波郷は逝き、句集『和紙』は波郷告別をもって終る形で出版されることとなったのである。したがって、この句集は著者の波郷への大きな負い目となっている。それは、この句集が出来上った当日、石神井のあき子未亡人を訪れその一冊をまず波郷霊前に供えたこと、更に第二句集『寸前』の冒頭にも「熱燗や人が波郷を言へば泣き」を置き波郷追慕の念を断やさなかったことからもうかがわれるであろう。
こうして出版された『和紙』は、発行が昭和45年9月、発行所は波郷と関りの深い竹頭社であった。名に相応しく、和紙貼紙函に入り、B6版245頁に一頁三句組、697句を収録しているのは、秋櫻子が言うように確かに「堂々たる厚みを持つ」句集と言えた。序文は水原秋櫻子が誌し、ここで有名な「著者の頭の中には、はじめから理想の軌道が敷かれており、その上をくるいなく走る列車のような感じであった」と言う評が初めて出ている。著者の後記が付されているが、跋文がおかれていないのは、波郷なきあともはや書くべき人なし、都の著者の感慨でもあったのだろうか(ちなみにこの前までの句集は、序文を秋櫻子、あとがきを波郷という華やかな構成で刊行されていた。じっさい盟友の能村登四郎の第一句集『咀嚼音』もそうした構成となっていた)。
内容は昭和23年から波郷没年の44年までの作品を含み、精選されているものの長い期間に及ぶ句集となっている。従って、知命をすぎてからの句集であるにもかかわらず冒頭は匂いたつような若い抒情句である。登四郎の『咀嚼音』、湘子の『途上」に匹敵する、馬酔木の戦後黄金時代を飾った瑞々しい句からなっている。
やがてそれらは中年の充実と落着きを加えて、「秋風の和紙の軽さを身にも欲し」の句に代表される洒脱自在さを漂わす後半部を迎えるのである。
なお、句集刊行後の話となるが、句集『和紙』は昭和46年第10回俳人協会賞の選考において満票の支持を受け受賞の栄を得ている。このときの逸話を能村登四郎が次のように語っており、著者のひととなりをよく物語っているように思う。
「受賞を知らせてびっくりさせてやろうと翔の家に電話をすると、学校だというので私はすぐ学校へ行った。休日だというのに何か仕事があるらしく、仕事をしながら口を動かしていた。私が口早に受賞のことを知らせると、さすがに眼をかがやかせたが、口のもぐもぐは止めない。私は反応のなさにちょっと失望しながら、
『なに、それ』
と聞くと、
『胡桃なんだ。うまいよ。』
と言って二、三個私に分けてくれた。
栄光の日も無為のごと胡桃食ぶ」 (「和紙の裏側」能村登四郎)